2017年3月25日土曜日

絵を詠む西行

遠い昔、絵はどのように愉しまれていたのか、ずっと深い関心をもつテーマである。さまざまな人間の、多岐多彩な時や場における絵鑑賞の記録は、無数にあるようでいて、どれも断片的なものばかりである。なかでも、絵に描かれた絵の鑑賞となれば、まずは間違いなく限られている。ただ、西行にまつわる記述は特筆すべきものだと記憶しておきたい。

「西行物語絵巻」第一段に記される経緯は、およそつぎの通りである。新たに作製された一連の障子絵を披露して、鳥羽院が名高い知識人たちを一堂に集め、歌を詠ませた。その席に、身分としては遥かに低い義清にまで同じ機会を与え、そして献上された歌は、群を抜いて素晴らしいものだった。文武に長ける若き日の西行の身の上を語る伝説的なエピソードである。この様子を伝えて、長文の詞書は、十首の歌をそれぞれに対応する障子絵の内容とともに収録し、絵は上部三分の一程度の空間を惜しみなく用いて障子絵を丁寧に描き込んでいる。ただ、建物の曲がり角に雪と梅の絵が隠され、満開する桜を月の下で一人の男が眺めるという構図がまず目に飛び込んでくる。詠歌をもって絵の鑑賞とする貴人たちは、横一列に並んで絵に対面する。対して、主人公の義清は、身分の差がその理由だろうか、その姿を一列の公卿の中に認めることはなく、しかも詞書によれば、「その日のうちに読つらね」たものだと、絵の前から離れての詠歌という行動だった。

いまや東京にはまさに花見のシーズンだ。ラジオから伝わるニュースによれば、毎年ながらの開花標準木は、なぜかフライングとともに語られている。いずれにしても、いまだ雪が残るなか、桜満開の様子を想像しているいまこのころである。

2017年3月18日土曜日

絵巻と漫画が出会う

すでに四年目になるが、職場の担当教員と力をあわせ、ささやかな日本文化シリーズと名乗るものを打ち出し、年一回、授業では扱いきれないものを取り出して語り聞かせている。絵巻に集中したいものだが、さほど予備知識を持っていない若者には、もうすこし取っ付きやすいとの想いから、つい漫画まで付け加えた。たどり着いたタイトルをそのまま日本語に訳したら、上記のものとなってしまう。

絵巻というものはけっして一纏めに括りがたいのと同様、漫画の内容も表現形態も多岐にわたり、全体像を概観するのは、考えようによっては遥かに難しい。読者それぞれの立ち位置や読書経験により、人それぞれの漫画像を持っていると言って良かろう。しかも英語圏に身を置いてみれば、英訳一つ取り出してみても、ページめくりから議論を始めなければならない。思えば気が遠くなるテーマだ。わたしの場合、平均的な北米の日本語学習者に向かってこれを語れば、まずつぎの二つの事実を触れておくことにしている。日本における漫画は、専門週刊誌の存在、単行本の値段、それにゴミ捨て場の様子などから分かるように、消費するものである。それから、成功した漫画は、紙媒体に止まらず、アニメ、ゲームなど隣接の媒体に越境するものである。この二つのことさえ気づいておけば、漫画を見る目は大きく変わるものだと言えよう。

週末にかけてパワーポイントの準備に取り掛かっている。今度は画像中心のレイアウトを試みた。さらに、絵巻の展開、漫画上のスポットライト、動く四コマと、違うタイプの動きを取り入れている。どこまで聴く人に伝わるものだろうか、楽しみだ。

Scroll Met Comics

2017年3月11日土曜日

日本語弁論大会

毎年のことだが、いまの時期は学生を巻き込む行事が多い。中でも、個人的に関わったことだけでも二十回以上数える日本語弁論大会は、先週の週末に開かれた。今年の開催地は、北へ三百キロ離れた州都の町。大型バスをチャーターして乗り込み、日帰りで集中的に参加してきた。

学生たちは、学習歴にあわせて、3分から5分の自由テーマのスピーチを用意して披露する、というのがこの行事のスタイルである。語学力が限られるなか、じつに多彩なスピーチが語られたものである。遠く離れた故郷の風景、新たに覚えた日本語の表現から得た思考、外国体験の記憶、カナダに移り住む移民としての経験と苦悩、どれも真摯な話ばかりである。中でも、直接に教えた学生の一人の話には、とりわけ思いに残るものがあった。前学期、現代文学のクラスで何気なくとある受賞小説のことを触れたが、学生はそれを探してきて実際に読んでいた。小説で取り上げられた現代日本の若者の気質をめぐり、個人的には腑に落ちないところがあり、たまたま秋の学会で講演をなさったかなり知名な学者に思い切って質問したことがある。そのあと、同じ学者は、「平等に貧しくなる」との考えを公にして、かなりの議論を巻き起こしている。さいわい、学生のスピーチは、日本とのつながりや日本への関心というかなり積極的で前向きな読み方を示したものであり、内心大きくほっとした。

弁論大会の様子を記してビデオを撮影し、それを大学の公式サイトで公開している。興味ある方は、ぜひ一度アクセスして見てください。

2017 Japanese Speech Contest Held

2017年3月4日土曜日

中世化する現代

すでに六週間ほど前のことになるが、京都への研究会参加のおり、貴重な思い出があった。懇親会の席上、研究所に新しく着任された中世歴史専門の若い学者に紹介され、短く会話を交わした。しかもその翌日のコーヒーブレイクにおいてもさらに会話が続き、目下取り組む研究課題のキーワードまで教えてもらった。その方の近著はしかしながら普通の読者に広く読まれるベストセラーになり、しかもなんと今週のNHKのニュースにまで取り上げられるまでに至った。少なからずに驚いた。

著書のテーマは、あの応仁の乱。研究書が一般読者に受け入れられるという、やや意外で、しかし大いに喜ばれる事象に直面すると、ベストセラーの作り方、宣伝の戦術、いまならではの情報伝達の特徴、そして学問のあり方やそれへの眼差しなど、さまざまな方面から語られるようになる。その中で、とりわけ目を引いたのは、このテーマが読者の心を掴み取ったこと自体を、一つの文化的な事象として捉えようとする分析の仕方だった。さまざまな読者の声が紹介され、個人的に印象に残ったのは、その中の一つである「中世化する現代」という文言だった。言おうとすることは、いまの世界規模で起こっている価値観の変化や秩序の変容の兆しへの不安であり、そのような感覚を中世へのイメージの重なりを見出そうとしているものだろう。いわく、中世とは、支配する権力はなく、自分で生き抜くべき乱世だとか。はなはだステレオタイプ的な中世観だが、このように認識されているものだと、むしろあらためて認識させられた思いがした。

NHKテレビ番組の報道の掴みは、事件の年を覚えるための、「人世虚し」の一言だった。はっとした。歴史入門のクラスで、応仁の乱にはいつも一時間を割り当てている。しかしながら、年号を覚えようとする努力を自分ではしていなくて、学生たちにもさせてはいない。ただこのようなフレーズをたまには取り出すのも興味深いと、まずは記憶に止めておこう。

新書が20万部超のヒット