2010年12月24日金曜日

歌サロンの再現

大学では、今年最後の一週間に入った。仕事締めくくりの合間に、同じ学科の教授が一席のコンサートを用意した。さほど宣伝もしておらず、集まったのはわずか200人ちょっとの規模にすぎなかった。しかしながら、だからこそ西洋文化伝統の一面を窺いえたような思いをして、短い時間をすっかり堪能できた。

コンサートのテーマは、同教授の最近の研究課題とも関連して、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド(Pauline Viardot)という名の十九世紀フランスの声楽家・作曲家である。ただし、これはあくまでも一つの枠組みである。この設定に沿って、自由自在に音楽の傑作が鏤められた。ステージに上ったのは、個人的な繋がりで迎えた世界レベルの歌手、大学が擁する国レベルのピアノ演奏家であり、加えていまだ在学中の学生四人による朗読が司会の役目を果たした。ステージの設計は、即興でいて、流麗。高い水準の歌や演奏は、言ってみれば観客の拍手の声をはるかに上回るものがあった。ここに奥ゆかしい音楽サロンの再現がコンセプトであるが、それについてほとんどなんの知識も持ち合わせていなくても、しっかりした伝統の力を感じえた。

歌のサロン。日本の伝統に置き換えるならば、さながら能楽あるいは連歌、といったところだろうか。ただ、そうだとすれば、能も俳諧も現代の生活の中で、こうも気軽にステージを構成できるとは、とても思えない。

An Evening in Weimar

2010年12月18日土曜日

プログラミングの躓き

今年度の仕事が一段落して、数日の余裕が出来たので、ひさしぶりにプログラミングにでも挑戦してみようかと、iOSのアプリに目を向けてみた。しかしながら、わずか一日ちょっとで、もののみごとに思いはずれだと分かった。このささやかな躓きを書き留めたい。

ソフトに取り掛かるための初期投資は、なにも要らなかった。アプリを作成するプログラムをダウンロードするのみで事足りた。ただ、やってみたら、そのプログラムのサイズにはびっくりした。3GBのファイルで、パソコンで展開したら10GBものスペースを占めた。ここにすでに良からぬ予感が漂った。そして、関係する説明やオンラインの議論などを読んでみて、ネガティブなコメントがかなり多い。自分の手でいざ試してみようと思ったら、それぞれのタイプのデバイス、同じデバイスのそれぞれのソフトバージョンに個別に対応し、しかも互いにほとんど交換性がないことには驚いた。そもそもスクリーンサイズやアイコンから全部違う。さらに、入門者にとってのてっとり速い手段はサンプルなのだが、公式サイトが提供しているサンプルは、入れたてのプログラムでは、おそらくサンプルのバージョンが一つ遅いせいか、すでに動かない。しかもよく調べてみれば、プログラムはすでにパソコンのシステム認証IDを変えてしまったらしく、そこから対応しないと、かなりの部分が動かないとか。ここに来て、さっさと力負けを認め、お手上げだ。

思えば、ソフト作りをすこしずつ習って実践する人に取ってみれば、作ったものがはたして通用するのかが一番の不安だ。逆に言えば、模索して書いたコードが期待するとおりに動いたときの悦びこそ新参者にとっての醍醐味だ。iOSでは、そのようなことはなぜか期待できそうにない。異なる種類の実機へのテストはまずは現実的ではなく、不特定多数の人に使ってもらうまでには任意性の高い審査が待ち受けている。だれでも使えるというのが謳い文句だが、どうやら自分がその「だれでも」のグループに入らないのがたしかのようだ。

2010年12月11日土曜日

「自炊」その後

数ヶ月前、あるニュースレターに随筆を頼まれて、デジタル書籍に関連する自炊のことを書いてみた。今週、それが発行され、同じ文章を自分のサイトにも載せた。したがって、実際に「自炊」を試みたのではなく、あくまでも一つの議論を書いた「その後」ということである。

