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2022年3月12日土曜日

巻物の表と裏

巻物の思わぬ姿に出会った。まったく予備知識を持たず、正直どのように解釈すべきかいまも戸惑っている。正面から取り上げた研究はきっと存在しているだろうから、それにたどり着くまでに、ひとまず気づいた疑問などを記しておこう。

右の絵である。登場したのは、バチカン宮殿内に建てられたシスティーナ礼拝堂の天井画だ。あのミケランジェロ・ブオナローティによって描かれたもので、ルネサンスを代表する画作なのだ。描いたのは、聖書に登場する七人の預言者の一人であるヨエル、そのかれが羊皮紙の巻物を読み入る。それにしても、この巻物はどのような作りになっているのだろうか。一見して、文字が書かれた表の面が巻かれる軸の外側に来る格好になった。しかしながらさらに目を凝らしたら、両手の間において巻物は一度捩じられている。これなら文字の面が軸の裏側にくることになるが、そうであればわざわざ捩じってまで巻物を操作しなければならない理由は分からない。さらに言えば、文字の方向ははたしてどうなっているのか。見詰めるほど疑問の数が増える。材料、体裁、言語、文字、洋の東西においてその距離は思ったほど遠かった。

写真は、「ミケランジェロが描くシスティーナ礼拝堂天井画の複製展示」からである。すでに北米のいくつかの都市で展示され、今月からここカルガリーにやってきた。決して上質とは言えない複製、会場もまったく飾り気のないものだった。それでも訪ねる人は後を絶たない。圧倒的な迫力をもつ原作に思いに馳せらせる意図には敬意を払いたい。インスタグラムに会場内外から数枚の写真を載せた。

Michelangelo’s Sistine Chapel: The Exhibition

2013年7月14日日曜日

巨大絵巻

今週はいささか遠いところを旅した。乗り換えの苦労なども含めて一番の目的地は横手、目指したのは、そこから一駅手前の「後三年」という名前のJR駅だった。この妙な名前をした駅と、そしてその近くに位置する絵巻をテーマにした公園をぜひともこの目で見ておきたかった。到着時間がやや遅れ、やむなくタクシーを走らせた。人懐こい、かと言って「後三年」についてほとんど関心を持たない運転手さんの行き届いたサポートで、最小の時間でかなりのものを見てまわった。

駅に降り立ったら、展示パネルになった絵巻画面がすでに迎えてくれた。駅舎も含めて意外と新しかった。聞けば、数年前の市町村合併の結果として、駅舎が新しくなったとのだと、運転手さんが説明してくれた。公園のテーマは、戦ではなくて、平安。ただし、どうやらなんらかの手掛かりがあったわけではなく、ただ広い、京都の感覚から言えば倍ぐらい大きな橋が真ん中に据えられ、ほど近いところに「後三年」絵巻から数場面のみ取り出したレリーフが楽しいハイライトを成した。絵巻の場面を思い切って大きなサイズにする、再現するにとどまらずに、それを浮き彫りにする、こういった巨大化、立体化した対処は思いのほか少ない。巻物という既成概念からすれば、その枠から飛び出して、自由に内容を伸ばし、それがもつビジュアルな魅力を大胆に見せるという意味では、とても望ましい試みではないかと大いに感心した。

130714一方では、「後三年」とは、そこではあくまでもご当地の自慢という文脈で息づいていると見受けられる。しかも、駅の巨大看板や写真パネルなどを見てすでに気づいたのだが、看板もパネルもレリーフも、いずれも当地出身の画家の模写を再現しているものである。権威あるオリジナルものは重要文化財に指定されて、このような使い方だと、その気さえあればけっして不可能ではないはずだ。なのに、あえて画家の個性が存分に盛り込まれた画作が用いられている。ここに、模写のある風景がかなり強烈なメッセージを発信してように感じてならない。

平安の風わたる公園

2012年11月24日土曜日

書物の変容

いまごろの大学生世代の人々にとって、書物の平均した姿とはどんなものだろうか。おそらくは、カラー写真の多用は当たり前、上質な紙ももちろんのこと、ハードカバーまで実用の意味から必需で、読み終わったら保存するのではなく、他人に再利用されることを美徳とし、そして同じ内容のものはたいていなんらかの電子の形で入手できる。こんなところだろうか。

講義の内容も関わって、巻物から冊子本への展開を説明する切り口を考えた。歴史的な事実として書物のあり方のこの移り変わりは、思った以上の時間的な隔たりを要していた。その理由とはどこにあったのだろうか。巻物に比べれば、冊子本の場合、携帯性においても、そしてなによりも内容へのアクセスの利便性においても圧倒的に有効なものだった。なのに古代の人々は121124どうして巻物をあんなに長く拘っていたのだろうか。そこで、いささか思いつきでつぎの仮説を案出してクラスで披露した。すなわちなにはともあれ紙が貴重品だったころのことである。巻物に比べて、冊子本に仕立てるためには、一枚(一帖)ずつに費やす背の部分の空白は、あるいは途轍もない大きな浪費だったと考えられていたのではなかろうか。教室の中では、どうやらささやかな同感が戻ったような気がした。

