2012年12月30日日曜日

クリスマス・ツリー

今年もクリスマスが過ぎた。この地に住み着いてもうだいぶ年月が経ったが、それでも毎年この時期になると、妙な気分を繰り返し味わう。というのは、周りの人々にとっては、クリスマスとはまさに年に一度の最大の休みであり、日本風にいえば「お正月」である。だが、そのような節目が過ぎて、ずいぶんと祝日ムードがおぼろげになったあと、ほんとうのお正月がようやくやってくる。言い換えれば周りの人々に較べて、一週間以上の間隔をあけてうきうきとお正月を二回も楽しめるという、なんとも言いようのない得な気分に捉われるものである。

クリスマスとなれば、やはりツリーを飾らなければならない。これを普段の人々の日常に取り入れていない国となれば、いまやそのツリーというものは一種の公な飾り物になったと感じてならない。とりわけ最近の電力消耗はさほど問題とならないライトが普及し、いつの間にかそれがとっくに一本のツリーを通り越して、建物、あるいは広場全体に広げてゆくという傾向にある。一方では、英語圏では、ツリーはやはりそれぞれの家の中にあってこそのものである。人の丈ぐらいのそれを設けて、その下には家族同士で交換するプレゼントをうず高く積んでおく。まさにクリスマスの風物詩だ。対して家の外の飾りつけとなれば、数121229で言えば意外と多くはない。近辺のことで言えば、屋根に飾り付けをしたのは半分にもならないといったところだろうか。もちろん中には熱心な家はかならず現われる。今年、近所の一軒はライトにあわせて音楽を鳴らす仕掛まで道端に取り付け、道行く人々の視線をけっこう集めた。

ちなみにクリスマスツリーの作法は、違う国から来ている人にその内容がかなり異なる。同僚と雑談したら、ツリーには本物の松の木を使わないと意味がないと教わった。我が家ではおなじ組み立て式のツリーを何年も繰り返し使い続けたと伝えたら、本気に驚いたと見る。ツリーをめぐる伝統、奥が深い。

2012年12月22日土曜日

遊ぶカメラ

いつの間にか、掌に収まる携帯ツールにはカメラがスタンダードなものとして装着され、新製品が出る度にその機能が向上してきた。カメラを常にポケットに入れて動き回ることが現実的ではないだけに、そのようなおもちゃ感覚のカメラをいじることは知らないうちに多くなってきた。

友達とこれを話題にしたら、さっそく「レンズのサイズで分かっていることだ。あんなもの、いい写真が撮れるはずがない」と指摘される。たしかにその通りかもしれない。理屈はよく分かる。しかしながら、大きく伸ばしたり、すみずみまで精細なものでパソコンのスクリーンセーバーに飾り付けたりするなら別として、周りの様子を記録するにはすでに十分な画質をもっているものだ。一方では、機械の計算処理能力の飛躍的な向上にあわせて、電子ならではの処理の技は、やがてレンズの限界を補うに足りるようなものが現われた。電子画像の楽しみの一つは、パソコンを使ってあれこれと編集し、「フィルター」やらを試して変化を与えることにある。そこで、そのような電子的な加工は、出来上がった画像に対するのではなく、撮影する時点で参加させた。その結果、カメラは情況を記録する媒体であることに止まらず、撮影そのものが娯楽の一つとなり、まさに遊ぶカメラと呼ぶにふさわしい。

121222手元の実例を一つ付記しておこう。使っているのは、iOSアプリ「PhotoVideo」の無料バージョンである。もともと立体的な風景や顔写真などを想定して作ったアプリだろうが、iPod Touchにインストールして、わざとレンズを絵巻の画面に向けた。特徴を成す線を上手に算出し、濃淡を付けて産出していることに、さすがに感心した。

2012年12月15日土曜日

賦は描写

半年の講義が終了した日、学生たちはほっとしてさまざまな集まりに走って去る中、教員たちもささやかな息抜きをした。その中で、数人の同僚で小さな勉強会をやって、話題提供者に中国からのとある老教授を迎えた。中国古典研究の有名人で、定年のあと、この都市に住み着いた子供のところで日々を送っているということが一席の縁となった。

話の内容は、老教授の得意な漢賦と決まった。まったく疎いものである。賦というものは、一つの大きなジャンルであり、しかもジャンルというものは歴史的見て。つねに時代の流行に乗り、それまでになかったものが現われ、ピークに達したと思えば新意のないまま繰り返されたものだとの認識からだろうか、漢賦そのものを漢の時代の特殊なものとして敬遠し、消化しきれないぐらいの美辞麗句の代名詞のように記憶した。そこで、老教授の締めの一言が大いに刺激になった。曰く、賦の本質は言葉による描写にある、と。なぜかなんの予備知識もない文章も、一遍に身近なものとなり、観察する手がかりが鮮やかに提示されたように思えてきた。絵と言葉とのことがずっと大きな課題だったからに違いない。しかも絵を取り出すためにはもう一つ飛躍が必要かと思ったら、老教授はなにげなく考古出土品の絵に触れて、絵画的な実証を説きはじめた。一方では、いかにも古典一筋の学者らしく、現在盛んに取り組まれている口語訳についての考えはと質問したら、それへの根強い抵抗を隠さずに語り、訴えた。

手元には、まさにある小さな論文の二校の依頼が寄せられてきて、一年前にあれこれと考えていていたことをあらためて読んでみた。そのテーマは中国の古典である。直接な関連はまったくないが、基礎にかかわる認識を確かめられたような気がして、充実した思いだった。

2012年12月8日土曜日

普通の人々の会話

年末に差し掛かり、日本では今年のベストセラーのランキングが発表されたと聞く。一位になったのは、人に話を聞くことがテーマのものだとか。あの番組は、たしかに他とちょっと違う雰囲気を感じさせるところを持っているが、それにしても、それがナンバーワンになったとはやはりいささか意外だった。

121208このようなことを考えるわけでもなく同じニュースに繰り返し接している間に、週末にはある映画を見た。日本総領事館の好意により行われた学生たちを相手にした上映会で、「Light Up Nippon」という映画だった。ひさしぶりに見るドキュメンタリー映画、言葉通りに見入った。映画の魅力は、あくまでも普通の人々の会話をありのままに見せてくれるという一点に尽きる。それは、どこまでも普通でいて、真剣に話しかける、言葉を交わす会話そのものだった。映画のテーマからはすぐ想像が着く情熱、謙虚、不屈な生き方や言葉は至るところに認められるが、それには止まらず、不満、拒絶、喧嘩、そして涙、照れ隠し、まさにさまざまな話し方、接し方、人間同士の交流とアプローチの形など、ずいぶんと生き生きとしたものだった。そしてなによりもあの巨大な災難がバックに広げられているものだから、不用意に立ち入ってしまえば、それには圧倒されて、ただ呆然と眺めるほかはないという迫力が潜められていた。まさに簡単に体験できない貴重なレッセンだった。

しかしながら、あれだけ普通の人々に訴えるような行事なのに、このネーミングにはいかにも今時の言語生活の一端が隠されたように思えてなりません。ローマ字続きの横文字で、そのまま訳せば、「火を点ける」、あるいはもうすこし意訳して「希望の光」といったところだろうか。こういう英語のフレーズ、いまの日本ではどんな人でも簡単に発音したり、聞き取れたりすることなど、基礎教養になったに違いない。ただ「花火」という情報がどこにも入っていないから、ポスターの絵に頼るほかはないのだろう。妙な言語表現の一例だ。

2012年12月1日土曜日

為義斬首

先週のクラス、「保元物語」に語られた為義の最期を学生たちと英訳で読んだ。画像資料を触れてもらいたいとのことで、絵巻が伝わらないこのエピソードを、おそらく散逸する前の絵巻を構図に参照しただろうと思われるメトロポリタン美術館蔵の屏風絵を取りあげた。二回の講義に続き、学生にグループ発表をさせ、今時の若者らしく、このエピソードを表現した動画をインターネットにアクセスして上映させた。それまた実にこの上ないぴったりした動画だった。

Untitled現在も放送中の大河ドラマ「平清盛」からの一こまである。半年近くまえに放送されたものだが、為義、義朝を中心にダイジェストしたもので、かつ英語の字幕まで付いている。処刑する場面がドラマの山場となる。はるかに狭く作られた河原の空間、二グループの斬首を隣り合わせにした設定など、いかにもドラマらしい安易な対処だが、斬首の場面はやはり手に汗をにぎるものがあった。死体が転がり、さまざまな視線が交差し、そして音響や音楽に包まれて、短い時間、教室にいる全員は息を呑んでスクリーンを見つめた。文字を視覚にすることをあれこれと説明した直後だけに、そのような静的な情報を今度は動的なものに置き換えたことの、その感性への訴え力には、あらためて感じさせられるものがあった。

それにしても、いわゆる時代劇の常だが、長く伝えられてきたことを悉く逆転してみせるというのは、どうしてもその得意業のようだ。なにも古い語物が事実をそのまま伝えていたとは言わないが、それでも死んでゆく人々が一様に「斬れ」と叫ばせたところは、やはりどこか恣意的な作為が目立ちすぎて、こちらのほうが目を覆いたくなる思いだった。

「平清盛・叔父を斬る」(あらすじ)

2012年11月24日土曜日

書物の変容

いまごろの大学生世代の人々にとって、書物の平均した姿とはどんなものだろうか。おそらくは、カラー写真の多用は当たり前、上質な紙ももちろんのこと、ハードカバーまで実用の意味から必需で、読み終わったら保存するのではなく、他人に再利用されることを美徳とし、そして同じ内容のものはたいていなんらかの電子の形で入手できる。こんなところだろうか。

講義の内容も関わって、巻物から冊子本への展開を説明する切り口を考えた。歴史的な事実として書物のあり方のこの移り変わりは、思った以上の時間的な隔たりを要していた。その理由とはどこにあったのだろうか。巻物に比べれば、冊子本の場合、携帯性においても、そしてなによりも内容へのアクセスの利便性においても圧倒的に有効なものだった。なのに古代の人々は121124どうして巻物をあんなに長く拘っていたのだろうか。そこで、いささか思いつきでつぎの仮説を案出してクラスで披露した。すなわちなにはともあれ紙が貴重品だったころのことである。巻物に比べて、冊子本に仕立てるためには、一枚(一帖)ずつに費やす背の部分の空白は、あるいは途轍もない大きな浪費だったと考えられていたのではなかろうか。教室の中では、どうやらささやかな同感が戻ったような気がした。

そこで、千年以上も用いられてきた紙を代えるものが今はようやく現われてきた。まさにタブレットなどのガジェットと共に流行の一途を辿りはじめた電子書籍である。ただし、ここでは書籍という前提で紙から電子への展開に目を凝らすものだが、じっさいのところ、内容を文字をもって伝えるということでさえ、媒体の変容によって相対的なものになったのではなかろうか。文字文章を読むことは、かならずしも唯一で最上位のものではなくなることを、これまた忘れてはならないことだろう。時を同じくして、毎週聞いているラジオ番組は書籍を特集を放送した。きわめて聞き応えのあるものだった。

On The Media: HOW PUBLISHING AND READING ARE CHANGING

2012年11月17日土曜日

二つのオンライン授業

夏から準備に取り掛かっていたメトロポリタン美術館蔵「保元平治物語屏風」をめぐる講義は、いよいよ来週の予定となる。それに先立って、日本の、そしてカナダの知人の教授の好意により、今週は二つのオンライン授業を担当することになり、やや角度を調整して、同じ屏風を取り上げた。

インターネット環境の発達により、オンラインを用いての会議や授業などは、いまやかなり普通なものとなり、技術的にはさほど新鮮味はない。しかしながら、それでも慎重な準備が必要とされ、しかも本番でのさまざまな対応が迫られることがある。そういう意味で、先週の二つの授業は、まさに対照的でいて典型的なシナリオを経験させられた。二つの講義のうち、一つはテレビ会議など専用のソフトを選び、一つは数年前から使ってきたビデオ会議の機材を用いた。前日まで実験したにもかかわらず、二つながらも予想しなかったハプニングがあった。前者のほうは、理由不明で一方向のみ音声切れとなり、後者のほうは、導入当時は高価な機材だったにもかかわらず、手元のノートパソコンの解像度に対応せず、画像送信が適わなくなった。本番最中での判断なども含めて、前者は別の通信ソフトを立ち上げ、後者は画像情報のみローカルのパソコンから映し出すといった方法で乗り越えた。技術がどんどん進化し、変わり続ける中、安定して使い続けられるものはいまだなかなか得られないという現状をあらためて認識させられ、オンラインの利用は、その分柔軟に対応しなければならないと知らされた。

肝心の授業のほうだが、以上のような苦労が学生たちにはほとんど察知されなかったくらい、講義も議論もいたって自然かつ集中的なものが実現できた。しかしながら、取り上げた絵はあまりにも生々しくて惨烈なものばかり詰まっていて、そのような血なまぐさい描写への凝視を強いたからだろうか、活発な議論よりもしんみりとした雰囲気がなぜか深く印象に残るものだった。

2012年11月10日土曜日

能入門

121110今週の講義テーマの一つには、能があった。23人の学生を相手に、「生田敦盛」をとりあげ、英訳と原典の両方をいっしょに読んでみた。ほとんどの学生には、このストーリも、そして能という演劇も初めての経験であり、どのような反応が戻ってくるのやら、楽しみの一つだった。能舞台や面などの説明を最小限にし、印象に残るような、インパクトのあるものに集中するように心がけた。講義でストーリの説明には慶應大学所蔵の絵巻「小敦盛」の画像を取り出し、そして学生のグループ発表では動画を二つ上演された。ほとんどの学生は、前のめりになってスクリーンを見つめ、質問もたくさん飛び交った。

それにしても、学生グループの動画選びは上手だった。上演は計5分程度の時間しか使わなかったが、英語の説明が施された能の説明、囃子まで外国人編成による「敦盛」の舞台のハイライトが選ばれ、しかも最後にちらっと外国での舞台なので鏡板には松がないことをしっかり指摘しておいた。外国人相手に作成された能紹介の動画は、BGMの音楽や、ハイライトの囃子が慎重に用いられ、伝統芸能でも編集によってこうもモダン的なものになるものだと感心した。そのせいもあってか、普段あまり発言しなかった学生は、手をあげて日本留学の経験に触れて、留学先では講師が実際に教室で謡いを披露してくれて、周りの学生たちがみな居眠り状態に入ったという思い出を語り出した。いうまでもなくほかの学生たちは一様に神妙な表情だった。

