2012年4月29日日曜日

地図を片手に

早くも五月の連休も始まり、外出など地図を片手にする機会はかなり増えた。冊子の地図はとっくに日常生活から姿を消し、行く先々を予想してそれを携帯デバイスに取っておくというやりかたもあっという間に通り過ぎて、いまや携帯電話を握り、歩いたり、バスやタクシーに乗ったりする間に、GPSの機能まで活用しながらの地図遊びである。まさに日進月歩だ。

考えてみれば、地図とは単純でいて分かりきった性格の情報を扱うもので、差をつけることが難しい分野だ。しかしながら、じっさいに冷静に観察すれば、これほど多岐にわたる微妙な内容をバランスよく対応しなければならないことが要求される作業は、また稀だ。国際紛争や宗教信仰まで巻き込んだ地図情報の処理などは別格として、身の回りのものでも、地形、道路情報、店舗の宣伝など、オリジナル内容に事欠かさず、一々提供者の感覚が問われる。その出来栄えやデータの質を見極めるための比較分析を始めれば、興味が尽きない。しかも開発者の立場を想像すれば、あれだけ膨大な内容を無料で提供しているものだから、ユーザー獲得が至上の命題であれば、より自由なオンライン・オフラインの切り替え、写真や書き込みが自由にできるソーシャル環境などでユーザーを囲むのが当たり前だが、まだまだこの先に道のりが長い。

友人から転送されてきた地図がヒントとなって、はじめて「ヤフー地図」を開い120429た。最初の検索画面ですでに躓き、地図が出てこなくて文字ばかりの地名のリストなどが溢れ出て戸惑いを感じた。しかしながら、いざ地図に入ってしまえば、嬉しい発見は少なくなかった。スケール変更のバーに「市町丁目」との分類が入っていることは、新鮮で分かりやすい。そして何よりも、近辺の山間の散歩路について、グーグルもbingも乗っていない情報が掲載されていることには少なからぬの驚きを覚えた。見比べる内容がまた一つ増えた。

2012年4月22日日曜日

議論の時間

普通の外国での研究滞在ではとても簡単に体験できないことの一つに、集中したテーマの下に企画された研究会がある。いまの京都生活では、上質なそれをかなり頻繁に経験している。学際的な交流を目指して、第一線の研究者たちが各地から集まってくる。今日も、ただいまそのような研究会での発表を終えてきたばかりだ。30人近くの方々が集まり、しかも半日かけて、自分の発表一本のみという、なんとも言いようのない贅沢な交流の場だった。

普通の研究会なら、議論の時間となれば、せいぜい10分や20分だろう。それが、このような集まりとなれば、知らないうちに一時間も平気に流れてしまう。この時間の長さの差は、言葉通りに議論の質と密度を変える。二回も三回も発言する時間が持たれるものとなれば、忌憚のない質疑がいとも簡単に飛び出してくる。それは発想の根底を問うものであったり、違う分野だからこそ口に出来る常識だったり、率直な異論だったりと、尽きることがない。思い切って問題提起したことを、しっかりと受け止められ、たしかな言葉で評価や批判が戻ってくることは、なんとも心地よい。しかもそのような議論が交わされたからこそ、質問しようとしてもついに口を開かなかった人も、終了したらなにげなく新事実や違う立場からの観察、異なる経験から培った薀蓄を教えてくれる。新たな発想を得ることも大事だが、問題意識を研究者同士で確認しあい、進行中の作業を見直すことは、掛け替えのない経験だ。すべてゆっくりした議論の時間の確保が、欠けられない前提の一つだ。

研究会参加者の多くは、数時間もかけて電車などを乗り継いでやってきている。それぞれの職務は、多忙を極めることを想像し難くない。それにもかかわらず、休日の週末にこれだけ時間を割いてしまうことは、これまた自分ホームではちょっぴり想像出来ない、いかにも日本的な日常風景なのだ。

「夢と表象」

2012年4月14日土曜日

美術館のストリートビュー

この一週間、京都は桜満開を迎えた。その中で飛び込んできたニュースの一つに、あの「Googleアートプロジェクト」に日本の美術館・博物館がついに登場したものがあった。美術館へのデジタルなアクセスのこの新しいあり方を時折周りに説明しているだけに、日本の美術館の仲間入りは、この上なく心強い。しかも東京博物館など日本を代表するところが率先して参加していることは、嬉しい。

