2008年3月29日土曜日

蘇我入鹿の暗殺現場

千四百年もまえに起こった大化改新につながる蘇我入鹿暗殺の現場など、現代のわれわれにはとうてい覗きようがない。しかしながら、それがかつて絵巻に描かれていたのだ。それもさまざまな規模の戦乱が後を絶たない物騒な室町時代に作成されたものだから、やはり特別視しなければならない。

じつはこの話題を持ち出したのは、一昨日の朝日新聞(関西)オンライン記事である。談山神社が所蔵する「絹本著色多武峯縁起」が、28日に「中世の社殿縁起絵巻の優品」として奈良県の県指定文化財となったものである。注目度の低い一点の絵巻がクローズアップされて、嬉しいかぎりだ。

上の記事では、絵巻上巻之ニから一つの場面を選んで併せて掲載した。それはほかでもなく鎌足や中大兄皇子らが入鹿の首をはねる場面である。畳の上正座していた思われる入鹿は前屈みになって倒り、冠は畳の外に放り出され、体・両手・冠という四点に囲まれた真ん中は、首を失った真っ赤な胴体の切り口だ。思わず首の行方を探すが、それはなんと上向きのまま高々と空中に飛び上がった。目を背きたくなるような、凄まじくい構図だった。

残虐性とは、間違いなく中世の絵巻の特徴の一つである。さまざまな倫理の制限を受けて、今日のビジュアル表現ではまずは不可能に近いようなものであり、その分、戦乱に満ちた世の中の息吹を強く感じさせられるものである。いわば中世と現代との感性の距離を極端に示していると捉えられよう。

因みに同じ絵巻は、「奈良地域関連資料画像データベース」の一点として奈良女子大学図書館によって早くからデジタル化され、オンラインにて公開されている。

蘇我入鹿の暗殺描いた絵巻秘蔵500年ようやく光(朝日新聞・28日)
絹本多武峯縁起絵巻(上下巻4巻)

2008年3月26日水曜日

デジタル情報の担い手・その二

数ヶ月前、同じタイトルで書いてみた(2007年12月16日)。去る日曜日のチェスタービーティー・ライブラリーでの研究発表では、その文章で述べたいくつかの要点を触れた。発表が済んだあとの夜の飲み会で、図書館の運営に携わったある方と興味深い議論を交わすことできた。同じことに対する違う立場からの鋭い視線を教わり、ぜひともここで紹介したい。

<前回に書いたことの引用>
「たいへん貴重なデジタル情報を提供していながら、それをなんのために提供しているのか、図書館という役目には沿っているかどうかということに、曖昧なままに続いていることが読み取れる。」
<ご指摘>
図書館の運営だって、大学なり政府機関なり、それの母体があるものだ。そのような機関の思惑、方針、ひいては利益が図書館の運営に反映されることを見過ごしてはならない。
<コメント>
社会の一部分である図書館である以上、すべて図書館の倫理だけで動くことができないことに気づかされた。ならば、良識ある意見を図書館のみならず、社会全体に訴えるべきものだ。

<引用>
「これまでのデジタル情報の公開者からは「公開されたものが悪用されはしないか」との心配はよく聞かれる。」
<ご指摘>
文明の進歩という目で見れば、「悪用」だって一種の情報応用であり、それをすべて除外するわけにはいかない。
<コメント>
まさに情報を取り扱う立場からの発言であり、寛大な心を表わしているだけではなく、文明進歩の本質を見極めた上での発言だと言いたい。悪用とは悪だと、良識をもつ人なら判断できるはずだ。しかも、価値ある情報は、悪用までされれば、「善」用が必ず付くものだと信じて良かろう。

<引用>
「それのもっとも端的な動きは、グーグルと慶応大学図書館との共同作業だろう。」
<ご指摘>
営利を目的とする一会社が、営利の見込みなど到底ない分野への進出は自ずと限界があり、そのうち失敗を悟って撤退するのではなかろうか。それに翻弄されないことがむしろ大事だ。
<コメント>
情報の使用者である読者の目とそれを管理・提供する図書館の役割との距離を端的に感じさせられた見解である。問題の本質をよく考えているだけに、傾聴すべきだ。ただ、あえて反論を加えよう。ここの「商品」とは、人間の知恵の集合であるだけに、たとえ営利という目標が成功しなくても、その成果が完全に切り捨てられ、なにも残らないという結果にはならないことだろう。まして、営利としても成功するというシナリオを完全に除外することなど、まだ早すぎる。現にわれわれの目の前には、JSTOR (Journal Storage) 、CAJ (China Academic Journals)といった成功したビジネスモデルがすでに存在しているものだから。