ちなみにクラスで使用した画像は電子公開をされているもので、サイトへのアクセス方法まで実際にやって見せた。一方の学生たちの動画は、当然なようにYouTubeからだった。質の高い電子リソースはここまで使いやすいものなったと改めて実感した。

2012年11月3日土曜日

画像記憶

01aa現在進行中のクラスからの話題を一つ記しておく。二週間一度に一頁程度のクイズを書かせている。授業内容への理解を確認し、学生たちに自分の進め具合を把握してもらいたいというのが基本の狙いである。先週のそれには、最後の一問に、クラスでは違う日に併せて三回も見せたあの神護寺蔵の頼朝像を小さく出して、像主の名前を書かせた。鎌倉時代がテーマなので、頼朝という名前は覚えておいたはずだ。クイズの紙面にすこしでもめりはりをつけようとおまけのつもりだったが、結局は半分以上の学生を悩ませる難問となってしまった。

これまでのクラスで、肖像画を五、六点見せておいた。とことん混乱させたところまではとてもやっていない。見せる側の予想から言えば、公家装束か僧侶の格好なのか、画像内容があまりにも離れていて、いたって簡単に見分けがつくはずだとばかり考えていた。しかしながらどうやらそこには思わぬ落とし穴があった。あまりにも予備知識が少なく、そのような質問も予想していなかったがために、初心者の目にはむしろ新鮮な情報が氾濫し、対応しきれないでいたらしい。しかも、ビジュアルの内容が対象となれば、どうやらまったく違う記憶の能力が要求される。そのような用意をして取りかからないと、意外と記憶になにも残らないという結果になってしまう。

記憶の仕方に関わる課題ならば、それだけに訓練によってその効果が飛躍的に向上されるものである。言い換えれば、その気になれば、もうすこし紛らわしい内容でもきちんと見分けることが出来る。はたしてクイズの後のクラスで、今度は義満の肖像を見せたら、クラスに俄然ささやかな緊張が走った。同じ質問をしても芸がないから今度のクイズではもう聞かないよと、さっそく冗談半分に雰囲気修正に乗り出した。

2012年10月28日日曜日

オープンページ批評

121028週末にかけて、二つも発表が重なった。一番目は、普段の同僚たちが聞いてくれるような集まりである。月に一度のベースで長年続けてきたもので、各自の関心事や研究報告など気楽に語り合う場である。とりわけ研究休暇を終えた人なら一度はここで過去一年のハイライトをみんなと分かち合うことがささやかな伝統となっている。そのようなことで、夏までの日本滞在の経験やそこから習ったことを取り上げてみた。

話の勢いで、自然と日本を代表する図書館、美術館、研究所などのサイトを取り出し、あれこれと同僚たちに見せてあげた。聞く人たちはほとんど日本語を知らない。そこで、サイトの内容はさておくとして、たいていのオープンページには簡単な英語の説明が入っていて、大いに助かった。だが、議論する時間になって、まったく期待もしなかった質問が一つ出てきた。いわく、あれだけの中身を誇っているリソースのラインアップなのに、どうしてほとんどのもののオープンページのデザインが、あれだけ無造作で、丁寧に作り上げたような印象を持たせないのだろうか。はなはだ心外な質問で、一瞬答えに窮した。なにはともあれ、そもそもどうしてそういった批判が成り立つのだろうか。即座の対応として、一つの答えを試みた。英語圏で多くのユーザーに慣れ親しまれた一流の企業、一世風靡した検索エンジンなどとなれば、どれも万を単位とするアクセス数を毎日のようにこなしているのだ。その分、どれもそのオープンページは、それこそ試行錯誤を重ね、考え抜いたデザインとなっている。しかもその使われ方は真剣に観察され、敏感に修正されている。それらを指標にすれば、公共的な性格の強いリソースの数々は、言葉通りにいまだ道のりが遠い、といったところだろう。

しかしながら、公共的なリソースには、良質なユーザが着いている。そのようなユーザーの声を積極的に汲み上げること、そのような仕組みを案出し、確立させることは、まず踏み出すべき第一歩だろう。すぐに思いつくことに、書評ならぬページ評、デジタルリソース批評といった交流、議論の場を用意すべきだとのことである。現実的な課題だ。

WiP Talks (2012-10-26)

2012年10月20日土曜日

カナダの紅葉

暦の上で秋はだいぶ深まった。去年のいまごろを思い出せば、紅葉狩りがまだ早い、いやもう十121020分だと議論を繰り返し、はてには一人で山に入った経験までしていた。しかしながら、住んでいる都市には、例年では秋がない。その中で、今年に入って初めてすっかり秋らしい気候に恵まれて、いささか感動を覚えた。ただカナダのシンボルである楓の木は見つからず、先週出かけてきたオタワから狩りてきた紅葉を写真に納めた。

それにしても、仕事が集中するいまごろだ。日常の講義や授業に加えて、新規の研究プロジェクトの予算申請、新しい事業の計画、ゲスト授業や研究発表の準備、来年度の語学研修参加者の募集、今年度卒業を迎える学生のための推薦状、などなど、簡単に考えてみても、これだけのリストになってしまう。そしてリクリエーションもいよいよ冬バージョンに突入しなければならないが、好天に恵まれた分、室内への移行は、なかなか時期を見定められない。

秋は収穫の季節だとよく言われる。もうとっくに農業の社会ではなくなったものだから、あくまでも比喩的なものだ。とは言いながらも、二日ほどまえ、冬に提出した研究論文が活字になって発表され、雑誌や抜き刷りが研究室に届けられた。すなおに嬉しい。同じ分野で切磋琢磨する研究者と日常的に会話を取り交わす機会がなく、いささか踏み込んだ発言をしたとの実感は掴めきれないでいる。だが、自分にとっては絵巻読みの一つの区切りを纏めたもので、大事にしたいものである。

「絵巻の文法序説」

2012年10月14日日曜日

デジタル著作権

例年のように、大学が始まったら学期末まで一気に走り抜く。そのため、学会に出ることなど、せいぜい一回ぐらいが限度だ。今年のその一回だけの集まりは、この週末にかけてオタワで開催されたものだった。久しぶりに会う研究者たちとの会話など、いつもながら実り多いものだった。
 
いろいろ出てきた話題のなかには、あのデジタル著作権のことがあった。今月一日から発効するようになった、いわゆる「違法ダウンロード」のことである。どのような経緯によって出来上がったのかは今になっても詳らかに伝わらず、内容もあれこれと理解に苦しい。あえて言えば、根拠も熟慮もなければ、その上有効性だって疑わしい。すこしでも後ろ指を指されたくないという、潔癖と表現したくなるような倫理感覚だけが必要以上に目立つ。しかしながら、それの裏に隠されがちな問題はけっして少なくない。その最大な落とし穴は、有意義な知的生産を妨げる結果になりかねないことだ。はたして話によれば、一部の私立大学などでは、教員には校内ネットワークでのダウンロード機能停止、クラスではダウンロード資料を一切使わないとの内規が出されたと聞く。「違法ダウンロード」は、いつの間にか「ダウンロード違法」に化けてしまった。機関の運営の立場から考えれば、拡大解釈、過剰規制だと非難されようと、そのような対応は一番簡単で安全だろう。ただそれによって生じた結果、有効な資源が使えなくなるとの実害は、どう考えるべきものだろうか。これを明らかに問題視し、しっかりと議論しなければならないと思う。
 
学会では今年もデジタル関連でささやかな発表をした。直後の質疑応答において、ユーザーの所在、協力体制、技術のスタンダード、研究者の役目など、さまざまな話題が出てきた。そしていささか言葉が必要とする著作権のことだけは、発表の席で答える余裕がなかった。そのため、ここに短く記しておく。

JSAC 2012 Annual Conference

2012年10月6日土曜日

挿絵に辿り着くまで

今週の授業の一つには、中国の古典を英語で読むとの内容があった。課題にあがったのは、明の白話小説『警世通言』の一話である。ストーリの内容もさることながら、それを伝える挿絵の画像をめぐって、楽しい経験が一つできた。

関連の解説などを読んだら、早くから江戸の書き手に翻案ものまで産出させたほどの名作だが、明のころに出版された底本は中国で早くも散逸し、三十年代になって熱心な研究者がそれを写真に収めて日本から持ち帰って活字印刷し、ようやく現代中国の読者にもたらしたとの美談が伝えられている。いまやそれは電子テキストの形で広く読まれている。しかしながら、明の底本には、四十の物語にそれぞれ一枚ずつの挿絵が添えられている。どうしても見てみたいものだが、中国側の資料ではなかなか見つからない。明時代のもので、それなりに貴重なはずだ。ただ上記の伝来経緯を思い出せば、よい印刷が望めない。古典美術の一環としての木版版画シリーズなどから当てて見るとのアプローチも考えられるが、気が遠くなるような作業である。

半ば諦めたところ、思わぬ形で嬉しい答えが湧いてきた。同じ底本は早稲田大学図書館に所蔵されていることが紹介された。「古典籍総合データベース」のことを調べたばかりだった。日本の古典ばかり注目していたが、中国古典の存在も見逃せない。さっそくカタログにアクセスし、目指すものはあっけなくモニターに飛び込んできた。

121006いうまでもなく同じ絵をさっそく教室に持ち込んだ。ストーリの説明になったばかりではなく、版本の姿までちらっと見せられて、すくなくとも数人の若者の興味を確実に誘った。一方では、絵の内容をめぐって、自分の好奇心がしっかりと満足できたことも付記しておこう。ストーリの主眼となる「山亭児」とは、はたしてどのようなものなのか、英訳を読むまで見当がつかなかった。しかし、絵はそのような疑問を完璧に答えてくれた。まさにこれ以上ない最高の図解だった。

学生時代、先輩たちに見よう見まねで古典の勉強を始めたころの思い出の一つに、数ある現代注釈のシリーズの内容や性格を理解し、記憶すべきだというものがあった。時代が変わり、いまならそのようなシリーズに加えて、デジタルリソースにもしっかりと目を配るようにしなければならないのかもしれない。

『警世通言』(第三十七話)挿絵(早稲田大学図書館蔵)

2012年9月29日土曜日

勧進プレゼン

新しく担当した講義は、知らずうちに一つの楽しいスタイルが出来た。パソコンとプロジェクタが備え付けてある教室なので、クラスの最後の数分間、数枚の写真を取り出して、それを見せながら講義の要点を繰り返すものだ。そのクラスのつぎのテーマは、京都。自然にデジタル画像で洛中洛外図屏風を眺めてみた。数え切れない場面やエピソードが想像を心地よく刺激する。中でも、勧進の場面が目に飛び込んできた。

120929勧進とは、まずは何よりも布教を伴う宗教活動であり、その主体のお寺にすれば大事な経済営為であり、一人ひとりの僧侶たちにとっては精神も肉体も鍛えられる修行である。だが、それらの要素をすべて一瞬忘れさせるぐらい、屏風絵に描かれた場面は、一つの洗練された巧妙なプレゼンだったと見えて、なぜか大きく感心を覚えた。小さな団体に成しているわずかなメンバーは、それぞれはっきりした役割を担い、心得ている。先頭を走っている人は、差し出されたお金を受け取り、集団の最後いる人は、勧進主の名前を記入し、そのような長い名簿を一心不乱に読み上げる。一団はけっして黙々と移動するのではなく、大きな銅鑼を手にした僧侶は頭も上げないまましっかりしたリズムをたたき出す。そして、集団の中心に鎮座したのは、絵に描いた鐘であり、勧進の理由を分かりやすく周りに見せ付ける。周囲と一線を劃した服装、賑やかな音、虔誠な声、そのどれをあげてもこのグループの移動に従って辺りの視線が集まり、道行く人々は迷わずに懐を解き、真剣な眼差しを向ける。

しかしながら、大通りに向かって生活しているそこの住民からすれば、大げさな勧進は、これまた見慣れた風景の一つにほかならない。それを極端に象徴したのは、襖の隙間から顔を覗かせている女性の姿だった。僧侶たちの行列に明確な距離を保ち、はなはだ醒めた視線しか投げ出さなかった。勧進を一つの周到に用意されたプレゼンだと考えれば、その限界をまたきわめて象徴的に物語っているといわざるをえない。

e国宝:洛中洛外図屏風(舟木本)

2012年9月22日土曜日

皇女御産の図

大学での講義は、今学期の二週目も終わった。講義の一部として、普段は自分でもあまり見ていない絵画作品を、学生たちとじっくりと時間をかけて読んでみた。デジタル画像を教室に持ち込み、備え付けのプロジェクターに映し出して眺める。得がたい経験である。今週の一つに、細かな書き入れが着いている国宝「聖徳太子絵伝」の数場面があり、とりわけ太子誕生にスポットを当てた。

0922思い出してみれば、ちょうど去年のいまごろ、前後して二つの場所で御伽草子に描かれる出産を取り上げていた。それと比較してみれば、まさに中世とそれ以前の情況が対照的によく分かる画像実例なのである。「間人皇女御産」との書き入れが、人物や出来事の内容を過不足なく明示しているが、ビジュアル的な表現は、子供を抱く皇女と、その彼女を囲む五人の晴れやかな姿のみである。厩戸の前という伝説が表現の対象となり、子供よりも一回り大きくスペースを占めたりっぱな馬が顔を覗かしている。そして、突拍子もないぐらい華やかな美女集団の姿は画面いっぱいに溢れ、どこかまったく場離れした構図を成している。敢えていえば、つぎの出産祝賀の構図こそ、男性たちも姿を見せて、後世に広がる出産の構図に繋がっているのである。

いうまでもなく、この出産の様子は、中世に喧伝された太子伝の一端を担うものだ。中世の言説を丁寧に掘り下げ、読み比べていけば、豊かでいて、時と共に変化し展開する多彩なイメージが見えてくるに違いない。いつかの課題にしたいものだ。

e国宝:「聖徳太子絵伝

2012年9月15日土曜日

漢字伝来

勤務校は新しい学年の始まりを迎え、あっという間に最初の一週間の授業が済んだ。今学期は、はじめて「文明概論」を受け持ち、概観する知識を、それこそ自分でも勉強しながら講壇に持ち込むこととなる。50名を超える若い人々の真剣な眼差しを受けて、気持ちの良い張り詰めた時間を計13週間ほど続く。

