2013年8月31日土曜日

IT教室

今週は、教室の使い方についての説明会に二つも出た。新学期の始まりにあわせて、新しいIT教室が出来上がった。これまで十五年も近く使い続けてきた、当時はかなり評判だった部屋を全面的に作り変えたものである。隣のスペースまで使えることもあって、部屋が広くなり、かなりの予算がつぎ込まれ、最新の技術が結集された現代風の空間の出現である。

教室の全体構成はこうである。最大36人のクラスのために六つのテーブルを用意し、それぞれにはテレビサイズのタッチスクリーンと独立したパソコン、それにキーボード、マウス、マイクなどのスタンダードな入力装置を備える。両側の壁には投影スクリーンと大画面テレビを据え付け、残りの壁には白板代わりのガラス板を張り巡らす。これらの器具の起動にコントロールボートを用い、パソコン同士の連結は専用のソフトに頼る。言い換えれば、いわゆる現在の技術というのは、大きいサイズのタッチスクリーンと、複数のパソコンを繋げる専用ソフトである。パソコン同士の交信はあくまでもインターネットの規格に基準し、したがって独立したテーブルは教室の壁に限られるものではなく、汎用のソフトを用いて簡単に果てしないところまで伸びていく。

教室の中に座って、ついついこれまでの二十年の道のりを想起した。技術的な進歩といえば、テープからデジタルということにつきるが、これにあわせて、昔の「LLラボ」がいまの「IT教室」になった。言語専用のものから総合の教室になり、教師と学生個人との会話からグループ活動がメインとなる。自明のことに、グループ活動の教室では、教師一人でしゃべるだけのスタイルは、すでに通用しなくなった。新しい教室の登場は、教師への新たな期待と要求をかなり具体的な形で提示しているものである。

2013年8月24日土曜日

サイトアドレス

オンラインで公開されている古典資料は、日増しに増えている。一部の分野では、デジタルしか利用できるものがないぐらいのレベルに達している。伝統的な研究にデジタルを持ち込もうとすれば、さまざまな課題に直面せざるをえない。たとえば、一編の論文の中でサイトアドレスをどう表記すればよいのだろうか。縦書き文章の中の英数字云々ではなく、まずは、暗号みたいなアドレスで読んでいても意味が通じず、読者がそれをパソコンに入力できるとはとても思えない。

具体的な一例に沿って考えてみよう。早稲田大学図書館では、「後三年合戦絵詞」の模写を三点所蔵し、デジタル公開をしている。三点はそれぞれ題名にわずかな違いを持ち、中の一点、「後三年絵巻」のサイトアドレスは、つぎの通りである。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_01981/
特殊な記号を含まず、意味がなくても再現しやすいほうのものである。そこで、紙媒体のための論文引用に、つぎのようなスタイルを試した。

・ 早稲田大学図書館蔵「後三年絵巻」(「早稲田大学古典籍総合データベース」)

簡単な説明を添えたが、要するに普通の検索エンジンに「早稲田大学古典籍総合データベース」という大学図書館運営のリソースにアクセスさせ、その上で「後三年絵巻」というタイトルの検索でデジタル公開に辿りつかせるものである。上記の数字だらけのアドレスの代わりに、読んで分かるようなリソース名とタイトルを提示し、読者に二回ほど検索をしてもらうものである。ただし、検索エンジンに掛けた結果と言えば、グーグル、ヤフーなら、
「古典籍総合データベース - Waseda University Library - 早稲田大学」
bingでは
「古典籍総合データベース - Waseda University Library」
という条目があがってくる。そのため、大学リソース名に「古典籍総合データベース - Waseda University Library」ということを指示してもよさそうだが、それぐらいの判断は読者に任せて、その代わりに読みやすい、分かりやすい、という意味で日本語と英語の混在や半角スペースなど省いたほうが望ましいのではないかと判断した。

このスタイルでは、検索エンジンやその表記の方法、リソースの題名が固定して変化しない、しかも読者はある程度表記の揺れに対応できる、という二点を前提とする。いうまでもなく、この二点とも、紙媒体に印刷されたリソースならまずは現われてこない問題であり、これまでの表記の規範からすれば、ちょっぴり外れたものだ。電子媒体だからこそ必要とされるものであり、はたして効果的かどうか、ささやかな提言をし、その結果を期待したいものである。

2013年8月17日土曜日

青空文庫

新学期が近づき、あれこれと講義の準備を始めている。今年の担当の一つは、近代文学。英訳が読めるということが条件だが、それでもやはり自分が受けてきた教育が大きく影響して、どうしても漱石や芥川あたりを持ち出したくなる。そして、そうなれば、あの「青空文庫」の存在が大きい。最近には、汎用のブラウザ仕様の縦書きサポートまで開発され、それに載せれば、読みものがまさに横に開く文字の巻物さながらに展開されてくる。大きな文字サイズも加わり、並たいていの文庫本よりはだいぶ読みやすくて、見えが良い。

