2012年2月26日日曜日

ステレオタイプの貴女

先週の「トレース」に用いた画像は、「後三年合戦絵詞」上巻第三段からのものだった。描かれているのは、将軍義家の棲家である「国府」の様子である。戦場への出陣を見送るにあたり、年老いた武士が主人の馬に縋ってすでに力になれないことを泣き別れることがこの段のテーマで、義家の家族のことは詞書では一言も触れられていない。これに対して、料紙四紙を用いたこの段の絵は、半分ほど義家の棲家にあて、ここにみる泣き崩れる女性は一紙ほどのスペースを占める。

120227女性の服装は、まず強い視覚のインパクトを与える。これをじっと眺めていれば、おそらく「ステレオタイプの貴女」との思いが一番に湧いてくるのではなかろうか。身に纏っているのは、十二単の晴れ衣裳である。なによりも色の組み合わせは素晴らしい。緑の模様が鮮明に施された裳は、目を奪うほどの鮮やかさで、なんとも美しい。あえていえば、今日ならひな壇に飾り付ける人形のようなものだ。しかしよく考えてみれば、これはどこか妙なところがある。第一、ここは天皇や貴族が住む都ではない。それどころか、中央からはるか離れている東国の果ての地にあって、地方の豪族に対峙する「国府」にすぎない。しかも、「場」もさることながら、「時」はなおさらだ。なにかの晴れやかな行事が行われているのではなく、生死が分かれる出陣なのだ。あえて外に出ないで室内に止まり、御簾の奥から見送りをするという状況は、この服装の異様さをいっそう際立たせた。

「後三年合戦絵詞」には、そもそも女性の姿が少ない。この場面以外、さらに二例ほど、詞書と絵とで同時に描いた女性の姿がある。それらは、しかしながら「げす女」、「雑女(ざふぢょ)」、そして戦利品となった「美女(びぢょ)」たちだった。絵の描き方としては同じようなステレオタイプの規則を守っているとしても、そのような人間の姿はもともと身近だったからだろうか、貴女よりは遥かに分かりやすくて親しみやすい。

2012年2月19日日曜日

電子トレース

普通の印刷物で絵巻の説明をするとしよう。説明対象である画像をどのように載せたらよいのだろうか。白黒が標準だから、必要な部分を取り出して、できるだけ見せたいところだけを出す、ぐらいの対応が予想できるが、もうすこし工夫があるのではないかと苦慮する。

いわゆる「トレース」という方法があった。むかしから多くの出版などに見られる。流暢な線で画面の特徴や大事な情報をきちんと捉えて、それ自体が一つの鑑賞対象でさえある。絵描きのプロ、あるいはそのような才能を持っている人には、きっと大したことのない作業だろう。いつかある歴史学者の回想録で、そのようなトレースの技術を集中して習得したと読んで、なぜか大いに感心した。そんなに簡単に手に入るような技でもなさそうだ。そこで、いまはなんでもパソコンで対応してしまう。デジタル画像に加工するソフトが山とあって、かつまたトレースすることは基本的な機能だ。しかしながら、あれこれと試してみたが、絵巻の画像処理に使えるものには、いまだ出会っていない。きっと作品の年輪によることだろう。絵の輪郭とは別個に、それに負けないぐらいさまざまな曲線や色の塊が混じってしまって、どうやっても満足した結果が得られない。現在、最善と思われるのは、絵を合成する方法だ。120219見せたいところをコントラストを目いっぱいに上げたまま切り取り、同じ絵をもう一枚用意して、ぴんとをはずすような処理を施して背景に使う。このような操作を加えることにより、絵の中の特定内容への指示も、たとえば番号を振り当てるようなことよりはすこしは自然な結果が得られる。

画像の掲載は、さらに著作権の問題が絡んでくる。商業雑誌だと、著者が自分で許可を取っておくことを要求されることも多い。数百年前のもので、法律で規定するような著作権がないはずだが、その分所蔵者の考えがより優先される。そういう場において、トレース、それも電子トレースって、どのように受け止められることだろうか。

2012年2月12日日曜日

善峯寺へ

週末は努めて外を歩く。今度はちょっとだけ遠くへと、山の中にある「善峯寺」を目指した。往復約20キロ。あの「ストリートビュー」も遠くから引き揚げたらしいから、どんなところかと想像してはいたが、何の行事もない普通の週末でもけっこう観光客で賑わっていた。雪までちらつき、きれいなところだった。

