2008年1月29日火曜日

絵のある巻物を聞く

平安末期に成立されたものを基に、南北朝時代に作り直された物語『しのびね』には、その始まりにおいて、絵巻を楽しむ様子を伝える貴重なエピソーが記されている。物語のヒーロー少将は、琴の音を聞いて心を惹かれ、夜になって、朧げながら意中の姫君を見初める。少将の目の前に展開されてきたのは、まるで神秘な様子だった。

「隅の間の方に、細き隙見つけてのぞき給へば、人々集まりて、絵にやあらん、巻物見居たり。

少し奥の方に添ひ臥したる人や、もし姫君といふ人ならんと、目をつけて見給へば、菊のうつろひたる五つばかり、白き袴ぞ見ゆる。髪のこぼれかかりたるは、まづうつくしやと、ふと見えたるに、顔はそばみたれば見えず。四十あまりなる尼君、白き衣のなえばめる着て、より臥して、絵物語見居るたり。「目のかすみて、小さき文字は見えぬこそいとあはれ。積もる年のしるしにこそ。火明かくかかげんや」といふに、小さき童よりて、ことごとしくかかげたれば、きらきらと見ゆる。

奥なる人、腕を枕にして居給へれば、「御殿篭るにや、さらば読みさしてん」といふに、少し起きあがりて、「さもあらず、よく聞き侍るを」とて、少しほほゑみたる顔の、(略)」

ここに、一つの絵巻享受の現場として、記述を読み返そう。姫君をはじめ人々を惹きつけたのは、絵の付いているに違いない巻物だった。複数の人々がそれを囲み、中で年寄りで、一番の知識の持ち主である尼君が書かれた文字を読み上げる。歳を嘆く口調で文字が良く見えないと言えば、だれかがさっそく明かりを強くした。そして、主役のはずの姫君は、控えめに奥に居たので、「もうお休みの時間でしょうか。止めましょうか」と気を使うと、「聞いているよ」と元気の良い声が戻ってくる。

物語が語ろうとしたのは、男主人公の垣間見である。そして、絵のある巻物を囲む女性の一群は、それに十分に応えられる、まるで精緻に設けられた舞台の一齣のように、少将の目の前に繰り広げられた。

いうまでもなく、絵に接することは、人、時、場によって違う。絵巻をすべてこう見なければならない理由はどこにもない。だが、だれかの声に引かれつつ、複数の人々でストーリーを共有し、耳で聞いて目で見て思いに馳せるという楽しみ方は、長らく語られ、記憶され、憧れられる情況だったと言えよう。

京都大学附属図書館創立百周年記念公開展示会図録

2008年1月26日土曜日

変体漢文

絵巻の楽しまれ方を探っている(1月9日の投稿)。そのために、変体漢文による資料、とりわけ室町時代の日記をすこしずつ読んでいる。

「変体漢文」。この言葉自体はあまりにも随意的なニュアンスがあって、おそらくどうしても気に入らない人も多いのではなかろうかと思う。あれこれと代わりの用語も模索されているもようだが、いまだにこれが一番分かりやすい。中世の実用的な文献、たとえば日記、手紙、契約書などは、たいていこれによって記されている。あえていえば、和歌や漢詩といった、気取った文学行為や公式行事を除いて、人々の生活の中の文字活動の大半を占めたのがこの文体によるものだった。

いうまでもなく、「変体」とは、異常を意味する「変わったもの」ではなく、あくまでも正規な漢文表記のルールに従わない、漢文から変化し、漢文と異なったということを指す。その結果、文章はほぼすべて漢字によって記されるが、漢文ではない。そのような文章を理解するためには、したがって漢文ではなくて、当時の日本語の知識が必要だ。表記には読み方を指示する仮名がほぼ皆無なだけに、日本語力が余計に大事となる。

一方では、このような変体漢文を読み始める初心者にとっては、読解知識を習得する環境はけっしていいとは言えない。古典の日本語についての知識があってはじめて読者との資格があるといった暗黙の前提からだろうか、変体漢文を文法的に説明する入門書はいまだ知らない。古文書の語彙、ひいては文章の書式を取り扱う辞書はかなりの数の種類があるのに、それの付録として格好のテーマと思われる文法要綱みたいなものには、いまだ出会っていない。こう言う筆者もあくまでも初心者なので、このブログを読んでいる読者、そのような資料の存在をご存じの方、ぜひ教えてください。

これを書いている最中に、数年前に試みた「インターネット古文講座」に対して一通のメールがモスクワから届いた。一つの練習問題の間違いを指摘したものだ。さっそくそれを訂正し、この場でお礼を言いたい。

