2010年2月27日土曜日

グーグルブックスの立ち読み

世に言う「グーグルモデル」というものがあるらしい。さまざまな形、アプローチで取り沙汰されていて、強い関心、ときには隠せない驚異をもって議論されるそのスタイルの一つには、新製品の発表があげられる。いわばアップルのまったく逆の方向を行くもので、新しいものをほとんどぜんぜん宣伝しないで、あるいはいつまでもベター(試用)という名のもとで世に送り出す。問題などへの対応がより身軽にこなせるとの思惑もあるのかもしれない。ただ、どの製品もスケールが大きいだけに、使用者はどうしても目をみはり、思わず追い続けるようになる。

そのような代表的なものを一つあげるとすれば、迷いなくグーグルブックスだと言いたい。

立ち読みは、本屋と相場に決まっている。ただし日本で生活しない人間としては、偶にしかできない日本滞在での立ち読みは、大学図書館を選ぶときが多い。本屋の店頭に並べられてかなり時間が経ったにもかかわらず、新刊としての魅力を十分に感じられる。そのような日常の中にいて、グーグルブックスの存在が大きい。おそらくたとえ日本で生活していても、普通の地方の本屋よりは何倍も充実な内容が提供されていると、ただ有り難く思うばかりだ。

現在のところ、グーグルブックスで読める本は、およそ五分の一程度のページが公開されている。それが飛ばし飛ばしになっていて、あくまでも立ち読みに似合う。ただし言葉レベルの検索が掛けられるなど、普通の立ち読みでは味わえない体験も用意されている。図書を大きなサイズでスキャンして、OCRで文字テキストに変えて索引を作成し、その上スクリーンで読める程度に画質を落として公開されていると推測できる。言い換えれば、いまの状態より何倍も楽に読める可能性を確実に確保されていながらも、最小限の形でしか提供されていない。一方では、どのような基準で書籍が選ばれたのかは見当がつかない。図書館、本屋、出版時期、出版社の意向と、さまざま考えられ、あるいはそのような要素がすべて絡んでいるに違いない。公開された書籍については、分類などの処置はいっさい取られておらず、図書館あるいは本屋とは性格の異なる立場にあることをつねに強調しているように感じてならない。

グーグルブックスをめぐっては、著作権などの見地から問題視にする声が圧倒的に多い。それも一部の作者や出版社の立場からの発言が中心を占める。つきつめて言えば、書籍、あるいはそれを代わる品質のある読み物の継続生産を保証することが議論の主眼だろう。一方では、新しいメディア環境の中での読者の喜びをいかに作り出すか、グーグルブックスは一つの魅力あるありかたを力強く提示していることを忘れてはならない。

2010年2月20日土曜日

イギリス中世劇が蘇る

読書週と名乗る一週間の大学講義の休講で静まり返ったキャンパスで、去る火曜日、いたって文化的な夜を過ごした。三百年以上も前のイギリス劇作家の作品がステージの上で再現され、蘇ってきたものだった。

100219劇の名前は「Humorous Magistrate」。日本風に言えば、さしずめ「可笑しな大名」といったところだろうか。十七世紀のイギリスが背景となり、権力を握る傲慢な官吏、かれを囲むさまざまな人間、家族や富をかけてのやり取りと取り引き、若者の愛や年寄りの欲望といったさまざまな魅力あるテーマをコミカルに、ところどころ色気たっぷりにステージの上に展開されて、三時間近くにわたって、大勢集まってきた現代の観衆を楽しませた。

演劇の実現は、じつは一つの学術研究プロジェクトの結果だった。劇の脚本は、数十年前に大学図書館がまとまって購入した古書籍の中の一点で、長く書庫に眠ったまま、英文学の教授によって発見された。それからは五年間以上の時間にわたって、大学院生への授業に取り上げられたり、違う分野の教授、世界の学者と協力して調査が行われたりして、研究が重ねられてきた。その間には、同じ劇のより早い時期の草稿が発見され、二つの原稿を、それぞれ1632年以後と1640年以後と作成時期が特定され、作者不明のままだが、シェークスピア劇を愛好者で、その影響を深く受けていたと、作者像の追求にも手掛かりを現われた。シェークスピア劇の研究と同時代への認識において大きく寄与するものだと特筆すべきものだろう。

中世文学研究の成果報告を学術の論文やらシンポジウムやらに止まらず、さっそく実際の舞台に持ち出し、形のあるものに変えて一般観客の目に触れさせるようにする。いかにもヨーロッパの正統な伝統を踏まえての英文学研究のスタイルだ。異なる文化的な大事な側面を覗けたような気がしてなぜかわくわくした思いに打たれた。

Humorous Magistrate
Humorous Magistrate (research)