120915さっそくはじまった講義テーマの一つは、日本文明の始まりがあった。となれば、漢字伝来は避けて通れない。現存する最初の文字の姿をすこしでも実際に見せてあげようと思って調べたら、江田船山古墳出土「銀錯銘大刀」銘文がリストに上がってくる。そこで、適当な画像をどこに求めるべきだろうか。すこし前のやり方だと、写真が入っている参考書、教科書を漁り、大型の図書館でも近くにあれば、国宝全集などのアルバムを開けば、なんらかの結果が出てくることだろう。ただし、おそらくどれも高精度の画像が望めず、かつ部分の写真がほとんどだから、だれかが選んだ部分を適当にそのまま使い、全体を見通した上で自分の手で画像を取り出すことなどはとても無理なことだったろう。しかしながら、デジタル環境において、事情は一変した。所蔵が東京国立博物館だと分かれば、「e国宝」、「カラーフィルム検索」サイトにアクセスすれば、呆気にとられるぐらい簡単に全体画像が手に入った。改めてスクリーンを見つめ、感動を覚えた。

いまや常識になったものだが、デジタル情報には検索という利便性がある。ただ、一発の検索をあまり信用すればとんでもない失敗にも繋がる。この実例においても、東博サイトの内部の情報は、インターネット全体の検索では浮かんでこない。言い換えれば、さきの参考書を使うような要領がどうしても必要となり、一冊の本や一つのシリーズの代わりに、特定のデジタルリソースに目を向ける予備知識が要求される。他の人にすこしでもこの手がかりを伝えようと、さっそくウィキペディアの「江田船山古墳」項目に外部リンクを付けておいた。

ウィキペディア:江田船山古墳

2012年9月8日土曜日

「リンク」あれこれ

ここに取り上げたいのは、ウェブサイトのリンクである。偶に目に止まった中国語による日本紹介の雑文は、日本の街角に飾られた宣伝、テレビ画面を賑わせるコマーシャルなどがインターネット情報についてリンクを紹介しないで検索キーワードを提供するのみだと、すっかり感心した口調で紹介している。思えば、たしかにその通りだ。しかも目の前の課題に一つのヒントになった。

そもそもインターネットサイトのアドレスは、日本語の中に置いたら、どうしてもその異質な感じを拭いきれない。口で伝え、耳から受け止めるためには、英語なら至って自然だったものでも、どうしても発音しづらい。「WWW」だってどう言うものか、英語らしく発音するほど違和感が耳障りになると、アナウンサには同情せざるをえない。一方では、書面になればいいというわけでもない。そもそもリンクは長くなるばかりだ。サイバー運営の理屈以外、ファイルに漢字を入れたり、データベースと連動したりと、技術的な理由はいくらでも挙げられ、結果としてはたいていのアドレスは英語としてだって読めるものではない。これに対応ために、もちろんさまざまな術が施されている。ツイッターにある自動短縮、手動短縮のオンラインサービスなど枚挙に暇ない。しかも開発関係者は、公開資料に固定リンクを割り当てることをもって、リンクの流動性の排除に真剣に取りかかっている。最後にもう一点、新聞や雑誌でさえ縦書きが主流のレイアウトにおいて、リンクはどんなに短くても、なじまない。

手元の課題とは、論文の中でリンクをどのように記述するかというものである。あるいは検索後のみという要領を生かして、引用サイトの公式タイトルを明記して、特定の記号を添えてそのタイトルで検索させるという方法を取るべきかもしれない。はたして関係編集者に受け入れられるものだろうか。

2012年9月2日日曜日

ランパント

120901観光がてらにバンフにあるホテルに入り、古風のロビーを歩き回った。重厚な一室の中を覗けば、壁にはライオンの紋章が描かれ、その部屋に続く廊下に敷かれた絨毯にも似たような模様が描かれている。たまたま友人が最近車を購入して、それのロゴは、同じく立ち上がって、前足を上に差し伸べるポーズを取っているものである。カナダのホテルとフランスの製造会社が繋がっているのでないかと、にわか興味が湧いてきて、さっそく傍にる若い係りの方に聞いてみた。「分からない」、「意味ないじゃない?」と、そっけない返事だった。

どうだろうか。思わず自分で調べてみたくなった。そこで、さっそく「ランパント(rampant)」という言葉に出会った。この言葉一つだけで、このポーズ、ポーズの主であるライオン、という情報がすべて入っている。しかも、ライオンのこの特定のポーズ以外、この言葉には指すことはなにもない、ということが分かった。これだけには止まらない。これとグループになっている言葉には、さらにライオンが後ろ足を地面につけて座ることを示す「シージャント(sejant)」、前足を差し出しながらも頭を後ろに向ける「リガーダント(regardant)」といった一群の言葉が存在することを知った。これを統括するのは、あの豊穣な伝統を誇るヨーロッパの紋章についての学問であり、とりわけ紋章記述(blazon)を構成するものである。言い換えれば、これらの言葉の存在は、まさに紋章の内容の抽象化、抽象された紋章への認識、認識を言葉をもって描写する、という一連の実践に集約したものであり、大きく言えば図像をめぐる観察、記録、伝承を具体的に物語る貴重な一風景なのである。

このランパントを用いた中世の貴族、古くからの伝統を大事にする国などの実例は、数えきれない。十四世紀はじめのフランス王ジャン一世の紋章をはじめ、同じテーマにおいてさまざまなバージョンが伝えられている。その中にあっては、十九世紀半ばに創業した会社、あるいは十九世紀終わりに開業したホテルなどは、同じランパントを選んだとしても、まさに新参者にほかならない。そういう意味で、ホテルの若い方のそっけない返事は、違う意味でかなり的を得ているのかもしれない。

2012年8月26日日曜日

この利用規定はすごい

大学の付属図書館などが作成し、運営するデジタル資料のデータベースは、いまやかなりの数に上る。それらをあれこれとクリックして見ているうちに、早稲田大学の「古典籍総合データベース」の利用説明が目を惹いた。正直、予想もしなかったもので、ここまで表現するようになったのだと、嬉しい驚きを覚えた。

利用規定の前半は、出版などの無断使用の不可を述べる。ただ、それに続いて、後半では「以下の用途に限り、特に申請は不要です。自由にご利用ください」と、つぎの三つの細目を掲げた。
1)学校の授業等で一時的に利用する場合。
2)研究資料として個人的に手元に保存する場合。
3)学術目的のホームページへのリンク。
デジタルファイルを教室に持ち込むこと、個人のハードディスクに落とすこと、あまりにも頻繁に起こっている使用方法をここまで明確に「自由に」と明記することには、まさに頭を下げるものだ。しかもこのデータベースを利用したことのある人ならすぐに気づくものだが、どの資料も単独の画像に加えて、その同じ高精度の画像を一点の資料ごとにPDFファイルに作成しておいて、クリック一つで纏めて保存するということを提供している。したがってここに述べられている規定は、ただの使用許可の説明ではなく、デジタルデータを作成するにあたっての基本理念の一つを具体的に開示したものなのだ。因みにこれに対して、三番目の「リンク自由」という規定は、いまやスタンダードなサイトの使い方で、いささか拍子抜けものだった。あるいはいまでも図書館業務においてそのような問い合わせを多数受けているということだろうか。

デジタル公開には、いまでも「すべての二次利用は禁じる」といった規定が常套文句になっている。それを見る度に、制作したデータをどう使われているのか、さらに言えばどう使われたいのかということを検証もしないで、とにかく一番無難なものを打ち出しているのではなかろうかと常に感じる。作成や公開にかけた苦労を思えば、なおさらだ。

2012年8月19日日曜日

奈良絵本デジタル底本

デジタル環境を観察するために、オンラインで公開されているものと在来の公刊された研究とを関連付ける作業はつねに魅力のあるものだ。ささやかな実践として、奈良絵本関係のものを取り上げてみた。ちょっと分量が多いのではないかと想像していたが、実際にやってみて、がっかりするくらいだった。翻刻のみのものを除いて、注釈や現代語訳付きのもの、言い換えれば、読むための基礎研究が施された出版物を対象にしたが、併せて四点五冊では、その底本がデジタル公開されているのがわずか十二作に過ぎない。

言葉通りの小さな作業だった。しかしながら、それでも書誌の説明などを読みながら、改めで気づいたことがある。一つは、内容や質はともかくとして、注釈というアプローチが早くから奈良絵本に向けられたことには、やはり驚いた。「校注」と名乗って御伽草子を取り上げた早い出版は、実に昭和二年に遡れる(『校注日本文学大系19』)。もう一つは、このジャンルの作品を取り上げる場合、「翻刻」作業の重みだ。語彙の解釈や文章の読み下しどころか、漢字に書き換えることもなく、わずかに句読点を付け加えて、ただ延々と変体仮名の文字を現代の活字に置き換えるだけの作業のために、これだけの出版の部数が費やされたものだ。いうまでもなくそのような必要を研究者たちが共通して感じていたことだろう。また奈良絵本というもの性格、とりわけ似たような伝本の共存、相互考証のための必要などが、それを要求していたに違いない。そして、そのような作業の到達につねに目を配らなければならない。その直接の結果、奈良絵本の目録がほとんど定期的に繰り返し作成されてきた。

それにしても、先学の研究者からの手ほどきを受けながら、じっくりと注釈付きの活字出版を読み、気が向いたら、クリック一つでパソコン画面にその底本を高精度の画像で呼び出して、気が済むまで読み比べることが出来る。古典の勉強も、ここまでやってきたものだ。この短いリストも、より多くのデジタル公開を待ち望みながら、これからすこしずつ充実していきたい。

注釈付き奈良絵本研究書デジタル底本

注釈付き奈良絵本研究書デジタル底本

『御伽草子』(日本古典文学大系38、岩波書店、1958年)
「あきみち」
あきみち(国立国会図書館・デジタル化資料)
『御伽草子集』(新潮日本古典集成34、新潮社、1980年)
「小敦盛絵巻」
小敦盛(慶応義塾大学・奈良絵本コレクション) 
「弥兵衛鼠絵巻」
やひょうゑねすみ(慶応義塾大学・奈良絵本コレクション)
『室町物語集』(新日本古典文学大系54-55、岩波書店、1989年)
「雁の草子」
雁の草子(京都大学・絵巻物奈良絵本コレクション)
「さゝやき竹」
ささやき竹(国文学研究資料館・新奈良絵本画像データベース) 
「大黒舞」
大黒舞(国文学研究資料館・新奈良絵本画像データベース)
「毘沙門の本地」
ひしやもん(慶応義塾大学・奈良絵本コレクション)
『室町物語草子集』
(新編日本古典文学全集63、小学館、2002年)
「文正草子」
文正草子(筑波大学・電子化資料) 
「御曹司島渡」
御さうし島わたり(秋田県立図書館・所蔵貴重資料)
「ものくさ太郎」
おたかの本し物くさ太郎(国立国会図書館・デジタル化資料) 
「磯崎」
磯崎(慶応義塾大学・奈良絵本コレクション)
「中将姫本地」
中将姫本地(東京大学・電子版貴重書コレクション)
                                        更新:2012-08-19、2017-04-08

2012年8月12日日曜日

後姿から正面へ

ここ数日、ささやかな論考を作成する最終段階にかかり、書き上げた原稿を読み返っている。取り上げるのは、伝李公麟作「九歌図」である。ここにも二回ほど(2011-4-210-2)メモを書き残した。一年以上この作品を機会あるごとに発表などしてきたが、ようやく一つの小さな纏まりが見えてきた。

「九歌図」は、同じテーマ、しかも同じ通称をもつ二つの系統の作品を指す。もう一方のほうは、元の絵師が描いたもので、まったく別の時代のものとなる。しかも元のそれは、神々の姿だけをクローズアップして描くなど、構図などから見て非常に異質で、両者を並べて論じること自体難しいくらいだ。二つの作品がなんらかの関連を持っていることは想像できるが、それを実際に突き止めることは、そう簡単ではない。その中で、つぎのことが目に止まった。同絵巻の第六段「少司命」は、命を司る神を主人公とする。宋の絵巻では、神が画面に三回登場し、一番右の端に位置するそれが、童子を連れて虚空に向かって去ってゆく。そこで、この場面こそ元の絵巻の内容になったのではないかと気づいた。神と童子が身120812に纏っている服装、それぞれの髪型や髪飾り、そして飛揚する旗などは、明らかに同じものなのだ。ただ神を捉える角度が百八十度反対側に変わったのみだった。あるいはここにこそ、両者の関係を具体的に跡付けする貴重なヒントが隠されているかもしれない。

画面に表現されているのは、太空を飛行する神々である。そこに、まるで巨大なカメラでも持ち込んだように、撮影ポジションを自由自在に移動し、後ろ姿には満足できず、神の正面に立ち位置を回す。絵師の精神的な高揚や筆の躍動を想像するだけで、感動するような光景だった。

The Nine Songs of Qu Yuan (Museum of Fine Arts Boston)
(ここ一年の間に、同美術館の公式サイトはこの作品について中国語タイトルを添え、さらに絵師情報をめぐり、中国語と英語両方で「旧伝」と付け加えた。)

2012年8月5日日曜日

座の甲と乙

おそらく絵ほど、読み解くために常識が必要とされるものがない。古く伝わる絵を目の前にすれば、当時の人々にとってきっと簡単なはずだったことも、今となればあやふやになって、なかなか答えが出てこない。いわゆる「甲乙の座」もその中の一つだ。

120806これは「後三年合戦絵詞」(上巻第五段)に収められるエピソードである。膠着状態の城攻めの中、兵士たちの士気を励まそうと、義家が一つの表彰の仕組みを案出した。すなわち勇敢な兵士には甲の座に、臆病な兵士には乙の座に座らせるというものである。そこで、絵の構図を見れば、座席が「コ」の字の形になっている。これには、はたしてどれが甲で、どれが乙か、さっぱり分からない。座席の順番は、先の第二段とかなり似ている。正面に向いている人が座っているところを甲に考えたいものだが、ストーリの着眼は乙座の人々であり、しかも詞書に記されている五人という人数にもどうも合致しない。もちろんこの様子を絵巻に取り入れたのは比叡山の絵師たちであり、座席の状況なども絵師たちの想像によるものが多かったはずだが、それにしてもその絵師たちが予想していた読者たちは、このような構図に向かっては、きっとなんの迷いも感じていなかったに違いない。

甲乙の座というエピソードは、義家をめぐる数少ない伝説の一つとして、絵巻にのみ存在して、ほかの同時代の文献との相互照合は出来ない。ここ数日、新学期の講義の準備をして、英語による短い日本文化史を読んでいるが、この件が触れられている。作者が絵巻まで目が届いたとはちょっと思えないが、絵巻を起点とする逸話がずいぶんと広く伝播されたものだと、いささか驚いた。

2012年7月29日日曜日

ロンドンオリンピック開幕式

週末にかけて四年一度のオリンピックが開幕した。真夏ののんびりした時期ということもあって、関心をもって見たり読んだりしている。そして、なによりもまず開催国の粋が集まった開幕式を堪能した。

