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2022年10月1日土曜日

仮名と漢字

先週、「現代語読み」をめぐって書いた。今度は、それを支える理屈をもうすこし付け加える。

古典の原文を現代語表記に置き換える、とりわけ仮名遣いを現代のそれに直す、というのは、この提言の骨子である。言ってみれば、古典表記の漢字を現代通用のものにするというやり方は、すでに広く受け入れられるようになった。その方針を仮名に広めただけのことである。

漢字表記が今日の「通用」のものになったには、主に二つの要素が働いたと思う。一つは教育、一つはパソコン技術の進化。互いにかなり離れた分野だが、その作用が明かだった。ともに頻繁に使う漢字を精選し、使う漢字に優先順位をつけるものである。教育には、統一性、効率性が基礎であり、行き届いた教育を行うものとして必須のものである。パソコンの方は、汎用した技術に従い、JIS1、JIS2と工業基準が粛々と制定され、それから漏れたものは結局実用から遠ざかれる結果となる。あまりにも有名なあの「黒」、「黑」の例はいつもまっさきに挙げられる。いまや後者の文字もUnicodeによって簡単にアクセスできるようになったが、かなり長い間の実施により、後者を使わないという慣習が定着し、苗字や地名にこの文字をどうしても使いたい人は、どれだけ戸惑ったことだろうか。

仮名の変遷や現代仮名遣いに定着したのは、考えれば上記の漢字よりはるかに早かった。それを牽引したのは、読まれる通りに仮名を選ぶという単純な方針だった。助詞の「は」などあまりにも用例の多いものは特例を設けるなど、完全だとは言えない側面は多々あったが、現代語表記の安定的な一部になっていることは争えない事実である。

以上の視点から見れば、限られた漢字で古文を表記することが許せるなら、仮名表記を現代に変えられない理由はどこにもない。実際に文章を並べてみると、読みやすさが明らかに向上したのだから、このような実践、いろいろな場でもっと試してみたいと思う。

2022年9月24日土曜日

現代語読み

古典文学研究の基本作業の一つには、読み下しがある。もともと漢文を対象に施したもので、原文の文字の順番を日本語に変え、読み方を示す。このやり方はやがて他の文体、平安の物語から中世の御伽草子などの仮名中心の文章に及び、文章の順番を弄る必要はなくなるが、漢字を加えるなど新たな需要が生れた。ただ、それ以外のところを変えないという方針が一つの前提として受け継がれた。

研究を目的とする人には、これにはいっさい違和感がない。だが、古典の文章をふつう読まない一般のの読者に文章を提供するとなれば、はたして最善の対処なのか、これまでほとんど考えもしなかったことである。そんな中、このころ、一つの小さな作業に取り掛かり、編集者から興味深い提案を受けた。漢字に置き換えるだけではなく、残りの文章にも手を加え、歴史仮名遣いを現代仮名遣いに変える、というもので、そのようなサンプルを提示してくれた。まったく意表をついたものだったが、論理上、漢字に書き変えるということは原文の姿を変えることを意味し、それなら、仮名を変えることも本質的な変化ではないはずだ。サンプルを一読して、その読みやすさにいささか驚いた。長文になるほど、その効果が明らかで、いわゆる原文と現代語訳との中間に位置するもので、古典に接するためのハードルは大幅に下がった。有意義な試みと認めなければならない。

このような対処は、「読み下し」という作業の意味するところを変更した結果になる。責任をはっきりさせることをふくめて、新しい言い方を考えてみた。すぐには良案が浮かばなくて、とりあえず「現代語読み」とした。このような、言ってみれば軽いアプローチは、どこまで受け入れられるものだろうか。

2022年7月30日土曜日

音を考える

昨日、四冊の研究書が届いた。いずれも自分の研究分野と違うもので、分かる自信がないまま手に取り、ページを開いた。これだけの発見や思索を凝縮した書物、一通り目を通すことさえ気力の要るものだ。