2010年2月13日土曜日

冬オリンピックがカナダにやってきた

暦の上では、寅年が今日から始まった。旧暦のお正月であり、今日をもって春の始まりを祝い、幸多い新しい一年を慶ぶ。一方では、ちょうど同じ日に、冬オリンピックがカナダで始まった。中国にいる人々は、大晦日の昼にオリンピックの開会式を鑑賞し、同じ日の夜に待ちに待った、一年を締めくくるテレビのショーを楽しむという、いたって得がたい経験をすることになる。

カナダということで、オリンピックの開会式をしみじみと見入った。数万人の現場の観客、テレビの前に座るおそらく億で数える世界の人々のために、言葉通りの豪華絢爛なステージが用意された。冬オリンピック史上はじめての室内開会式と謳い上げることで、室外の要素をふんだんに盛り込んで、素晴らしい演出が繰り広げられた。花火、五輪から飛び出したスノーボード、巨大な聖火台、さすがにあっと感じさせるような瞬間が数多くあった。印象に残ったのは、やはり変幻自在のスクリーンだった。鮮やかな光に照らされて、横のそれは空や雲となり、縦のそれは木になり、氷山となる。吊り上げられ、下ろされ、散り落ちて、スタジアムの空間がまさに生きたようなものとなった。それを飾りつけるかのように、人間は上を見上げ、頂上から飛び降り、あるいはそのまわりを見えない翼を羽ばたいて飛び交う。

画面を見つめていて、柔らかい布がこうにも豊かな表情を見せてくれるものかと、何回となく心を打たれた。いうまでもなく計算しつくされた視覚の効果だった。光、色、それは人間の目を喜ばせ、だれもが持ち合わせている常識や知識と相まって、想像の世界を組み立てていくものだった。ちなみに、そのような巧妙なスクリーンの演出でも、建物や柱などに変身することがなかった。自然を一番に自慢にしているカナダならではの発想がそこにも隠されていたのではないかと勝手に想像した。

カナダらしいといえば、開会式の最後の最後になってだれもが予想できなかったハプニングが起こった。これまで最高の秘密とかなんとかもったいぶっていた聖火の点火には、なんとクレーンが上がらなかった。市の中心部にすでにおなじ格好の聖火台が立てられているから、いっそうバツが悪い。ただ、こんな失敗でも、みんなはのんきに笑って済ましてしまう。そういうところに、いや、むしろそういうところにこそ、カナダの人々の能天気な性格が一番はっきりと覗けた気がしてならない。

2010年2月6日土曜日

詞書の品格

世の中は、品格への関心が集まっている。女性、国家、国技、これらもろもろの大きな言葉とペアを組んで、心をそそる表現が新聞やテレビを踊る。学生たちにも伝えなくてはと、録画を編集してクラスに持ち込み、品格と大きく黒板に書いてこれを解説する。いうまでもなくそう簡単に伝えられるものではない。

思いは自然に絵巻のことに馳せる。都合よく手元に格好の実例がある。先週とりあげた芥川の、絵巻と名乗る短編は、明らかに絵巻の詞書のスタイルを意識していた。読者もそのようなことを心に留めて読むべきだ。具体的な作品まで辿りつくことがあってもなくても、約百年まえに書かれた芥川のあの作品は、いまはもちろんのこと、発表当時において非常に格調高い、品格のある書き方をしていたと感嘆されたに間違いない。

一方では、実際の絵巻の世界においては、事情はおそらくまったく異なる。例えば『福富草紙』の詞書(画中詞)は、つぎの数行で締めくくる。
「あな、をかしや」
「なにわらふぞ」
「なにみるぞ、おれら」
分かりやすいと言えばその通りだが、これはどう考えてみても、品格で上位に位置づけできる文章ではなかった。数々の絵巻、綿々と続く詞書を披いて、文章の品位で眺めるならば、その時代の人々が認めるような基準というのが存在していた。詞書の書き出しを見てみよう。

「朝家に文武の二道あり、互に政理を扶く」(『後三年合戦絵詞』)
「夫春日大明神は満月円明の如来、久遠成道のひかりをやはらげ」(『春日権現験記絵』)
「醍醐天皇之御宇、延長六年八月之比」(『道成寺縁起』)

似たようなものはまさに枚挙に遑ない。ただし、これが名文だとの思いそのものも、その時代の一部だった。時の移り変わりとともにそのような価値判断の基準が薄れ、やがて崩れてしまう。今日になれば、ただの常套句だと捉えられてしまう。しかもさほど意味を持たないものとして、研究者でさえついつい目を飛ばしてしまう。文章の品格って、そういうものだろうか。

因みに、品格を説明するためのガッツポーズ云々の件は、日本語のクラスではナットクというよりも、明るい笑いを誘った。時や場が変われば、常識も、判断基準もそこまで変わったとしみじみに思い、ついその説明の言葉に力を入れるようになった。