2018年9月29日土曜日

英語狂言

先週週末のシンポジウムの一コマである。初日の発表がすべて済んだところ、夜にもう一つのハイライトが用意された。大学キャンパスの中にある立派な劇場にはかなりの観客が集まり、ステージには日本語による「狂言」との看板が立ち、正面には紙に描いた松の木が飾られた。日本語や日本の古典芸能についての予備知識の共有がとても期待できない中、どのような展開になるのやらと、はらはらして開演を待ったが、なんと英語によるものだった。そして、丁寧に芸能の約束を守った狂言も、あっという間に観客の心を掴み、まったく違和感なく展開し、人々を魅了した。

とりわけ印象に残ったのは、なによりも若い者たちのいきいきとした熱演だった。妖怪カニがエネルギーいっぱいに暴れ廻り、凶悪そうな雷神がとことんコケにされ、人形を模したお七が妖艶に舞う。演者の一人ひとりは、役に嵌り、実に自信をもって堂々と立ち振る舞った。いうまでもなく、それらをすべて司ったのは、一座の師としてのどっしりした存在を見せたコミンズ教授である。狂言のシテ、舞踊の地謡、浄瑠璃の太夫と、四面八臂の活躍を披露し、しかもすべての上演に使われたのは、自らが手がけたオリジナル英訳だと知って、観客から感嘆の声が絶えなかった。

舞台が始まるにあたり、主催者はわざわざ写真撮影の許可を知らせた。それを良いことにして、観客席の真ん中に座り、カメラを両手で構えた。観劇と撮影との両方をともに楽しむ、なんとも贅沢な二時間だった。

2018年9月22日土曜日

ノン・ヒューマン

週末にかけて、とても有意義な集まりに参加するために出かけてきた。言ってみれば、規模ある研究組織の年次大会のようなものではなく、熱心な研究者の一人が、自身の持つ関心を中心に、精力的に方々に声をかけて実現した一回のみの集会なのだ。そのテーマとは、ずばり「ノン・ヒューマン」。プログラムを一読して分かるように、じつに錚々たる顔ぶれなのだ。

交わされた話題は、古典文学どころか、文学という枠組みさえ縛ることができない。現代芸術や舞台演劇など、じつに多種多様だ。まだ初日しか経験していないが、ふだんの読書や会話ではほとんどまったく接点を持たないところに、大きな魅力が隠されている。それでも目を見張るものばかりだ。現代ダンスと思ったら、鉄の棒に仕掛けをかけて躍らせて自爆させたり、人間の俳優を心拍数で倒れさせたりした舞台のハイライトを見て、驚かされた。若い研究者の発表には、小林エリカから、円城塔、飛浩隆など、未知の世界がつぎからつぎへと飛び出した。作者名からどこか突拍子のない作品にはつい敬遠し、思わず読者とはどのような人かと質問してしまったが、現代文学好きなら、まず読んでいるはずと、きっぱりと答えられて、感心させられた。

自分の発表は明日の午前に予定されていうる。主催者にはなんとなく会話をしたが、まじめな質問をまだ聴けずにいる。はたして大会テーマの日本語訳には、どの言葉を当てるのだろうか。さすがに「異類」だと大きな声で言い切る自信がない。室町の語彙だと、逆に敬遠されるに決まっている。基調講演の方の一人は、「人外」と用いている。既存の語彙を使わないというのも一つの対応だろう。考えを巡らしているところだ

The Nonhuman: Spirits, Animals, Technology

2018年9月15日土曜日

蒸したり凍らせたり

普通に読書したり、蔵書家の逸話を聞いたりして、書籍にはいつも敬う気持ちを抱く。しかしながら、古典籍の保存ひいては修復のこととなると、どうやらそのような素直な感覚だけで済むとは限らない。ときにはかなり乱暴で、予想も付かない古籍の取扱い方が視野に飛び込んでくる。

