2016年11月26日土曜日

ネット授業II

授業の日程のない木曜日にネットを通じて遠隔の授業をした。今年に入ってからの二回目の経験である。学生たちが集まったのは、トロントにある大学。そこの先生に誘われ、日本語の勉強をしている三年生の学生たちを対象にしたものである。今度は、特設ページ「生活百景」を取り上げた。

講義はすべて日本語でとの指示を受け、その通りに進めた。普段の教育がしっかりしていることがはっきり見て取り、さほど手加減をしていないこちらの話し方にはきちんとついてくれて、ビデオカメラの画面から見るかぎりでは30人近くの学生がだれ一人注意を切らさなかった。質疑応答の時間となったら、特設ページ制作の苦労、絵巻が盛んだった時代の様子、絵をもって伝達する物語の面白み、さらに現在における絵巻へのアクセス方法など、多岐に渡りながらも要領の得た、真面目な質問がつぎからつぎへと飛び出してきた。ただそれでも担当の先生は自分のクラスの反応にどうやらこれでも十分満足したわけではなく、ネット講義の録画をあらためて見ることを学生たちに課し、その上、受講のコメントなどを書くことを要求しているらしい。そこからさらにどのような声が上がってくるやら、とても楽しみにしている。

同じキャンパス当てのネット授業は、三年前にもあった。あの時はたしか専用のビデオ会議の設備を使っていた。それに対してこんどはブラウザベースのもので対応した。実際に使用したのはZOOMという、ネット講義をホストする機関が採用しているシステムだった。驚くぐらいスムーズに接続され、スライド用のサブのスクリーンまで用意され、二時間の時差を隔てた遠距離の学生たちとほぼ同じ空間にいる感覚で自由な会話が出来た。技術の進歩をあらためて実感した。

2016年11月19日土曜日

Classical Kana

しばらく前に制作した「動画・変体仮名百語」ウェブページは、ほぼそのままの形をもってアップルのアプリになった。「Classical Kana」という名を与え、二日まえからiTunesにて公開した。いわばiTunesデビューは、個人的にはまったく新しい経験であり、この試みははたしてどのように受け止められ、どのような展開が待ち受けているのか、ただワクワクしながら見守っている。

連綿した変体仮名の短文に対して動きを通じて書写の順序を提示するというのは、この作品の狙いである。ウェブページをデザインした時点から、スマホなどの縦長の小さなスクリーンでの利用を想定していた。縦に延びる文章のありかたもさることながら、このような知識の吸収は、スマホを手にするような状況によりマッチしていると漠然と感じたからである。しかしながらこうは書いていながらも、スマホで使うアプリとパソコンでアクセスするウェブページとの違いについて、はっきりとした認識を持っているわけではない。ただなんとなくスマホのアプリとなれば、これに関心を持ってくれたり、実際に使ってくれたりする人々の顔がもうすこし見えてくるのではないかと想像はしている。なによりも隙間時間も利用可能なスマホと、しっかりと座って対峙するパソコンとは、どうも利用の状況が違う。しかもさっと取り出して真剣な眼差しでクリックして見つめるスマホは、すくなくとも大学などといった勉強の場においては、かなりの道具になっていることを実感している。はたしてこの観察は正確かどうか、思う通りにこれまでウェブページを見てくれたのともうすこし違う人々の手元に届けられるかどうか、これ自体も一つの興味深い観察対象である。

プログラミングの勉強や実践は、昔はかつてかなりの時間を費やした。ただいまになっては、そのような気力も実力もすっかり失せてしまった。そこへ思わぬサポートに恵まれた。同じ勤務校に所属する教育ツール開発のメンバーが快く制作に携わってくれて、このアプリの誕生に結びついた。そのような献身的な努力に感謝しつつ、「Classical Kana」というアプリが有意義な利用を得られるようにせつに願う。