最初の一冊は、音がテーマだ。かつて「声」関連の論考を集中的に読み漁った時期があり、ずっと関心を持っていた。編者は細川周平氏、『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング、2021年)。じつに600頁以上の大著で、10部構成となっている。音というテーマには、こうも多様なアプローチがなされたものだと、目録を眺めて、気づかされることばかりだった。「戦前時昭和の音響メディア」、「音が作る共同体」、「ステレオの時代」、「物語世界論への挑戦」、などなど。「音響テクノロジーの考古学」では、音を記録する装置の発明、利用や普及の流れから、科学技術の発明、とりわけその失敗や進歩を振り返り、広い意味での人間の知恵を認識させた。「デジタル・ミュージッキング」に収めた一篇は、ライブ・コーディングという、プログラミングをパフォーマンスとする実践が紹介され、プログラミングをするアーティストと、コードを対象とするオーディエンスの存在は、まったく知らない世界だった。さきの文脈でいうと、新たな技術とは、存続するかどうかだけをもってその成敗を図り切れないことを一つの具体的な側面を通じて示された。

すでに十年も前のことだが、編者には一度自宅にまで招待された。しかもその翌日、その颯爽とした姿を祇園の山鉾をひっぱる行列の中に探し出し、盛んに鳴り続く祇園囃子の音とともに深く記憶に残ったのだった。(「祇園祭を観る」)

2022年7月17日日曜日

岩崎文庫解題

数日まえ、東洋文庫から恵送してくださった貴重な資料が届いた。『岩崎文庫貴重書書誌解題』、そのVIII、IX、X。今度も、春先の郵便の滞りからの影響をもろに受けて、投函の日付を見ると、三か月半もさきのことだった。

まっさきに開いたのは、「東洋文庫絵本コレクション」と副題がついたVIIIだった。絵のある文献だけで473頁もの解題になるのだと、意外な気持ちを覚えた。だが、カタログのつもりで取り掛かったら、嬉しい誤解だった。期待をはるかに超えて、カラーや白黒の写真による対象作品のハイライトや詳細な書誌解題に加えて、『いは屋』、『いはや』などの十九の作について丁寧な翻刻まで施されたのだった。考えてみれば、関連の研究者がこの一冊までたどり着くには、ちょっとした工夫が必要となるだろう。それはさておくとして、じつに良心的で、上質な研究成果なのだ。

これに引かれて、あらためて東洋文庫の公式サイトを覗いた。同サイトの構成の重要な一部には、「東洋文庫リポジトリ」があって、直前年度の『東洋学報』を含め、かなりの研究成果が公開されている。ただ、すでに十と数えるこの解題シリーズのデジタル公開は、つい見つかっていない。

2022年6月11日土曜日

長恨歌

新刊『源氏物語と長恨歌』を著者からいただいた。郵送にはじつに三か月半もかかり、これまでにはなかったことである。ずっしりと重い一冊がようやく無事に届き、さっそく開き、読み耽った。

物語の頂点をなす『源氏物語』。これに対して、著者一流の鮮やかなアプローチがいたるところに施され、読ませてくれる力作である。随所にメモを取りたくなる豊富な資料、共感を呼ぶ丁寧な読解、明晰にして説得力ある真摯な解説、教わることは多かった。物語の出典論から始まり、それが物語が古典となる由縁を解き、物語論全般に及ぶ。奥深平安文学の真髄を覗きみることを手引きしてくれた。

著者が語ったところの、はっとさせられる記述をいくつか掲げておきたい。「平安朝において、『長恨歌』は物語であった。絵が添えられ、和歌が読み加えられ、様々の解釈が与えられ、語られた。」(34頁)「『源氏物語』の『長恨歌』への愛着とは、その深層においては、羽衣説話への愛着であった。」(148頁)「男の物語から、女の物語へ。それは、人類文学史上の、一大転回であった。」(261頁)「『源氏物語』が「ロマンティック」ではないとは言わない。しかし、『源氏物語』は、それらを越えて、「現実の生身の人間そのもの」を描くことを志したのである。」(284頁)そして、「「夢の浮橋」の途絶えとともに、『源氏物語』も、途絶えて終わる。」(331頁)

個人的な思い出を一つ添えておこう。触れられた和歌には、「碧落不見」(『道済集』)と題する一首があった。いうまでもなく、あの「上窮碧落下黄泉、两処茫皆不見」を対象としたものだ。遠い学生時代、この一句を筆で書き出し、二段ベッドの壁というわずかな自分一人の空間に飾った。それがなぜか父の目に入り、止めるべきだと言われた。その理由は、その場で聞かなくて、いまだ分からないでいる。ただあの瞬間だけは鮮明に記憶に残っている。

