2021年6月26日土曜日

歴史的典籍NW事業

国文学研究資料館が運営する「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」のサイトをときどき開いている。日本古典の分野におけるデジタル人文学の発展を牽引するこの事業のありかたは、いまはいろいろな意味で象徴的な存在となり、遠くから眺めて、すなおに驚かされる。

これだけの規模や可能性を含んでいるサイトとして、そのデザインは、まさにユニーク。トップ位置にあるのは、「お知らせ」。それも最近の四点ほどのリストが、「すべてのお知らせ」と続く。いわば「更新記録」にあたるこのセクションは、その内容がまさに圧巻。ほぼ毎日のように膨大な分量、さまざまな所蔵機関からのデジタル化された典籍の公開が加わる。ここにいう公開とは、「日本古典籍総合目録DB」に統合される、そして近年脚光を浴びるデジタル公開のスタンダードに成長した「IIIF基準」に対応する、という二つのことを意味する。各機関から公開する典籍の点数にはかなりのふり幅があり、一点もあれば、一万二千余点と数える、今週月曜に加わった「国立国会図書館デジタルコレクション」もある。提供されたリンクをクリックすれば、資料リストの一覧となり、所蔵者、提供者へのクレジットとして読むことができる。一方では、国会図書館の場合のような、高精細公開のために撮影したものもあれば、「香川大学図書館神原文庫」のような、半世紀近くまえに白黒のフィルムで撮影したものを底本としたものもある。このようなまったく異質な画像が共存することに違和感を感じる向きもあるだろうが、古典研究に携わる者としては、ただありがたいと感じるのみだ。

古典籍のオンライン公開は、まさにデジタル人文学の第一歩にすぎない。これをどのように利用するのかは、つぎに現われてくる課題だ。同じことは、国文学研究資料館がさまざまな模索をし、仕掛けを案出している。一方では、「みんなで翻刻」といった優れた事業も展開され、「市民参加型」と提唱されている。これに習い、まさに学習者参加型、クリエーター参加型、研究者参加型などなどの新たな可能性が待ち受けていると考えられよう。わくわくだ。

2021年6月19日土曜日

ネット授業準備

古典文学をテーマとして、専修大学の学生たちのためにネット授業を一コマ担当するというのを、今年も実施する機会に恵まれた。二週間ほどあと、日本の学期が終わる直前の日程となる。ここ数日、それの準備に取り掛かった。

講義のコンテンツを用意して事前に提出するというスタイルをずっと取ってきた。授業時間の約半分、前後二つにわけて20分程度ずつの録画を作っておくというものである。残りの半分の時間は、学生とのその場の交流。コンテンツの制作は、今度もほぼつぎのような流れを守った。まずは画像中心のパワポを作り、続いてそれにあわせての講義を録音し、両方終えてからパワポを画像に保存し、それを録音にあわせて動画を仕立てる。この作業は、二年ほどまえまでMoveMakerを用いたが、いまは基本が分かってきたAdobe Premiereに切り替えた。出来上がった動画ファイルを手渡すのにかつてすこし工夫が必要だったが、いまは即YouTubeにアップロードし、リンクを伝えておくことで一連の作業が完了する。YouTubeに上がった動画を、あるいは一度ダウンロードしておいたほうが安心かもしれないが、ただいまやクラスそのものがすべてオンラインで進行し、ネット環境が理想的でなければおよそなにも始まらない。そのため動画をYouTubeから流すのも自然な展開になりそうだ。

いつもながら学生たちとの交流が個人的には以上の作業への一番の報いなのだ。日本の学生はあまり質問しないとの批判はつねにあるが、それは主催の先生の仕掛けで驚くほどクリアされ、いつも積極的な質問があった。今年も楽しみだ。

2021年6月13日日曜日

頸をとる

プリンストン大学デジタル図書館が公開している奈良絵本『平家物語』を眺めた。全三十冊、本文は『平家物語』流布本、絵は半帖と見開きとあわせて二百八十九枚、しかもかなり保存状態が良好で、『平家物語』の享受にしても、奈良絵本の流行にしても、思いに馳せるにはまたとない伝本である。

関心はやはり絵、それも物語の描き方に走る。あまりにも絵が多くて、簡単に纏められない。それならばどれか一つ定点観察をしようと、まずは「鹿ケ谷」を開いた。同じことをめぐり、「瓶子あれこれ」(note)において記した。そこで取り上げたのは、明星大学蔵『平家物語』(デジタル公開)と林原美術館蔵「平家物語絵巻」の二点だった。比較するには格好の対象である。ともに物語の内容を再現しようと真剣に取り組んだと見られるが、しかしながらその物語の状況の理解において不明が残ったので、その迷いが如実に絵に現われた。『平家物語』が語ったのは、西光法師が「頸をとるにはしかず」と声を上げたうえで、「瓶子の頸をとってぞ入にける」というものだった。おなじ「とる」にしてその二つの意味が微妙に混在した。前者は「もぎ取る」であり、後者は「手に取る」である。これに対して、前出の二点の作に収まった絵を読めば、明星本のほうは西光が瓶子を引っ提げて走り込んだところを描き、絵巻のほうは瓶子の頸が破れたところを法師が喜ぶところを描いた。対してプリンストン大学本は、どちらか一方の状況に従うことを拒み、扇子を手にした法師が瓶子の頸を叩きながらしゃべるという曖昧な構図を取った。三点の絵がここまでそれぞれ異なる物語の読み方を見せてくれていることは、むしろ鮮やかと言いたいぐらいだ。

プリンストン大学本のデジタル公開は、綺麗な撮影、親切なページごとへのリンク、そして英語と日本語との両方の併記など、特記すべきところが多い。一方では、用いたテンプレートは洋書の左捲りに対応するもので、そのためキーボートのキー動きやページ進みの表示バーとの対応は、表示内容と逆になり、理解するまでにはちょっと一苦労だった。

2021年6月5日土曜日

スローモーション撮影

ゆっくり時間が流れるなか、目の前に鳥が止まり、また飛び去っていく。その動きは、スロー動画で撮るには最適の対象だ。思わずカメラを向けた。

カメラとは、スマホのカメラなのだ。まさに「向ける」とは最適の言葉になる。それは、自分の姿勢を正しての「構える」でもなければ、普段は携帯しないでこの時とばかりに「持ち出す」でもなく、面倒な道具である三脚を用いた「据え付ける」とはさらに程遠い。ただのスマホ。撮影モードを「その他>スロー」と一回ほど余分にクリックすることがただ一つの苦労だ。あとはとにかくカメラを向けるだけ。撮影する構図さえさほど考える必要はない。撮った動画をいくらでも編集できる。それもおなじスマホに入っているアプリでささっと手軽にこなせる。手もとで使っているのは、「YouCut」。よく使う機能は、目指す部分の切り取り、画面の一部を取り出すカット、たまには音楽を加えるぐらいで、色の調整や多数のフィルターなどの機能はいまだまったく試していない。アプリは広告を見ることで無料なのだ。

いくつかのスロー動画は、SNSにアップしている。二日まえにあげたのは、水辺の二羽の鳥。人間の目では捉えきれない動きが目の前に展開されている。いわばスマホのおかげで視野が一遍に広がった。