そこで、千年以上も用いられてきた紙を代えるものが今はようやく現われてきた。まさにタブレットなどのガジェットと共に流行の一途を辿りはじめた電子書籍である。ただし、ここでは書籍という前提で紙から電子への展開に目を凝らすものだが、じっさいのところ、内容を文字をもって伝えるということでさえ、媒体の変容によって相対的なものになったのではなかろうか。文字文章を読むことは、かならずしも唯一で最上位のものではなくなることを、これまた忘れてはならないことだろう。時を同じくして、毎週聞いているラジオ番組は書籍を特集を放送した。きわめて聞き応えのあるものだった。

On The Media: HOW PUBLISHING AND READING ARE CHANGING

2011年2月19日土曜日

裏も表も絵巻になる

今週、あの国宝「鳥獣戯画」が新聞を賑わせた。絵巻の一部は、もともと一枚の紙の裏と表に描かれ、それが二枚に剥がされて、台紙に貼り付けて一巻に仕立てられたものだと、絵巻に関心をもつ者にはちょっぴり衝撃的な発見が報道された。

110219ことの詳細はいまは新聞記事に伝えられたものに留まる。そこから総合して得た情報によれば、一枚の紙の裏表に人物と動物が分かれて描かれ、それも人物が先で動物が後だった。これを分離し、台紙に貼り付けて巻物に仕立てたのは江戸時代だと思われる。以上の情報からはつぎの推論が自然に導かれる。江戸までには、絵のどちら側にも台紙が付かなかった。すなわちまとめて保存されていただろうが、普通の巻物ではなかった。さらに遡って考えれば、絵の制作当初は、人物と動物というさほど関連性のないものを物理的に一枚の紙を用いた。紙がこの上ない貴重品だったという客観的な理由がもちろん働いたのだろうが、古典文献によく見る「紙背文書」とはまた異なる成立の理由の存在を思わせる。もちろん理由を突き止めることはなによりもの魅力的な課題だ。

中国美術史の上で、絵の偽造に関わってよく知られている一つのやり方がある。表装のやり直しなどの際、一枚の絵を二枚に剥がし、それにより一枚の絵から同じ絵柄が描かれる二枚の絵が得られるというものである。「鳥獣戯画」をめぐる発見からはどうしてもそれを連想させられるが、結果はまるで違う。なによりも、江戸の表装師のおかげで、国宝なるりっぱな巻物が今日に伝わっているのだ。

朝日新聞:鳥獣戯画・技法解明

2010年10月23日土曜日

ロールとコデックスの違い

大学の同僚がとても興味深い本を教えてくれた。「The Archimedes Codex」というタイトルで、アルキメデス著作の古写本の発見と、デジタルによる復元を記述するじつにスリリングな一冊だ。その中で、西洋文明史における記録媒体の変遷を述べて、巻物と冊子本との違いをつぎのように捉えた。

冊子(codex)の普及には時間がかかった。それは紀元一世紀から始まり、一応の完成を四世紀の終わりまで待たなければならなかった。筆者にとって、このプロセスがこれだけ長い時間を掛けたことが一番の驚きだった。冊子の非凡なところは、知識の記録を巻物(roll)のように二次元ではなく、三次元で行うことだ。巻物には、丈と幅を持ち、冊子には、丈と幅と背丈を持つ。背丈を持ちえたおかげで、幅のことはおよそ重要ではない。200葉(folio)(400頁)、幅15センチの冊子は、巻物なら同じ丈で幅60メートルのものとほぼ同じ記録のスペースを持つ。冊子のページがきわめて薄いので、冊子の厚さをわずかに増やすだけで幅を驚くほど短くすることができる。さらに、巻物で特定のデータにたどり着くために全体の幅を対象としなければならないが、冊子の場合、厚さを対象にするのみで、それもたいてい2、3センチにすぎない。(71頁)

このような記録媒体のありかたを踏まえて、「古い文献の内容(の存続)にとって、情報技術の進歩ほど危険なものがない。大量のデータの移転が必要とされ、だれかがそれをやらなけれならないからだ。」と言い切った。日本の文明において、この一側面がなかったかどうか、質問の一つとして心に留めておきたい。