2022年2月12日土曜日

縦書き右へ二例

右へ展開する縦書きのレイアウトについて二週間まえに記した。それをうけて、さっそく友人から一例の存在を教えてもらった。同じく十返舎一九作品の『三峯山御狼助劔』、デジタル公開があって簡単に確認できる。文章によって犬の形を象り、犬の口の下の部分がそれである。右への縦書き、単純でいてインパクトがあり、妙に思いに残る。そこで漫然と読んでいるうちにさらに一例を見つけた。

『千代靏百人一首』(デジタル公開)。百人一首の歌を歌仙絵とともに並べ、上段には「百人一首の読み癖」、「三夕の図」から、「盃の次第」、「尼の名尽くし」に至るまで、さまざまな知識を羅列する手習いの一冊である。それの一つとして、三十六歌仙の歌と歌仙絵があった。それらを読んでみると、一番目は柿本人丸、歌は「ほのゝゝと、あかしのうらの、朝霧に、しまかくれゆく、舟おしぞ思ふ」。ただ、左から右への展開である。さらに読み進めてみると、在原業平の「世の中に」、素性法師の「みわたせば」、猿丸大夫の「遠近の」など、数えてみるとじつに十五人の歌仙絵はこのレイアウトを取っている。これら十五人すべては歌仙の名前を歌の左に置いていて、文字の読み順に関しては明瞭な指針を示している。半分は文字、半分は人物の座像という歌仙絵という独立の空間において、このような文章の綴り方はまた一つ意味深いヒントを残してくれた。

滑稽本などの遊び的な要素の強いもの、絵があって、ひいては絵を構成する文字、それらに対して古風で格調ある歌仙絵。考えてみればずいぶんと性格の異なるものだった。ただ、和歌となれば、散らし書きを思い出される。あるいはそのような、いわば由緒正しい伝統がここで隠された大事な役割をは果たしたのだろうか。

2021年12月18日土曜日

句読点

江戸時代には、『徒然草』が愛読され、数多くの刊本が刊行された。いまは、たとえば「日本古典籍総合データベース」に収録されたデジタル底本だけでも、数百点に上る。それらを並べて読み比べると、文章の表記に気づかされることが多い。

一例として、寛文八年刊のこの一点を開いてみよう。(書誌ID:200015378)原文は、漢字の数がきわめて限られ、九割程度は仮名書きの文章となる。そして、目を凝らしてみれば、行の右側に円い点が慎重に添えられている。第九段の場合、最初の数行はつぎのような内容だ(上巻三オ)。

女はかみのめでたからんこそ.人のめたつべかめれ.人のほど心ばへなどは.物いひたるけはひにこそ.物ごしにもしらるれ.ことにふれてうちあるさまにも.人の心をまどはし.すべて女のうちとけたる.いもねず身をおしとも思ひたらず.たゆべくもあらぬわざ

声を出して読めばすぐ分かるように、これらの円い点は、まさに句読点なのだ。一つのセンテンスが終わるところだけではなく、「などは」、「さまにも」など、現代の表記においても句点を付けるか付けないか一致しない場合でも小まめに付けられている。黙読ではなく、声を出して音読するために行き届いた配慮を見せた底本だと考えてよかろう。(朗読動画『徒然草』第九段参照)

どこかの言語学の本を読んで覚えたのだが、英語などのヨーロッパの言語歴史において、表記にスペースが入ったのが大きな発明だった。その論に沿って日本語を語れば、現代の表記においての切れ目は、漢字と仮名が交じり合うことによって実現されている。その分、漢字をほとんど用いない仮名表記の文章は、どうしても読むに神経を使う。そのような苦労を減らすためにここに見られる円い点が用いられたのだろう。まさに英語におけるスペースと同じぐらいの発明だと捉えたい。

2021年11月27日土曜日

怪談を語り合う

この週末、東アジア日本研究者協議会第5回国際学術大会に参加した。漢陽大学日本学国際比較研究所が主催するパネル「日本古典文学の想像力」に声を掛けられ、コメンテーターの役を務めさせていただいた。