なお、このような交流ができることは、まさに学会ならではの魅力だ。ブログの性格上、個人名を記さないが、つたない発表をここまで聞いて、正面から反論を聞かせてくれたことに深く感謝する。

2008年3月23日日曜日

チェスタービーティー・ライブラリーより

いまは、アイルランドのダブリンにあるチェスタービーティー・ライブラリーに来ている。国際会議に参加するために、約一週間の滞在となる。貴重書閲覧室、特別展示ホール、そして学会の会議室に出入りする、まさに夢のような時間の続きである。

ライブラリーは、2000年にここダブリン城の一部となる広い庭園に建てられたビルに移ってきた(写真)。展示などはすべて無料で公開され、観光客の訪問も後を絶たない。チェスタービーティーという名をもつコレクションは、2万点以上の書籍、美術品からなり、まさに量・質ともに世に誇る。紀元2世紀に遡る聖書などをはじめとする十の西洋のコレクション、二つのイスラムのコレクション、中国、日本、チベット、南アジアの四つのアジアコレクションに分けられ、日本関係のものの中では、写経、浮世絵、鍔などの古書、古美術品に並んで、約120点に及ぶ絵巻、御伽草子(英語の説明は「Nara Ehon」)が入る。この「奈良絵本」作品群こそ、日本中世の研究において過去四十年多大な注目を集めきたものであり、しかもNHKの特別番組、天皇陛下のご訪問、作品の里帰り展示や修復など、広く紹介され、その都度話題になるものである。一方では、普通の人々の知識にあまり上らないこともたしかで、たとえば観光客のほぼ一人一冊持っているあの観光ガイドブックも、かなりの文字数をこのライブラリーに使っていながらも、絵本などの文字はついに現れていない。

記憶の中では、チェスタービーティーという名前は、学生時代の恩師への思い出、仕事駆け出しころの掛け替えのない出会いなどに繋がる。それらを思い起こしながら、ここ数日、資料調査では数々の名宝、秘宝をじっさいに自分の手で披いて拝見し、学会や懇親会では過去四十年の間にそれぞれの研究に携わってきた研究者本人の思い出や報告を聞き、思いを整理するには数倍の時間が要るような充実で至福な時間を過ごしている。

わたしの発表は今日の午後と予定している。そのテーマは、「御伽草子研究におけるマルチメディアのアプローチ」。ここで数回書いた「音読・義経地獄破り」も発表の一部として報告する。この素晴らしき古典コレクションが、自分のやや一人よがりなアプローチまで受け入れてくれることを内心に祈りつつ。

March Nara Ehon Conference

2008年3月18日火曜日

『義経地獄破り』雑感(宮腰直人)

今回、楊さんのお誘いで、勉強し始めた頃から関心を抱いている『義経地獄破り』の現代語訳の「音読」を試みる機会を得た。不思議な魅力をもつ、「音読」の世界にふれる貴重な機会をくださった楊さんにまず感謝申し上げたい。

「音読」をやってみてわかったことは、声をだして物語を読むという行為が思いのほか楽しいという事実である。たどたどしくも文字を声に変換し、物語を追いかけることが、テキストの起伏を丁寧にたどることになる。テキストにいつも声が従うわけではない、むしろ、慣れない音読においては声がテキストを省略したり、言いやすい言葉に言い換えたりする。物語の見せ場では気分を高揚させるし、教えが示される場面では、一つ一つの言葉を味わいながら、じっくりと読むことになる。「音読」は、自分のなかの「語り手」と「読者」がせめぎあう様を発見する装置となるのだ。今回の音読によって、例えば怪力の武者たちが勢ぞろいする、地獄の門破りの場面はやはり盛り上がる場面だったのにちがいないことを実感した(「動画絵巻」 2008年3月12日)。

物語の読者が語り手でもある――ごく当たり前のことのようだが、現在の私たちには、案外実感としてつかみにくいことのようにも思う。テキストに導かれるままに「音読」すると(忠実に「音読」することは難しいと痛感)、そこには読み手の力量に応じた物語の世界がそこにあらわれる。読み手の数だけ、そこに物語が生まれるのである。滅多に紐解かれることのない、「秘蔵」の絵巻も含めて、一巻の絵巻、一册の絵本に秘められた様々な可能性が探られてよい。「音読」は、その試探の重要な手がかりの一つなのである。