2009年5月30日土曜日

烏丸光広の覚書

毛利家伝来の『平治物語絵巻(常磐巻)』には、江戸初期の公卿、歌人なる烏丸光広が記した別紙が付く。日付は寛永9年(1632)8月15日。その内容はつぎの通りだ。

「この一まきは、仁和寺御むろ法守親王の御手なり。ゑはとさのなにかしと也。おほよそ詞なけれは、そのことはわきえかたし。ゑにうつらされは、そのありさまさたかならす。さるによりて、ゑさうしをとりとりにひめをかせ給ふことは、あかしの中宮、むらさきのうへなと、いまもむかしにおなしかるへし。(この一巻は、仁和寺御室法守親王の御手なり。絵は土佐の何某と也。凡そ詞なければ、その言葉別きえ難し。絵に写らざれば、その有りさま定かならず。さるによりて、絵冊子をとりどりに秘め置かせ給ふことは、明石の中宮、紫の上など、今も昔に同じかるべし。)」

詞書の筆者や絵を描いた絵師についての情報を書き留めるためのものだが、絵師の名前は不明のまま、筆者の推定も信用されていなくて、極書としての機能はさほど高いものとは言いがたい。そして一つの句に「ことば」を二回も使い、短い段落で似た意味のことを繰り返したなど、文章としても必ずしも丁寧に考えて書いたとは見えない。しかしながら、逆に言えば、無造作に書き残したということは、それこそ光広がもっている考えや、かれ周辺の常識を自然に流露したとも取れて、却って注目に値するかもしれない。

ここでは、能書との評判が高い光広が絵巻における書の大事さを力説する。詞書がなければ作品自体の意味が伝わらない、絵に文字が伴わなければ全体の様子が分からないと、光広が言う。その上、ずばり「源氏物語絵巻」に話を持っていく。物語でも絵巻でも第一級の古典として目されたものだから、極めて自然な文脈だろう。ただし、光広のイメージにあったのはどのようなものだったのだろうか。今日の読者なら、すぐ「東屋」を描いた、浮舟に絵を眺めてもらいながら、別の冊子に仕立てられた一冊を侍女右近に読ませるというあの画面を思い出すのだろう。

そもそも絵巻の伝統における冊子と巻物、さらに言えば別々に仕立てられた絵と文字と、一続きになる巻物をめぐる物理的な鑑賞の仕方の違いは、今日の研究者にとって頭を悩ませるテーマの一つだ。光広がどこまでこの疑問に直面していたのか確かではないが、「とりどりに秘め置かせ給ふ」との覚書は挑発的だった。それは今になってもきちんと答えられていない。

2009年5月16日土曜日

中山定規が目撃したもの

巻物という媒体は、すでに日常実用から消えてしまった。したがって、それに伴うさまざまな使用法、使いこなすためのコツ、ひいては長い伝統に由来する作法など無形のものは、多く想像に頼るほかはない。ただし、浩瀚な歴史記録の中に、時には予想を超えた記事に出会う。つぎの一件は、十五世紀中葉、室町中期のものだ。

これは、『薩戒記(さっかいき)』という、中山定親が書き記した日記の中の一こまである。時は応永33年(1426年)1月6日、日記主は宰相中将という官位にいた。その日、暦上の理由で一日遅れに年頭恒例の叙位がとり行われた。行事の一部として新しく官位に昇進した人々の名前を書き留めることがあった。実際に筆を手に執るのは、右大将久我清通、そばに仕えるのは、蔵人弁俊国であった。記入するのは、一巻の巻物であり、しかもすでに例年の記録によってぎっしりなっていると見えて、その年の分は、巻物の一番後ろに書き入れることになる。そこで、巻物の取り扱い方そのものが、中山定規をいささか驚かせた。

日記に記されたところによってこれを再現してみよう。巻物を手にした右大将久我が、両手で巻物を披き、それも台や机などに置くわけでもなく、ずっと胸ほどの高さのところに持ち上げたままの状態だった。巻物が最後のところまで開いたあと、今度は左手に握っている軸を反対に巻き上げ、内容を記してある巻物の表面が表に来るようにした。そのまま巻き上げてゆき、やがて記入すべきところが左手の軸の上に来たところで、今度は右の軸をまるごと左手に握り、右手は筆を取り出して記入しはじめる。結果のところ、巻物を披き、それに内容を記入するという二つのプロセスは、持ち上げたままの両手の中で行ったのだった。

このような巻物の取り扱い方を記し留めようと、中山定規はかなりの文字を使い、それでも十分な自信が持てないと見えて、略図まで四枚ほど添えた。文字では、これが「是源家説也」と由緒のあるものだとコメントをし、「尤珍様ナリ」「スルスルトハ不見、聊巻ニクキ様也」と、その場に感じた印象を書き記すことも忘れなかった。その通りだろう。いまのような扱い方だと、珍しかろうが、常人ではとてもできないような離れ業で、事がスムーズに運ばれるには程遠く、どう考えても見苦しいものだったのだろう。