120212お寺の紹介によると、平安時代にまで遡る古寺ながらも、応仁の乱で焼き野原に変わった。いまの建物はすべて江戸時代に入ってからのもの、とりわけあの篤信の桂昌院によるものだ。その家紋はいたるところに施され、桂昌院廟はもちろんのこと、桂昌院の銅像を据えた八角亭まで小高い坂に建ち、お寺にしてはかなり奇抜な造りだった。境内は広い。しかも辺りを眺望すれば、海や湖と思わせるぐらい、京都の市街が借景となって、すっぽり視野に入る。境内の見せ方は、余所のお寺とだいぶ違う。拝観の順路にある建物にすべて大きな番号を振りつけ、一々所要時間などを丁寧に提示する。いささか奇妙なのは、境内を閉める時間が繰り返し表示されたことだ。しかも寺に通る外の道路には、夕方以後になれば一般車進入・駐車禁止との看板が立つ。京都の西の外れにあるこの一角は、あくまでも特別な空間のようだ。

善峯寺を出るまえに通りすぎる休憩所の中で、ちょっと変わった風景が目に留まった。ある新聞の紙面は、かなりのサイズに拡大印刷して、壁に掲げられたのである。どうやら公共バスを巻き込んだ交通事故で、間一髪で惨事にならなくて、その理由は寺のお守りを持ったからだというものである。看板は新しく見えるが、よく見ればすでに15年以上の前の出来事だとか。紙面には関係者の写真や後日談などまで載ってある。寺社の縁起とは、まさにこのように生まれたものだと、なぜかナットクして山門を潜り、外へ出た。

写真8枚

2012年2月5日日曜日

電子ブックを手作りする

ここ数日、アップルをめぐるホットな話題の一つには、新しく発表された「iBooks Author」のことがある。「オーサリング」という言葉とともにパソコンとの付き合いを始めた自分にとっては、ふたたび「オーサー」が躍るさまざまな記事を読んで、言いようのない親近感を覚えた。ここでも、アプローチはまさに教科書を直近なターゲットに絞った。北米と日本との教科書事情をめぐるあまりにも大きい違いから、このような工夫への実感は、日本ではちょっぴり薄い。一方では、いわゆる電子出版へのインパクトは、想像以上に大きい。豊かな表現手段、在来のソフトから受け継いだ作業のスタイルなどに加えて、小規模な読者を相手にするならすぐにでも伝播、流通可能だということは、大きな可能性を提示している。

以上のことを考えながら、自分の手で現時点ではどこまで電子ブックを作ることが可能かということに興味を持ち、ついつい一つ手作りを試すことにした。自分に課したテーマは、極短かい時間を掛け、最小限の内容しか取り入れず、かつ最大限に違うタイプの機械で読み取れる、ということだった。そういう意味では、iBooksでしか読めないアップルの「オーサー」は、まっさきにリストから消えた。つぎに出てきたのは、同じく最近話題が多いEPUB3だった。縦書きが出来て、いかにも日本語にふさわしい。しかしながら、作ることは簡単だったが、今度は逆にiBooksでは十分な表現ができない。(左へのページめぐりが不可、章は文章ごとに切れる、など。)やむをえずEPUB2に逆戻りした。こちらのほうは、横文字にしてまったく問題なかった。レイアウトに関しては、章段目録、絵の挿入、文字のサイズ・色・枠などの飾り付け、など、あくまでも最小限のものだが、すべて簡単に実現できた。それよりも、どの機械でも読める。iOSやAndroidをはじめ、パソコンもまったく問題なし。画面の大きいiPadで開いたら、とりわけ美しい。ーーもともといまごろ、EPUB2もかなり広く受け入れられ、JavaScriptを使い、ブックマークの機能でXHTMLからそのまま生成できるぐらいだから、テキストから作成することは、あたりまえでなにも大したことがない。

120205作業に用いたソフトは「FUSEe」。サンプルとして選んだのは、日文研のサイトにて公開されている絵巻「田原藤太秀郷」。オンライン公開はいまだ画像のみで、文字情報が提供されていないため、文字テキストとしてアクセスできる電子ブックなら、それまた最小限の意味を持っているかもしれない。

田原藤太秀郷(巻一)