ささやかな「音読」体験からは、テキストの言葉が、時間や場所、相手等、状況に応じて変換し得ることがすぐに想像される。さらに『義経地獄破り』が絵も伴うことを加味すると、テキストの言葉は、周囲に絵があったかどうかでもその改編の度合いは異なっていたのだろうことが想像される。中近世の文芸、とりわけ絵巻や絵本には、言葉と絵、そして音声と、様々な語りの媒体をめぐる、たいへん興味深い問題が横たわっている。テキストを尊重しつつ、「音読」から示唆される、柔軟性のある物語経験を捉えてみたいと思う。

さて、じつは『義経地獄破り』には、物語内の私たちの代理人ともいうべき、「修行者」がいる。詳しくは『甦る絵本・絵巻義経地獄破り』を参照して頂きたいのだが、少年姿の「修行者」によって、読者は存分に義経達の活躍を楽しむことができるのである。私が夢想するのは、彼になりきって、地獄破りの物語内外に溢れていた声や音に耳を傾けることである。この点につき、注目すべきことがある。それは、前後関係は定かではないものの、『義経地獄破り』が古浄瑠璃正本でも刊行されていたことだ(『新群書類従』九)。太夫により語られ、人形によって演じられた義経の地獄制覇の物語は、絵本の読者たちとどう響きあっていたのだろうか。

「音読」から絵巻や絵本の世界にふれるとき、黙読とは異なる、もうひとつの親密な物語の世界が開けてくることは間違いない。ただし、それがかつての読者たちの経験とどこまで重なるかどうかは慎重にならざるをえないのだけれども――『義経地獄破り』を人々はどう読んでいたのか。あるいは絵本の作り手たちは、どんな思惑でこの物語を送り出したのか。この問いを考えるヒントは、どうやら古浄瑠璃正本『義経地獄破り』の「音読」にありそうだと、今密かに考えている。

【「音読・義経地獄破り」共同作者の宮腰さんが原稿を寄せてくださった。深謝。】

2008年3月15日土曜日

ニュースガジェットに「絵巻」をみる

デジタル環境の特徴の一つは、目まぐるしく変わっていることだ。いつの間にかまったく新しいコンセプトが現われてきて、あっという間に日常のスタイルを変えてしまう。「ガジェット」というのも、その一つだと数えられよう。日本語としてどうも響きがしっくりとこないが、これも間違いなく適当な訳語が見つからないまま、カタカナ新語リストに加わることだろう。

ガジェット(gadget)とは、道具、装置、仕掛けのこと。いかにも遊び要素の強いこの言葉をデジタルの世界に取り入れたのは、おそらくグーグルで、それに続き、Vistaの環境に組み入れられて急に脚光を浴びた。分かりやすく言えば、ごく限られた作業を見た目をかなり意識して小さく纏めたユニットのことで、ユーザは自分の選択でそれを選び、好きなように自分の環境に組み入れる。

インターネットでのガジェットの使い方の一つは、個人用のページを作ることだろう。グーグルやヤフーが力を入れて提供しているサービスだ。いわば個人のページを作って人々に見せるという作業とはまりっきり反対のもので、「iGoogle」「My Yahoo!」といった個人のページは、溢れんばかりの情報を自分の必要にあわせてコンパクトに纏めるという、自分一人だけのための環境作りだ。そのようなページの作り方は、まさに無数のガジェットを選んで並べることだ。これにより、ブックマークを頼りに一つひとつのサイトを訪ねて行く代わりに、さまざまな情報が自分のページに上がってくる。例えて言えば、図書館に入って本棚を眺めるのではなく、新聞を毎日届けられるように取り寄せるというスタイルだ。

自分用のそういうページには、時計、天気、路線、住所調べといった定番のものを並べている。その中で、ニュース関係では「Google ニュース・カスタマイズ」というのを選んだ。サーチのキーワードを入れておけば、それに関連する記事を地方の新聞も含めて取り出してくれる。とりあえず「絵巻」を入れた。その結果、平均一日に一点の新しい記事が報告されている。ちなみに記事内容の傾向は、このブログに書いた(「現代生活の絵巻」2007年10月18日)ことを確認したものだと付け加えておこう。