今年の開幕式は、どうしても四年前の北京のそれと比較されてしまう。しかもどうやらアメリカでは、開催中継の放送権を買いしめたテレビ局は、今年も商業の考慮から生中継ではなくて三時間遅れの録画放送に決めたことで顰蹙を買い、その上開幕の時間では、なんと北京のそれを再放送したようだから、驚いたものだ。そのため、自分でも思わず比較を試みた。北京の開幕式は、絵巻という着想をスタジアムに展開したことで、止まることなく流れてゆく歴史を表現して、見る人をあっと言わせた。それに合わせ言えば、ロンドンのそれは、さしずめ一枚の油絵だ。無限の奥行きを持たせ、さまざまな角度から見る人の視線を誘導して、限りある空間で無限のものを演出した。そのため、今時のデジタル技術をふんだんに駆使したCGはずいぶんと目を楽しませた。北京のとき、開幕に先立つ花火の放送に事前に用意した画像が組み入れられたことだけで、あれだけ議論を巻き起こしたなのに、今度はまるで映画監督の本領発揮と思わせるばかりに、視野は最初からスタジアムに限るものではなかった。ときどき企画者の発想を探りながら、スタジアムにいた人々がはたして何を見ていたのだろうかと心配したくなるぐらいだった。120728

そしてカナダならではのエピソードを一つお届けしよう。テレビの前に座って、ようやく日本選手が入場するかと思ったら、なんとテレビ解説者は直前のジャマイカチームについてやたらに興奮したようで、解説もテレビ画面も、日本チームのことを国旗、国名ともどもまるごと飛ばしてしまった。とてもわざとやったとは思わないが、なにも起こらなかったかのように、フォロー一つしなかった。なぜか中島みゆきの歌詞が脳裏を過ぎった。「世界の場所を教える地図は、誰でも自分が真ん中だと言い張る」(「EAST ASIA」)。まさにその通りだ。そして、「地球はくすくす笑いながら回ってゆく」。

2012年7月21日土曜日

辞世のポーズ

学生たちと共に読む古典、秋になったらそのクラスを開講する。教材準備の一環として、ひさしぶりにメトロポリタン美術館蔵「保元平治物語屏風」を眺めた。画像サイズは小さいながらも、オンラインで公開されていることは、やはり親近感をもたらす。

120722『保元物語』と並べて読めば、描かれた最初のエピソードは、近衛天皇の病死である。歴史事件として、すでに八百五十年も前の出来事ではあるが、日にちはちょうど七月二十三だと伝えられる。その後に展開されてくるあれだけの動乱続きの年月を予感させるかのように、病床にいる近衛天皇とその周りの様子は、場違いな長閑な空気が流れて、どこか不気味だった。貴人の寝室の室礼のあれこれというよりも、女房の裾にほぼ全身覆い被さられている状況だけが特徴として覚えられる。そして、その近衛天皇本人がいまにも人生の最期にたどり着いたことを、彼が辞世を詠みあげていることをもって表現している。そもそも辞世となれば短冊に書き込むべきだとの認識がいつごろ、どうやって出来たのだろうか、近衛天皇も左手に短冊、右手に筆という取り掛かり方だった。同じようなポーズは、太平記絵巻に描かれた日野俊基斬首がすぐ思い出され、まったく同じように死と向き合って、左手に短冊、右手に筆という姿勢だった。

死に直面する人が一句を詠む。読み物や語り物なら、その句の言葉選びや内容の創意に人々の関心が集まることだろう。どうやら絵となればそういうわけには行かない。あるいは、そのような句の作りや出来栄えがすべて分かりきったものとして存在し、絵はあくまでも辞世を詠むことを姿で表現しなければならない。したがって一句を詠むために、それを人に言い聞かせて覚えさせたり、書き留めさせたりすることも十分に考えられるのに、やはり本人が筆を取らなければ視覚的には伝わらない。その結果、仰向けになった近衛天皇がはたしてどうやって筆を握っていたのはすべて問題外となり、ひいては絵ならではの愛嬌さえだった。

2012年7月15日日曜日

翻刻・読み下し

「翻刻」と「読み下し」。この二つの言葉の字面の意味、語彙史的な由来、一対の用語としてのバランス、語感など、言葉を観察する場合の要素はともかくとして、いわゆる国文学の界隈ではその内容がはっきりしている。すなわちかつて使われていた書写システムによって記された文章を、現在の人々が読めるようなスタンダードな文字に翻(ひるがえ)して作り変えること、そして普通に読んで分かる程度適宜に言葉を漢字に置き換えることである。送り仮名やら繰り返し字や返り点やら、現行の文字表記の基準が定まらなかったり、対応できなかったりするケースは多々あるが、現実的には大らかなに対応せざるをえない。

現代の人々は、昔の文字をそのまま読む必要がないから、読めないというよりも読まないということが事実だろう。したがって、このプロセスを通らなければ、古典は普通の読者には届かない。そのため、理論上すべての古典は、数え切れないもろもろの諸本を含めて、まずは一通りこの作業が必要となる。残されている古典の規模から考えれば、気が遠くなる作業だ。世の中は、いまや何でもデジタルという風潮だ。そのうち、まずは部分的に、あるいは一つの作品について、数枚のもののみ読み出してパソコンに教えたら、あとは自動的に答えが出てくるといったようなマジックも実現することだろう。ただすぐにはそこまでのシステムが生まれてくることがとても思えない。まずなによりも、古典の字面を完璧に読めるとの知識や自信は、第一線の研究者だって十分に持ち合わせているわけでもないのだから、どうしてもすこしずつ進めるしかないものだ。

120715いま出来ることは、デジタル環境の進歩に寄与する思いまで込めて、コツコツと作業を積み重ねることだろう。この考えから、オンライン公開されている『田原藤太秀郷』という絵巻をめぐる作業を試した。原文は合わせて三巻、約千行、二万文字ぐらいの分量だ。あれこれの仕事、とりわけ旅行などの合間に、携帯のパソコンにタイプし出した。先週、同じ公式サイトでアップロードされた。昔なら、このような作業は活字になるということしか公開の道がなかったこともあって、研究業績の大きな一部だったのだが、いまはそのような思いはまったく薄い。むしろ古典をめぐってまた一つ会話の話題が出来た程度のもので、ただすなおに嬉しい。むしろこれに合わせて特別に作成してもらったページはデザインが非常に綺麗で、動きが良い。そして、なによりも絵巻に展開されたストーリは、奇想天外、奇怪愉快で、この上なく楽しい。ぜひ読んでみてください。

田原藤太秀郷(翻刻、読み下し)

2012年7月8日日曜日

祭りだ、パレードだ

京都でいくつものパレードを一つまた一つと見てきたせいもあるからだろうかか、なぜかパレードにある種の親近感を持つようになった。地元のパレードがやってきたと気づいて、さっそくカメラを抱えて出かけてきた。年一度のロデオ行事の前夜祭的なもので、祇園祭りで言えば宵山にあたるものだ。しかも今年はちょうど100回目というめでたい記録まで付いていると、あとになって知った。

これが日本だったら、さぞかし時代の絵巻などと謳ったところだろう。しかしながら、もともとそのような長い年輪を持つ町ではないから、そのような捉え方などあるはずはない。そこで、代わりにいわば横の、社会生活の集団の集まりが行事の骨組みとなった。4キロにもわたるパレード沿路は言葉通りに見物の人々に埋め尽くされた。その中心を成したのは、無数の見物座敷である。きちんとした段差を付けた頑丈なもので、たとえば祇園祭りのときのあれとはまったく作りが違う。どれも地元の会社の名前が付いていて、どうやら宣120707伝を兼ねての職員への慰労であり、行事への協賛でもある。一方では、パレードの参加者は、あくまでも社会生活の中のさまざまな集団によるものだ。大きな会社、各種の福祉団体、演劇や音楽グループ、そしてさまざまなエスニックな集まりなどなど、まさに市民参加型のあり方を極めたものである。なによりもパレードの先導を勤めるのは、馬に乗っての現市長さんなのだ。馬の尻に掛けた垂れ幕には市長の名前まで記入してあるのだが、道端の人々にはもちろん馴染みのある顔で、就任してからは駐車料金など生活直結型の改革を敢行してけっこうな人気を誇っている。そして、警察たちの、大勢におよぶ制服組がただただ行進するという、地味な行列があったが、その人間の数にいささか感動した。

地元の誇りの一つは、やはりりっぱな馬たちの姿だ。見たこともないようなさまざまな体格の馬、奇抜な身なり、贅をつくした装身具、圧倒するような数、それらを擁する雄大な牧場が簡単に連想させられる。そして、その中に混じって、騎馬ならぬ騎牛の一こまは微笑ましいものだった。大きな牛、しかもあれだけ奮迅し、かつ乗る人の指示に的確に答えることなど、予想もしなかった。二時間半以上にわたるテレビ局全放送の録画はオンラインで公開されているが、それの59分過ぎたところにこの牛が登場する。一見の価値があるものだ。

The Stampede Parade

2012年7月1日日曜日

日を遂って15時間

京都とホームタウンとの直線距離は、ざあと八千キロ。飛行機となれば、乗り継ぎはどうしても避けられないが、それを計算に入れなければ、ほぼ11時間の飛行時間がかかる。乗り換えに4時間を計上すれば、都市間の最短時間距離は15時間だ。一方では、この二つの都市の間の時差は15時間。ただいま完成してきた旅では、まさにユニークな形でこれを具体的に体験した。飛行機が飛び出したのは午後の2時。二回も乗り換えてちょうど同じ日の同じ時間に、目的地の空港に降り立った。地球を半分回ってきた。カレンダーだけを見たら、時間をまったく損していないとの計算にはなる。言うまでなく日本に向かったときにはきっちり時差の分の時間を前払いしていたのだから、それを取り戻したと考えたほうが適当だろう。

120701視点を変えて思えば、地球に対する太陽とずっと同じスピードで移動した、との捉え方も出来る。ここにすぐに思い出したのは、あの中国の、「夸父、日を遂う」という寓話である。『山海経』に伝承されたもので、夸父という名の巨大な神は、日を追い続け、ついに力尽きて倒れた伝説である。今日になって大事に覚えられたもので、美しい古代神話の代表格の一つとなり、しかも渾身の力を振り絞って奮闘するとの積極的な意味で捉えられ、学校教材などには繰り返し登場したものである。これと付き合わせてみれば、空飛ぶ旅は、まさに昔の神話をそっくりそのまま再現したものだ。いや、もともと空中にいたのは12時間ぐらいに過ぎなかったものだから、今日は悠々と日に追いつき、日を追い越したという計算なのだ。なぜかわけもなく雄大な気持ちになった。

一日もそうだが、一年という時間もあまりにも早い。京都での滞在は、すでに研究歴の中の一行と化してしまった。早朝、小雨の中を研究所を出たころ、じつに十人ぐらいもの友人たちが出てきて、送別に集まってくれた。人との出会いは、過ぎ去った時間の一番貴重なものだった。一人ひとりの笑顔をしみじみと脳裏に刻み、心から再会を願う。

2012年6月25日月曜日

記録と記憶のデジタル

ささやかな定例の研究会において、発表者は近年自ら立て続けに関わってきたデジタルリソースを実演しながら、それらの用途や開発の秘話を披露し、あわせてデジタルをめぐる考えを述べた。その中では、記録と記憶というキーワードが登場させた。わずか数週間前、べつの研究会において映画のありかたを考えるにあたり、まさにこの二つの言葉を選んでささやかな突破口にしたばかりだけに、これがデジタルを語るに用いられることにははっとさせられた。そして、なぜか非常に納得した思いだった。

発表者の趣旨はこうだ。目下、ここまで発達を遂げているデジタルは、本質的に記録の手段に成しえていない。記録のメディアとしてのいくつかの根本的な特徴をいまだ持ち合わせていないからだ。対して、いまのデジタルとは、終極な記憶の手段だ。その理由とは、デジタルに変えられた内容は、結局のところ選択され、加工されたものであり、しかも時間の経過とともに、それはやがてすこしずつ更新され、あるいはすっかり変身する運命を背負う。突き詰めて言えば、この論はメディアとしてのデジタルが、いまなお変わり続ける過程にあることを強調しようとするものだ。いうまでもなく、一種の過激な修辞であって、顔面通りにそのまま認める必要はない。なによりも、デジタルは記録としての要素をもちろん持ち合わせていて、すでにデジタルに変えられた内容、あるいは最初からデジタルの形で生産された内容の大半は、ずっと現在の形のまま継承され、残されていくことだろう。しかしながら、このここに流露されたデジタルへの不信、行われた作業がやり直しを強いられる現実への達観は、当然負うべき責任からの逃避だと批判される可能生さえあるが、桃色のデジタル環境をめぐる安逸な幻想への、知見に満ちた警鐘だということには間違いはない。

今度の週末、さらに一つの小さな研究会での発言が予定されている。一年にわたる京都滞在はいよいよ終わりに近づくが、この発表は、言葉通りの最終日の研究交流である。よい思い出になるはずだ。以上のデジタルへの捉え方をまずは考えるヒントの一つにしたい。

2012年6月17日日曜日

歌と踊りと念仏

来週週末に予定されているある研究集会に合せて、今週の読書テーマの一つにあの「融通念仏絵」が入った。これまでには何回となく通り過ぎたものだが、いまだ一度も立ち止ったことがなく、ほぼはじめてじっくりと披いた。

「融通」とは、いうまでもなく仏の教えの伝播にかかわる鎌倉仏教に相応しく宗教理念である。一人の念仏は全員の功徳に繋がり、みんなの信心は一人のためになるという、考えようによってははなはだ現代的な相互援助の精神が溢れる実践の形態は、おそらく遠く鎌倉の時においてはとてつもなく前衛的なもので、それが人々の心を明快に捉えたのだろう。そこに、記帳など形を持つ行動内容に伴い、歌のメロディーが生まれ、さらに踊りまで加わり、念仏そのものはおよそ真剣に自分に向き合うというものではなく、逆に外向けの、他人とともに分かち合うパフォーマンス、共同の気持ちを確かめ合う歌声に溶け込み、その中から歓喜を求めようとしたものだった。

鎌倉時代の念仏そのもののあり方は、今日になってしまえば、文字や絵のみが手がかりとなり、そこから想像で昔の様子を模索するのみだ。録画も録音も、そのような手段が成り立っていなかったころのことだからいたし方がない。それがはたしてどのようなものだったのか、そのような問いに対して、なぜか例えば東京の池袋界隈で繰り広げられた「ふくろ祭り」を連想してしまう。パソコンの中を探し回って、五年ほど前にカメラに納めたものを取り出した。同じ行事は今年も続くと聞120617く。もちろん宗教的な色合いなどはなく、「前夜祭」「宵御輿」など伝統的な祭りのテンプレートを援用するに止まった。中味はともかくとして、その中に身を置いたら、思わず飲み込まれてしまいそうな感覚は、まさに歌と踊りの魔力に由来するものだった。

