2015年2月21日土曜日

グーグルプレー・デビュー

20150221一ヶ月ほどまえ、ここで触れていた小さなプロジェクトは、ようやく完成した。去年の秋に教えた二つのクラスから集まった学生たちのレポートから、日本をめぐるフィクション、漫画やビデオ動画をふくむ九点の作品を一冊の電子書籍にした。学生たちが書いたストーリを広めるとともに、これからの同じ作業のスタンダードを簡単に示すこともその狙いの一つである。

電子書籍として最終的にここまで辿り着いたのは、いささか紆余曲折があった。作品が決まったあと、まずはEPUBファイルにして作者の学生たちに見せた。その上、まず考えたのは、アマゾンだった。しかしながら、ファイルのアップロードやその結果確認まで済ませたあと、無料の公開というオプションが公式に用意されていないことにはじめて気づいた。無料で読めるものはかなりあるというのは、あくまでもその販売方法の一つにすぎず、すべて有料という前提からでないとそもそも採用されない。ちょっぴり納得できなくて、あれこれ調べてみたら、どのようにして無料で公開できるかという裏ワザを紹介する記事まで見て、一人で苦笑いした。

つぎに選んだのは、グーグルプレー。こちらのほうはしかしながら、EPUBは不発だった。アップロードしたものは数日経っても音沙汰なしで、細かくログ情報を読んでやっとファイルに故障ありとの結果が分かった。推薦される確認ソフトを用いてEPUBのファイルを試してみると、書式への細かなダメ出しばかりで、どうやらかなり限定された基準に基いている。同時にPDFも対応とのことなので、その通りにしたら、あっけないぐらい許可された。しかも公開するとの連絡さえ入らないまま、名乗った一冊はすでにグーグルプレーに登場したのだ。しかも嬉しいおまけがついている。グーグルブックスに連動しているため、書籍の一部分だけ公開するというあの馴染みのスタイルにてダウンロードなしで読むことができるようになっている。

しかしながら、PDFで投稿したものは、あくまでもPDFの形でしか読まれることができない。電子書籍はやはりテキストベースでなければ意味が半減してしまう。これも今度知らされる結果の一つになった。現時点では解決策が見つからず、とりあえず個人のスペースからアクセスを提供することにしておいた。環境の移り変わりを見守りたい。

Old Japan Redux (in Google Play, Google Books, EPUB)

2015年2月14日土曜日

漫画の文脈

学生たちを相手にする正規授業外の講義は、今年も設けることになった。カナダ三井基金からの助成を去年と同じく授与され、かつ二年目を迎えるということで、レクチャーシリーズを今年はより規模を大きくして実施することにした。外部からの招待レクチャーに加えて、現役の教員がそれぞれ一席を受け持ちするというやり方を継続し、自分の担当では今年も漫画の話題を取り出すことにした。

日本語のクラスに通っている学生の多くは、たしかに漫画、アニメといったポップ・カルチャーから流れ込んできた。かれらの口から平気に出てくる固有名詞には、さっぱり着いていかないのは、ほとんど日常茶飯事となっている。その一方では、いまどきのメディア伝播のルートなどが発達していても、日本での現在進行形のもろもろの状況となると、漫画一つにしても、漫画誌から中古の書店にいたるまで、どれ一つ取り上げてみても、いたって異国的なものだ。これらのことをツカメとして、広く古典画像の世界を選択的に紹介してみようかと、レクチャーのパワポを用意した。話を通じて感じ取ってもらいたいのは、とにかく古典の伝統とそれがもつ現代との距離である。具体的に言えば、はやりの漫画について、そのすべての要素が古典の中にすでに用意され、応用されていいたにもかかわらず、現実的にはそのような古典からの寄与は、発想の上で下地とみられる程度にすぎない。まずはなによりもこの事実とこれにかかわる理由を議論の内容としたい。

20150214ちなみに、イベントのポスターは、学生の設計によるものだ。絵巻からの画面も提供したが、なぜか使われなかった。あらためて要求するというやり方もあるが、若者たちをもり立てることも含めて、とにかく良きとした。浮世絵を持ちだしたら、十分に古典だという平均的な発想のサンプルとして、あるいはそれなりに意味をもっているとさえ言えよう。

Mitsui Lecture Series

2015年2月7日土曜日

年一回の面接官

面接という形で選ばれた若者たちと対話するという、とても貴重な機会は、自分にとってのささやかな年中行事となった。今年も、例年より二週間早めにその日程がやってきた。一日のみ務めることとなり、集中してきっちり10人の若者とスリリングな会話を交わし、とても有意義な時間を過ごした。同じ経験を四年前にもこのブログに書いたが、そっくりそのまま時間が再現されたとさえ言える。

面接に出てきた若者は、あきらかに最大の準備をして取り掛かってきた。その準備の方法となれば、知人友人親戚に話を聞いておいたものもあれば、関連の書籍を丁寧に読んできたのもある。あるいは今どきらしく、関連のサイトをたっぷりと読んできて、その中で感じた質問を素直にぶっつけてくる人さえいた。かなり限られた時間の中での会話なので、面接される人はやはり緊張する。なかには顔に出なくても、十本の指がすっかり充血した若者を見れいれば、逆に応援したくなるぐらいだった。一方では、緊張が解かれて、あまりにも気さくになった人もいたが、ちょっぴり度を過ぎたら、これまた見たくはない。面接の性格上、正答があるわけではない。それにしても、確実な言葉を選んで気持ちを正確に伝え、意味あるエピソードを簡潔に披露できる回答などを聞いていれば、やはり感心せざるをえなかった。

キャリアを積んでいくうえでは、いまの時代では試験を受けたり、ひいては与えたりすることはどうしても避けられない。日本でも生涯雇用が段々過去のものとなり、面接を特定の活動として、それへの対応をまるで技能の一つとして取り扱う向きがある。あまり行き過ぎず、一人の人間本来の様子をそのまま伝えるべきだと、アドバイスを求めてきた教え子にはつとめて言い聞かせている。