中山定規が身を置かれた空間とは、どれぐらいのものだろうか。そこに居合わせたすべて人々が全員同じくこの行動を細かく観察できたのだろうか。いずれにしても、多くの人々が注目する中、行事の大事な要素をなす時間が、たしかにじっくり緩やかに流れていたに違いなかった。

2008年4月19日土曜日

人を笑う

数年前の話だ。身近にいるある学者と日常的に交流をもっていた。かれの関心は、古典における人間の体の表現、絵巻も自然にその対象だった。ある日、一つの単純な質問をぶっつけられた。「病草紙」に見られるあの笑いとは、なんなんだ?不意を打たれて、まったく答えられなかった。

この質問は、いまでも時々反芻し、あれこれと答えを並べてみる。

「病草紙」は、病気をテーマとするもので、日常的に出会うものというよりは、かなり極端なものにより興味を示していた。そして、ただその病気を並べるだけではなく、それを見つめ、それを人に見せて語り、結果を共有することを表現の方針としていたように見受けられる。その態度とは、病気、というよりも難病をもつ人、すなわち自分の力ではなんともできない、いわば不幸の人を笑いにする、というものだ。(写真は国宝「病草紙・ふたなり」より)そこから一つの笑いの仕組みを見出そうとすれば、弱者、少数者のものに対して、普通の人々の常識に違反するという見地から、それを不可思議なものだとして笑い飛ばす。この笑いは、事実の確認から出発するものであり、しかも悪意がなく、考えようによっては、いたって健康的だったとさえ言える。

いうまでもなく、現代生活において、以上の笑いの仕組みは、人間の平等という理由で、極端に除外されるようになる。弱者でも、弱小のグループの存在でも、その尊厳を尊重し、その存在を理解し、助ける。同じ事実に対して、笑いの代わりに同情を、さらに同情さえ顕にしないという振る舞いが良しとするようになる。このような新たな価値観の形成に伴い、「病草紙」のような笑いは、作品が古典であることを主張するがごとくに、歴史の向こうに押し出された。

ここにたいへんとっぴな結びを記す。中国では、「病草紙」と同じ原理をもつ笑いは、いまなお根強く存在している。テレビでいつでも高い視聴率を取る「小品」と言われるコメディーでは、これを根底にする着想のものは、いまなお実に多数上映されている。そのような番組を目にし、テレビの中やテレビの周りから伝わってくる陽気な笑いを聞く度に、「病草紙」を思い出してしまう。

2008年2月2日土曜日

巻物の日記

『看聞日記』の中の一点を確認すべて、図書館に入っているタイトルの一つを使ってみた。別置されていて、かつ巻数の多いことにはすこし気になっていたが、さして深く考えることもなく図書館員に頼んだら、持ち出されたのは、なんと綺麗な巻物だった。図書カタログも良く読んでいなかった分、いささか驚いた。現存する同日記をそっくりそのままの複製で、宮内省圖書寮によって1931年に出版されたものだとか。

短い閲覧は、小さな楽しい経験となった。目指す記事にたどり着くまでには、かなりの時間がかかり、記録者の筆跡を眺め、紙の使い方や筆の運び、墨具合など、活字ではまずは得られない情報が存分に飛び交った。そして、読み終わったあと、およそ披いた時の倍ぐらいの苦労を経て、ようやくもとの通りに巻物の形に巻き戻した。

現存の『看聞日記』は、その大半あるいはほとんどが筆記者により清書されたもので、かつ原文が伝わっていないことが知られている。そういう意味で単純に日記と呼ばれるにはやや複雑な経緯を持ち、したがって日記以上のなんらかの記録者の思いが裏に隠されていると言えよう。ただし、こういった理由とは関係なく、日記というものを巻物に記すというのが、室町時代の人々の常識だったようだ。

考えてみれば、日記、すなわち一日々々に記し続ける記録には、巻物はいかにも向かない。あるいは記し続けるために、巻物を戻さないで披いたままに置く、という処置が取られていたものだろう。だが、書いた記録を見直したり、調べたりする場合はどうしよう。ついつい想像してしまう。

室町時代の一流の知識人、そして「大御所」として晩年公家の頂点に君臨した伏見宮貞成にとって、巻物とは日記を記すための唯一の媒体だったのだろうか。それともあえてこれを選んだのだろうか。本人の思いを聞きたいものだ。

2008年1月26日土曜日

変体漢文

絵巻の楽しまれ方を探っている(1月9日の投稿)。そのために、変体漢文による資料、とりわけ室町時代の日記をすこしずつ読んでいる。

「変体漢文」。この言葉自体はあまりにも随意的なニュアンスがあって、おそらくどうしても気に入らない人も多いのではなかろうかと思う。あれこれと代わりの用語も模索されているもようだが、いまだにこれが一番分かりやすい。中世の実用的な文献、たとえば日記、手紙、契約書などは、たいていこれによって記されている。あえていえば、和歌や漢詩といった、気取った文学行為や公式行事を除いて、人々の生活の中の文字活動の大半を占めたのがこの文体によるものだった。