インターネット古文講座

2008年1月23日水曜日

石山切

久しぶりに会った友人から、去年の秋に開催された徳川美術館新館開館二十周年記念特別展「王朝美の精華・石山切」のカタログをいただいた。特別展の副題は「かなと料紙の競演」、内容は昭和初期に分割さた「本願寺本三十六人家集」から92点が78年ぶりに一堂に会したというものである。平安のロマンと昭和の激動に思いを馳せながら、きっとたくさんの人々が展覧会を訪ねたに違いないと、拝観できなかったことを残念に思いつつ、友人に感謝し、二冊からなる綺麗なカタログのセットを読み返した。

一方では、このような規模の展覧会に相応しく、展示の主役をしっかりと支えた周りの出品も、どれも味わいがあって、光っている。とりわけ色紙貼込屏風、色紙貼込帖、かるた、そして伝土佐光起筆の「女房三十六歌仙絵巻」。王朝の和歌をめぐり、貴族女性を中心とした人々から、こんなにもさまざまな形でそれが楽しまれていたものだと、あらためて認識させられた。

実際に伝来された作品からにしても、歴史上のそれぞれの時代の享受者たちの熱い視線からにしても、歌仙絵というのは、明らかに絵巻の大事なテーマだと分かる。だが、絵巻を全体的に考えるにあたり、われわれは、詞と絵とストーリーという三つの要素を同時に持ち合わせることに重心を置きがちだ。したがって、和歌をテーマとする絵巻の取り扱い方には苦労している。この作品群は、はたして読者としての異なる姿勢が必要だとされるのか、それとも、例えば「三十六」という古典的な数字への執着から、古代や中世の人々が抱いていたストーリー性への志向を読み出すべきものか、とても興味ある設問である。

王朝美の精華・石山切

2008年1月19日土曜日

残虐とは

現代映画の「ホラー」「パニック」を題材とする作品群を持ち出すまでもなく、ビジュアル表現の世界では、残虐、そしてそれによる恐怖は、つねに重要なテーマの一つである。ことは中世の絵巻においても、例外ではなかった。

絵巻を披ければ、背筋をぞっと寒気が走るような画面にはよく出会う。それも心の用意がないほど、受けた衝撃が大きい。

例えば、この画面は東京国立博物館所蔵の『後三年合戦絵詞』(中巻第五段)からの一部である。表現されたのは、平安時代の後半、東北の地に繰り広げられた戦争の状況である。源義家の軍勢は清原武衡・家衡を囲み、城を落とすために悪戦苦闘を展開していた。囲まれた一方は、リスクを減らそうと女や子どもを城の外に送り出し、囲む方は兵糧攻めで一日でも早く結果を出そうと、彼女たちを城の中へ追い返す。そのための対応で武士は武装をしていない女性や子どもをその場で切り捨てにして見せしめにする。地面に打ち伏せになった花模様の服の女性はいまだに両手や両膝に力をいっぱい入れていながらも、首はすでに体から遠く離れたところにあった。右側には一人の武士が長い刀を振りかざしている。その下に、女性の右手は黒い服から大きく伸ばされているとしか分らないが、じつはこれは絵の具の剥落によるもので、この部分を対象にしたいくつかの近世の模写本を見れば、この女性は頭を縮め、しかも左手で赤ちゃんを抱いている。まさに地獄さながらの光景だ。

注目したいのは、ここに描かれている絵は、同時代に多く作成された地獄絵、地獄めぐりのストーリなどと根本的に違う。いわば絵師は想像に頼る、空想を愉しむような姿勢を見せていない。それよりも、あくまでも乾燥しきった筆遣いをもって、クールなまでの視線を正確な構図に託したものだった。それだけに、よけいに読者の心を揺さぶる力が漲っていると感じさせる。

恐怖はあくまでも個人の感情である。そして、残虐の内容もありかたも、それへの受け止め方も、時代に従い変貌する。話が飛ぶが、現代の映画に極端に象徴されているように、恐怖が娯楽の一角を占めるようになったというのは、これまた平和な世の中における、いたって現代的な文明の現われの一つだと言えよう。

東京国立博物館・名品ギャラリー

2008年1月16日水曜日

「宮廷のみやび」展を見た

東京国立博物館にて開催されている「宮廷のみやびーー近衞家1000年の名宝」展を見てきた。平日の午後という時間台だったが、それでもすべての展示の前に一列あるいは二列の観衆が集まり、ゆっくりとした移動に従わなければならないほどの賑やかな会場だった。