討論の対象となる発表は、木場貴俊氏による「江戸怪談の普遍と特殊」である。発表者は、中世から近世にかけての怪談、とりわけ人間の言葉を発する馬、鳴動、ウブメなど三つのテーマにスポットライトを与え、日記、筆記、文学作品など多彩な文献を応用して、妖異や怪奇の伝承、それに対する人々の視線、そこから見られる江戸怪談の普遍性と特殊性などを論じられた。討論の中で試みた問いかけの一つは、怪談の娯楽性だった。江戸時代に広く享受された怪談ものの流れを汲んで、今日においては、マンガ、アニメ、ビデオゲームなどを通じて「オバケ」は世界に対する日本的なアイコンとまでなった。エンターテイメント性は、はたして怪談の必須の属性なのか、それとも一つの特殊な変異種なのだろうか。これに対しての発表者の答えは、「怪しさ」と「怖さ」との違い、グロテスク、あるいは怖いもの見たさ、病的になまでのおどろおどろしさの表現に怪談ものの本質があることへの強調だった。化け物を人畜無害なものに仕立て、無邪気な笑いをもってそれを無気力にさせてしまうことにばかり気を捉われてしまうという、黄表紙の作品群を読み更けているここ最近の読書経験に照らし合わせて、怪談もののふり幅の大きいことにあらためて気づかされた。

第五回と数えるこの国際大会は、2016年から始まり、これまでインチョン、天津、京都、台北と続き、今度はコロナによる延期の末、オンライン開催となった。遠くカナダに身を置く者として、リモートだからこそ参加できたもので、とてもありがたく思い、主催者に感謝を言いたい。

2021年11月13日土曜日

「こそ」の字形

右は、『改正頭書つれつれ艸繪抄』(国文学研究資料館蔵)からの一部である。底本は新日本古典籍総合データベースで公開され、このページ(上巻四十一オ)は簡単に確認できる。赤線で囲まれた二つは、ともに「こそ」と読めるが、眺めるほどに、くずし字の字形に気づかされることが多い。

くずし字の基本は、やはり仮名である。とりわけ木版の書籍になると、仮名の形が大きく定まる。仮名の数はそもそも限られ、それぞれ複数の字体が用いられるにしても、常用なのはせいぜい150に満たない程度だ。しかもその半分以上は今日使っているものと変わらず、覚えるにはさほどたいへんな作業でもないように思われる。一方では、ここに見る「こそ」の事例のように、いささか面倒なケースもある。詳しく言えば、「こ」の字体は、二画目が下へ伸びる縦線となり、「こそ」「こと」「ころ」などの語彙に伴う傾向がある。「そ」は、終わりの画が左に撥ねる字形と右に撥ねる字形と両方あるが、ここではわざと両者が並ぶ格好となる。さらに直前に「ぼうし(法師)」の「う」が見え、「う」と「そ」の差異は、一画目のわずかな撥ね方にすぎず、形のうえで区別するのが難しい。

ここに見る字形の揺れは、文字としての規範と表現としての達筆さの間の距離から由来していると考えてよかろう。文字は、そもそも読みやすい、読者に無用の負担を掛けないことが基本だろうが、それを美しく、勢い良く書くという意識も働く。江戸時代の読書人の感覚は、十分に図りきれない。それはさておくとして、くずし字を覚えるにはどうしても形から入るのだが、ここに見られるような美意識の存在、それの働きかけは、忘れてはならない。

2021年11月6日土曜日

黄表紙目録更新

試して活字にされた黄表紙の目録を作ってみたら、ツイッターなどで思わぬ反響を得た。かねてから知っているこの分野の専門の方の名前まで現われ、ほとんど思いつきでやっているこの小さな作業が歓迎されたと感じ、大いに励まされた。そこで今週はこれに集中し、さっそく目録を更新した。

いま、集めたのは、442作。そのうち、複数回活字にされた作品は82作、それらをそれぞれ1作だと数えれば、作品数はちょうど300作である。対象となったのは、単行本、全集類が中心で、とりわけ明治末期から昭和初期にかけてのそれは、著作権フリーになって全文アクセスが可能だ。もう一つのリソースは、研究機関紙や大学紀要、こちらのほうは機関リポジトリの形で公開され、逆に新しいほど読める数が多い。ただ、手元にはこの課題に関連する蔵書はほとんどなく、基本資料へのアクセスも思う通りにならない環境なので、文学全集などを調べたり確認したりすることにはいまは手が届かない。なにせ『黄表紙総覧』(1986年)さえ読んでいないので、この目録はあくまでも個人的な読書メモに留めておきたい。これで自分への課題がもう一つ増えた結果となり、いずれ環境に恵まれたら、ゆっくり充実したいと考えている。