いうまでもなく、「変体」とは、異常を意味する「変わったもの」ではなく、あくまでも正規な漢文表記のルールに従わない、漢文から変化し、漢文と異なったということを指す。その結果、文章はほぼすべて漢字によって記されるが、漢文ではない。そのような文章を理解するためには、したがって漢文ではなくて、当時の日本語の知識が必要だ。表記には読み方を指示する仮名がほぼ皆無なだけに、日本語力が余計に大事となる。

一方では、このような変体漢文を読み始める初心者にとっては、読解知識を習得する環境はけっしていいとは言えない。古典の日本語についての知識があってはじめて読者との資格があるといった暗黙の前提からだろうか、変体漢文を文法的に説明する入門書はいまだ知らない。古文書の語彙、ひいては文章の書式を取り扱う辞書はかなりの数の種類があるのに、それの付録として格好のテーマと思われる文法要綱みたいなものには、いまだ出会っていない。こう言う筆者もあくまでも初心者なので、このブログを読んでいる読者、そのような資料の存在をご存じの方、ぜひ教えてください。

これを書いている最中に、数年前に試みた「インターネット古文講座」に対して一通のメールがモスクワから届いた。一つの練習問題の間違いを指摘したものだ。さっそくそれを訂正し、この場でお礼を言いたい。

インターネット古文講座

2008年1月12日土曜日

増裏・ましうら

約十年ほど前に放送されたあるテレビ番組を録画で見た。内容は、アイルランドのダブリンにあるチェスタービーティライブラリーを紹介しつつ、同ライブラリーが所蔵する絵巻を日本で修復するプロセスを記録したものだ。数百年前に作製された絵巻をもともとの一枚の紙にまで解体し、その上、改めて一巻の巻物に仕立てなおす。表装師の腕前は、まさに神業と言うほかなかった。長い年月の洗礼を受けた絵が、そこまで蘇られるものだと、まさに目を見張るものがあった。

テレビ番組は、修復の過程を丁寧にカメラに納めた。そして、ナレーションが豊富な情報を教えてくれる。その中では、絵巻の解体や古い表装を取り除く作業について、裏打ちが普通三回施されることを触れて、「総裏」「増裏」「肌裏」という三つの言葉を交えて、それぞれの取り除く方法、取り除いたあとの結果を見せてくれた。とても珍しい眺めだった。

裏打ちに関係するこの三つの言葉には、しかしながらまったく知識を持っていない。さっそく辞書を調べてみる。手元に使っている国語辞書は『広辞苑』『国語大辞典』『スーパー大辞林』、そして百科辞典は『世界大百科事典』である。結果から言うと、「総裏」だけ洋裁の用語として収録されていて、あとの二つの言葉はいずれの辞書も取り上げていない。しかも、あのポピュラーなウィキペディアでさえ、いまの時点ではこれを収録していない。

いうまでもなくこのテレビ番組が三つの言葉を拵えたはずはない。調べ方を変えて、違う方法でインターネットで調べたら、つぎのサイトにたどり着いた。以上の言葉が一つのセットになって取り扱われ、しかもそれぞれの解釈がたしかに載せてある。

思えば、このような言葉は、あくまでも表装を職業とした人々たちの間で交わされたもので、一種の業界用語である。そのような専門的な分野の言葉を、あえて専門以外の人々に持ち出して聞かせる。しかも無意識のうちにそのような用語の使用を通じて、伝えようとする内容に権威を与えようとする言葉使いの慣習が、とても日本的なものだとなぜか強く感じた。

掛軸の製作工程

2007年11月13日火曜日

絵巻に手紙をみる

小松茂美氏が『手紙の歴史』(岩波新書、1976年)において、江戸後期の出版物のつぎの一枚を紹介した。作者は土佐派の画家、故実家の高島千春である。

この一枚には、「文書」とのタイトルを持つ。今日にいう手紙というものだ。全部で計九つの手紙の画像例を集める。それぞれには「伴大納言」「春日ゲンキ」といった絵巻のタイトルが添えられ、それらの作品の数々は今日にも伝わる。作品名の簡略あるいは相互の不統一(「石山」と「石山縁起」は同じものを指す)は、絵巻のタイトルの流動性よりも、広く知られたものについて、わざわざ全称を書かなくても通じるとの理由によるものだろう。いうまでもなく、これらの画像例は絵巻の画面上で簡単に確認できる。そして、九つの画像はそれぞれ異なる要素をもっていることなどから考えれば、ここには画家の目に留まったすべての例を書き記しているわけではないことを暗示しているだろう。