中国国家図書館の話だが、前世紀五十年代、地方から持ち込んできた宋の木版大蔵経(「趙城金藏」)の修復が大きな業績となっている。戦乱を潜り抜いた巻物は、黴が生えたりして、開かない状態にあった。それの修復には蒸すという方法が取られた。七千巻におよぶ分量だから、特製の蒸し器まで作成された。一方では、この夏に起こった真備町の水害に関連して、水浸しに遭った貴重な資料の応急保存に凍らせてしまうという対応が取られたと報じられている。こちらのほうは、順次ボランティアの手によってもとの姿を取り戻すことだろう。書籍に蒸したり凍らせたりする対処を加えるとは、専門の知識をもっていない人間にはかなり奇想天外なものだ。ただ、調べてみると、どちらもそれなりにスターンダードな方法であり、中国では古籍修復の常識紹介などには頻繁に触れられ、日本では水害資料の冷凍対応には、関連のガイドラインまで整備され、建てものの水道破裂など局地被害などで応用されているもようだ。

蒸すのも凍らせるのも、けっきょく書籍をもとの形に復元させるための極端な手段だ。書物にかける並々ならぬ努力には、感動というほかはない。

2018年9月8日土曜日

歴史ヒーロー

新学年が始まった。いつものように最初の一週間は集中講義に当てられ、そのあとは新入生を迎えてのあれこれの行事、それらが済んだらようやく正規の講義が開講される。最初のクラスはこの間の金曜日。今年から秋にも休講の読書週間が導入され、例年よりは数日早めの日程となった。今学期の担当は、日本歴史という一科目のみだ。定員百人のクラスはすでに満員になり、かつ十数人の順番待ちの名前がシステムに載せられている。

同じ科目は、数えてみればすでに八回目となった。毎年すこしずつ新しいやりかたを模索し、今年はとりあえず大学成績管理システムに用意されたクイズ機能を利用してみた。最初は一問のみにして、「歴史上のヒーロー/有名人を一つあげてみよ」といったようなものだった。なんとなく予想はしていたのだが、戻ってきた答えのなか、圧倒的に多かったのはやはりオダ・ノブナガだった。いわゆるポップカルチャー経由で知識に入ったものだろうと思ったが、どうやらそうは外れていないらしい。ただ、大学のほかの歴史などの授業で教わったとの答えもあり、さらに数人は、バックパックで日本を旅行し、京都で本能寺を訪ねたとまで書いてくれた。なぜかいささかほっとした。

それにしても、若い学生たちの意識の中の信長のイメージとは、どのようなものだろうか。まさかビデオゲームに登場したような、無国籍、超時代、ひいては性別不明の顔ではないのだろう。またなにかの形で、代表的な具体像を覗いてみたい。

2018年9月1日土曜日

女体地図

地図は日常生活の中で欠かせない。どのような年齢段にせよ、ほとんどの人々は、地図のあり方、それとの関わり方の変化を体験し、実感しているに違いない。歴史的に、文化的に地図を眺め、たとえば「概念図」で個人的な思いを書き留めていた。今週の読書の中で目に飛び込んできたチベットの最古の地図は、そのような認識にさらに興味深い実例を加えた。

この地図は、ふつう「鎮魔図」と呼ばれている。かなりの数の模写や複製、そしてこれにまつわる伝説が残っている。オリジナルものは七世紀かそれよりさらに遡ると信じられている。チベットの人間によるチベットの地図である。ここに「魔」とされているのは、鬼妖怪ではなく、豊満な女性である。活気漲る女性が横たわり、その上に、チベットの由緒正しい寺院が配置される。それらは、心臓の位置に置かれる大昭寺をはじめ、肩や足(「鎮肢」)、関節(「鎮節」)、掌や脚(「鎮翼」)に配置される十二の寺院が、ほぼ地理状況を正確に伝えながら描かれている。ここには、宗教信仰の言説は鮮明に打ち出されている。チベットの大地は、美しい女性であって、魔女だと見なされる。それに対して大小数々の寺院は体に打ち込んだ釘のようにその魔力を閉ざし、降伏させることに成功した。概念となる地図は、ここに一つの極致の様相を見せている。

この「鎮魔図」は、さまざまな文脈で語られている。ごく最近では、まるごと現代風に描き変えられ、美術展に出品されたと報じられる。地図としての構想や構図は、悠長な年輪のわりには、はなはだ想像を刺激し、妙な生命力を感じさせていることだけは確かなようだ。

唯色:镇魔图