説話文学会50周年記念大会

2012年6月10日日曜日

足を濯う

台湾の故宮博物館は、その蔵品の質と量をもって世を唸らせる。目下のところ、「造形と美感」と名乗る小さなテーマ展が今月の25日まで行われ、中国の絵画を内容とし、その冒頭を飾るのは、唐王維の「山陰図」である。何気なく展示窓に掛けられるが、眺めるほど目をみはる思いをした。

説明文によると、これをそのまま王維の作だとするには、なお数多くの疑問が残り、あくまでも「伝」と限定するものである。だが、唐の絵画を特定するためには、文献資料の伝承と絵画作品の複写など複雑な条件が重なって、つねに不完全なものである。一方では、絵を見つめれば、人物のサイズ、色の選択、そして料紙の年期などからして、宋のものと一線を劃すようなものをなんとなく感じさせられる。絵の中心スポットは、山の陰で優雅に時間を過ごす三人の文人だ。その一人は、直立するのではなく、水辺に座っている姿勢を取る。この120610事実は、文献に伝える王維の同名の絵の構図と齟齬し、作者や画題の特定に根本的な疑問をもたらした。男は、まさに「足を濯」っているのである。ただし画面に見られるのは、上半身を後ろ向きにした、とても不自然な格好だ。足元はまったく見せてくれていなくて、男が取った行動の内容は、足を水に漬かしたものだと推測するに止まる。

言い換えれば、足元の様子を描かなくても、男の行動が誤解なくビジュアル的に伝えられるということは、「濯足」という文化的な記号が完全に成立していたからにほかならない。いうまでもなく、「濯足」とは、あの『孟子』に記された言葉で、濁った沧浪の水でも、我が足を洗って構わないという、きわめて情調豊かな比喩であり、俗世間を清く生き抜くための、古代文人の一種の理想像を語ったものである。ちなみに、現代中国語ではこの表現も、ひいては「濯」という文字も実際の言語生活から姿が消えた。それに対して、日本語における「足を洗う」との熟語は、この中国古典からの自然な延長であり、かつここにビジュアルの古注釈を求めることが出来ると言えよう。

2012年6月3日日曜日

奈良を歩く

ちょっとした遠出をしてきた。去年の夏にお亡くなりになったある方のお墓参りをした。案内の方に車を出していただき、小高い山の上まで車を一気に登らせた。目の前には広く視野が開き、しかも緑に囲まれる中、東大寺の甍がくっきりと目に入った。静かな焼香のあと、その足で故人の親族までお訪ねし、充実した会話が交わされた昼食の後、興福寺の境内を歩きまわって、故人の筆跡が残る青銅の灯篭の前に長く佇んで故人を偲んだ。

久しぶりに緩やかな時間が流れる奈良の街を歩いた。どこにもありそうな観光地の商店街だが、よく見れば、やはり書道道具の店が軒を連ねる。春日神社の使者とされる鹿たちは、相変わらずに奈良のシンボルを勤めているが、同じ季節ながらも、なぜかわずか数日前に見てきた宮島の鹿たちと毛皮の模様も色もまったく違う。大きな体をした牡の鹿が平気にやってきて、暖かい角を腕などに擦り付けて愛嬌をふり撒いた。五重の塔の階段を下りたところの猿沢池は、たしかに記憶に120603あった通りに小さくて纏まりがよく、しかもどんな時間にもベンチに腰を下ろして水を見つめる観光客の姿があって、懐かしい。亀たちは、夕日の中で頭をいっぱい伸ばして、妙に静かな風景を成している。

奈良の街は、天然の色が似合う。しかしながら、今度は鮮やかな赤が印象に残った。墓地の中に足を踏み入れると、そこにはかなりの数の墓石は、赤く染まった砂に囲まれている。そして、墓石を一つひとつ目で追っていくと、名前が赤い文字で記入されたものが多くあった。案内の方は、赤い文字の名前とは、その人がいまだ生存しているとのことだと教えてくれた。これまでにはまったく気づかなかった世界を不意に垣間見た思いがしてならなかった。

2012年5月27日日曜日

恩師を訪ねる

週末になれば発表が重なり、かつ複数の研究会が予定されているなど、日本滞在の研究生活はいつになくフル回転の毎日なのだ。それでも今週は、前から予定していた計画を実行し、広島に赴いて大学時代に教わった恩師を訪ねた。そこには昔の同級生が住んでおり、駅からずっと付き添ってもらっての小旅行だった。

大学を卒業してからすでに三十年経った。職場を日本以外に求めたこともあって、恩師には十年に一度お目に掛かれるかどうかになってしまった。指折って数えてみれば、たしかに二十数年前にすでに定年なさったはずだから、はたしてお体の具合はどうなのかと、不安を感じたまま恩師宅前に立ち、見覚えのあるドアを叩いた。矍鑠として、軽やかな身なりで迎えてくださった恩師の姿には少なからずに驚いた。お茶やお菓子が出されて、昔と変わらぬ会話が始まり、さまざまな話題が出てきた。中でも、壁に掛けられた唐詩の書に及んだら、なんと恩師はなにげなくテーブルの上のメモを指差し、私たちの到着を待っている間に、その詩の韻を踏んだ漢詩をお書きになったとのことだった。120527おもわずカメラを向けた。

未名湖畔群鶴翔
赤門台上論英風
正是広陵好風景
落花時節又逢君

なぜか教室でレポートを差し出して、褒められたような、歯がゆい、赤面する感覚に一瞬捉われ、それでも「又逢君」には、さすがに感慨が湧きあがった。当時のクラスメートはわずかに九人、しかも会話をしている間もさらに別の二人の同級生に電話ができたという、過ぎ去った時間を遠慮なく楽しみ、思い出に耽っても許されるような言いようのない気持ちに包まれた。

恩師に別れを告げたら、思わぬことにシリーズものの書籍をお土産にいただいた。思えば日本留学した当初もまったく同じ一幕があり、しかもその時にいただいた書籍はいまだに研究室に置かれて、時々同僚に貸し出したりまでしている。そのような財産がまた一つ増えたとの思いを噛みしめながら、しっかりと再会を約束して帰途に着いた。

2012年5月20日日曜日

韓国の花祭り

週末にソウルを訪ねた。時差はなく、飛行時間は二時間も足らず、日本からはまさにすぐそばの隣国との印象を改めて感じた。それでも、いたるところに聞こえてくる外国語案内や看板は韓・英・日・中と続き、市庁前の広場には巨大な野外舞台が設置したと思ったらその日に撤去され、翌日にまた違うものが立てられるなど、日本ではちょっと思いつかない外国は、明らかにそこにあった。

120520街角を見渡すと、妙な紙灯篭が飾られていることに気付いた。聞くと韓国最大の祭りである「燃灯祝祭」が近づいてくるものだと教わった。あの釈迦誕生日のことである。日本で言えば「花祭り」。こちらのほうは、桜に因んだ命名は明治時代に入ってからの事であり、しかも思えば今年の4月8日には、ちょうど数人の研究者と一緒に山を歩く機会に恵まれ、廃れたお寺の講堂に置かれた花祭りの飾りが深く印象に残ったものだ。日にちのことが気になって調べてみたら、東南アジア諸国から僧侶が集まってカンボジアで行われる釈迦誕生行事は4月28日、国立行事として取り行われる台湾国立釈迦誕生日は5月13日、そこで韓国の燃灯祝祭は5月18日で、一番遅い日付となる。韓国人の友人によれば、しかしながらいまやこれは国の休日になっているとか。しかもその理由とは、クリスマスが休みの日だから、釈迦も遅れを取ってはいけないという、どこまで冗談が混じっているのやら図りきれない楽しいコメントだった。

ソウルでの集まりは、「韓国日本文学会」。日本文学の研究者が大勢集まり、近代専門の方が多いように見受けられたが、上代、中世、近世の方も数人集まった。そこでの報告は、いずれ雑誌に掲載される予定だと聞く。発表後の質疑応答、会議前後の招待者との真剣な会話など、知見に満ちて、発表者の自分が一番得るところ多くて、なんとも贅沢な旅行だった

燃灯祝祭

2012年5月14日月曜日

模写本の効用

週末は研究会で東京に出かけた。それに合わせて、二つの大学の国文学研究室を訪ね、いずれも心のこもったもてなしを受け、先生や大学院生たちと充実な会話ができた。とりわけ一つの内輪の研究会に飛び入りで参加させてもらった。来月に予定されている全国規模の研究大会での特別展示のために、展示品の解題集作成がその集まりの理由である。非常にユニークな展示になりそうで、一つの大学の、それも近年になってはじめて積極的に蒐集した20点を超える上質な模写が中心になる。一流の名作の模写から、いまだタイトルもストーリも不明なものに至るまで、非常に見ごたえがあるものばかりだ。

120513中世名品の模写。このグループの作品をどのように見るべきだろうか。美術品の物差しをもってこれを図るとの視野は、もうとっくに歴史や文学を研究する立場を束縛するものではなくなった。絵巻などの名作の内容を理解する、それを読み解くという意味では、模写は貴重な位置を占めていることには、だんだん共通認識が成り立つようになった。一方では、模写本を実際にどのように応用するのか、それにはどのような可能性が隠されているのか、まだまだこれからの課題である。一例としては、たとえばつぎのことがすぐに思いつく。一部の名品は、現在伝来していても、色が剥落し、線が薄れて、いわば変わり果てた姿を見せている。一方では、数百年前に行われた模写となれば、現在とはかなり異なる状態のものがそこにあり、いまや見られないものも多く残っていた。そのため、名品のかつての姿を模索する上で、大きな参考になる。さらに複数の模写を並べ、互いに比較することを通じて、原本の変遷、模写そのものの順番や性格を考える上でも、ヒントが多くて、魅力的な課題だ。

同じ研究会に先立って、学部生を対象としたゼミが行われ、惜しみなく持ち出された貴重な巻物を、関心を持つ若い学生が丁寧に開いたり、巻き戻したりしている眺めは、じつにいい風景だった。古くから伝わった書物や巻物を体感するということは、とりわけバーチャルが日常となったいまの若い世代の人々には、どんな説明や読書でも代えられない貴重な経験に違いないと改めて感じた。

2012年5月7日月曜日

晩春の比叡

連休が明けた。前半の一日、遅咲きの桜を追い求めて比叡山に登った。もともといまごろの交通手段を持ってみれば、登るという実感など平均した訪問者にはすでに味わえない。違うバスやケーブルの経路や発着時間などを比較することに神経を使ったぐらいだった。山頂に上がってみれば、桜は見事に満開していて、一年のうちに二回目の開花を賞でた思いをした。

前回比叡山を訪ねたのはいつだったのだろうか。あったにしても、きっと二十数年以上前のことで、確かな記憶はもうない。その代わり、手元の読書のいくつかは、どれも比叡山伝説、延暦寺の僧侶たちの仕事や日常に関わるもので、京都の住み人から言う「山上」の世界を、親近感のような見上げる思いが伴う。しかしながら、実際に延暦寺の中に入ってみれば、少なからぬの失望を感じてしまった。境内に立て巡らしたお寺の由来や縁起の画像と文字説明は、あまりにも無造作でやすっぽい。国宝になっている根本中堂には、カメラを持ち込ませないが、その回廊に飾ったのは小学生の書道作品ばかりで、どこかの銀行か郵便局の待合スペースしか連想させない。国宝館と名乗るところの最上階には、現代の書画といって、前衛の書や古典への志120506向を微塵もない壁画がフロアいっぱいに使っている。大きな釣鐘は、だれでも自由に衝き放題になっているが、力任せの男性二人の衝き方には衝き棒がすでに力負けしたような感じで、三人目の男性は明らかに手加減をかけたことだけは、妙に印象が残った。天下の延暦寺の今は、どこまでもちぐはぐな風景だった。

下山には坂本に降りて行くケーブルを使った。十分程度の乗車には、延暦寺関連の紹介がほとんどなく、無縁仏についての説明になって突然力が入った。比叡山の焼き討ちは、もうすでに半世紀近くも前だったのに、それから以来の年月の中で、寺の弱体化が有効に進められてきたからだろうか、どうやら比叡山は、いまや人々の記憶の中にだけ存在しているようだ。

2012年4月29日日曜日

地図を片手に

早くも五月の連休も始まり、外出など地図を片手にする機会はかなり増えた。冊子の地図はとっくに日常生活から姿を消し、行く先々を予想してそれを携帯デバイスに取っておくというやりかたもあっという間に通り過ぎて、いまや携帯電話を握り、歩いたり、バスやタクシーに乗ったりする間に、GPSの機能まで活用しながらの地図遊びである。まさに日進月歩だ。

考えてみれば、地図とは単純でいて分かりきった性格の情報を扱うもので、差をつけることが難しい分野だ。しかしながら、じっさいに冷静に観察すれば、これほど多岐にわたる微妙な内容をバランスよく対応しなければならないことが要求される作業は、また稀だ。国際紛争や宗教信仰まで巻き込んだ地図情報の処理などは別格として、身の回りのものでも、地形、道路情報、店舗の宣伝など、オリジナル内容に事欠かさず、一々提供者の感覚が問われる。その出来栄えやデータの質を見極めるための比較分析を始めれば、興味が尽きない。しかも開発者の立場を想像すれば、あれだけ膨大な内容を無料で提供しているものだから、ユーザー獲得が至上の命題であれば、より自由なオンライン・オフラインの切り替え、写真や書き込みが自由にできるソーシャル環境などでユーザーを囲むのが当たり前だが、まだまだこの先に道のりが長い。

友人から転送されてきた地図がヒントとなって、はじめて「ヤフー地図」を開い120429た。最初の検索画面ですでに躓き、地図が出てこなくて文字ばかりの地名のリストなどが溢れ出て戸惑いを感じた。しかしながら、いざ地図に入ってしまえば、嬉しい発見は少なくなかった。スケール変更のバーに「市町丁目」との分類が入っていることは、新鮮で分かりやすい。そして何よりも、近辺の山間の散歩路について、グーグルもbingも乗っていない情報が掲載されていることには少なからぬの驚きを覚えた。見比べる内容がまた一つ増えた。