絵巻好きな読者には、この一枚の内容は、じつにいろいろな意味で興味が尽きない。同じ作品が辿る百年単位の流伝や読まれる歴史、画像の記憶と記録、複写の手段を持たなかったころの読者の限界と、それの対極にあるこの画家のしっかりした筆遣い、などなど。このようにリストしてみても、考えが膨らむ。だが、ここに見られる一番基本的な立場は、やはり絵巻の画面への、内容とは無関係な視線、というものだ。

ここにある画家の関心は、あくまでも古代の人々の生活の中にあった手紙というものの形姿だった。いわば絵巻は、それへの答えを示す最適の資料であり、その資料の応用とは、すなわち物語を伝えるためにあった絵を独立させ、関係ある部分のみ取り出して特定のテーマの下に並べなおすものだった。その結果として、絵巻は本来のストーリーを伝えるという役目から離れて、古代のビジュアル的な文献という性格を遺憾なく見せてくれた。

いうまでもなく、ここまで考えが辿りつくと、近世の学者はすごい、との素朴な感嘆になる。というのは、記録、伝播の手段が大いに進化した現代において、このような方法がそのまま受け継がれ、大きな発展をとげたからである。それの代表格的なものは、ほかでもなく『絵巻物による日本常民生活絵引』(1965年)を挙げなければならない。そして、特定のテーマから絵巻の画像を縦断に見るということは、やがて絵巻に向ける現代読者の重要な視線の一つとなった。当然ながら、千を単位とする絵巻の画面は、このような視線を受け止められるだけの豊饒さを持っている。その結果、今日の社会生活との緊密な関連から出発したこのような読み方は、絵巻の魅力の一端を開拓した。

一方では、絵巻への研究は、画例の蒐集に終始するわけにはいかない。これまた自明なことだ。

最後に、この話題は国文学研究資料館主催の国際研究集会での発表発表を準備する間に出会った。その研究集会の開催は、ついに明日と迫る。

第31回国際日本文学研究集会「手紙と日記-対話する私/私との対話-」

2007年10月23日火曜日

絵巻と御伽草子

絵巻と御伽草子、この二つの作品群の区別はどこにあるのだろうか。両者の間に一線を画そうとすれば、それははたしてなんだろうか。一見単純なようだが、かならずしも簡単に答えられるものではない。

「御伽草子」という名前は、もともと「渋川版」と呼ばれる出版物の名前だった。したがって最初に浮かんでくるのは、巻物か冊子本かという作品のスタイルだろう。しかしこの作品形態のことは、室町や江戸の人々にはさほど意味を持たなかった。現に「文正草子」や「浦島太郎」といった御伽草子の代表格の作品の綺麗な巻物は、かなりの数が作られ、いまでも日本や海外に多く所蔵されている。

つぎに考えられることは、絵のスタイルである。いわゆる「奈良絵本」がその典型だったように、絵は作品全体の分量に対して数が少なく、その構図も簡略になって、幼稚でほほえましい。多くの場合、絵のしろうと、あるいは意識的にしろうとの真似を取り入れた描き方だった。だがこれだってはっきりした区別の標準があるわけではない。絵巻作品群にも構図の幼稚なものがあり、御伽草子の絵巻には豪華な作りをもつのはこれまた数え切れない。

もう一つ考えられるのは、作品の題材だ。御伽草子の作品には、いくつかの代表的なテーマがあり、たとえば本地もの、異類ものといったようなものは、かなり似通った思考や趣向を見せる。いうまでもなく題材という捉え方自体が曖昧で、あるいは題材とはそもそも分類の基準になるような可能性を持たない。

これ以外にもいろいろと考えられるだろう。きっとその研究史まで誰かがすでに纏めたに違いない。

一方では、このような問いを出すこと自体には、それなりの理由がある。つきつめて言えば、絵巻という作品群の下限をどこに置くか、ということだ。言い換えれば、平安の院政期に現われ、鎌倉時代を通して数々の傑作を生み出したこの魅力な形態は、はたしてどこにその歴史的な終焉と認めるのだろうか。これの発生と隆盛に目を見張ると同時に、その衰退と消失にはあまりにも注目が足らなくて、大事なことを見落とした思いがしてならない。さらに付け加えるとすれば、「御伽草子」と呼ばれる、いわゆる「室町物語」という一群の作品は、形態的でも内容的でも、あまりにも強烈で異彩を放ったがために、平安、鎌倉と続いた絵巻の伝統までその背後に隠れてしまった、という要素も見落としできない。

最後に記しておこう。このことを考えさせてくれたきっかけは、慶應義塾大学が公開した「HUMIプロジェクト」だ。これの出現は、これまでの活字翻刻や断片的な写真紹介などとは異なる形で御伽草子の全容を覗かせてくれて、鮮烈なまでに御伽草子についての認識を深めてくれるものだ。

