2016年12月31日土曜日

絵解き

年末の最後の数時間をまるで噛みしめるように大事に過ごしている。今年は、一つの原稿に取り掛かっており、とりわけ充実な時間だと感じる。こんどのテーマの一部は、絵解き。絵画伝統の重要な構成をなした数々の活動記録などに思いは馳せつつ、先週、メトロポリタン美術館での鮮明な記憶がときどき蘇る。

美術館での解説は、いまやほとんどどこも電子メディアに頼るようになった。古風のレコーダーを貸したり、有料無料のアプリを提供したりして、とにかくますます便利になるものだ。その中で、先日のMETでは、人集りに近づいて見たら、キューレーダと思しき方が、大きな手振りや自信溢れる声をもって、ギリシアの彫刻を解説しているところだった。思わず聞き入れ、はっと気づいたら時間を忘れたぐらいだった。その時、頭に浮かんだのは、まさに絵解きという言葉だった。さらに言えば、これについての一つの新しい認識だった。絵解きとは、絵の内容を解説する、伝える、ということにばかり注目していたのだが、その活動が成り立ち、しかも聞く人に夢中にさせるためには、それを繰り広げる本人の人間としての魅力、語り部としての表現力もけっして見逃してはならない。伝えられている知識とは別に、あるいはそれと同等に、その場を作り出す力は、簡単に描写できない分、もっともっと考えたい。

このような思いを頭の中で反芻しながら、つぎに目撃した一時は、より意味深い。中国美術の展示室に入り、別の方による中国絵巻についての解説が終わろうとしたところだった。かなりのスペースを割いて展示されているのは、かつてじっくり読み直した「晋文公復国図巻」全巻と「胡笳十八拍図」部分だった。熱心な見学者からは、展示は本物かといういかにも素直な質問が飛び出された。両方とも上質な複製だと見受けられる。しかしながら「よく分からない」との返事だった。どうしてそこで答えを濁らすのか、ちょっぴり不可解だった。

2016年12月26日月曜日

久米仙人の姿

クリスマスが近づくなか、ニューヨークでの休暇を続ける。明るく、温かい日差しを愉しみつつ、広大な中央公園を南北に半分近い距離を歩き、MET(メトロポリタン美術館)に入った。入場料はほぼ日本の国立博物館の倍になることに驚きを覚えながらも、溢れんばかりの訪問客にまじり、館内をゆっくり見てまわった。なにがともあれ、やはり日本関連のものを確かめておきたい。

絵巻や屏風だけでかなりの空間をもつ大きな展示室を構えている。中でも、りっぱな六曲一双の「徒然草図屏風」(個人蔵)をつくづくと見入った。説明文は、短いながらも、徒然草についての絵画表現の伝統や、ドナルド・キーン氏の翻訳を引用してのエピソード紹介など、あくまでも丁重そのものである。紹介文が触れたのは、つれづれの序段、色欲に惑わされる久米仙人の第八段、それに鼎に頭を突っ込ませた仁和寺法師の第五十三段である。もともと版本の挿絵まで視野に入れれば、徒然草を題材とする画像作はけっして少なくはない。ただ、画題が集中しているわりには、構図において互いの踏襲は意外とすくなく、絵師たちの活発な創作が非常に目立つものである(随筆と絵)。ここの久米仙人は、まさにそれの好例である。仙人の失敗談を描くにあたり、ほとんどの絵は空中に、あるいは地面に落ち転んだ滑稽な格好を競って描くのに対して、目のまえの屏風に見えるのは、あくまでも神様らしく空中に佇む、颯爽とした神様らしい姿である。久米仙人の失敗は、このつぎの瞬間に訪れてくる、ということだろうか。

同じ展示室には、さらに伊勢物語、平家物語、南蛮などの屏風が出品されているが、個人的にいちばん思いを馳せる「保元平治合戦図」はついに見かけられない。ただ、同美術館は兜鎧の類の蒐集や展示にかなりの力を入れているらしく、その展示ホールに、日本の甲冑がここでも一室を占めていることを特筆しておきたい。

2016年12月16日金曜日

歌の夕べ

年末にかけて、しばしの休暇を取った。今年は、ニューヨーク。噂通り、東海岸の冬も厳しい。マイナス20度のところから出かけてきても、それにはまったく負けないくらいの厳しい寒さなのだ。もともとマンハッタンの夜でもビジネススーツに身を固める颯爽としたニューヨーカーたちの出で立ちを見ての感覚にもつながるのかもしれない。