黄表紙の作品の数々、一つの研究分野として十分な知識を持ち合わせていないが、一群の読み物として単純に楽しい。この楽しさをどのように他人に伝えるべきだろうか。一人の読者として、そして古典研究に身を置いてきた者として、これからも模索を続けたい。

黄表紙活字目録(442作)

2021年10月2日土曜日

絵注釈の盛遠

「カナダ日本研究会年次大会」は、予定通りに開催され、今日で二日分の日程を終えた。わたしの発表も今日の午前に無事に行った。与えられた時間は、わずかニ十分。パネリストはみんな時間厳守で、質疑応答の部も熱気あふれるものだった。議論しきれなかったテーマは、ZOOMのチャットで全員、個人の形で続けられ、時を前後して関連のメールが四通も入ってきた。個人的にはいろいろと収穫の多いひと時だった。

今年取り上げたのは、『徒然草』絵注釈にみる思考や概念。これにたどり着いた直接のきっかけの一つは、第172段に対する『つれづれ草絵抄』の絵だった。「若き時は、血気うちにあまり、心、物にうごきて、情欲おほし」で始まるあの一段である。突然のように飛び出してきた「血気」、「情欲」などの文言に刺激されたからだろうか、「絵抄」の注釈は、なんとあの盛遠の話を取り出したのだった。右は、その絵の一部。二画面構成のこの段の絵は、さらに袈裟御前の夫、そして滝の下に立つ文覚と続く。江戸における文覚の話の享受について、すでにここで二回ほど触れた。(「袈裟御前から小春へ」、「盛遠物語」)同じ話に再び絵絵注釈で出会うのは、一つの読書経験としても、非常に意外なものだった。そして「絵抄」、進んで絵注釈全般の性格を考えることに繋がった。

年次大会のさらなる詳細、研究発表のタイトルや要旨などは、下記の特設サイトで公開されている。さらに『徒然草』172段の朗読動画、関連のデジタル画像などの情報は、「朗読動画『徒然草』第百七十二段」からアクセスしてください。

Japan Studies Association of Canada Annual Conference 2021

2021年9月25日土曜日

JSAC2021

来週の週末、カナダ日本研究会(JSAC)の年次集会が開催される。今年こそ対面でやろうとの議論や調査もあったが、結局は夏の間に早々と結論が出て、去年に引き続き、今年もリモートとのこととなった。

今年の発表テーマも、『徒然草』絵注釈を選んだ。去年は四コマ漫画とのアプローチをとりあげ、そのあとは、今年に入ってからは朗読動画の制作、公開を続けた。ただ、おなじ現代的なメディアを話すより、内容に移行しようと考え、絵に見られる思考や概念を見詰めてみることに決めた。英語題は、「Thoughts and Concepts in Visual」。具体的な事象や品物の表現に便利な絵は、兼好が好んで語る抽象的なコンセプトや屈折した理屈、説教をいかにして伝えたのか、どこまで伝わったのか、絵を読みながら時々膝を打つ事例に出会ったので、それらにスポットライトを当ててみよう。いうまでもなく全面的に、漏れなく論じるまでにはなかなか用意が出来ていないが、一つの切り口への出発としたい。

例年通り、大会の日程は、金曜の朝から日曜の午後までぎっしり。これまでは、すくなくとも一日分の授業を休講にして、早々と航空券を購入しての大がかりで特別な週末になる。数えてみれば、勤務校での二回の開催以外、車一回、バス一回、2016年は日本から帰りのフライトから途中下車して、そのままUBCに乗り入れるという日程もあった。その分、古い友人や新しい知り合いとの食事会、飲み会が集まりの楽しみであり、収穫の場だった。それらはすべて遠い昔の出来事となった。あのような日常が一日でも早く戻ってくるように。