2012年4月22日日曜日

議論の時間

普通の外国での研究滞在ではとても簡単に体験できないことの一つに、集中したテーマの下に企画された研究会がある。いまの京都生活では、上質なそれをかなり頻繁に経験している。学際的な交流を目指して、第一線の研究者たちが各地から集まってくる。今日も、ただいまそのような研究会での発表を終えてきたばかりだ。30人近くの方々が集まり、しかも半日かけて、自分の発表一本のみという、なんとも言いようのない贅沢な交流の場だった。

普通の研究会なら、議論の時間となれば、せいぜい10分や20分だろう。それが、このような集まりとなれば、知らないうちに一時間も平気に流れてしまう。この時間の長さの差は、言葉通りに議論の質と密度を変える。二回も三回も発言する時間が持たれるものとなれば、忌憚のない質疑がいとも簡単に飛び出してくる。それは発想の根底を問うものであったり、違う分野だからこそ口に出来る常識だったり、率直な異論だったりと、尽きることがない。思い切って問題提起したことを、しっかりと受け止められ、たしかな言葉で評価や批判が戻ってくることは、なんとも心地よい。しかもそのような議論が交わされたからこそ、質問しようとしてもついに口を開かなかった人も、終了したらなにげなく新事実や違う立場からの観察、異なる経験から培った薀蓄を教えてくれる。新たな発想を得ることも大事だが、問題意識を研究者同士で確認しあい、進行中の作業を見直すことは、掛け替えのない経験だ。すべてゆっくりした議論の時間の確保が、欠けられない前提の一つだ。

研究会参加者の多くは、数時間もかけて電車などを乗り継いでやってきている。それぞれの職務は、多忙を極めることを想像し難くない。それにもかかわらず、休日の週末にこれだけ時間を割いてしまうことは、これまた自分ホームではちょっぴり想像出来ない、いかにも日本的な日常風景なのだ。

「夢と表象」

2012年4月14日土曜日

美術館のストリートビュー

この一週間、京都は桜満開を迎えた。その中で飛び込んできたニュースの一つに、あの「Googleアートプロジェクト」に日本の美術館・博物館がついに登場したものがあった。美術館へのデジタルなアクセスのこの新しいあり方を時折周りに説明しているだけに、日本の美術館の仲間入りは、この上なく心強い。しかも東京博物館など日本を代表するところが率先して参加していることは、嬉しい。

120415いまのところ、この「アートプロジェクト」で公開している作品数も、そして画像の画質でさえ、三年ほどまえから公開している「e国宝」には及ばない。しかしながら、美術館の所蔵品というよりも、美術館の中そのものを自分の足で歩き回るような、あるいはゲームなどでよく使われている仮想世界の中を散歩するような形で見て回るものだから、はたして現実なのか、それともデジタル世界の中の空想なのか、錯覚に襲われるところが、なんとも言いようがない。美術館の中についてのこの表現の方法は、いうまでもなくあの「ストリートビュー」の技術をそのまま応用したというだけのことだ。ただ、公開した街の風景と違い、密室の、見せるために構想され、構造される空間を対象にするとたんに、それはすでに「ビュー」(眺める)ではなく、「覗く」こととなり、見る行動にまったく異なる側面が付け加えられることになった。あのストリートビューでは、たとえば文章を読んだり、動画を見たりすることよりも、町角の様子を延々とずっと眺めていくというような使用の仕方がすでに行われていると聞く。それと同じく、あるいはそれ以上に、美術館を一つの完成された作品としてじっくり眺めていくというインターネットの使い方は、これによって可能になってきたことだ。

現在公開中の「アートプロジェクト」は、日本語ページはあることはあるが、英語の言葉を半分以上はただ単にカタカナ語に置き換えたのみのもので、分かりやすいというにはほど遠い。日本語ページでいなが美術館の名前は英語のままであったり、あるいはその美術館リストにたどり着くためには、「コレクション」という項目を選ばなければならなかったりなど、日本語の使い方を丁寧に守っていない。このような言語表現の未熟さをユーザーたちがどのように受け止めることだろうか。あるいはこれ自体、一つの新しい技術が生活の中にすこしずつ入っていく過程の象徴的な現象だと考えるべきかもしれない。

「日本経済新聞」より

2012年4月8日日曜日

デジタルの虫干し

週末にかけて行われた研究会の席上、発表者は一つのじつに興味深い表現を持ち出した。いわば「デジタルの虫干し」。日々変わり続けるデジタル環境に身を置かれて、それを仕事の大事な手助けとしながらも、これまでこなしてきた作業は、信じられないぐらいのスピードで置き去られ、いつの間にかまったくアクセスしなくなった。過去の産物になったデジタルものを取り出し、あくまで保存するという目でこれを「虫干し」するという発想、そしてそのような実際の実践は、まさに切実な課題であり、言葉の妙を尽くす。

発表者が実際に着手しているのは、むかしに作成され、いまは使わなくなった記録メディア、知られなくなったフォーマットで記録されたものを対象に、それらを現在汎用の記録メディアに移し、かつありったけの手がかりを使ってそれらを照合したりして、その中身を特定するという、聞くだけで気が遠くなるようなものである。いうまでもなく、この作業の直接な目標は保存であり、これまでの研究や制作の仕事の総点検などにはとても及ばない。それにしても、このような作業の大事さは、感覚的に聞く人々に伝わる。デジタルの環境が普通の意味で普及になったのはわずかに十数年、でもこの間に、周りのありかたはどれだけ変わってきたのだろうか。ずっとなんらかの形でこれに携わってきた者にとっては、まるで何世代も生き抜いてきた感じであり、しかも作り上げたものを存続させるためには、これまで以上にさまざまな形で智慧を働かさなければならないと実感している。そのために、デジタルの虫干しは、まさにデータを救う、拾う、再発見することを意味し、大きな研究機関などに止まらず、心ある個人一人ひとりも遅かれ早かれ真剣に取り組むべきものなのだ。

デジタル環境にめぐり、考えるべきことはあまりにも多い。しかも時間に追われる日常において、立ち止まって振り返る余裕は、意外と持たない。「虫干し」とは直接に関連を持たないが、最近ささやかな一文を纏めた。興味ある方はぜひどうぞご一読ください。

「デジタルの提言」(『日文研』48号より)

2012年3月31日土曜日

二大絵巻を観る

今週の最後の二日は東京で過ごした。デジタル環境の構成に努め、新たな知見を発信しようと真剣に取り組んでいる研究者たちとの交流が叶えられた。その後、これまで論文でしか知らなかった研究者から招待を受けて、待ち望んでいたボストン美術館展を見ることができた。

120401展示の質やスケールには、それなりに想像はしていたが、それでもさすがに圧倒される。展示は、曼荼羅など絵画作品で始まるが、さっそく平安時代の観音菩薩像に対面し、周りの観衆からはささやかな歓声が上がったぐらいだった。しかも前に進むにしたがい、奈良時代の曼陀羅が登場し、かつ文字資料のお経との対照、説明文入りの赤外線撮影による解説など添えられ、展示はただ本物を見せるに止まらず、教育にまで責任を背負った。その中で、地獄草子の断簡は、日本に残っていれば間違いなく国宝になるものであっても、サイズが小さいからだろうか、ほとんどの人はその前を素通りをしてしまうような、不思議な光景も目撃した。

展示の眼目は、いうまでもなく「在外二大絵巻」。「吉備大臣入唐絵巻」も「平治物語絵巻」も、写真や研究書では繰り返し見てきたが、実物はじつはいずれも初めての経験だ。思わず身震いをする思いだった。二つの絵巻とも惜しみなく全巻を広げ、それを隅々までじっくり眺められて、やはりなんとも言いようがない。絵巻とは手の中の映画だという、あの有名な着眼に反論を抱き、見る人の気持ちと都合でいくらでも見れるものだとの小さな持論をことあるごとに披露している自分だが、しかしながらこの時だけはまったく違う体験をさせられた。人ごみに押され、後ろで待っている人々から反感を買わないようにと、決まったペースで前へと移動せざるを得ない。その結果、世紀の絵巻はまさに目の前を流れていく映画のようなものだった。もともとこのような見方でも新たな発見は多い。吉備を招く宮殿の前に設けられた虎の皮が敷かれた座席、平治の戦火の中で牛車の車輪に轢かれた男など、なぜかとても印象に残った。そして、あのあまりにもアンバランスな奥書。

ボストン美術館の公式サイトでは、「吉備大臣入唐絵巻」のほとんどの場面を、サイズは小さいが綺麗なデジタル画像で公開している。そこで改めてタイトルの英訳を見つめた。「Minister Kibi's Adventures in China」。これをこのまま日本語に直すと、さしずめ「内閣大臣キビの中国アドベンチャー」といったところだ。官位の「大臣」はやむなしとしても、「行く」ことが「冒険」と意訳された。いうまでもなくさほど予備知識を持たない英語の読者には、こちらのほうが伝わりやすいに違いない。

東京国立博物館140周年特別展「ボストン美術館日本美術の至宝」
ボストン美術館

2012年3月25日日曜日

パノラマの故宮

友人の計らいにより台湾に出掛けてきた。若い学生たちの繊細な知識や鋭い反応に驚きながら、絵巻をまつわる話がいつか何かの形で実ることを祈りつつ、教室を後にした。週末は、幸いかなりの自由時間に恵まれる。大きなカメラを持ってきていないことにどこか後悔を感じても、小さいカメラを使い倒すことに専念した。その中で、パノラマ撮影はやはりユニークだ。この機能の存在、そしてその撮影原理は理解しているのだが、実際に使ってみて、その出来の良さにはやはり感心した。台湾・故宮を撮った数枚をここに添えておく。

パノラマ写真は、いわば人間の自然な視野を超えたものを記録している。手持ちのカメラには、180度と360度という二つの方法を用意している。だが、たとえ前者の180度のものでも、撮影した写真を「一目に」眺めることは出来ない。しかもそれは写真を映し出すスクリーンのサイズとは関係ない。人間の目は、一度に見えるものには限られた角度があり、ものをはっきりと捉えるためには、左右の幅には自ずと限界が出来てしまう。この事実をパノラマの写真にはっきりと確かめられることは、したがって逆説的に景色を見るにあたっての一つの前提が浮かんでくる。すなわち無限に広がってくる景色を見るために、人間は視線を移して少しずつカバーし、つねにすでに得た知識などを応用して、目に入ったものと、入っていなくても想像で分かるものとを合流させて認識の中で再現するものだ。パノラマの写真は、よく絵巻に喩えられるが、そのような性質を絵巻がとっくの昔から備え、意図的に応用していたことを、この比喩においてすでにはっきりと訴えられているものだ。


ちなみに手持ちのカメラは、パノラマ撮影となると面白い働きをする。パノラマの写真は、普段のそれと比べて、縦の解像度は約五分の一ぐらいに落とされている。しかも180度も360度も縦は同じで横は倍違い、という設定だ。パノラマ機能はあくまでも一種のおまけとして添えたに過ぎないことだろうか。できるだけ高い画質で写真を取っておくという思いからすれば、ちょっぴり心残りだ。

パノラマの故宮(三枚)

2012年3月17日土曜日

AASの会場から

学会参加のため、京都から飛行機を乗り継ぎ、トロントにやってきた。「AAS」という略称で、自分にとっては北米での研究生活の一つの出発点であり、かつて足頻に通い、さまざまな思い出を作った。ただここ数年、日程調整など現実的な理由もあって、なかなか参加できない。そのため、これも研究休暇の中での一つの特権になった。

いつもながら会場となる豪華なホテルの中を歩き回り、見定めを決めたパネルには途中でも平気に入り、つぎの話に間に合うようにさっと抜け出したりして、緊迫していて充実な時間は格別だ。発表者たちはみな正装をして臨み、かなりの準備を重ねた文章を読み上げたり、滔々としゃべりまくったりして、白熱した議論は心地よい光景を織り出す。百人も千人も集まるこのような学会での大きな楽しみは、期せずして知人、友人に再会したり、意外と続く新しい出会いを作ったり、あるいは活字でしか知らない人間と面識を持ったりすることだ。一方では、これだけ長年続いてきた行事には、確実な変化が起こっている。すぐ気づいたのは、求職面接という、かつては大きな活動内容の一つはなくなったことだ。印刷されたプログラムは前もって送られてくることはなくなり、しかも要旨はすべてオンライン利用となり、さまざまなところで合理化が進んでいる。そして、共通の言語はあくまでも英語で、それを得意ではない研究者による発表は昔からあったが、いまはとりわけ英語を研究に用いない有名な学者たちが登壇することが目立つようになった。一つの言語を使い慣れるための条件には、どう話すかよりも、なにを話すかがより真剣な試練が待ち受ける。それに対応して、なにを話そうとしているのかをはっきりと聞き出し、きちんと聞き留めることは、聞く側の責務だ。

今度与えられた役目は、コメントをするのみだ。その場は、大会最終日の明日に持たれる。はたしてどのような会話が交わされ、どのような刺激が待ち受けているのか。わくわくしている。

AAS 2012 Annual Conference

2012年3月11日日曜日

北斎の富士

120311いまや北斎が描いた浮世絵富士は、日本を象徴するビジュアルの一つとなった。浮世絵そのものが多数制作され、簡単に海外に持ち出されることから、世界各地の美術館にはたいていなんらかの形で所蔵を持ち、その地に住む人々には身近な日本の古典を感じさせる。そのような中、先週には、一つとても興味深い研究発表を聞いた。研究者は、司馬江漢と北斎との関係、とりわけ構図の応用などの実例を指摘しながら、西洋のリアリズムの絵画の影響を唱えた。それと同時に、日本の伝統的な絵画の影響に目を配ることも忘れず、結論には藤原俊成の歌学の言説まで持ち出して、伝統と新意との融合の理由を説いて、とても示唆的なものだった。

それにしても、違う時代の絵となれば、それを見る目、鑑賞をする姿勢はこうも違うものかと、あらためて感心させられた。確立されたいろいろなジャンルを横断し、対象を描くのに用いる透視関係、表現の仕方などはもちろんのこと、たとえば英文字や風景といったまったく関係ない素材を突き合わせることも可能で必要な作業だ。果てには、既成の絵をわざわざ崩したり、くっつけたり、離したり、上下を逆にしたりと、一種の遊び心をもって立ち向かう試みまで取り入れられるものだった。いうまでもなく、その時代の絵師はたしかにそのようなところに秘密を隠し、ヒントを残したからこそ、そのような愉しみ方が期待され、有効的なのだ。