こういう性格のものだから、数ヶ月のうちに状況が大きく変わるものだろうと、最初から気になっていた。案の定、昨日のNHKニュースはそのような変化を物語る象徴的なエピソードを取り上げた。いわば電子書籍出版をめぐる出版社の対応である。報道されたのは、とある大手のものだった。担当者の仕事ぶりを見せるもので、それこそ数百冊のタイトル、億単位の売り上げをもつ一人のメジャーな作家に、一紙の契約を促すものだった。なぜかはらはらして目を疑った。スケールが大きいというか、いささか乱暴というか。はたしてカメラ前でその作家は戸惑いを隠さず、自分の作業に影響がないとまずは確認し、「編集者との信頼関係だ」と付け加えた。出版社の意気込みはたしかだ。ただ、そのような努力が、紙媒体が持たない電子メディアならではの特徴をしっかりと見据える未来志向のものにつながることを祈るのみである。

ところで、「自炊」という言葉はどうしても落ち着かない。はたして個人デジタル化という行動が続いているうちに違う表現に取って変わるのか、それとも将来になっても一つの風変わりな行動を記録するための変わった表現として覚えられるか、ちょっぴりしたみものだ。いずれにしても、「自炊」という行動がそう長く続くとはとても思えない。

2010年12月4日土曜日

電子図書館、解決編

先週の出来事のその後を記しておく。まずは、決着があっさりと決まった。週明けにさっそく図書館から電子メールが入り、ダウンロードのソフトを提供する会社からの返答で、対応方法が書いてある。その通りにやって、あっさりと問題クリアができた。その解決方法は、あわせて六つぐらいのiTunes関連のソフトを一つずつ、しかも所定の順番に従ってパソコンから外し、その上ソフトを入れ替えるというものだった。

この経験から、じつにいろいろなことに気づかされた。まずは、Windows上で稼動する第三者のソフトとなれば、それがどんなに優れた会社によって作られたものであっても、予想外の問題には、いまのように暗中模索をしながら対応せざるをえない。アップルのソフトは、かなり汎用なものになったが、それがいくつものユニットに分かれた。この仕組みは、そもそもリソースの節約、重複の回避が理由なはずだが、いまのようなケースでは、それがはたして最善の方法なのか、はなはだ疑問が多い。そもそも一つの小さな外部ソフトへの対応のために、ソフトを外すことからやりなおし、それもエンドユーザーに任せて、マニュアル的に作業をさせるのみというのは、どう考えてもいささか情けない。しかしながら、まさにいまのような規模になってしまったものだから、いまさら簡単に変えられるものではなさそうだ。

ソフトは、すこしずつ積み上げられるものであり、しかも出来上がってしまえば、簡単にリセットできるようなものではない。これも現実の一部なんだ。なにかを始めようとするとき、肝に銘じたい。

Removing and reinstalling...

2010年12月1日水曜日

不思議な「自炊」 (リレー随筆)

前回の「リレー随筆」で、下野香織先生はフランス滞在秘話を交えて、「以言伝心」を興味深く書かれた。リレーのご指名をいただいたので、それに賛同しつつ、あえて逆説の一例を取り上げてみよう。結論から言えば、並大抵の言語知識を持っていても意味を伝え切れず、首を傾げて苦闘せざるをえない、そのような笑うに笑えない一つの言葉の光景である。

「自炊」という言葉、もちろん知っていると高を括ることなかれ。ここでいう「自炊」とは、食事や料理とはいっさい関係ない、さらに言えば今時のデジタル環境の応用の一こまであり、この言葉の使い方そのものには、日本語表現の無規制な増幅と、社会生活における日本人の道徳的な自制が象徴的に現われていると言えば、どなたかすでにピンときただろうか。

まず、「自炊」の内容から説明しよう。「自炊」とは、パソコンなどで読む電子書籍を自分で作成するという、一つの新しいプロセスを指す。具体的には、本屋から書籍を購入してきて、それをページがばらばらになるように裁断し、スキャナーに掛けてPDFなどのフォーマットの電子ファイルに作成する。なおこのような作業の最大の理由は、本の保管と書斎スペースの確保にあるので、「自炊」を終えた書籍のページは廃棄される運びとなる。注目してもらいたいのは、このような「自炊」とは、一部の極端な愛好者しか手を染めない行動ではないことだ。これまで多くのメジャーな新聞が特別に記事を組んで取り上げている(「朝日新聞」8月19日、「産経新聞」9月25日、「読売新聞」9月27日、など)。さらに、巷では「自炊」するためのスキャナー、はたまた専用の書籍裁断機が売られ、インターネットでは「自炊」請負の有料サービス(一冊100円が相場だとか)の広告が打たれている。