JSAC2021プログラム

2021年9月4日土曜日

Kindle本

前回書いた御伽草紙『猫のさうし』の現代語訳、一通り作成して、短い紹介、四つの章に対するメモ、それに原文、朗読動画やこれまでのブログ記事へのリンクなどを添えて一冊にまとめ、『猫と鼠の世にも奇妙な大論争』と題してキンドル出版に出した。

中世の物語をいまの読者に伝えるために、さまざまな形で作品そのものを提供しなければならないとつねづね思っている。そのため、音声、動画、変体仮名読解など、思いつく方法を試みてきた。御伽草紙の作品群は、ほとんど仮名のみで書かれ、そのままで読むのはかなりの専門性が要求され、本文を現代語に変えておくことは必要だ。一方では、単なる現代語訳は、紙媒体の出版物に採用される機会はさほどない。それならば、Kindle本は一つの選択となる。在来の出版物と並んでアマゾンサイトで提供され、読む気さえあれば気軽に、快適にアクセスできる。アマゾンが一か月無料などの形で積極的に進めている「読み放題」のサービスも心強い。

あとはどこまで潜在的な読者に届けられるかにかかる。そのためには、フェースブック、ツイッター、インスタグラムなどで発信を試みている。いまのところ十分な手ごたえが得られるには至らないが、しばらくは模索を続けたい。

2021年8月28日土曜日

前に数回取り上げた御伽草紙『猫のさうし』を現代語に置き換えようと、ここ数日もっぱらそれを読み返している。やはり面白い。大笑いをさせるわけではなく、言って見れば落語のようなもので、なんの変哲もない語りの中に、ふっと吹き出させる、妙に魅力ある文章である。

一方では、全文を現代語に、しかも学問的に一字一句をそのままというよりも、普通に読んで難なく伝わるとなると、ところどころ立ち留まって考えを巡らし、あれこれと文章を並べ替えさなければならない。笑いを狙ったものでも、表現の方法は、いわば確信犯的なものなら、その通りにして読者の感覚に訴えるほかはない。例えば、老僧が猫に鼠を喰って殺生するのを改めさせようと諭しながらも、代わりにご褒美に鰹、鯡、鮭を与えると提案した。それも生き物ではないかよと突っ込みたくなるが、翻訳としては発言を堪えざるをえない。

対して、中世の物語によく見られる定型文的な表現になると、すこしやっかいだ。一例として、涙。短い物語の中で、老僧への人々の視線、鼠の慙愧の気持ち、猫の弁舌への老僧の賛同などを伝えて、いずれも涙が登場した。どれも現代語になると、どうしても突飛で、感覚的に違和感が拭えない。はたして「涙」をキーワードとして残すのか、それとも「感心」「感動」「共感」などいまの文章として読みやすいものにすべきなのか、苦慮するところだった。

もう一つ考えられるのは、いわゆる超訳。古典を伝えるために頻繁に見られる試みなのだ。対応する言葉を充てるよりも、現代の事象などをもって原文を置き換えるといったものだ。ただ短い文章に向いても、一篇の物語を対象とすると、どうしても苦労が多い。そういった実践をもうすこし慎重に観察したい。

2021年5月22日土曜日

ビデオプレゼン三作

北米日本研究資料調整協議会(The North American Coordinating Council on Japanese Library Resources)は、「分かりやすいデジタル化と発見・ビデオシリーズ(Comprehensive Digitization and Discoverability Program: CDDP Video Series)を企画した。お誘いを受けたのは、三か月ほどまえのことだった。これまでの小さな特設サイトなどを紹介する絶好の機会であり、たいへん名誉あるもので、迷わずに制作に取り掛かった。ビデオシリーズは予定通りに完成し、今週公開された。

シリーズのラインナップは、まさに錚々たるものだった。関心のある方はぜひご覧ください。個人的な関わりを記しておくとすれば、一つのプレゼンは十五分程度というのが最初の枠組みだった。そこで、実施委員会との話し合いの中、取り扱うテーマを述べると、それぞれを独立させたほうがより伝わるのではないかと提案され、その通りにした。奈良絵本『からいと』、黄表紙『敵討義女英』、変体仮名の連綿という三つの内容に絞り、それぞれオンライン公開のデジタルリソース、音声、動画というデジタル技術利用の異なる側面に実例をもってスポットライトを当てることとした。一方では、現在公開の十一点のビデオのうち三点も占めるというバランスのよくない結果となった。

