2010年7月31日土曜日

「脱獄」が合法になった

「脱獄(jailbreaking)」という言葉がある。いまや膨大なユーザー群を獲得したアップルの製品シリーズに対する特殊処置のことで、特定のソフトをインストールすることをもって、アップル社が公式認定する以外のソフトの使用が可能になるというものである。今週、これをめぐるニュースがさまざまな波紋を呼び起こした。アメリカ著作権庁がデジタルミレニアム著作権法の解釈を行い、アップル製品に対する「脱獄」が合法なものだと認定した。

そもそもこの用語の由来は、あの一世風靡のドラマシリーズ「プリズン・ブレイク(Prison Break)」を連想して拵えた造語だろう。この言葉に託したのは、言ってみれば、製造者の意思を無視する後ろめたさというより、不可能を可能にする一種の確信犯、愉快犯に近い思いがあって、法律のグレーゾーンへの挑戦を正面から試みるものだった。それに対して、アメリカ著作権庁の決定は、言葉いじりなどの小細工をいっさいせず、ただ堂々とこれが合法だと認定した。ただし、いうまでもないが、「脱獄」合法といっても、これを認めないことを非法とは意味しない。アップル社が「脱獄」した機械を保証修理の対象としないなどの対応を取るものだろう。合法になった「脱獄」は、あくまでユーザーの判断による、リスクや覚悟を伴う行動に過ぎない。

法律とは、社会の発展にしたがって、社会のためにあるものであって、法のためではない。また、とりわけ成功した会社に対して、すべてその会社の言いなりになるのではなくて、むしろ余計に目を光らせてその独断の行動を制限をかける。いまの法解釈を通じて、この二点において現代の法精神の一端を見た思いがしてならない。

2010年7月24日土曜日

聖人斬首の図

群衆のまえでの斬首刑は、絵巻においてくりかえし描かれるテーマの一つである。それらの画面を眺めつつ、西洋絵画になるとそれがどう違ってくるのかと、思わず想像してしまう。いうまでもなく数多くの実例をもつ画題だ。右にあるのはその中の一つ、構図はじつに興味深い。

100724これは、イタリアの画家ジョバンニ(Benvenuto di Giovanni)が1483年に描いたものである。タイトルは、「聖ファビエンの受難(Le Martyre de saint Fabien)」 。宗教のために死をぎ然と受け入れることが、絵のテーマだろう。絵巻における斬首刑の構図とかなり似ている。処刑の場、その独特の空間における典型的な人間像の配置、処刑の仕方や絵の切り取る瞬間など、どれも説明する必要もなく、とにかく分かりやすい。ただし、この絵の場合、特出なのは、おそらく人々の視線だろう。聖人と処刑実行人、この二人を見つめる馬上の将軍、民衆と遠巻きの軍人、それらの人々が互いに投げ出した視線は、画面上でいく層も交差する。「突き刺さる」という言葉がようやく分かったような、あるいは絵の上でつい自分で線を引いてみたくなるような衝動を呼び起こしそうなもので、力強い。

ちなみに、斬首というテーマにつきまとうグロテスクという要素が忘れられない。それとなれば、写実を求める西洋の絵画だけに、衝撃的な画例が少なくない。そのほとんどは、映画やテレビなどビジュアル表現のありかたがクリーンなものに徹した今日において、もう公に出すことさえ憚り多くて敬遠されてしまう。

2010年7月17日土曜日

天災だ

今年はなぜか気候不順が世界的な話題になった様相だ。関連のニュースをあれこれと聞いているうちに、たいへんな一時が住んでいるこの町にまで及んだ。思わぬ損害に見舞われ、今週一週間は日常生活をかなり空回りをさせられ、来週も引き続き対応せざるをえない。

100717一言で言えば、まさに天災。人間の世ではいまも昔もさして変わりがない。ならば、このようなことを、古典の世界ではどのように受け止めていたのだろうか。絵に描かれたものですぐに思いに浮かんだのは、黒雲の中を走る赤鬼。周囲を囲む太鼓や手足を乱した走りは、まさに雷と稲妻をイメージに置き換えたものなのだ。これと対照になるのは、火災や地震の最中から品々の懸命な救出である。しかもそのたいていの結果は、焼き残ったものの中の一点の経典などを驚異をもって見つめ、そのような経験をあらたな伝説として語り継ぐ。

普段の生活からすれば、この上ない苦い体験のはずだが、それをまさに一大事だと、天罰の顕現、あるいは霊験の実現に変えてしまう。この二つの極端からは、なぜか古典が伝えようとする大いなるヒントが隠されたように思えてならない。

CBCNEWS

2010年7月10日土曜日

仏典英訳

詞書に書かれた仏典の偈を英訳しようと思ったら、とたんに困惑した。

偈の内容はたいてい分かりやすい。しかしながら、そうであっても、即自分の言葉で英語に変えるとは、いかにも無謀だ。仏典レベルのものだから、これまでだれかが取り扱っていたに違いない。それぐらの薀蓄があってしかるべきだ。そう思いながら、とりあえず検索エンジンに掛けてみる。あるある、簡単にクリックをいくつか試みたら、もののみごとに狙ったところの英訳に出会った。しかも翻訳作業は19世紀終わりのものだから、いまやグーグルブックスにて書籍の全点を読むことさえ出来る。

しかし、一方では英訳の内容を読んでみて、正直、どうしても落ち着かない。大乗、観音などの言葉は、英語の知識にはまったく属さないサンスクリット語がそのまま応用され、対して経文の中身は、噛み砕いた英語に変身してしまう。その落差はじつに大きい。とりわけ日本語原文の、「念彼観音力(ねびかんのんりき)」と並べれば、いく層もの段差が見えてならない。思えば歴史的な沈殿を持たないとは、このことだろう。ただし、ここではたとえ中世の英語のまねごとをして訳したとしても、その出来栄えは所詮知的な遊びであって、それ以上のなんの意味も持たない。やむをえず分かる英語に止まる、それしかないことだろう。

Buddhist Scriptures in Multiple Languages

2010年7月3日土曜日

パレード見物

100703 地元の祝日に、離れた観光地に出かけて、のんびりと時間を過ごした。午後の行事はパレード。馬の行列や派手やかなバンドはもちろんのこと、結婚式場のリムジン、山間レスキューカーや公共バスまで登場して、パレードはそのままプロモーションの役目まで担った。その中に交じって、日系人の行列があった。参加者の主体は幼稚園の園児で、ワイショの掛け声に合わせて、子供たちは御みこしを担いだ。その御みこしとは造花で作られ、いかにも子供たちのタッチで、ささやかな感動を覚えた。

夕暮れの大路を練り歩く、御みこしを囲み、しかもその中心は人為の花。この繋がりからの連想は、なぜかあの「酒呑童子」絵に走った。それも数ある伝本の中の一点で、オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵のものだった。このストーリがハイライトとして持ちあわせたグロテスクな要素を一切排除して、人間の死体は花、鬼の生首は根っこという、いかにも晴れやかな祝賀に似合うものに描いた珍しい伝本だった。

祝日の締めくくりは、短い花火だった。規模こそこじんまりとしたものだが、山や川に囲まれた花火は、これまたなんとも言えない風情を感じさせた。すべて終了して、百キロ以上走って戻ってきたのは、すでに日付も変わった翌日となった。