2016年11月5日土曜日

邯鄲の夢

今週の文学の授業で取り上げたのは、三島由紀夫の「近代能楽集」の巻首を飾る「邯鄲」である。いうまでもなくあの邯鄲の夢を語り直したもので、人生の無意味を悟った男が苦労をして夢の世界を訪ね、その結果、人間の世に戻り、生きていくことを選ぶという、いわば悟りの逆行をたどる、三島一流のヒネリがふんだんに盛り込まれたものである。

関連の記録を調べれば、「邯鄲」は三島が25才のときの作品であり、しかも活字になると同時に京都の舞台で上演された。そのような作品を、言葉通りの、全員二十歳そこそこの三十二人の若者たちとともに、グループ発表、全員による短文での発言やクラスでの議論などの形でじっくり読み解くことは、まさに得難い経験なのだ。悟りとはなにか、生きることの意味、劇中の男が生きる意欲を得た理由と論理など、大きくて重いテーマがつぎからつぎへと飛び出した。一人の学生が「儚い夢」という表現を覚えたと言い出したら、別の学生は「life is but a dream」との訳語を紹介した。そこで、人生イコール夢だという表現を聞いてどう理解するかと問いただしてみたら、その答えの多種多様なことに思わずびっくりしてしまった。なかにはなんと歌のセリフを口ずさんで、「人生は色々、楽しいこともあれば悲しいこともある、まるで夢だ」との珍回答まで戻ってきた。おもわず「みなさんは間違いなく英語話者だと分かった」と、無責任なコメントに口を走った。

夢というテーマでちょうど短い論考をまとめ、この週末、その二校に取り掛かっている。それとも関連してあらたに気づいたことをここに併せて記しておこう。伝説の地である邯鄲は、いまは人口百三十万というかなりの規模の地方都市になっている。観光資源には、まさにこの夢の話が筆頭に挙げられる。具体的には「黄粱梦呂仙祠」という観光地があり、その中心となる「盧生殿」には、夢見る盧生という男の石像が鎮座する。ただ、日本でのほとんどの伝説において、主人公が座って夢の世界に入ったのと違い、盧生はまるで涅槃図を型取ったように横になっている。いささか奇想天外な構図だ。

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