ビデオの制作は、今度もAdobe Premiereを利用した。まず解説の音声を録音し、それにあわせて関連の画像やスクリーンショットなどを配置するという方法を取った。あえて言えば、新しく試みたのは、ビデオ撮影やパソコンの画面記録などの小動画を意図的に挿入することぐらいだった。個人的にはよい経験だった。

Comprehensive Digitization and Discoverability Program: CDDP Video Series

2021年5月15日土曜日

発表記録

去年の秋に開催したJSAC(Japan Studies Association of Canada、カナダ日本研究学会)年次大会での発表記録が、同学会の公式サイトで公開された。わたしの発表もその中の一篇に収められた。「A Manga-translation of Visual Commentary on Tsurezuregusa(画像注釈『徒然草』の漫画訳をめぐって)」

思えば、学術活動の形において、日本と北米とではいろいろな違いがある。その一つとして、研究集会成果の伝え方があげられる。自分が身を置く日本古典の研究分野においてのことしか体験していないが、日本では、年次大会の内容が記録されるといっても、学会組織の機関誌において、招待発表者の発言を活字にするのが精一杯のようだ。これに対して、北米では「proceedings」が主流となり、ほぼ口頭発表と平行にそれの刊行が企画される。そのほとんどは発表者全員の、すくなくとも執筆要望のある発表者の原稿を収め、年次活動の記録として時の流れや研究の進展を刻む。

去年の秋に完成が近づいた『徒然草』注釈画の四コマ漫画は、今年に入ってさらに朗読、動画、字幕、現代語訳、そして中国語紹介などと、いくつかの要素を加えてプロジェクトを広げた。これまたいつか報告すべきテーマになる。

Conference Proceedings: Selected Papers

2021年4月10日土曜日

研究誌公開

数日前から研究者が熱心に伝え、語りあった話題の一つには、国際浮世絵学会発行の『浮世絵芸術』のデジタル公開があった。学術研究誌のオンライン公開や閲覧が着実に増えているなか、この研究誌が最新号まで対象に含めたことは、なによりもインパクトが大きかった。そのため、いささか驚きをもって接され、大いにありがたく受け止められた。

研究誌の執筆者の立場から言えば、研究成果を一日でも早く、すこしでも広く知られたい、しかも研究も職務の一つであり、多くはさらに研究助成まで支えられているので、このような公開はいうまでもなく諸手をあげての歓迎だ。対して、出版側から言えば、コストを消化し、しかも長く続けられること前提なので、このような展開が新たな試練になるには違いない。どこまでギリギリの採算ができるのか、公開への期待に応えるためにどのような新機軸を打ち出せるのか、そもそもデジタル公開とその維持のための新たな投資をどこに求めるのか、課題がきっと山積みだと想像する。それにあわせて、積極的な公開をもって、より多くの読者が生れ、研究誌の価値がより広く認められることを祈りたい。

これを思いめぐらしたながら、つい一年ほどまえに刊行したした二編の作のことを確かめてみた。ともにここでも報告した出版である(「新しい人文知」、「関係~ない」)。刊行誌は書店販売もしているが、上記掲載の51号と52号が一か月まえに公開したばかりではなく、なんと3月15日付けで刊行した最新刊の54号は、すでに3月30日に全文オンラン公開をしている。まったく同じ流れがここにも見て取れたことに少なからずに驚き、嬉しく思った。

デジタル古典研究に挑む」(『中国21、Vol.51』)
言語学習から「関係」を覗く」(『中国21、Vol.52』)