Classical Kana

2016年11月12日土曜日

ツイッターの使い方

今週の後半、国の祝日にあわせて大学では二日の休講となっている。この日程を活かして、小さな研究交流が行われ、取り上げられたテーマの一つには、教育の現場におけるSNSの利用報告があった。招いてきた講師は、大学の教室にツイッターを持ち込んだ若いロシア文学研究者だった。そのユニークでエネルギッシュな実践からは、いろいろと有意義なヒントを得た。

紹介された利用法から、つぎのような内容がとりわけ記憶に残った。特定の講義や学習テーマにあわせて専用のツイッターアカウントを作成して、教育者が中心とする発信源とする。バーチャル的な繋がりを意図的に現実の活動と連動させ、たとえばグループによる映画鑑賞などを組織して、その場で発信をクラス活動として学生に課し、最少の発信数などを明確にして、それをそのまま学習評価の対象とする。教室の壁を乗り越えて、教育者同士の協力関係を利用して複数の大学、ひいては違う国々の組織と共同行動を起こし、交流を体感させる。ツイッターで交わされた議論はそのまま忘れるのではなく、特設のウェブページを用意して交信内容を整理した上でアーカイブし、これからの参照と再利用に備える。最後に研究者の本領を発揮して、これらの活動から生まれた研究者、教育者同士の連帯をベースにし政府からの研究助成を申請し、その下で文学教育に関連するオンラインとオフラインの活動を展開していく。

以上のような実践を聞いて、思わずワクワクしてくる。一方では、一つのプラットフォームを真剣に利用するために、やはりさまざまな場面を見極め、予期せぬ可能性を確かめておいて慎重に取り掛からなければならない。とりわけツイッターのようなサービスは、稼働の仕組みを絶えず変化しているので、このような判断はときにはきわめて難しい。

"I'd Like to Know More About ..." Workshop

2016年11月5日土曜日

邯鄲の夢

今週の文学の授業で取り上げたのは、三島由紀夫の「近代能楽集」の巻首を飾る「邯鄲」である。いうまでもなくあの邯鄲の夢を語り直したもので、人生の無意味を悟った男が苦労をして夢の世界を訪ね、その結果、人間の世に戻り、生きていくことを選ぶという、いわば悟りの逆行をたどる、三島一流のヒネリがふんだんに盛り込まれたものである。

関連の記録を調べれば、「邯鄲」は三島が25才のときの作品であり、しかも活字になると同時に京都の舞台で上演された。そのような作品を、言葉通りの、全員二十歳そこそこの三十二人の若者たちとともに、グループ発表、全員による短文での発言やクラスでの議論などの形でじっくり読み解くことは、まさに得難い経験なのだ。悟りとはなにか、生きることの意味、劇中の男が生きる意欲を得た理由と論理など、大きくて重いテーマがつぎからつぎへと飛び出した。一人の学生が「儚い夢」という表現を覚えたと言い出したら、別の学生は「life is but a dream」との訳語を紹介した。そこで、人生イコール夢だという表現を聞いてどう理解するかと問いただしてみたら、その答えの多種多様なことに思わずびっくりしてしまった。なかにはなんと歌のセリフを口ずさんで、「人生は色々、楽しいこともあれば悲しいこともある、まるで夢だ」との珍回答まで戻ってきた。おもわず「みなさんは間違いなく英語話者だと分かった」と、無責任なコメントに口を走った。

夢というテーマでちょうど短い論考をまとめ、この週末、その二校に取り掛かっている。それとも関連してあらたに気づいたことをここに併せて記しておこう。伝説の地である邯鄲は、いまは人口百三十万というかなりの規模の地方都市になっている。観光資源には、まさにこの夢の話が筆頭に挙げられる。具体的には「黄粱梦呂仙祠」という観光地があり、その中心となる「盧生殿」には、夢見る盧生という男の石像が鎮座する。ただ、日本でのほとんどの伝説において、主人公が座って夢の世界に入ったのと違い、盧生はまるで涅槃図を型取ったように横になっている。いささか奇想天外な構図だ。