HANATSUKI

2008年3月12日水曜日

動画絵巻

前回に続き、最近作成した「音読・義経地獄破り」について書いてみる。

サイトのオープンページには、「特別バージョン:音声と画像の連動」というのを設けた。実はこのささやかな音読シリーズにおいて、最初からこの画像との連動、いわば「動画絵巻」を試してきた。パソコンのマルチメディアという環境を古典に持ち込むための楽しい可能性を探りつつ、音声と画像との連結のみならず、時間軸をここに取り入れ、音声の進行により画像を動かし、変化させるということで動画を実現し、それによって、目と耳と両方を働かせる古典の享受ができるのではないかと、ずっと思い描いていたものだった。

一方では、これまであくまでも「特別バージョン」として、絵巻のほんのわずかな部分だけを対象にしてきた。画像の所有にかかわる著作権のこともさることながら、技術的にはあれこれと試行錯誤をしているのもたしかだ。わたしの考えるところ、理想的な「動画絵巻」には、少なくともつぎの三つの技術的な条件を満たさなければならない。一つ、ある程度以上の画質。「ある程度」とは簡単に定義できないが、とりあえず「YouTube」の動画より精密で、文字がはっきりと読み取れる、ということを基準にしたい。二つ、基本的なパソコンの環境に対応すること。動画を再生するには、あれこれのコーデックやらプレーヤーやらが必要だとされるものが多いが、一つの動画を再生するためにわざわざパソコンの設定をいじることはなんとしても避けたい。三つ、オンラインにて素早くアクセスできて、しかも個人のパソコンに保存できること。せっかくの動画再生を途中にファイル転送で待たされたとの苛立ちだけは、強制したくない。画質とスピードとはつねに矛盾するものだが、幸いインターネット環境の進歩によりこれの解消も現実になりつつある。

これまでの四つの音読サイトでは、Windowsのプレーヤー(wmv)、Flash(swf)、それに自分が作成したオリジナルプログラムといった、違う方法を意図的に試してきた。その中で、あるいはこの新しいサイトのほうが上記の条件に一番近いかもしれない。

つぎは今度の二つの「動画絵巻」のリンクだ。どうぞ試しにクリックしてファイルをパソコンに保存し、あとはMSメディアプレーヤーでゆっくりご覧ください。

義経地獄破り・第七節(文字)
義経地獄破り・第七節(絵)

(これを書いている最中に、熱心な読者からメールをいただき、「義経」音読サイトのリンクの間違いを一つ指摘された。この場をかりて感謝を言いたい。)

2008年3月8日土曜日

「音読・義経地獄破り」

インターネットを通じて、絵巻を愉しんでもらうということを目指して、これまでささやかな「音読」シリーズを作ってみた。数日前、その四作目を作成した。取り上げたのは、アイルダンドにあるチェスター・ビーティー・ライブラリー所蔵の絵本「義経地獄破り」、数々の義経伝説の中でも、奇想天外で、一風変わった作品である。

この音読シリーズは、原文の翻刻、原文と現代語訳という二つの内容の朗読に加え、テキストと音声ファイルのパソコンへの保存を簡単にできるという方針を取っている。その中で、今度の四作目は、これまでのと違い、現代語訳の底本をすでに出版されたものを用いることが出来た。三年ほどまえに勉誠出版から出版された絵本全文収録の同タイトルの書籍によるものであり、しかもその作者の一人で、現代語訳を施した宮腰直人さんが快く現代語訳の朗読を担当してくださった。「音読」シリーズにおける最初の合作サイトである。

日本古典の絵巻や絵本は、美しい絵と文字を目で楽しみ、そして文字に記された内容を読み上げてもらって耳で聞く、というマルチ的な形で享受されていた。画像や音声の記録のみならず、それらの伝播もインターネットという斬新な手段が得られた現在、手に入れた新しい技術によって、旧き良き楽しみ方を新たに体験することにより、絵巻絵本の魅力の再発見に繋げたい。

「音読・義経地獄破り」は、上下二冊、計13節、1万文字を超えた文字テキストを対象にし、原文では41分、現代語訳では26分の朗読となった。一節々々の音声をサイトに載せられた文字を目で追いながら聞くのもよし、あるいは音声のみをパソコンにダウンロードしてiPodでも使って散歩に持ち出してもよし、と、お暇な折にぜひお試しください。