そこで、思わず中世の絵画のあり方を思った。近世を通過したそれは、流れる時間の中で姿を変え、天災や人禍を潜り抜けて多くを失い、さまざまな思惑のもとで切り取られ、分断された。失われ、断片となったものを探し求め、すこしでもかつてあった形に復元しようとするのは、研究者の第一歩になる。時代が違うと、これの逆の作業だって期待されるものだ。もともとそれだってけっして楽ではないことは、言うを持たない。

2012年3月4日日曜日

帝を誅す物語

荊軻、始皇帝を刺す。あまりにもよく知られている中国故事の一つだ。始皇帝暗殺は、その直前まですべて成功したにもかかわらず、最後の瞬間、琴の演奏を今一度聞かせてくれとの始皇帝の願いが許されたところで計画が崩れたという、これまたあまりにも文学的なエピソードと共に、千年のミステリーに魅力的な想像の空間を与えた。

一方では、既成の伝説や伝統をすべて再構築する、これまでと異なる可能性を探ってみる、というのはどうやらいま中国での流行のスタイルの一つだ。この暗殺劇についてもまったく同じ展開が見られる。記憶に新しいのは、「ヒーロー」という映画だ。この上なく美しいカンフー映画、ストーリーの骨組みをあの「羅生門」からそのまま借用するなど、話題が尽きない。中では肝心の始皇帝を刺すとのハイライトとなれば、刺客自身が「殺すか殺さないか」との問いを始皇帝その人から投げかけられ、真面目に悩み、結局は殺さないことを自ら進んで選び、殺されてしまうという、妙な結末だった。そこに、今年に入ってさらに一つ違うバージョンが公衆の視野に入った。日本で言えば「紅白歌合戦」にあたる全国規模の大晦日テレビ番組の一こまに、この物語が再び登場した。コメディタッチだが、始皇帝をあっさりと殺してしまったと、いま流行の「タイムトラベル」のいい加減さを批判しようとしたものだった。

120304目を日本の古典に転じれば、始皇帝暗殺は、遠く『源氏物語』、『今昔物語集』、『平家物語』に収められ、はてまた絵巻や屏風の題材になった。その中の一つ、静岡県立美術館所蔵『帝鑑図・咸陽宮図屏風』をめぐり、小さな行事が十日ほど後に予定されている。

帝誅しと帝諌めの物語

2012年3月1日木曜日

デジタルの提言

世の中は、デジタル環境が凄まじい勢いで加速しつつ暮らしの隅々まで普及している。その中で、状況変化の外に身を置いたまま不本意に巻き込まれるよりも、むしろ積極的に対応したいという思いで、自分の研究や大学教育の現場にデジタル環境を導入し、あれこれとささやかな試みを繰り返してきた。さらに去年の夏から、職場から与えられた研究休暇の間、日文研で共同研究を企画・組織する機会をいただいた。「デジタル環境」と「古典画像研究」との交差をテーマに掲げ、大学や研究機関の研究者のみならず、図書館、美術館などでデジタル環境構築の最前線に携わっている関係者に参加をお願いして、密度の高い議論を重ねている。

ことがデジタル環境の構築や創出となれば、日本での展開には、ほかの国ではさほど見かけない特徴をもっている。とりわけここ二、三年の状況からすれば、つぎのことが一番顕著かと思う。たとえば北米を中心とする英語圏の国々におけるグーグル、アマゾンといった新興企業が大きな牽引力を発揮し、しかもその発展を伴って企業自身が大きく成長するというようなケースは日本では見受けられない。規模では負けず、同じく情報や流通分野で本領を発揮する多数の日本企業は、デジタル環境の関与においては、いまだに様子見の立場を堅持し、決定的なアクションを打ち出そうとしない。しかしながら、企業関与の不在という状況の代わりに、日本で見かけられるのは、公的な資金の投入や公的な機関の積極的な寄与である。研究所や教育機関が主体となって所蔵資料をデジタル化し、それを公開するという動きに続き、国立公立の図書館、美術館、博物館などは、伝統的な枠組みに拘らない予算が組まれ、しかも関連する法律の修正などの対応まで講じられながら、目を見張るようなスピードでデジタル環境の構築が進んでいる。国レベルの資源の使用において、この構図をほかの国と比較して議論するのも一つの課題にはなるだろう。それはともかくとして、ここでは一つの事実認識としてまず確認しておきたい。そしてより大事なのは、そのような貴重な資源や無数の人々の労力をすこしでも無駄にしないために、その恩恵を受ける一人ひとりが智慧を傾けるべきことだろう。

新たなデジタル環境は、われわれに記録の方法、表現の媒体、教育の手段を提供してくれている。その中で、学術研究という立場では、どのような関わり方を持つべきだろうか。とりわけようやく形を持ち始めた一つのまったく新しい環境にかかわるルール作りや枠組みの形成には、これまでにない試練が満ちている。これに関連して、考えが繰り返し立ち戻ったのはつぎの二つのことである。

まずは、デジタルデータの作成やその結果を、いかにして在来の研究活動に組み入れるかということである。

一般論になるが、一つの研究活動に携わったら、その成果が「残る」、「使われる」、そして「使える」ということを理想にするだろう。デジタルデータを作成する立場からすれば、思いはまったく同じなはずだ。ただし、ここで操作可能なレベルで考えるならば、対応すべき順番はちょうど逆になる。すなわちデジタルデータを作成するうえで、まずはそれがどのように使われる可能性を獲得するか、ということだ。

すでに多数存在するデータベースの利用から具体的に考えてみよう。現状では、研究者はデータベースを通して特定のテキストあるいは画像資料までたどり着き、それを研究成果に用いたとしても、ほとんどの場合そのような利用のプロセスを触れない。その結果、まるで群書を読破したかのようにピンポイントで関連資料が提供される。特定のデジタル資源を開発し、制作するために研究機関や研究者が計り知れない知恵と労力をつぎ込んだにもかかわらず、そのおかげで使用された資料は所蔵関連で記される程度で、デジタル関連の貢献はなにもなかったかのように見過ごされてしまう。データベース作業を真剣に取り組んだ研究者ほど、この経験は切実かと思う。

そのような研究成果の記述の仕方に意見を言うまえに、デジタルデータを作成する側にも対応すべきことがあるかもしれない。突き詰めて言えば、「使える」という意味で、現行のデジタル成果の形態は、在来の研究発表のスタイルに十分に応えていない。「使える」と言えば、どんな調べ方にも対応する、充実なヒットが生まれる、使い勝手がよい、という条件は、もちろんその基礎である。一方では、そのように得られた結果を通行のスタイルで記述できるかどうかも、同じく「使える」かどうかの必須条件だろう。考えてみれば、最先端の携帯読書機械だって、電子書籍となれば、ページ捲りの動画ひいては音声などを再現しようと、余計な機能をいっぱい詰めてしまう。そうすることの理由は、あくまでも在来の紙媒体の書物を読む慣習を模擬することを通じて、読書経験の連続性を図るものにほかならない。ならば、学術活動の一環として開発するデジタル成果の表現方法は、現行の学術発表の様式を尊重し、引用されたり、再現されたりするための、すこしでも抵抗の少ないフォーマットを案出する努力をしなければならない。内容を特定する長々としたサイトアドレスは、サイトの中でなら問題がなかろうが、出版形態の引用には向かないことは、だれの目にもあきらかだ。さらに言えば、多くのデジタルリソースは、電子環境での手軽に内容を変えられる特徴に捕らわれて、すこしでもより充実したものにしようと改変や更新を続け、それを一つの完成品にする責任を拒んだ向きさえある。未完成でいて、いつまでも変り続けるということは、研究成果の記述が漏れる結果に繋がる。もしこの観察がさほど間違っていなければ、対応の仕方は意外と簡単かもしれない。たとえば、はっきりしたシリーズ名を添えて、オンラインと連動する、読みやすくて個別に保存できるものを、PDFなり、EPUBなり単独の形で提供したら良いはずだ。特定の内容のものについては、確定してこれ以上変えないという姿勢を表明し、かつその担保として使い手に形のあるものを手渡せば、研究利用、とりわけ成果記述のために大きく環境が整ってくるのではなかろうか。

つぎは、研究機関への期待である。新たなデジタル環境の誕生は、さまざまな形をもって在来の社会的な仕組みの再編成という結果をもたらす。その意味では、日文研という、他と較べて歴史の浅い組織は新たな可能性に直面している。

過去四半世紀にわたり、日文研を訪ね、ここで得難い研究生活を送った外国人研究者の数は、数百に及ぶだろう。ここで主催された共同研究に参加経験を持つ国内の研究者となれば、おそらくさらに一桁上の数字になろう。膨大な数の国際シンポジウムや出版物などに集約されたように、日文研という機関の一番の特色は、まさに国内外にわたる学際的な学術交流と研究である。そうなれば、デジタル環境を生かして、このような日文研の過去の経験者たちをコアなメンバーとする、学術研究のさまざまな分野のための研究・交流の場を設けることは、およそ自然な展開であり、これこそよその研究機関には簡単に追随を許さない分野である。デジタル環境の現状では、現在日本の学術活動において、伝統ある中堅の学会でさえ、例会を周知させるためのホームページを持たず、そのようなきわめて初歩的な情報を知人などを通じて聞きまわるほかはない。また共同研究では、紙媒体の出版には向かないような成果となれば、適当な発表の場が皆無に等しい。一方では、デジタル媒体を用いて成果を公表することにおいて、日文研はすでにいくつかのプロジェクトをもって実績を残している。たとえば、多くの大学図書館などは、独自の所蔵のみを対象とするデータベースを作るのに対して、日文研は、それに加えて、「在外日本美術」のような世界を視野とするデータを提供し、現在公開中の「研究支援データベース」群は、最初から研究テーマ上のアプローチである。このような研究成果の記録や発表に加えて、これを用いての国内外、学際的な人的交流、研究基地の形成ということは、まさにこれまでの研究活動の延長であり、デジタルという道具を用いた新しいタイプの、次世代の研究センター像が隠されているものではなかろうかと、一つの理想像を求めたい。

「日文研」への投稿は、これが二回目になる。前回二三号掲載のタイトルは、まさに「デジタルの誘い」。一二年経っても同じテーマを掲げてしまい、足踏みをしているようだが、一回り期待が大きくなったとも言える。デジタルというものが、紙にも匹敵するような新たな道具だとすれば、これからさらに一〇年経っても変化が続き、模索が繰り返させられてもなんの不思議もない。大きな変化の入り口にようやく立ったいま、時代の趨勢が決まってからたしかな足取りで参加するのも一つのシナリオだろう。一方では、より積極的に取り組み、枠組みの形成やルール作りに加わりたい。日文研というこの上ない快適な研究環境に恵まれ、そのような考えがいっそう強まる。
(カルガリー大学教授/国際日本文化研究センター外国人研究員)
日文研 No. 48・2012年3月

2012年2月26日日曜日

ステレオタイプの貴女

先週の「トレース」に用いた画像は、「後三年合戦絵詞」上巻第三段からのものだった。描かれているのは、将軍義家の棲家である「国府」の様子である。戦場への出陣を見送るにあたり、年老いた武士が主人の馬に縋ってすでに力になれないことを泣き別れることがこの段のテーマで、義家の家族のことは詞書では一言も触れられていない。これに対して、料紙四紙を用いたこの段の絵は、半分ほど義家の棲家にあて、ここにみる泣き崩れる女性は一紙ほどのスペースを占める。

120227女性の服装は、まず強い視覚のインパクトを与える。これをじっと眺めていれば、おそらく「ステレオタイプの貴女」との思いが一番に湧いてくるのではなかろうか。身に纏っているのは、十二単の晴れ衣裳である。なによりも色の組み合わせは素晴らしい。緑の模様が鮮明に施された裳は、目を奪うほどの鮮やかさで、なんとも美しい。あえていえば、今日ならひな壇に飾り付ける人形のようなものだ。しかしよく考えてみれば、これはどこか妙なところがある。第一、ここは天皇や貴族が住む都ではない。それどころか、中央からはるか離れている東国の果ての地にあって、地方の豪族に対峙する「国府」にすぎない。しかも、「場」もさることながら、「時」はなおさらだ。なにかの晴れやかな行事が行われているのではなく、生死が分かれる出陣なのだ。あえて外に出ないで室内に止まり、御簾の奥から見送りをするという状況は、この服装の異様さをいっそう際立たせた。

「後三年合戦絵詞」には、そもそも女性の姿が少ない。この場面以外、さらに二例ほど、詞書と絵とで同時に描いた女性の姿がある。それらは、しかしながら「げす女」、「雑女(ざふぢょ)」、そして戦利品となった「美女(びぢょ)」たちだった。絵の描き方としては同じようなステレオタイプの規則を守っているとしても、そのような人間の姿はもともと身近だったからだろうか、貴女よりは遥かに分かりやすくて親しみやすい。

2012年2月19日日曜日

電子トレース

普通の印刷物で絵巻の説明をするとしよう。説明対象である画像をどのように載せたらよいのだろうか。白黒が標準だから、必要な部分を取り出して、できるだけ見せたいところだけを出す、ぐらいの対応が予想できるが、もうすこし工夫があるのではないかと苦慮する。

いわゆる「トレース」という方法があった。むかしから多くの出版などに見られる。流暢な線で画面の特徴や大事な情報をきちんと捉えて、それ自体が一つの鑑賞対象でさえある。絵描きのプロ、あるいはそのような才能を持っている人には、きっと大したことのない作業だろう。いつかある歴史学者の回想録で、そのようなトレースの技術を集中して習得したと読んで、なぜか大いに感心した。そんなに簡単に手に入るような技でもなさそうだ。そこで、いまはなんでもパソコンで対応してしまう。デジタル画像に加工するソフトが山とあって、かつまたトレースすることは基本的な機能だ。しかしながら、あれこれと試してみたが、絵巻の画像処理に使えるものには、いまだ出会っていない。きっと作品の年輪によることだろう。絵の輪郭とは別個に、それに負けないぐらいさまざまな曲線や色の塊が混じってしまって、どうやっても満足した結果が得られない。現在、最善と思われるのは、絵を合成する方法だ。120219見せたいところをコントラストを目いっぱいに上げたまま切り取り、同じ絵をもう一枚用意して、ぴんとをはずすような処理を施して背景に使う。このような操作を加えることにより、絵の中の特定内容への指示も、たとえば番号を振り当てるようなことよりはすこしは自然な結果が得られる。

画像の掲載は、さらに著作権の問題が絡んでくる。商業雑誌だと、著者が自分で許可を取っておくことを要求されることも多い。数百年前のもので、法律で規定するような著作権がないはずだが、その分所蔵者の考えがより優先される。そういう場において、トレース、それも電子トレースって、どのように受け止められることだろうか。

