2017年7月29日土曜日

奉懸之儀

あの「餓鬼草紙」に描かれた出産の場面は、あまりにも生々しく、繰り返し語られるものである。絵巻に伝わる生まれの瞬間は、この構図を起点としてビジュアル表現の基本テーマの一つを構成し、長く受け継がれてきた。一方では、出産の実態が移り変わるなか、このような画像に登場したさまざまな様相についての言葉そのものでさえ、いまは慎重に追跡をしなければならなくなった。

ここでは、しばらくは産婦を囲む複数の女性たちの行動、今日に言う広い意味の「助産」を伝える言葉を考えてみよう。『中世の愛と従属』(1986年)は、『枕草子』にみる「腹などとる女」、『とはずがたり』にみる「後ろの方へ立ち寄る」、「腰とかやを抱く」などの用例を紹介しながらも、現代の言葉としてより伝わると思わる「後ろ抱き」をもって議論を進めた。「腹を取る」、「腰を抱く」とは、どこまで平安や鎌倉時代の用語として定着していたのだろうか。この問いに答えようとさらに日記類などに目を移してみた。さしあたり西園寺公衡(1264ー1315)の日記である『昭訓門院御産愚記』を披いたら、「奉抱御腰」という表現は繰り返し用いられたのが目に入り、『とはずがたり』と符合して合点した。さらに読めば、なんと産婦の手を握ってあげる(「奉取御手」)役目の女性まで用意され、ここでは産婦の妹がそれに当たった。しかも目を瞠るところに、この役目への書き入れが施され、「所謂奉懸之儀也」とあった。

「奉懸」の意味は、「懸けてさしあげる」とでも考えるべきだろうか。同時代の古記録などを検索してみれば、この言葉はかなり使われ、しかもその使用範囲は広く、曼荼羅や権現の神像から蚊屋、簾までさまざまあった。ただ出産にかかわる用例にはいまだ知らない。そもそも二人の人間に関わる動作において、どうやって「かける」ことができたのだろうか。難解である。

「餓鬼草紙」(第二段より


2017年7月22日土曜日

声の古典

ネット環境を利用した遠隔の授業を今年もさせてもらった。大学新入生が中心になる、総勢二百名に近いクラスを対象にしたもので、テーマは自由に決めてよしとの配慮を受け、「声の古典」と掲げた。古典を眺めるにあたっての声に焦点を当て、比較対象に引っ張ってくるのは、おのずと文字となる。音読、黙読といった議論もごく簡略に触れてみた。研究のテーマとして基本的なものだが、若い人々にとっては、常識には程遠く、体感を持たない抽象的なものに過ぎないのではないかと、少なからずの心配を抱えていた。

いつもながら、ゲスト講義の楽しみは学生たちとの対話である。今度の授業もほぼ三分の一ぐらいの時間をそれに割き、さまざまな質問が飛び出してきた。「文字で書かれた文章が声を出して読まれていたことはどこまで、どうやって証明できるのか」、「身分の高い貴人なら文字を知っていたはずだから、どうして読み聞かせをする必要があったのか」など、講義の主旨に沿った鋭い質問が投げかけられた。これに留まらず、今日の生活の中での声の使い方も披露され、受験勉強で利用してきた「キクタン」(英単語学習アプリ)や「世界史実況中継」(歴史補助教材)などのタイトルはどれも新鮮だった。さらに議論はメディアとしての絵に及び、漫画の構成要素である擬声語擬態語の表記を、はたして文字、音、絵のどれに近い形で受け止めているのかとクラス全員に質問し、即席のアンケートを試みた。その結果、ほぼゼロ、七、三との結果が戻ってきて、大いに考えさせられるものだった。

世の中はどんどん移り変わり、いま大学に通っている若者たちは、いわゆるデジタル・ネイティブの世代になる。ならば、メディアの利用や、情報吸収と交流のあり方を考えるには、声というのは一つのおおきな手がかりになるのかもしれない。

2017年7月16日日曜日

「影」の使われ方

「十訓抄」を読んでみたら、つぎのような短いエピソードに目を惹かれた。

有国は伴大納言の後身なり。伊豆の国にかの大納言の影をとどむ。有国が容貌、さらにたがはず。(1-32)