いつの間にか青空文庫はすっかり一種のスタンダードになった。面倒な著作権の議論をきれいにすり抜けて、名作に気楽に、気軽にアクセスさせてくれるということで、どれだけ社会に恩恵を与えていることだろう。このころ続出する電子リーダーなども、まずはこれを取り入れることによって最小限のものを用意し、電子読書を実際に体験させている。そして、これのおかげで、世界で見ても、日本の名作のデジタル化がさほど遅れていない結果になった。一方では、古典作品が対象になっていることはやはり気になる。どこまで読まれるかという読者側の問題もたしかにあるだろうけど、古典の名作があまり知られていない近代の作家の習作よりも読者が少ないとはとても考えられない。底本の問題だって、著作権切れのものが十分に存在しているはずだ。なにかの形で始められないかと、願ってやまない。

このようにあれこれと考えているうちに、青空文庫の創設者の訃報を読んだ。しょうじき驚いた。関連の報道などは、青空文庫創設が1997年だとくりかえし伝えている。思えば、あの時期に個人的にも近代文学の名作をデジタルにして公開するような試みをし、その中で青空文庫の存在を知って、まとめてやっている人がいるのだと、ほっとした記憶をいまでも覚えている。しかしながら、その創設者の名前を知っていても、公開講演を聴くなどの機会もなかった。残念でならない。

2013年8月10日土曜日

月は草の中

水の中の月なら、ありふれた景色である。ハリウッド映画を見れば、それが大手制作会社のロゴにまでなっている。一方では、たとえば草の中の月となれば、どうなるのだろうか。水のと同じアプローチなら、さしずめ金色に輝く草の表面を、というのもあるだろうけど、どうしても腑に落ちない。

130810そこで、「武蔵野図屏風」を知り、なるほどと思った。正直に言えば、解説を読むまでに、草の中の真ん丸い黒い物体の存在にすぐ気づいたが、それが月だと思いも寄らなかった。まさに石ころでもなければ、描きそこなった結果でもないだろうし、山とペアとなっていても、それの影にしは輪郭が違いすぎる。そこで月だと教わった。しかも調べてみれば、これは広く用いられた決まった模様であり、月を表現するエレガントなパターンだとされていたのである。ビジュアル表現の奥深さは、ここにもちらっと顔を覗かせた。

しかしながら、最初の一瞬だったにせよ、当惑の思いは、構図の奇抜さと、下手をすればその難解さを伝えているに違いない。じじつ、毎日の夜の散歩では、このころとくに晴天に恵まれ、よく月を眺めたものだ。広大な芝生の中を一周するのだから、見る角度も違う。もちろん足元には繁々とした草。それにしても、このような構図にはとても着想がいかない。そこで短い草と月、どのような表現がありうるのだろうか。まずはカメラを持ち出してそこからアングルを考えたいものだが、そうすれば、神秘な表現からはすでに一歩遠ざかった結果にならないのだろうか、答えが見えてこない。

武蔵野図屏風」(東京富士美術館)

2013年8月3日土曜日

石弓

絵巻ってユニークな文献である。その基本は、文字と絵をもってともに同じストーリを記し、そして物語の展開にしたがって文字と絵が繰り返される。このような記述の直接な結果の一つには、絵巻が作成された当時における言葉とそれが指し示めす実物との明らかな対応がある。とりわけ失われた物事となれば、このような対応はじつにありがたい。ほんのささやかな一例は、戦場が交わされた「石弓」があげられる。

130803「後三年合戦絵詞」は、石弓にまつわる具体的なエピソードを残している。景正という武士は、先祖伝来の兜を被って戦いに出たが、その兜が石弓に打たれ、戦場に消えた。命が間一髪で救われたことと、絶世の名品が滅びたことが混ぜ合わせた複雑な感情がこのエピソードを際立たせた。ここに石と弓との組み合わせからは、なかなか具体的な武器の様子を思い浮かべることが難しい。幸い、そこに絵があった。兜を射落としたのは、大きな石の塊であり、それが頑丈に縄に縛られている。一方では、弓の様子が分かったところで砦のほうに目を移れば、そこに同じような石塊がたしかにぶら下がっている。しかも同じ絵巻の中で何回も描かれた砦の様子には、同じ物体はくどいほど繰り返された。いうまでもなく、石を射るのではなくて、あくまでも落とすものだから、現在の感覚でいう弓にはほど遠いものだった。

言葉と絵との対応をはっきりさせることは、絵巻を読むための最初の一歩のはずだ。このような考えの下で、「ウィキ絵巻」という小さなサイトを開設した。オープンのシステムなので、感心ある研究者が同じ作業に参加することにも簡単に対応できる。このブログの右にリンクを添えた。それに、これの開発にあたっての考えなどを、新刊『デジタル人文学のすすめ』に記した。

ウィキ絵巻