音読・義経地獄破り

2008年3月4日火曜日

贅沢な「耳学問」

今日も興味深い古日記に見られる一つの記事を記しておく。古代の日常生活の中でどのような声が飛び交っていたかということを考える上で、あまりにも強烈な実例なのだ。

この記録は、「天下一の大学生」との誉れをもつ藤原頼長(1120-1156)の日記『台記』に収められたものだ。康治2年(1143)11月17日の条に、つぎの通りの文字が見られる。

「余近年学経、不暇学史、因之、自今春命生徒五人、食物及沐浴之時、令語南史要書三反、昨終其功。(余、近年経を学し、史を学する暇なし。これに因り、今春より生徒五人に命じ、食物及び沐浴の時、南史要書を三反語らしめ、昨その功を終ふ。)」

千年近くも前の記録なのに、「生徒」「食物」といった、今日でもきわめて身近な言葉の数々に驚く。あえて記事全体を現在の言い方に置き換えれば、おそらくつぎのような文章になるだろう。

「私は、近年、経書を学び、史書を読む暇がない。そのため、この春から五人の教え子に頼み、食事あるいは入浴の時、南史要書を三回ほど読み上げらせ、昨日をもって目出度くすべて終了した。」

わずかな説明を加えるとすれば、『南史』とは中国歴史書の「二十四史」の一つで、南北朝時代(439-589年)の南朝にあたる四つの国の歴史を記したものである。『南史要書』という書物は、きっと『南史』を抄出した平安時代の注釈書だったのだろう。

思えば、読みたい本があっても事情により適えられず、そのため、目で読む代わりに、生身の人間を録音機よろしくと働かせ、内容を耳で聞くという、まるで至福の勉強法だった。まさに耳から入るまともな学問、今日のわれわれにとってもいたって耳寄りの話だ。考えようによれば、iPodといった音声を記録する道具の普及により、生身の人間を立たせなくても済むというのが、この千年の間の文明のわずかな変化だとすべきかもしれない。

2008年3月1日土曜日

縦書きHTML

HTMLとは、いうまでもなくインターネットのウェブサイトを組み立てるためのプログラミング言語である。普通のテキストファイルの形を取り、その中にさまざまな定義付けのフレーズ(マーク)を入れる。それがサイト閲覧をする人々の各自のパソコンで読み取られ、サイトの内容と共に、色、フォント、レイアウトなどさまざまな情報を確定する。

ここ数日、これに関連してぶつかっている難問の一つをここに記し留めておく。

以上のような仕組みなので、読者が選ぶサイト閲覧のソフト(いわゆるブラウザー)の違いにより、最終的なサイト表現には差が出てしまう。いまやかなりの人々は、Windowsに付随するIEというソフトを使っている。一方では、閲覧の軽快さを求めて、IE以外のものを選ぶ動きも根強くある。その中で、最近Firefoxというのを使い始めた。さっそく安心して使えるようになったが、そこにいまの問題に気づいた。なんと自分が作っている「音読」ページは、これではきちんと表示できないのだ。

「音読」ページには、一つのささやかなこだわりがある。絵巻の絵などを出さない代わりに、文字テキストの作成に自分なりの校正をし、しかもそれを読みやすくて、簡単に使えるような形にする。具体的に言えば、それを縦書きにし、しかも文字テキストのままにして、ハイライトしたらコピー・ペーストで引用できる、というものだ。さらに原文にあるフリガナも絵巻の文体の大事な特徴だと考えて、再現したい。

上の考えにより、「div」というマークを使って縦書きを実現した。ページのレイアウトもそれなりに読みやすいと思った。しかしながら、それはFirefoxでは再現できないと気づいた。よくよく調べてみると、「div」マークは、そもそもIE専用のものである。Firefoxなどのソフトに掛けると、内容自体には変わりがないが、肝心の縦書きが横書きになったしまう。

テキストファイルの内容を縦書きにする他の方法はないかと、あれこれと調べてみたが、いまだに満足するものには出会っていない。文字の並べ方を変えた上で文字間隔を調整して横書きをもって縦書きのように見せかける方法が一番普通のようだが、それではハイライトしてコピーしても使えなくて、テキストファイルを使う意味がなくなる。文字を一字ずつの縦長のフレームに閉じ込めるという方法もあるが、スペースや記号に対応しなくて、なによりもフリガナが表示できない。

結果として、いまでも試行錯誤をしている。パソコンの作業にはつねに妥協が必要とする。一方では、一つの表現である以上、表現するための本来の目標もじっと見つめ、最大限に実行したい。