120415いまのところ、この「アートプロジェクト」で公開している作品数も、そして画像の画質でさえ、三年ほどまえから公開している「e国宝」には及ばない。しかしながら、美術館の所蔵品というよりも、美術館の中そのものを自分の足で歩き回るような、あるいはゲームなどでよく使われている仮想世界の中を散歩するような形で見て回るものだから、はたして現実なのか、それともデジタル世界の中の空想なのか、錯覚に襲われるところが、なんとも言いようがない。美術館の中についてのこの表現の方法は、いうまでもなくあの「ストリートビュー」の技術をそのまま応用したというだけのことだ。ただ、公開した街の風景と違い、密室の、見せるために構想され、構造される空間を対象にするとたんに、それはすでに「ビュー」(眺める)ではなく、「覗く」こととなり、見る行動にまったく異なる側面が付け加えられることになった。あのストリートビューでは、たとえば文章を読んだり、動画を見たりすることよりも、町角の様子を延々とずっと眺めていくというような使用の仕方がすでに行われていると聞く。それと同じく、あるいはそれ以上に、美術館を一つの完成された作品としてじっくり眺めていくというインターネットの使い方は、これによって可能になってきたことだ。

現在公開中の「アートプロジェクト」は、日本語ページはあることはあるが、英語の言葉を半分以上はただ単にカタカナ語に置き換えたのみのもので、分かりやすいというにはほど遠い。日本語ページでいなが美術館の名前は英語のままであったり、あるいはその美術館リストにたどり着くためには、「コレクション」という項目を選ばなければならなかったりなど、日本語の使い方を丁寧に守っていない。このような言語表現の未熟さをユーザーたちがどのように受け止めることだろうか。あるいはこれ自体、一つの新しい技術が生活の中にすこしずつ入っていく過程の象徴的な現象だと考えるべきかもしれない。

「日本経済新聞」より

2012年4月8日日曜日

デジタルの虫干し

週末にかけて行われた研究会の席上、発表者は一つのじつに興味深い表現を持ち出した。いわば「デジタルの虫干し」。日々変わり続けるデジタル環境に身を置かれて、それを仕事の大事な手助けとしながらも、これまでこなしてきた作業は、信じられないぐらいのスピードで置き去られ、いつの間にかまったくアクセスしなくなった。過去の産物になったデジタルものを取り出し、あくまで保存するという目でこれを「虫干し」するという発想、そしてそのような実際の実践は、まさに切実な課題であり、言葉の妙を尽くす。

発表者が実際に着手しているのは、むかしに作成され、いまは使わなくなった記録メディア、知られなくなったフォーマットで記録されたものを対象に、それらを現在汎用の記録メディアに移し、かつありったけの手がかりを使ってそれらを照合したりして、その中身を特定するという、聞くだけで気が遠くなるようなものである。いうまでもなく、この作業の直接な目標は保存であり、これまでの研究や制作の仕事の総点検などにはとても及ばない。それにしても、このような作業の大事さは、感覚的に聞く人々に伝わる。デジタルの環境が普通の意味で普及になったのはわずかに十数年、でもこの間に、周りのありかたはどれだけ変わってきたのだろうか。ずっとなんらかの形でこれに携わってきた者にとっては、まるで何世代も生き抜いてきた感じであり、しかも作り上げたものを存続させるためには、これまで以上にさまざまな形で智慧を働かさなければならないと実感している。そのために、デジタルの虫干しは、まさにデータを救う、拾う、再発見することを意味し、大きな研究機関などに止まらず、心ある個人一人ひとりも遅かれ早かれ真剣に取り組むべきものなのだ。

デジタル環境にめぐり、考えるべきことはあまりにも多い。しかも時間に追われる日常において、立ち止まって振り返る余裕は、意外と持たない。「虫干し」とは直接に関連を持たないが、最近ささやかな一文を纏めた。興味ある方はぜひどうぞご一読ください。

「デジタルの提言」(『日文研』48号より)