2021年12月25日土曜日

朗読動画140段

今年の1月30日、「朗読動画『徒然草』」と名乗り、その序段をYouTubeにアップロードした。(「朗読動画『徒然草』」)その後、週三作と公開を続け、去る22日に第243段をあげた。この小さな個人的なプロジェクトは、これで予定通りに完成し、あわせて140段だった。

動画に用いたのは、『なぐさみ草』(松永貞徳、慶安五年、1652)と『つれつれ艸繪抄』(苗村丈伯、元禄四年、1691)。前者は、『つれづれ草』の本格的な注釈書としてはじめて絵を導入し、数えて百五十六段に絵を加えた。後者は「絵による抄(注)」との名の通り、言葉や意味などの解釈など一切なく、本文と絵のみによって構成され、絵のある段は二百九段と数える。絵を含む本文や注釈書はこの外にも伝わるが、絵の数はこの二作に遠く及ばず、この作業の対象としなかった。

朗読対象の140段という数字には特別な意味はない。まずは絵からのアプローチなので、絵のない段は対象から外した。朗読動画という体裁からして、極端に長いもの、あるいは短いものも避けた。その結果、動画の長さは平均して1分か2分、特出に長いのは酒を題材にする175段で7分23秒、一番短いのは30秒の序段だった。なお、構図の共通するものは『なぐさみ草』を優先に用い、絵がはるかに豊かになった段は『つれつれ艸繪抄』に頼るという漠然とした基準を立てた。

この朗読動画は、去年続けたGIF動画からの延長だった。注釈絵への注目に加え、さらに文字、音声という二つの要素を取り入れた。音声は自己流の朗読、文字は声に伴って移動させるくずし字だった。この朗読と文字の部分を縦長の動画に作り、さらに注釈絵の上に載せて絵を動かすという、二つのステップに分かれた動画の作り方に気づいて、わりと簡単に作成することができた。

公開した動画にまとめてアクセスするには、特設サイトを設けた。(「朗読動画特設サイト」)公開完了にあわせて、このサイトも更新した。一方では、随時更新していた再生リストも、140作すべてを対象とした。こちらのほうは公開順であり、最初の段がリストの一番後ろにくるというものである。あるいはそれなりの価値もあるだろうと思い、そのまま残しておいた。

2021年12月18日土曜日

句読点

江戸時代には、『徒然草』が愛読され、数多くの刊本が刊行された。いまは、たとえば「日本古典籍総合データベース」に収録されたデジタル底本だけでも、数百点に上る。それらを並べて読み比べると、文章の表記に気づかされることが多い。

一例として、寛文八年刊のこの一点を開いてみよう。(書誌ID:200015378)原文は、漢字の数がきわめて限られ、九割程度は仮名書きの文章となる。そして、目を凝らしてみれば、行の右側に円い点が慎重に添えられている。第九段の場合、最初の数行はつぎのような内容だ(上巻三オ)。

女はかみのめでたからんこそ.人のめたつべかめれ.人のほど心ばへなどは.物いひたるけはひにこそ.物ごしにもしらるれ.ことにふれてうちあるさまにも.人の心をまどはし.すべて女のうちとけたる.いもねず身をおしとも思ひたらず.たゆべくもあらぬわざ

声を出して読めばすぐ分かるように、これらの円い点は、まさに句読点なのだ。一つのセンテンスが終わるところだけではなく、「などは」、「さまにも」など、現代の表記においても句点を付けるか付けないか一致しない場合でも小まめに付けられている。黙読ではなく、声を出して音読するために行き届いた配慮を見せた底本だと考えてよかろう。(朗読動画『徒然草』第九段参照)

どこかの言語学の本を読んで覚えたのだが、英語などのヨーロッパの言語歴史において、表記にスペースが入ったのが大きな発明だった。その論に沿って日本語を語れば、現代の表記においての切れ目は、漢字と仮名が交じり合うことによって実現されている。その分、漢字をほとんど用いない仮名表記の文章は、どうしても読むに神経を使う。そのような苦労を減らすためにここに見られる円い点が用いられたのだろう。まさに英語におけるスペースと同じぐらいの発明だと捉えたい。

2021年12月11日土曜日

画像解像度

とある原稿を提出した。最後の作業として、利用する画像のサイズを確認した。いったいどれぐらいの解像度にすべきだろうか。これといったはっきりした基準があるわけではなく、編集者側だって、印刷業者からの指示しだいで対応せざるをえないというのがいまの現状ではなかろうか。

そもそもデジタル環境そのものが激しく変わっている。個人的な経験からいうと、蔵書を大事にするという感覚で、かつて貴重な資源に出会うと、可能なかぎり時間をかけてダウンロードしてハードディスクに保存した。そのような習慣はいつの間にかすっかり途切れた。それどころか、必要に応じてそれらのファイルを開いてみれば、その多くは横1000pix程度のもので、わずかに内容をモニターで眺められるぐらいで、とても印刷などに出せるものではない。対していまごろのデジタル公開は、まずは固定リンクを前面に打ち出し、簡単には変わらないというスタンスを明確にしている。画像解像度も5000pix前後が主流となり、ダウンロードして利用するためのアクセス方法を丁寧に提供してくれている。そのような画像は、普通のモニターでは表示しきれず、頻繁に閲覧するのものは、今度は逆に小さくしておいて、素早く開けるような工夫をしなければならなくなった。

MSワードで提出する原稿は、差し入れた画像を取り出すことが可能だ。ただし若干非正規な方法であり、編集側に負担をかけることとなる。煩雑を避けるため、小さな画像を原稿内に挿入し、それとは別に画像をZIPファイルにして提出した。これでワードファイルのサイズはずいぶん小さくなり、査読や編集などの作業もスムーズなはずだ。一つの合理的な対応かもしれない。

2021年12月4日土曜日

The Bus Stop

先週日曜日、ずいぶん久しぶりに劇場に入った。大学の演劇学科の学生たちによる小劇場で、キャンパスにある三つの劇場の中の一番小さい場所だった。すでに二か月以上も上演が続き、ほぼ終わりに近づていた。

演目は、ノーベル作家高行健の代表作「バス停」。発表は1983年だったから、学生時代にはたしかにどこかの雑誌で一度読んだはずだ。いまになったら、設定やテーマなどに朧げな印象があるだけで、詳細やハイライトなどはなにも覚えていない。ほとんど初対面の作のつもりで席に座り、一時間半の時間をしっかりと楽しめた。舞台に上がったのは、セリフを一言も発しない三人を含めて十一名、ここはカナダだからもちろん全編英語。ただし監督は非常に若い中国人の若者で、すべてのセリフに中国語の字幕が添えられた。劇場から出て原作を探し出して確認したら、けっこう忠実だった。わずかに登場の「学生」が習ったのが英語から中国語に変わり、雨と雹が降ったとある設定が観客の意表をついた本物の雨と雪となったぐらいだった。あとは、タバコの銘柄や将棋などの中国カラーを過剰に避けることなく、無国籍でいて妙に清々しい舞台に仕上げられた。

思えば、映画館、美術館、劇場などのない暮らしは二年以上も続いた。そんな中、ワクチン証明の提示を真剣に要求され、入場人数にも制限を掛けられていたが、あとは役者も観客も特別な反応を見せることなく、静かに昔の日常に戻ろうと言葉に出さずに努めたと見受けられた。