話の主人公は、藤原有国。この人の普通ではないところは、あの伴大納言善男の生まれ変わりという噂をもっていたことである。善男と言えば、応天門炎上の張本人であり、しかもその結末は伊豆の国への流罪だから、そこにかれの影、すなわち肖像画が伝わったことは、自然ななりゆきだった。しかしながら、そのような絵画は、この世を去った人間への思いを託すだけではなく、なんとその人が生まれ変わったことへの証拠となり、しかもこの世に行きた人に明白に繋がるツールにまでなった。一枚の絵の効力に驚くほかはない。

特定の人間の姿を留めるための肖像はどのように作成されたのか、これ自体を伝える絵巻の一場面がある。弘法大師が、弟子が描いた師の肖像にみずから筆を取って開眼を加えた様子を記したものである(「弘法大師行状絵詞」巻十第三段)。あわせて眺めると、なんとも味わい深い。

2017年7月9日日曜日

手紙の姿

一年以上まえの古いニュースである。まず、興味があればこのCNBCニュースをクリックしてみてください。一枚の絵の紹介ではなく、絵を眺める人(この場合はかなりの有名人)の視線と機敏がキモになるものである。話題性があって、知的で楽しい。同じニュースを敷衍した記事もあり、かつ日本語に訳されている

有名人の遊びに付き合い、記事にあったように、同じ絵からはさらに自撮り棒やらイヤホンやらを探し出すのも一興だろう。一方では、絵が表現しようとするテーマをそのまま素直に見つめるのも、刺激的だ。手紙という、人々の交流の基本形。この絵には、350年も時間の隔たりを感じさせない生き生きしたものがある。手紙の本体はすでに披かれ、女性の膝の上に置かれ、繰り返し読み返されたあとのことだろう。対して男性の手の中に握られたのは、手紙に添えられたカードのようなものではなかろうか。となればタイトルにあった一方向の手渡しよりも、男女がともに手紙を読み、これを語り合う状況となる。こうなれば、玄関という空間、立ち位置や服装から見る男女の間柄、そして子どもやペット意味合い、一つ一つ気になる。日本風に言えば世俗風景を明らかにするためには、画面を産んだ時代や生活の知識が読む人を無限に誘っている。

この絵に惹かれる理由は、いうまでもなく「絵師草紙」のあの有名な場面があるからだ。玄関と縁側とはまずしっかりと対応している。しかもいままさに送られた人の手に届かれようとしているという絵師の構図は、この絵のタイトルにこそ合致し、さしずめ「家の縁側で主人に手紙を渡す男」と命名したくなる。手紙の姿、そしてその授与のあり方は、意外と共通の関心を集める大事なテーマだ。

家の玄関で女に手紙を渡す男

2017年7月1日土曜日

カナダ・ディ

ハッピー・カナダ・ディ。

いつもながら、真夏のいまごろは、仕事の合間の休みの時期と重なる。それもあって、カナダ・ディに近くの観光地までドライブすることがいつの間にかささやかな習慣となった(2010年2016年)。今日も昼過ぎに出発し、なんのアテもなく歩き回り、そして山間に打ち上げられる短い花火を満喫して真夜中の高速を走り抜けて帰宅した。今年も後半に突入することになる。

毎年恒例の地元のパレードは、150週年だけなのかどうか不明だが、昼ごろに移動され、見られなかった。国立公園の入口でそれを知らされてちょっとがっかりしたが、車を降りて町中へ歩いていくと、パレート現物に集まるような勢いで人々は動いている。きっと観光客に貸し出されたと思われる普通の住宅からも、陽気な音楽が響く。町の中心街は、大きな賑わいだ。とりわけアジアの言語ではないドイツ、イタリア、ロシアなどのヨーロッパの人々の会話はいたるところに聞こえてくる。二人以上の子どもを連れた家族、大きな声で興奮気味に話しあう高校生、そしてレストランの半分の席を構える中国大陸からのツアーグループなど、見慣れた様子の中にもしっかりと新しいものが入っている。

今年の記憶には、国旗を身に纏い、颯爽と横断する若者たちの姿をあげておこう。例年よりも多くてなんとも印象的だ。日本の国旗を思い出してみれば、スケートや陸上競技などで見かけられるようになったあの誇らしい姿に共通するものだ。出会う度に、若々しいカナダの風景だとつい見入ってしまう。