2014年2月22日土曜日

「馬木」

20140222郵便局は薬局の中、はなはだカナダ的な風景の一つだ。ふだんは訪ねることが少ない。荷物を受取るということで立ち寄り、きれいな切手に目を惹かれた。そういえば、中国のお正月が過ぎたばかりで、今年も午年の切手が出されている。しかも特別記念セットとして、行く年来る年よろしくと、去年の分と合わせて一枚に纏められ、とても洒落に仕上げられている。使う気もないまま買っておいた。

カナダ郵便局の公式サイトで確認すると、モントリオールで活躍している芸術家のデザインによるものとのこと。ならば馬の絵柄も色もオリジナルなものだ。輪郭だけで描き出された馬は、去年の、まるで巨大な草食動物の唇をした蛇とは、対極した着想を見せている。輝く黄金色もいかにも東洋の感覚を醸し出している。ただし、切手の中やセットの背景に大きく施された「馬木」という二文字は、どうしても解せない。この二つの文字は、どう読んでも馬と木だ。ただ中国語として、年のこともふくめて、このような語彙は知らない。はたして何を意味し、どこから生まれた言葉なのだろうか。さきごろの公式サイトの説明を読みなおして、すくなくともデザインした人の意図が分かった。いわゆる五行説で馬は木に属する、とか。もっともらしい説明だが、それぞれそれなりに考えられたのだとしても、こうして並べられて伝わるものとはとても言えない。

カナダという社会の中で繰り返し出会う、いわゆる東洋文化への漠然とした表現と認識の、その中でもきわめて極端な実例の一つに数えられよう。中国文化を象っているだろうけど、妙な組み合わせになってしまい、けっきょくはまったくピント外れとなってしまう。中国の、それも現在の常識に合わせようとしない、あるいは中国文化の博大な内容はこのような理解や享受まで受け入れていると言えば、それまでのことだが。

Year of the Snake to Year of the Horse

2014年2月15日土曜日

模写の理由

「なぜ制作されたか」ということは、絵巻研究における基本課題の一つだ。これに対して、「なぜ模写されたのか」という問いには、これまでけっして十分な注意が払われていない。模写とは綺麗な複製だと捉えられ、それ以上でも以下でもなかった。ただ考えてみれば、複製だと言っても、今日では想像も及ばない膨大な労力と技術、財力と権力がなければけっして成し得なかった。その分、複製という活動の理由と狙いをもうすこし考えを与えてもよさそうだ。

このような問いに正面から取り上げる論文を読んだ。そのタイトルは、そのまま「絵巻はなぜ模写されたのか」なのだ。「春日権現験記絵」の模写をめぐり、国学者長沢伴雄の活動を慎重に追跡したものだ。用いられたのは、模写に添えられた製作者の記述、そして一大事業を陣頭指揮を取り、しっかりとプロデュースした長沢伴雄の日記など当事者の記録であり、クローズアップされてきたのは、これを取り巻く政治的な力であり、これが置かれたさまざまな学問的な活動であった。結論から言えば、この一件の模写の目的は、結職故実だった。さらに言えば、国学の一環としての活動であり、根底にある方法論において共通しているということだった。長沢本人が書き記したつぎの一行が引用されて、とりわけ印象深い。「古書画はそのかみの事をしるにいと便利よろしき物なれは別てあまたに模しおくへし。」

模写の実際を理解するためには、じつに精緻な一例だ。一方では、同じ課題にむかって、たとえ当事者の記述が残されていなくても、さらに言えば、当事者個人の意識意図如何に関わらず、模写の制作にかかわる理由やその効用、それを支える時代の常識を、模写作品それ自体から読み取ることも可能なはずだ。魅力ある課題である。

「絵巻はなぜ模写されたのか」

2014年2月8日土曜日

IT教室、そのニ

去年の秋から新学年の始まりにあわせて使用されはじめたIT教室は、いまごろになってささやかな開幕のセレモニーを迎えた。これ自体もかなりお国柄が垣間見られる対応ぶりだが、いずれにしても予算などを許可した行政責任者、熱心に企画した担当者、実際に使ってきている教師、そして校内の記者まで駆けつけてくれて、ユニークな教室の存在をアピールした。

教室の機材配置と言えば、たしかにいまごろの最先端を代表している。キーボード一つ取り上げてみても、キーはそれぞれ独立した液晶モニターのような構成になっていて、英語以外の言語をそのまま写しだしている。かつてはラボのパソコンを更新したら、すべての端末のキーボードにロシア語のステッカーを貼り付ける作業を実際に経験させられただけに、技術の進歩には感無量のところがあった。一方では、技術の限界、あるいは技術の現在進行型もいたるところで見せつけられている。こんなに単純でいて丁寧に用意されたプレゼンでも、思わぬハプニングが付いた。発表担当者が直前まで繰り返し練習したものだが、その練習がアダとなって、実演の途中にパソコンがフリーズしてしまった。司会、発表者、それに技術責任者が三人も集まって緊急対応し、やむなくリブートする数分間を待たせざるをえない現実は、いかにも象徴的だった。結論からいえば、こんな小規模なネットワークでも、インターネット全般のスタンダードな対応で臨んだがために、リソースを無駄にしているという技術的な問題が決定的にあるのだろう。単純な作業を単純にこなせることを要求されるものだが、言語教育、それも複数の言語を日常的に共存しているような環境など、けっきょくはほんの小さな市場に過ぎず、対策などまだまだ待たされることだろう。

考えてみれば膨大な予算を投入しての環境作りだ。その成果といえば、使う人に頼らなければならない。まわりの人々を見れば、ハイテクにかなり疎い教師でも、じつに黙々と、前向きに取り組んでいる。技術に憧れをもつ立場からすれば夢のような話だが、勉強をかさね、余分な時間をかけて根気よく育てていかなければならない。現実でいて、妙なものだ。

2014年2月1日土曜日

DHjp

20140201今週、「DHjp」と題する新刊が店頭に並べられた。郵送されてくる実物がいまだ届かず、実際に読むまでわくわくしている待ち望んでいる。目録を読めば、じつに多種多様の課題や新たな展開などが取り上げられている。中では、掲載された原稿の一点はすでに著者によって全文公開され、カラフルな紙面や充実した議論がすでにインターネットを通じて伝わっている。

DHとは、いうまでもなく「Digital Humanities」のことである。この言葉について、かつてここでも議論した。個人的には、「デジタル人文学」という普通の日本語の表記を取りたい。しかしながらどうやらいまでも簡単に決まるというわけにはいかず、「デジタル・ヒューマニティズ」といった長いカタカナ言葉もあり、このようなインパクのある出版物は「DH」という英語のままの表記を選んだ。複数の表現はいまだ共存し、どれも流動的だというのが現状である。その結果、使う人がそれぞれのニュアンスを持たせ、使用する時や場、思いや狙いが込められている。そもそも、英語表記においても、まったく同じことである。勤務校で今週行われた集中的な行事の一つにおいて、周りはまたまた一つまったく異なるバージョンを作り出した。いずれ実際の形に結んだら紹介したいと思う。学問の中味が変容を続けているばかりでなく、その称呼まで流動していることは、まさにいまの時代に廻り逢う貴重な経験の一つだと言えよう。

DHjpは、シリーズものとして計画されている。その創刊号に短い一編を投稿させていただいた。ずっと一つの理想像として受け止め、個人的にはまったく関連しなかったプロジェクトを紹介した。いくらか参考になれればと願っているばかりである。

DHjp 新しい知の創造