世界のデジタル奈良絵本データベース

2007年10月21日日曜日

百鬼夜行絵巻を享受する

タイトルに「享受」と書いたが、やや特殊なケースに目を向ける。すなわち普通の読者がどこで、どうやって絵巻を見るか、ということではなくて、近世の絵師がいかにしてこの絵巻を自分のものにしたのかということを、ここで一つの実例を通して考えてみたい。

「百鬼夜行絵巻」は時代の異なるいくつかの伝本をもつ。その中では、大徳寺真珠庵の所蔵本は作成の時期が早く、複数の模写本を擁していて、この絵巻の基準作とされている。

ここに、日文研は真珠庵本の上質な模写本と、これとはべつの「化物婚礼絵巻」と題するいわゆる百鬼夜行ものを二点所蔵している。両方ともインターネットでデジタル公開をしていて、後者の短い序文には翻刻まで添えて、感じの良い形で両方の作品を読者に提供している。

この二点の絵巻のうち、後者は明らかに真珠庵本かその系統の伝本を手本に用いた。全作を三巻に仕立てて、絵の分量ははるかに多い。さらに、ほぼストーリー性を認められない真珠庵本に対して、「化物婚礼絵巻」は、結婚と子供の出産という二つの状況を描きこんでいる。そのため、女性の化粧などの画面はそれなりに意味を持つようになった。一方では、器物の化物ということを表現する気力を持たないからだろうか、それにこだわることはなく、むしろ器物の表現については、真珠庵本系統のものにすでにあったものをそのまま受け継いだのみに留まった、という感じだ。その代わり、結婚式における新婦の所作、新しい赤ちゃんの入浴など、民俗的な生活を映し出す場面などは印象深い。

「化物婚礼絵巻」は、あきらかに「百鬼夜行絵巻」の内容を用いた。たとえばつぎのストーリーの結末の場面は、典型的な一例となる。右から二番目の鬼は、もとの絵巻にみる鬼の造形をそのまま使い、わずかに両手の位置を変えただけだった。それに左から一番目のキャラクターは、もとの絵巻の始めに登場したもので、それをそっくりそのままここに移してきたとの工夫で、むしろ絵師の遊び的な妙を覗かせてくれたぐらいのものだった。いうまでもなく、このように安易とさえ見られる絵の構図の流用は、当時の絵師にとっては、たいして名作をパクったといったような不名誉なものではなった。それどころか、ここまで生き生きと描くことができて、かつ思い切っての展開を見せたことで、大いに当時の読者たちを楽しませて、非常に歓迎られていたとさえ言えよう。

一方では、このような絵師たちの享受は、今日の絵巻読解に大切なヒントを与えてくれている。絵師のこのような作業は、一つの画面についての、当時の平均した理解を示してくれて、一種の絵による絵の注釈とさえ考えられる。下の画面について言えば、真珠庵本の終わりの火の玉は、表現として単純ではない。炎が燃えて、しかも火達磨の下半分という構図は、いくつもの解釈を可能にする。それに対して、「化物婚礼絵巻」は、同じ状況でも、赤い球形の頂点の一部を描く。これなら昇りはじめた太陽だとすぐに分かる。単純にして誤解が少ない。

いずれにしても、日文研本「化物婚礼絵巻」は魅力的な作品で、じっくりと読む必要が大いにあるものだ。

国際日本文化研究センター絵巻物データベース
立教大学人文科学系図書館蔵「百鬼夜行絵巻」展示解説

2007年10月16日火曜日

異時同図・その反対

日本絵巻の特徴を語るとなると、「異時同図」という言葉はすぐに出てくる。言葉自体の人為的な作りは、妙に専門的なニュアンスを持たせて、一種の権威を感じさせる。

考えてみれば、この言葉にはどこか落ち着かない。違う時間の中に行われた出来事が同じ場面のなかに繰り広げられる、というのがこれの指す構図である。たとえば『信貴山縁起』のなかの大仏前の礼拝、『伴大納言絵巻』のなかの喧嘩、である。ここでは、異なる出来事もその図の一部であり、「同図」が意味しようとしたのは、これらの出来事が展開される同じ背景、状況である。したがって、あえていえば「異時同景の図」「異時同場の図」といったところだろうか。いうまでもなく指す内容さえはっきりしていれば、このレベルの用語の不備はさほど問題にならないといえばそれまでのことだ。

ここで、この言葉に惹かれて考えみたいのは、これと反対する構図が成り立つかどうか、ということだ。すなわち、「同時異景」である。

同じ時間に行われた行動をまったく異なる背景のもとにおいてそれを表現する。このような構図は、今日の漫画などにはいたって基本的なパターンであり、見慣れたものかと思う。たとえば友達同士の電話会話となると、いつも一つの画面を二つにして受話器を握る二人を描く。二つの場面の差が大きいほど、会話の内容がクローズアップされ、ストーリーの深みが増す。