到着の夜、さっそく文化の町にふさわしい集まりに足を踏み入れた。あのカーネギーホールだった。上演されているのは、一人のソプラノによるコンサートで、しかも一晩だけのステージだった。舞台に上がったのは、二十人足らずの楽団、一人の上半身を裸にする男性のダンサー、そしてずっとグレーのドレスを身に付けたままの歌姫だった。歌のテーマは戦争と平和。歌の言語にも、オペラの常識にも教養をまったく持ち合わせていない者として、ステージの真ん中上に映し出される字幕をずっと目で追い続けるはめとなった。映し出されたのは、単純でいて飾り気のない言葉に綴られた、どっちかといえば素っ気ないセリフだった。ただ歌声は、ときどき楽器と完璧な和声をなす、なんとも美しくても、われを忘れさせてしまうものだった。

これもいまごろのニューヨークのスタイルだろうか、アンコールの拍手に答えて、歌姫はマイクを握って突然に喋りだした。それも即興でいながらも、とんとも滔々と淀みなく、魅力的だった。語られたのは、深刻な世の中と人間の運命、音楽の力だった。超満員の観客たちの、歌を聞く以上に真剣に聞き入る姿からは、アメリカの底力を垣間見た思いだった。

2016年12月10日土曜日

ツイッターの使い方II

マイナス20以下の気温が続くなか、今学期の講義は無事に終了した。最後の二回のクラスは、学生による発表にあてた。新しい方法を案出し、読者を楽しませながら学習成果を披露するというものだった。そこに印象深い一つがあった。

取り上げられたテーマは、今度も芥川龍之介の「藪の中」。今度は、ストーリをいじりながら語り直すというものだった。そこでその新意というのは、なんとツイッター利用というものだった。ただ本もののツイッターに発信するのではなく、あくまでも真砂、多襄丸、武弘などの作中の人物に揃って疑似的に発信させるものだった。いわばツイッターのスタイルをふんだんに用いての、それぞれの発言をもって物語を再構成するというものである。同じ出来事をめぐる断片で、個人的な思惑や自己の都合に立脚する相互矛盾の言い分が並べ、それにより特異な空間を織り出すという芥川の文学世界の再現にまさにピッタリの着想だった。そこで繰り広げられたのは、パンチの利いた表現や予想しなかった証言などもさることながら、「@」や「#」などの意味ありげな記号などの活用があった。聞く者の笑いを誘い、しかもツイッターの熱心なユーザーほど、そのトリックに引き込まれたものだった。

時を同じくして、テレビ番組は今年のノーベル文学賞についての研究者たちによる過熱な議論を伝えている。そこで初めて気付かされたのは、音楽や演奏の場がなければけっして伝わらないから歌のセリフが文学ではない、という論法だった。そのような理屈に沿うならば、いまの実験はまさに純粋に文字を用いての実践なのだ。しかしどんなに成功したにせよ、これが歌以上に文学に近いと言えるのだろうか。興味深い質問だ。

2016年12月3日土曜日

新語・流行語

今学期の講義はあと一週間のみとなった。師走に入り、時の移り変わりに敏感で、しかもそれに対する表現も豊富なことを日本文化クラスでやはり触れておかなければならない。そんなことで、金曜日の授業の話題の一つに、いまや風物詩的な存在になったあの「新語・流行語大賞」をとりあげた。

どうやら今年の表彰対象に対して、例年以上に異論の声が大きい。流行と名乗りながらも、それと認定したいものと、実際に流行したものとの距離、表現しようとする意図や用いられた文脈もさることながら、いわゆる忌み言葉などの言語の位相、はたまた現実的な選抜委員会の構成など、関心が大きい分、議論も多岐にわたる。それらをつまみ食い的に読みながら、海外に身を置く者としてやはり日本を語るにはもってこいの実例なのだ。まずはあのPPAPがしっかりと入っている。NHKのニュース番組にまで取り上げられ、政府見解としてクールジャパンの代表的な存在に祭り上げられたものだ。クールな日本と意味不明なこれとの関連について、個人的には理解に苦労するところはいまでも残る。それが分かっていても、「これ、きっと今年の紅白にも登場するぞ」と軽く無責任なコメントを飛ばして、熱心な学生たちから軽い笑いを誘った。

一方では、これを議論する手頃な資料は、ノミネートが公表された日に発表された英語の年間流行語だった。今年のそれは、おなじくトランプ現象を指すもので、その中身を意味する「post-truth」なのだ。ただこちらの場合、メディアは一通り取り上げてはいるが、対象は一語のみで、入選発表も、派手な儀式も、そして複数のカテゴリーも一切ない。そして現実的に教室に座っている若者たちに質してみても、まったくの無反応だった。どうやら認知に関して日本語以上に実際の言語生活からかけ離れていて、興味深い参照を提供してくれた。