展示されたのは、京都にある、世にも名高い陽明文庫のコレクションの数々の名品だった。歴史や古典に関心をもつ人なら誰もが舌を巻くような一流品ばかりが一堂に集まり、その眺めはまさに壮観だった。広い四つの展示ホールをいっぱいに飾った200点を超える展示品は、平安、鎌倉、室町と江戸と、千年の歴史に亘り、作品の内容も、日記、書簡、和歌懐紙、屏風や工芸品と、豊富なジャンルを揃えた。とりわけ「御堂関白記」(国宝)、「春日鹿曼荼羅図」(重要文化財)、「大手鑑」(国宝)、「五絃琴譜」(重要文化財)など、教科書や美術全集によく見掛けられる作品は、実物の迫力が違う。そして、重要文化財か重要美術品の、いずれも鎌倉時代伝来の七点の刀は展示の一角を占める。普段持たれている公家の代表としての藤原家のイメージ、しかもこの展示が訴えている「宮廷のみやび」からはかなりかけ離れたものとして目に映った。なお、今月に豪華版で出版される「宇治拾遺物語絵巻」も二巻ほど開かれて展示された。

一方では、展覧会を見て全体として受けた印象は、文字資料の多いことだった。これは陽明文庫のコレクションの性格というよりも、展示を企画する主催者の選択の方針によるものだろう。半分以上の観衆は、音声案内を購入して熱心に聞き入っているが、その紹介も全体の展示品の一部にすぎない。それに対して、一つひとつの展示品についての紹介は、あまりにも簡略でそっけない。展示品の下に小さな文字での翻刻を添えるだけで、翻訳や説明どころか、現代文字遣いへの置き換えさえ施されていない。いつもながら熱心な観衆の文化教養のレベルの高さを感嘆しつつ、たとえば若い学生や、時代や社会のことをもっと知りたい人々のためにもうすこし詳しい情報が提供できないものかと、おもわず首を傾げる思いだった。

宮廷のみやびーー近衞家1000年の名宝
展示作品一覧
宇治拾遺物語絵巻

2008年1月12日土曜日

増裏・ましうら

約十年ほど前に放送されたあるテレビ番組を録画で見た。内容は、アイルランドのダブリンにあるチェスタービーティライブラリーを紹介しつつ、同ライブラリーが所蔵する絵巻を日本で修復するプロセスを記録したものだ。数百年前に作製された絵巻をもともとの一枚の紙にまで解体し、その上、改めて一巻の巻物に仕立てなおす。表装師の腕前は、まさに神業と言うほかなかった。長い年月の洗礼を受けた絵が、そこまで蘇られるものだと、まさに目を見張るものがあった。

テレビ番組は、修復の過程を丁寧にカメラに納めた。そして、ナレーションが豊富な情報を教えてくれる。その中では、絵巻の解体や古い表装を取り除く作業について、裏打ちが普通三回施されることを触れて、「総裏」「増裏」「肌裏」という三つの言葉を交えて、それぞれの取り除く方法、取り除いたあとの結果を見せてくれた。とても珍しい眺めだった。

裏打ちに関係するこの三つの言葉には、しかしながらまったく知識を持っていない。さっそく辞書を調べてみる。手元に使っている国語辞書は『広辞苑』『国語大辞典』『スーパー大辞林』、そして百科辞典は『世界大百科事典』である。結果から言うと、「総裏」だけ洋裁の用語として収録されていて、あとの二つの言葉はいずれの辞書も取り上げていない。しかも、あのポピュラーなウィキペディアでさえ、いまの時点ではこれを収録していない。

いうまでもなくこのテレビ番組が三つの言葉を拵えたはずはない。調べ方を変えて、違う方法でインターネットで調べたら、つぎのサイトにたどり着いた。以上の言葉が一つのセットになって取り扱われ、しかもそれぞれの解釈がたしかに載せてある。

思えば、このような言葉は、あくまでも表装を職業とした人々たちの間で交わされたもので、一種の業界用語である。そのような専門的な分野の言葉を、あえて専門以外の人々に持ち出して聞かせる。しかも無意識のうちにそのような用語の使用を通じて、伝えようとする内容に権威を与えようとする言葉使いの慣習が、とても日本的なものだとなぜか強く感じた。

掛軸の製作工程

2008年1月8日火曜日

五百五十年前の絵巻鑑賞

その昔、絵巻はどのように人々に楽しまれていたのだろうか。とても魅力的な質問である。

たとえば、つぎのような記録が中世貴族の日記に残されている。

時は室町時代中期の嘉吉2年、西暦1442年、場所は京都、主人公は中原康富である。康富は朝廷政治の中で低い地位にある官吏(正六位上)であり、役目は外記(げき)局での朝廷公事の記録や補佐である。そのような公式な仕事の傍ら、豊富な漢文の知識を生かして、貴族の弟子たちを対象によく家庭教師を引き受け、生活の補助とした。その教え子の一人は、伏見宮貞成の第二王子の貞常親王である。この貞成は時の後花園天皇の実の父親であり、貞常親王は天皇の実の弟であった。