2021年2月27日土曜日

似せ絵

昨日、「日本古典籍セミナー」を聴講した。二つの講義が行われ、それぞれ一時間とじっくり時間をかけて肖像画、奈良絵本について語られ、たいへん勉強になった。

個人的には、黒田智さんが取り上げた「公家列影図」にとりわけ惹かれた。画像内部に立ち入り、画像をもって画像を検証するというアプローチには、その手法の鮮やかさが印象に残り、その有効性にインパクトを感じた。あわせて57人と数える大臣の顔ぶれをユニークに描かれたこの一点は、絵巻の中で異色的な存在であり、早くからその読み方に躓き、敬遠していた。そのようなところに、描かれた人物同志の、親子、兄弟など血縁関係をもった者の比較、髭や皺などビジュアル要素を手がかりにした分類などが指摘されて、なるほどと納得し、いわゆる似せ絵といわれる由縁をあらためて知らされた。一方では、描かれた人物は互いに百年以上の距離を持ち、それぞれの人間のほんとうの顔を絵師がたしかに知っていたとは考えられず、人物の年齢表現にも極端な虚構が見られるなど、同作品の理解にはまだまだ多くの課題が残されているとの思いも強くした。

現地で午後に行われた行事は、地球の裏となると深夜から真夜中すぎとなった。同じ北京開催のシリーズの三回目にあたり、一年遅れての実現だったと聞く。いうまでもなくオンラインでなければとても参加が叶わなかった。妙な形でコロナから恩恵を受けた格好だ。いまの非常事態が過ぎてもこのようなもありがたい可能性が受け継がれることをせつに願いたい。

2021年2月20日土曜日

研究会で語る

一か月ほどまえに予告していた研究会(「古文講座」)は、予定通りに開催され、自分の発表も無事済んだ。世界各国から集まってくる参加者を見越して開催の時間設定が変則なもので、日本時間の深夜、こちらのローカルの時間は早朝六時開始といったスケジュールだった。事前申請は82名、実際の参加者は60名超、まさにリモートならではの世界的な集まりになった。

振り返ってみれば、じつに実りある交流だった。後半の全体討議においてまっさきに持ち出されたのは、古文教育の意味やその有効性だった。日本国内でも古典教育存続をめぐる議論が注目されるなか、それがそっくりそのまま海外中心の場にまで波及したという恰好になった。集まってきた研究者、教育者の顔ぶれによるところが多いが、肯定的な見解が圧倒的で、とりわけ教育現場から日本語学習者たちからの古文への熱い視線がしっかりと語られ、なによりだった。このほか、美術史など隣接分野からの声、漢文教育までの展開、独学への配慮、オンライン資料との向き方、朗読への関心、はてには三年も続くような本気度の高いプログラムの存在など、さまざまな情報や見解が披露され、まさに充実なものだった。

ZOOM開催の研究会は、開始15分前から参加者が参加できるように主催者が配慮した。互いに見知らない人が多いなか、「Kobun-Online」に関わった三人は二十年ぶりの顔合わせとなり、ひと時の雑談が交わされた。対面の集まりならこういう時間こそ貴重で生産的なものだが、リモートではきわめて限定的なものにならざるをえない。これをいかに変えるのか、模索が続く。

2021年1月23日土曜日

古文講座

約一か月あと、一つの研究発表が予定されている。今週、それの知らせが寄せられ、ここに添えておく。「非母語話者のための文語文教育」プロジェクトの研究会で事例報告をさせていただく。

取り上げるのは、特設ページ「インターネット古文講座 KOBUN-Online」である。制作したのは、ずいぶん昔のことであるが、あのころ、すこしずつ普及するようになるウェブという環境を生かし、文字ベースではあるが、日本語が利用できたのをいいことにして、ジャワ言語を見よう見まねで覚えて、古文の文法をトータルにまとめた。しかも、一人でコツコツとやるよりは、国際的に広げようと、韓国の研究仲間を誘い込んだ。そのように仕上げた成果は、じつは800以上におよぶドリルからなる結構な規模のものだった。一通り出来上がってから、イタリアの先生まで連絡をよこし、読解の部を加えてくれた。この特設ページをめぐって二回ほど国際会議で報告し、さいわい両方とも当時の記録がオンラインに残っている。(「2nd International Convention of Asia Scholars」、Berlin、2001.08、「第3回日本語教育とコンピュータ国際会議」、サンディエゴ、2002.07)数えてみれば、すでに二十年もの時間が流れた。ここまで激しく移り変わるインターネットの環境においても、このページは相変わらずに稼働し、かつ研究者たちの目に止まったことには、感激に近い思いをせざるをえない。

研究会はZOOM開催になっていて、すでに中国などの友人知人からコメントなどが聞こえている。研究活動にまつわる風景もすっかり変わったものだと、世の中の変化を噛み締めている。