2017年11月11日土曜日

謡曲敦盛

学生たちと英語で読む古典、今週のテーマは謡曲「敦盛」。能とは何かというところから話を始めなければならないので、伝える知識を最小限に絞り、悲劇の英雄のありかたや中世的な視線を解説することに力を入れるように心がけた。言葉そのものにいまだかなりのハードルがあるため、舞台の録画よりも絵のほうを取り出して見せるようにした。

すでに五年近くまえのことになるが、『中世の物語と絵画』の一章として奈良絵本にまつわるデジタル環境のことを纏めたことがある。その中での一つの実例として、『小敦盛』諸本関連のデジタル公開を触れた。それを改めて読み返し、急速に変化する現状と照らし合わせた。結論から述べると、早稲田大学図書館蔵の全点公開、神戸市立博物館、サントリー美術館のサムネイル画像公開は引き続き利用できることに対して、国文学研究資料館蔵と慶應大学図書館蔵の二点はともに新たに撮影され、しかも今年に入ってからIIIF基準に準じてデジタル画像公開に至った。同じタイトルでも、わずかの時間の間にデジタル公開の状況が大きく前進したと言わなければならない。

クラスの話に戻るが、学生たちによるグループ発表に一時間の時間を与えた。若い学生たちは、いつもいまの日常から何らかの話題を拾ってきてクラスを楽しませている。それは、たとえば武士といえば黒沢の映画といったような、なんとなくかなり焦点がずれたものとなってしまう。しかしながら今週のそれは、「水曜日のカンパネラ」の最新アルバム「SUPERMAN」からの一曲「世阿弥」を流し、しかもインターネットで公開されているファンによる英訳まで添えた。ここまでなれば、教える自分はしっかりと教わった。

たとえば「小敦盛」と題する絵巻。デジタル公開(部分公開を含む)は五点と数えられる。五年ほど前に記録した状況と比較すれば時の進化を改めて知る。

「世阿弥」(水曜日のカンパネラ)

2017年11月4日土曜日

楊貴妃の死

狩野山雪筆の「長恨歌絵巻」は、一番のハイライトである楊貴妃の死を表現して、興味深い構図を用いた。敷皮に膝ずく楊貴妃に向かい、けたたましい武士は一本の縄を手にしている。日本の絵巻や奈良絵本などを見慣れた目には、このような人間の位置配置に素直に処刑と理解するところがある。たとえば「熊野権現縁起絵巻」(和歌山県立博物館蔵)や「熊野の本地」(駒澤大学蔵)などをすぐ思い出す。ただし、目を中国に転じれば、そう素直なものではない。白楽天の「長恨歌」に絞れば、むしろ問題はより大きい。

そもそも楊貴妃の死については、歴史書はたしかに「縊死(くくって死ぬ)」とある(「旧唐書」、「資治通鑑」、など)。一方では、同時代の伝聞などとなれば、かならずしもこれが答えのすべてではない。事件から数ヶ月しか経たなかったうちに書かれたと言われる杜甫の詩には、「血汚遊魂歸不得(血汚の遊魂、帰り得ず)」(「哀江頭」)との句が読まれる。そして、肝心の「長恨歌」は、「宛転蛾眉馬前死(宛転たる蛾眉馬前に死す)」、「迴看血涙相和流(迴り看て血涙相和して流る)」とある。死に方は明記していないが、血が流れていることだけは強く訴えている。もともと白楽天の詩をすべて字面通りに受け取ることも警戒すべきだ。同じく楊貴妃の死をめぐり、近代に入ってからのとある有名な考証などは、「不見玉顔空死処」にみる「空」を「むなしく」ではなくて「そら(ごと)」と解して、これを根拠に妃が死ななかったという破天荒な結論に辿った説まで導かれたものである。

つぎの水曜日に小さな発表が予定され、この絵巻を取り上げてみる。この週末は冬時間に変わるため、余分な一時間が生まれる。発表の準備に当てることにする。

The Song of Everlasting Sorrow

2017年10月28日土曜日

虚構の絵巻

学生たちと読む古典、今週のテーマは、元雑劇の代表作「趙氏孤児」である。七百年以上も前の作品だが、それよりさらに二千年もまえの歴史文献に構想を求め、それを基にだれでも楽しめる舞台劇に仕上げられたものだ。今日になって文字でしか読めないが、その物語の中心的な展開に絵巻がクローズアップされたことに、少なからずの驚きを覚えて。

劇の主人公は、我が子を犠牲にして、冤罪に消された趙家族のただ一人の子供を救い、育てる。そこで物語の終盤に入り、劇の第四駒(折)において、大人になった孤児にかれの生まれの真実を伝えるために、主人公は絵巻を用いた。もろもろの出来事の様子を絵に描き起こし、それを孤児一人で読むような時間を慎重に用意し、さらに聞かれることに答える形で描かれた内容を語り聞かせる。いわば真実を訴えるには、絵が最大の、疑いようのない道具に使われたものである。はたして孤児が復讐に燃え、そして悪人を捕まえ、処刑するという物語の結末に至る。

虚構の物語のプロットに登場した絵巻、したがって実際には存在しなかったはずだ。日本の王朝文学においても、似たような虚構の絵巻が多く存在していた。それが虚構でありながらも、あるいはそれだからこそ、人々の絵巻に向ける視線をよく映し出していると言えよう。(写真は、2012年に制作された同名の映画からのいち場面。物語に登場した絵巻のイメージを妙に生き生きと伝えている。)

メモ:
ブログ「絵巻三昧」を開設して、今月で十年の歳月が流れた。週一篇と淡々と書き続けてきて、今週の記事は564と数え、読み返せば貴重な記憶や記録がじつに多い。国際交流基金フェローとして立教大学に滞在する間、ブログの仕組みを調べ、タイトルに使う絵を作るなど、試行錯誤しながら違う性格の作業に打ち込んだのは、昨日のことのようだ。このブログのおかげで、多くの友人知人との出会いに恵まれ、さまざまな交流が出来た。心よりありがたく思っている。