そこで絵巻の画面には、このような構図が用いられていたのだろうか。あってもおかしくない、あるはずだ、と睨む。あまり指摘されていないというのは、ただこれまではこのような目で画面を眺めていなかっただけのことだろう。

たとえば無数に描かれた臨終と来迎の図は、その一例と考えられないのだろうか。高名の僧侶あるいは篤誠の信者は極楽浄土への往生が約束され、その死と同時に菩薩が祥雲に乗ってやってくる。典型的な構図は、横たわる主人公と、菩薩を囲み雲の上を舞う天女である。しかも多くの場合、雲の上の様子はまわりの人々の視線には入らない。主人公の死という一つの瞬間においての、体と魂の分離と、魂を迎えるための天上界の準備という、まったく対照的な二つの場の様子が広げられていると読み取っていいだろう。このような目で読むと、ストーリーの描写においての多くの構図からは、絵師たちの隠された工夫が伝わってくるに違いない。

ちなみに、「異時同図」という捉え方はあまりにも盛んに行われたからだろうか、東洋美術研究の学者、たとえば小川裕充、古原宏伸らの大家は、いずれも中国絵画からの実例を報告して、それが日本独特のものとは言い切れないことを強調する。そのような視点も必要だろう。しかしながら、同じ構図の実例が中国の絵画に認められたにせよ、古代の中国の画家たちはこれをさほど夢中しなかった、多用しなかったことも確かだ。「異時同景の図」とは、やはりいたって日本的なものだと考えたい。(絵:『融通念仏縁起』下巻第二段より)

2007年10月6日土曜日

絵巻の文法

絵巻には絵巻の文法がある。あるはずである。

これはじつに魅力的なテーマだ。ただし、これは先に予測ありきの命題であり、絵画をもってストーリーを伝えるというれっきとした表現形態においては、それなりの規則、ルールがあるに違いないとの思いがそもそも出発点だった。研究者たちは、したがってその文法とはなにか、いかに働いていたのかと、手がかりを求めて議論を試みる。非常に周到な意見もあれば、絵巻解読するために回答すべき難問へのアプローチとする実例も見る。

だが、それでもこの絵巻の文法というものの全容はなかなか現われてこない。

ここに、まずわたしの理解するところの「文法」の一例を掲げてみよう。

絵巻の中では、貴人の邸宅を描くにあたり、多くの場合、門前あるいは地下に伺候する従者の姿を描く。それはふつう男二人であり、しかもほとんどの場合その中の一人はすっかり居眠りの中いる。二人の男のささやかな対照や心地よいぐらいの格好は、愛嬌があって憎めない。さらにストーリーがまさになんらかの進展を見せようとし、このような居眠りの姿は、奥あるいは殿上でくりひろげられてくる劇的な一瞬ともう一つの比較を成す。ここにおいて、門前の従者、とりわけその居眠りの姿は、計算された時間流れを演出する。男が居眠りをするほどゆっくりした時間と、クライマックスの一瞬という、時間の異なる姿をすべて巧みにこの一つのパターンと化した構図によって描きだされたと言えよう。

ここに、状況、内容、意味あい、すべてがセットとなって絵巻の定番の構成要素となる。まさに「文法」に操られるような感じだ。あらためて断るが、これはあくまでもわたしの読みである。文法というものははたしてこのレベルで切り出してよいものかどうか、いまだ共通した見識があるわけではない。

だが、文法というのは、言語の領分だ。したがって文法と名乗った以上は、言語におけるそれとの比較がどうしても問われる。両者の本質的な違いと言えば、ルールへの依存、ということにあるのではなかろうか。言語における文法は、まさに言語そのものが成立するための基礎であり、これがないと表現が成り立たない。でも、そのレベルのルールは、絵の表現においては簡単に探し出せない。これまで議論されてきた絵の文法、あるいはそれにかかわるルール、規則といったものはどうしても二次的なものである。さらにいえば、そのようなルールがはっきりとした形を持ち始めると、表現者としての絵師は自然にそれに反する方向へ走り、そのようなルールを破り、それからはみ出した構図をもって読者をあっと驚かせ、楽しませる。現にそのような工夫はいくらでも指摘できる。言語において、文法と対峙するような表現の努力などありえない。そもそも文法という枠組みを一歩でもはみ出したら、表現自体が成り立たなくなるものだ。

そもそも絵巻に「文法」というものがあるものか。あるいは、今日の研究者、鑑賞者としては、それをあくまでも一つの比喩的な道具として、その時その場の関心のために定義を施して用いて済むようなものだろうか。絵という表現形態を理解するための強力な可能性が含まれているからこそ、つい立ち戻ってくる課題である。(絵:『蒙古襲来絵詞』中巻より)