ここでは、まず社会生活としての「自炊」の文化的な側面を眺めてみよう。「自炊」という行動が行われる理由は、いうまでもなく日本の電子書籍環境にある。すなわち書籍を電子の形で購入、閲覧、保存といった技術的な手段が確保された今、これに対する需要が確実に存在しているにもかかわらず、出版社などは、さまざまな理由によって、電子出版には頑として取り掛かろうとしない。一方では、読者の人々はなんらかの方法で電子出版や流通を後押しするのではなく、在来の書籍を購入して、電子化を各自の手で仕上げてしまうという形で対応した。この方法は、電子の媒体の根本的な特徴(複製や流通の利便性)を無視し、各自でデジタル化するという途轍もない無駄を厭わない遠回りなものだ。この行動自体は、一つの意思表現である。その裏には、一種の文化的な矜持が伴っていよう。「自炊」を謳う議論は、電子データの流通どころか、その交換や再利用などにはけっして触れない。電子メディアにおける著作権のことに不確定なところがあるかぎり、それとはいっさい関わらないところに立場を持ち、書籍を実際に購入して、それ相応の代償を支払った物理的な証拠を手にしたことで、著作権侵害のような非難はけっしてさせないという潔癖志向が、ここから否応なしに見受けられる。

話を言葉の領分に戻そう。一つの新語として、「自炊」はまさに不思議だ。まずは確認しておくが、電子書籍の手作りを指すこの言葉の構成は、まったくのデタラメでもない。その由来は、書籍から電子データを「自」分で「吸い」あげることにあったとされる。ただ、この場合、それが「自吸」でもなければ、「ジスイ」でもないことが、ミステリアス。考えてみよう。これまで存在しなかったことを言い表すために、それに対応する表現が必要となり、新しい言葉が誕生する。それにはおよそ三つのあり方が考えられる。既存の言葉の流用、言語ルールに沿った活用、そしていっさい存在しなかった言葉の創出である。それぞれ実例を挙げてみよう。既存の言葉の流用は一番多く、たとえば携帯電話を指して「電話」が用いられ、やがてこれが普通になって、在来の電話が「固定電話」と修飾的な工夫を施さざるをえない。これに対して、二番目のものは言語ルールに沿った活用があり、言葉の活用が魅力的で知的な要素が多い。最近気づいた例で言えば、「就職活動」が短縮して「就活」となり、これに習って「婚活」が語られ、やがて今時の若者の気質を表わすものとして「恋活」が造られる。三番目は一切存在しなかったものを編み出すもので、「KY」などがまさにその典型だ。以上の形で新語のありかたを捉えるものならば、「自炊」はそのどれにも当てはまらない、まさに特殊なものだ。一つの新しい出来事を指しながら、すでに存在していて、頻繁に使われ、かつ意味の関連がまったくない言葉を用いる。しかも、これをもって電子書籍の自作を意味させても、食事を自分で作るという言葉になんらかの影響を与えようとするわけではなく、それと区別を持たせようともしない。一種の言葉の乱暴な応用だとされてもやむをえない、言葉のありかたとして、はなはだ異様なものだと言えよう。

裁断され、スキャナーに掛けられ終わったページの集合は、書籍の変わり果てたもので、もはや書籍とは言えない。だが、それがちり紙として捨てられるのではなく、束ねられて古本屋に流されるとウワサに聞く。つねに電子書籍に惹き付けられている筆者ではあるが、「自炊」という名の、本を裁断することから始まる、本とは言いようのないこの極端な付き合いには、どうしても拒絶感を禁じえない。これなど、ただの愚痴にしか聞こえないのだろうか。

つぎの「リレー随筆」は、ヨーク大学の矢吹ソウ典子先生が快くバトンを引き受けてくださった。いつも学会で刺激の多い発表を聞かせてくれるが、どのようなことを書かれるのか、いまから楽しみにしている。

CAJLE Newsletter No. 41・2010年12月