2020年7月25日土曜日

化け損じる

中世の人々は、妖怪のある生き方をしていたとよく言われる。そのような様子を伝える「徒然草」230段は、味わい深い。五条内裏において、公卿たちが碁を差したところ、御簾の外で見物する人がいるらしいと、声をかけたら狐だと騒ぎ、その狐がさっと逃げたとの一幕である。ことの経緯の結論とは、「未練の狐、ばけ損じけるにこそ」だった。

この記述を読み返して、その表現になぜかひっかかる。「化け損じる」、あるいは今日の表現に直して「化け損ねる」とは、はたしてどのような状況だろうか。化けることに失敗した、化けようとしてけっきょく出来なかった、ということは、結果として分かる。一方では、その失敗とは、化ける途中に起こったものであり、化けるプロセスが始まったが、成就しなかったというニュアンスを感じる。目の前の一例について言えば、碁という人間たちの高度な文化に関心を持った狐は、それがその本性から離れたということを意味するにほかならない。これを認めるとなれば、化けはじめた以上、狐の姿形にもすでになんらかの変化があったのだろう。化けることが失敗したからと言って、即そのまま元の形になれるはずはなく、そうなるまでには、変化したのと同程度に苦労が必要とされよう。

以上のような思いはどうやらあまり共鳴が得られない。写真は、「つれづれ草絵抄」(苗村丈伯、1691年)にみるこの段の絵注釈である。化け損じた狐とは、なんの変哲もないただの逃げ惑う狐なのだ。

2020年7月18日土曜日

テクスト遺産

金曜の夕方(日本時間は土曜の午前)、早稲田大学国際日本学拠点ほか主催のオンラインワークショップ「テクスト遺産の利用と再創造」を聴講した。テクスト遺産をキーワードに、古典の継承(古今伝授)、解釈(古注釈)、書籍の形(書誌学)、所有、はては今日におけるデジタル利用など、多方面からのアプローチがなされ、いろいろな意味でよい刺激を受けた。

ここしばらくの間、読書の一つには「徒然草」の古注釈がある。新たな知識の吸収とともに、戸惑いや、ところどころ突っ込みを入れたくなるような経験は少なからずにある。たしかに中国の伝統に照らし合わせて「注疏」という知識人の作業があるが、そのような中国的な発想からすれば、一篇の文人の随筆にこれだけのエネルギーがつぎ込まれたこと自体は、すでに想像しがたい。加えて兼好の叙述や意図するはずの文脈から明らかに離れた注釈者の思い入れや思い込みを読むと、苦笑したくなる思いだ。読者の知的好奇心を思い描きつつ、テクスト遺産というテーマにはまさに鮮やかな一コマだと思わずにはいられない。

こちらの事情でワークショップの前半のみの参加となってしまった。組織者の話によると、詳細は録画の形で後日公開とのことであった。後半の視聴、いまから楽しみにしている。

2020年7月11日土曜日

緑のスクリーン

オンライン会議が日常活動の一つになったいま、バーチャル背景に利用する写真が話題の一つになった。それにそそられることもあって、今週の買い物には、緑のスクリーンがあった。購入したものを日記代わりに利用しているインスタに掲載したら、いささか意外なコメントが集まった。

自分の認識にあったのは、「ZOOM」だった。それを稼働すると、ビデオ設定のところに、「バーチャル背景」の項目がある。ただ、それがどこまでパソコンの処理能力を要求しているか不明だが、使っているものについては、対応不可とされ、代替として「緑のスクリーン」の選択が用意されている。それを確認したうえでスクリーンを購入したのであり、しかも予想した通り、それを設置すると、スムーズにバーチャル背景が導入することができた。(写真では、顔の代わりにカメラをかざしてみた。)

以上の経緯があって、緑のスクリーンはすっかり浸透していて、説明不要だと思い込んだ。しかし、インスタでは、「これなに?」という突っ込みは中国、日本、そしてすぐ身辺の友人から戻ってきた。少なからずに戸惑いた。どうやらこのようなスクリーンの使い方はけっして常識的なものではない、というか、自分のほうになにか見落としたらしい。そこで慎重に聞きまわったら、はたしてその通りだった。「MS Teams」では、物理的なスクリーンを設置しなくてもバーチャル背景が使える。中国で利用者の多い「騰訊会議」もそうだった。どうやらいまごろ物理的なスクリーンを要求している「ZOOM」は、少数派になったのだ。やれやれだ。

2020年7月4日土曜日

授と受と

『徒然草』(一〇八段)を読んで、新しい言葉を習った。「筆受」。注釈や現代語訳などを調べたら、「翻訳を文章にする」などとある。外国語を勉強している身としては、やはり興味を持たざるをえない。

言葉の由来については、江戸時代の古注釈ですでにはっきりと指摘した。『参考抄』(恵空和尚)は、「長水楞厳疏」からの引用として、つぎの文を示した。「筆授或云筆受。謂以此方文体筆其所授梵本。緝綴潤色。令順物情。不失正理也。」(筆授は筆受とも言う。語られた梵語の原文をこちらの文章にし、表現を潤色し、読みやすくかつ元の意味を失わないようにすることである。)出典を確かめてみれば、たしかに「大正新脩大蔵経」(第三九巻八二七頁)に収録される『首楞厳義疏注経』にこの通りの文章が認められる。(写真は国文学研究資料館蔵『首楞厳義疏注経』一上十七オより)さらに中国のほうの記述などを見れば、同じことは仏典翻訳の作業として早くから確立され、とりわけあの玄奘法師が天竺から持ち帰った仏典を翻訳するという一大プロジェクトにおいて、すでに大きく役割を果たしていた。共同作業による翻訳の一端を覗かせてくれた。

考えてみれば、授と受は、まるきり対立する言葉である。なのに、ここの特定の文脈においてまったく同じ意味として使われている。その理由は、文字の発音が同じということにあるのだろう。そこで言葉の意味を解釈すれば、日本風に書くと、(文章を)筆をもって「読者に授ける」、あるいは「翻訳者から受ける」、といったところだろうか。