そんな中、夏のある日、康富は友人宅を訪ねたら、そこでは思わぬ絵巻鑑賞会が開いていた。康富の友人でもある諏訪忠政という人が、家に伝来したものを自慢げに持ってきて、みんなの前で披露したのである。康富は興味津々とそれに参加した。絵巻のタイトルは「諏訪明神縁起」である。だが、康富はその場の主客というわけではなく、半分ぐらい見たところですでに夜更けになったということで、鑑賞会がお開きとなった。半分しか見られなかった康富はただ残念でならなかった(6月11日)。

数ヶ月経った冬のある日(11月26日)、家庭教師の場に生徒のお父さまが現われてきた。この人の絵巻好きというのは、どうやらかなりの評判だったらしく、ご機嫌を取ろうと、先の絵巻鑑賞のことを報告した。はたして貞成がかなり興味を示し、一度借りてきてご覧に入れようと、康富がその場で約束した。

二日あと、忠政の来訪を受けた康富は、さっそく上の経緯を伝え、貸してもらう約束を取り付けた。師走に入り、12月1日にはさっそく上等な唐櫃に入れられた絵巻が持たれて来た。ただし忠政に取っては、たとえわずかな数日とは言え、絵巻を手放すということは一大事だった。それを形にするために、わざわざ長い念書を添えた。要するにこれは自分に取ってはたいへん品物なので、確実に返却があるようにとの念押しだった。康富はもちろん承知し、そのまま忠政に伴って、一条東洞院にある伏見宮の邸宅にこれを持っていった。実際に絵巻の閲覧が適えられた貞成は思いのほか嬉しくて、その場にお礼として金覆輪の太刀を一振り忠政に与えた。

一方では、この絵巻閲覧の仲介を苦労して働いてくれた康富にもお礼を言わなければならない。そこはさすがの伏見宮。二日の後、いつもの家庭教師の仕事が終わったら、康富はさっそく呼び止められ、「文治頼朝幕下被責奥州泰衡御絵(十巻)」が出されて、その場だけだが、閲覧を許されたのである。なかなか粋な計らいではなかろうか。

同じ師走の23日に、絵巻は無事に忠政に返された。この短い間に、貞成のみではなく、絵巻はさらに内裏に持ち込まれ、天皇の玉覧に入れられた。忠政はただただ恐縮したと、実物を手元にして、たいへんな満足感に耽ったものだった。

因みに、ここに記されている絵巻の絵は、一枚も伝わっていない。しかし、幸運なことに、詞書だけは残されていて、今日でも簡単に読むことができる。

以上の生き生きとした絵巻享受の実例から、どんなことを読み取ることができるだろうか。これは、ここ数日の読書のテーマである。その初歩的な結果を近々ある研究会で発表する予定になっている。

立教大学日本学研究所・研究会のお知らせ(第33回)

2008年1月5日土曜日

鼠の祝言

カレンダーの上では、明日の週明けになれば、ほとんどの人々が普段通りの仕事を再開する。それでは、お正月の最後の日も、鼠の話題で締めくくることにしよう。

前の投稿(11月28日)では、擬人した鼠と本物の鼠とのの同時登場をめぐり、作者の感性を考えようとした。その目で『弥兵衛鼠』を読み返せば、主人公が述べた口上に一つのヒントがすでに隠されている。

人間の手伝いにより目出度く夫婦再会、家族団欒が果たされた弥兵衛鼠は、報恩のため財宝を運んできた。その方法とは、たくさんの鼠が金や銀をすこしずつ口に銜えてくるという、あくまでも鼠の生態を顕にするものだった。ストーリーのハイライトに当たり、われわれはつぎのような言葉を耳にする。

「かたがたもつて、夫婦連れにて御礼に参りたり。白銀の盆に黄金を積み参らせ候ふ。子どもいづれも白銀黄金を持ちて参り候ふぞや。御蔵一の宝に納めさせ給ふべし。恐れたる申しごとにて候へども、われら子孫として御蔵に住むならば、三国一の大福長者となし申すべし。」

表現のニュアンスを分かりやすく現代風に訳せば、ざあっとつぎのような内容ではなかろうか。

「ご覧のように夫婦子ども一同でやってきた。このお金、遠慮なく納めてくれ。恐れながらも一言だけ言わせてもらおう。お宅にわれわれ鼠を住み着かせ、仲良く付き合ってくれるものならば、世界一の億万長者になることを保障してあげよう。」

弱いはずの鼠だが、その口上には、なぜか有無言わせぬ威厳を感じさせてしまう。そして、このような言葉に対応して、作品の画面には白い鼠が大群と成して寄せて来、絵師は丁寧にも「やひょうへ」と主人公の鼠に名前まで添えてあげた。つぎの画面の展開してくる人間の服装をして立ち振る舞う鼠たちの姿とは鮮やかな対照を見せる。

動物たちの擬人を通じて人間の世界を表現しながらも、それが動物であることへの目配りもけっして怠らなかったことは、御伽草紙の、すくなくともこの作品の基本性格の一つだったと言えよう。