2012年2月12日日曜日

善峯寺へ

週末は努めて外を歩く。今度はちょっとだけ遠くへと、山の中にある「善峯寺」を目指した。往復約20キロ。あの「ストリートビュー」も遠くから引き揚げたらしいから、どんなところかと想像してはいたが、何の行事もない普通の週末でもけっこう観光客で賑わっていた。雪までちらつき、きれいなところだった。

120212お寺の紹介によると、平安時代にまで遡る古寺ながらも、応仁の乱で焼き野原に変わった。いまの建物はすべて江戸時代に入ってからのもの、とりわけあの篤信の桂昌院によるものだ。その家紋はいたるところに施され、桂昌院廟はもちろんのこと、桂昌院の銅像を据えた八角亭まで小高い坂に建ち、お寺にしてはかなり奇抜な造りだった。境内は広い。しかも辺りを眺望すれば、海や湖と思わせるぐらい、京都の市街が借景となって、すっぽり視野に入る。境内の見せ方は、余所のお寺とだいぶ違う。拝観の順路にある建物にすべて大きな番号を振りつけ、一々所要時間などを丁寧に提示する。いささか奇妙なのは、境内を閉める時間が繰り返し表示されたことだ。しかも寺に通る外の道路には、夕方以後になれば一般車進入・駐車禁止との看板が立つ。京都の西の外れにあるこの一角は、あくまでも特別な空間のようだ。

善峯寺を出るまえに通りすぎる休憩所の中で、ちょっと変わった風景が目に留まった。ある新聞の紙面は、かなりのサイズに拡大印刷して、壁に掲げられたのである。どうやら公共バスを巻き込んだ交通事故で、間一髪で惨事にならなくて、その理由は寺のお守りを持ったからだというものである。看板は新しく見えるが、よく見ればすでに15年以上の前の出来事だとか。紙面には関係者の写真や後日談などまで載ってある。寺社の縁起とは、まさにこのように生まれたものだと、なぜかナットクして山門を潜り、外へ出た。

写真8枚

2012年2月5日日曜日

電子ブックを手作りする

ここ数日、アップルをめぐるホットな話題の一つには、新しく発表された「iBooks Author」のことがある。「オーサリング」という言葉とともにパソコンとの付き合いを始めた自分にとっては、ふたたび「オーサー」が躍るさまざまな記事を読んで、言いようのない親近感を覚えた。ここでも、アプローチはまさに教科書を直近なターゲットに絞った。北米と日本との教科書事情をめぐるあまりにも大きい違いから、このような工夫への実感は、日本ではちょっぴり薄い。一方では、いわゆる電子出版へのインパクトは、想像以上に大きい。豊かな表現手段、在来のソフトから受け継いだ作業のスタイルなどに加えて、小規模な読者を相手にするならすぐにでも伝播、流通可能だということは、大きな可能性を提示している。

以上のことを考えながら、自分の手で現時点ではどこまで電子ブックを作ることが可能かということに興味を持ち、ついつい一つ手作りを試すことにした。自分に課したテーマは、極短かい時間を掛け、最小限の内容しか取り入れず、かつ最大限に違うタイプの機械で読み取れる、ということだった。そういう意味では、iBooksでしか読めないアップルの「オーサー」は、まっさきにリストから消えた。つぎに出てきたのは、同じく最近話題が多いEPUB3だった。縦書きが出来て、いかにも日本語にふさわしい。しかしながら、作ることは簡単だったが、今度は逆にiBooksでは十分な表現ができない。(左へのページめぐりが不可、章は文章ごとに切れる、など。)やむをえずEPUB2に逆戻りした。こちらのほうは、横文字にしてまったく問題なかった。レイアウトに関しては、章段目録、絵の挿入、文字のサイズ・色・枠などの飾り付け、など、あくまでも最小限のものだが、すべて簡単に実現できた。それよりも、どの機械でも読める。iOSやAndroidをはじめ、パソコンもまったく問題なし。画面の大きいiPadで開いたら、とりわけ美しい。ーーもともといまごろ、EPUB2もかなり広く受け入れられ、JavaScriptを使い、ブックマークの機能でXHTMLからそのまま生成できるぐらいだから、テキストから作成することは、あたりまえでなにも大したことがない。

120205作業に用いたソフトは「FUSEe」。サンプルとして選んだのは、日文研のサイトにて公開されている絵巻「田原藤太秀郷」。オンライン公開はいまだ画像のみで、文字情報が提供されていないため、文字テキストとしてアクセスできる電子ブックなら、それまた最小限の意味を持っているかもしれない。

田原藤太秀郷(巻一)

2012年1月29日日曜日

森の中の盲目法師

今年の大河ドラマのヒーローは清盛。自然な展開としてテレビやほかのメディアには平家のことが頻繁に登場し、それをまつわるさまざまな中世の事柄がスポットライトを当てられるようになった。平家といえば、琵琶法師。数日前の番組でも、琵琶の音色なら共感が得られないとの判断からだろうか、代わりにギターが持ち出され、語りならぬ歌が披露されて、用心深い演出が見られた。

120129琵琶法師の語りはいうまでもなくすでに聞く由もない。ただ、かれらの姿は中世の絵巻などに確認できる。そこにみる共通した特徴といえば、盲目のため長い杖を握ること、客の屋敷に出向いての興行なため街を歩き回ること、そして低い社会的な地位からきた、周りから投げかけられた冷淡な視線や纏いつく野良犬、などが挙げられる。以上の要素を備わる実例は、たとえば「慕帰草紙」、「一遍聖絵」などにおいて認められ、言ってみれば他の芸能に関わる人間よりははるかに明瞭なイメージをわれわれが持ち合わせる。一方では、古典画像をただ絵巻のみに限らないでさらに対象を広めれば、より豊富な実例に恵まれる。たとえば右にみる一例。これは「東山遊楽図屏風」(高津古文化会館)の一部分である。京都国立博物館での展示図録の解説によれば、この屏風は狩野派絵師の作で、年代は十七世紀初頭、江戸時代はじめのものだ(「黄金のとき桃山絵画」1999年)。盲目の法師が描かれたのは、左隻三扇の中央部分にあり、いわば一双の屏風の片方の真ん中に配置されたものである。かれの身なりなどは、絵巻の中に見られたものとまったく同じだ。ただし、ここに展開された光景は、民家が密集する街角ではなくて、森々とした森の中だ。しかも法師は体を後ろに捻じ曲げ、力を絞り出して犬を追い払おうとしていた。しかも連れ添う童もいない。

屏風に描かれたこの法師の姿は、絵巻構図のあり方を受け継いでいることには疑いようがないだろう。一方では、中世ならではの、語りのための琵琶が描きこまれていない。古典研究において、文章ならその継承を確認する基準や方法をおよそ獲得されているが、ことが画像となると、どうしても心もとない。絵柄の継承と判断するために、どこまで絵師たちの独自な創作を認めてよいのだろうか、丁寧に吟味したい課題の一つなのだ。

2012年1月22日日曜日

正面の龍

農暦では週明けから新しい年に入る。中国ではいまでもこれを一年の中の一番の祝日とし、生活習慣においてもこれから生まれる子供がはじめて辰歳とする。今年の春節はいつになく早くやってきて、しかも師走ならぬ「腊月」には三十日がなく、二十九日が大晦日だとのおまけがついている。

120122龍の年を迎えて、長年続いた干支シリーズの切手には新たな一枚が加わった。しかしながら皇帝の、進んで中国のイメージとまで進化した龍だから、どのようなデザインとなるのかと期待されたら、これはいささかクセモノとなり、少なからぬの議論を引き起こした。正面を切って龍が真っ向から構えてくれたことは、いかにもユニーク。全体の色合いは黄色よりも赤が目立ち、龍の胴体やいっぱいに伸ばした爪足が飾りとなり、対して白抜きにした目、無限の黒を見せた口がいかにも力(アク?)が強い。はたしてネット上でははやくも悪評が飛び交わっている。恐ろしくて、かつてない醜い龍、いまごろの国のイメージに似合わない、などの印象論から始まり、はては政治的、文化的な深読みまでなされている。いつかその昔、大晦日のテレビで「龍の伝人」という歌が人々の自尊心をくすぐり即一世風靡したことを思い出せば、まさに隔世の感を禁じ得ない。

そもそも、イメージが恐ろしいからこれを批判する理屈は分かりづらい。あえて言えば、いま流行りの漫画タッチの、なんでもカワイイと描いてしまうビジュアルの横行に関係があるのだろう。人畜無害で、癒しまでもたらしてくれるペットのようなドラゴンとは、かつて存在したことがあるのだろうか。

2012年1月15日日曜日

若一神社

一つの歴史事件あるいは人物にスポットライトを当てる大河ドラマは、いまや特定の地方を全国に紹介という役目まで背負うようになった。今年のヒーローは平清盛、そしてその縁の地は神戸であり、京都である。先週のテレビ番組に登場したのは、清盛の邸宅跡地とされる「若一神社」。このような契機でもなければなかなか全国番組で取り上げられることのない小さな場所なのだ。

120112京都に住んでいて、週末の散歩に格好の目的地だ。足に任せて、午後も遅い時間に歩き出した。神社に到着したのは、午後五時前だった。はたしてこの時間代でも、大きなカメラを抱えた熱心な観光客の姿が見られた。やや離れたところから自転車でやってきた若者が、周りを慎重に見ていた。明らかに普段通りすがりの人々は、どこか迷惑そうな表情を隠しながら足速に過ぎていく。いたって狭い境内の中には、「平清盛公西八条殿跡」「平清盛公ゆかりの御神水」などの石碑が見られ、近年造られたに違いない石像の前には「平相国平清盛公」という、苗字が二回も用いた妙な石碑も建っていた。一方では、「平清盛公御手植楠」、「平清盛公守護社」といった、小さな紙切れに無造作に書き入れた看板も立ち、きっと俄かに現れた熱心な観光客への対応の一環だったのだろう。これとは別に、神社の垣根や楠の周りには「家内安全、商売繁盛」「世界人類平和」などの文字が躍る幡が立ち、いかにも普通の神社の息吹が伝わる。

もともとここは京都。すこし歩いたところには、規模が遥かに大きい六孫王神社が鎮座し、「清和源氏発祥の宮」と大きな看板が目立ち、そこからさらに角を曲がれば、「平重衡受戒之地」と、こちらは小さな石碑が道端に置かれるのみだった。このような古都ならではの風景を目にして、なぜか「文学」の一端を覗けたような気がしてならない。

写真7枚

2012年1月8日日曜日

天橋か飛龍か

龍にまつわる話題をさらに一つ続けたい。辰年を迎える二日前、思い立って天橋立を訪ねた。手元に保存してある昔の写真を見返したら、たしか24年ほど前に一度訪れたことがある。そのような自分にとっての古写真を片手にして、旧地を再訪するのも一興だ。はたしてあの「股のぞき」の場所はすぐ見つかり、周りの風景は四半世紀を経っても変化のないことを容易に確かめられた。しかしながら、ゴンドラまで設置された観光スポットから海辺へ降りようとしたところに、「飛龍観」との看板が目にはいった。記憶にはまったくなかったものである。同じ島を眺めるいくつかの見物地点に違う名前が付けられ、足元にあるところはこのように呼ばれ、しかもそれなりに昔からこうなったもようだ。

120108三つの文字を眺めていて、興味が尽きない。不規則で優雅な形を為す島のことを、天にかかる橋とするのみならず、空飛ぶ龍だとも見なすことは、たしかに素晴らしい。それを表現して、看板の三文字は、「飛ぶ龍を観る」と分かりやすい。いうまでもなくこの文字並べは漢文の格好を取っていながらも、あくまでは日本語。すなわち文字の順番をそっくりそのまま日本語の通りに並べ、日本語の発想をそのまますなおに表現して、動詞と目的語との位置関係の和・漢の違いなどまったく気にしない。言い換えれば、漢字が並んだという優雅さを持ち合わせながらも、漢文であることを目標としない、一種の生きた言語表現なのだ。ただし、そこは天橋立。天にかかる橋として見るためには、視線を上下逆さにして、股から「覗く」ことを要求されるところだ。そのようなところで直立して「観る」ことは、なぜか鑑賞の仕方にはあまりにもギャップが大きい。和と漢の並立は期せずして俗と雅との対比をもたらし、それをよけいに際立たせる結果になり、ちょっぴり一抹の滑稽さがなぜか苦笑を誘った。

しかも、さらに言えばこの三文字をいまや古風の中国語として読めば、さらに一つとんでもない距離が出来てしまう。というのは「観」とは道教の廟の別名だ。まったく同じ文字の組み合わせの名前は、いまなお時代小説などで頻繁に顔を覗かせる。中国語しか分からない観光客なら、この看板を見てついつい近所にりっぱな建物があるに違いないと勘違いするのではないかと、別の空想が飛びはじまった。

2012年1月1日日曜日

景福宮の石龍

謹賀新年。

辰年を迎えるほんの数日まえ、久しぶりにソウルを訪ねることにした。観光バスに乗って、ソウル市内の中心地にたしかに入ったと自信を持てたころ、目に入ってきたのは、いかにも韓国の風情を感じさせる石像であった。どう見ても中国の、そして日本のそれとは違う。地図で場所を確認して、改めて訪ねた。なんのことはない、ソウルではトップの観光地である景福宮である。

111231あらためて見れば、石像の「韓国らしい」ということの印象は、どうやらその風化のされ方、風化の具合に由来するかもしれない。古い石像となれば、中国ならその一部が抜ける(時にはその一部とはまさに頭だったりして)、日本なら信者の手ですり減られる、と指摘することができれば、韓国のそれは、石像全体が満遍なく年輪が刻まれ、輪郭が残らないぐらい丸くなり、しかも石の表面には風化という表現しか当たらない小さな穴が出来上がるものだ。このような結果とは、はたしてどこから来たのだろうか。使用される石材、長い冬を伴う厳しい気候、はたまた最初から突き出した部分などを避ける丸みのある輪郭が好まれるという彫刻造形のスタイル、はたしてどの推測が当たるのだろうか。いうまでもなくあくまでも風来坊的な一見さんの素朴な観察にすぎず、じっくり読書したりして、答えを求めなくてはならない。

新しい一年の干支である龍、いうまでもなく韓国もまったく同じ伝統を共有している。はたして景福宮の裏に位置する民俗博物館には、龍をテーマにする特別展示が設けられている。こじんまりしたスペースの中には、いかにも美術館らしい周到な目配りがなされて、拓本、絵画、衣服、そして陶磁器や調度などに施されたさまざまな龍の姿が一堂に集まった。温かい雰囲気の中、一足早く新年を迎えた気分にふと包まれた。