2009年11月7日土曜日

TTSを思い出す

明日の日曜日、勤務大学の教室にて小さな集まりが予定され、一時間ほどおしゃべりの時間を与えられた。集まってくるのは、日本語教育に関心を持ち、あるいはそれに携わっている方々である。思いついたテーマは、「音をめぐって」。自分の関心事をぶっつけてみて、どのような反応が起こるか、内心楽しみにしている。

話の一つに、音をめぐる歴史的な変化を取り上げよう。音・声を記録するために、人間が最初に案出したのは、ほかならぬ文字だったろう。その目で見れば、ほんの最近になって、音声を物理的に記録し、思う通りに再現する方法がようやく実現できた。それが大きなディスクであり、だんだん小さくなっていくテープであり、いまはデジタル信号である。記録するメディアの変化により、記録する分量も飛躍的に増えた。どんなに大きな図書館でも、音声を記録するテープを対象となればついつい所蔵する方針を丁寧に考え直さなければならないが、デジタル信号となれば、たとえばラジオ放送ならとにかくすべてを記録しておこうということは、図書館どころか、個人レベルでもさかんにやられているだろう。そして、インターネットという伝播の手段の登場だ。記録されたものを人に渡すことはほぼゼロコストで実行可能になり、著作権というやっかいなことさえクリアできれば、音声という媒体はどれだけ繁盛するだろうか。

つぎに何が起こるのだろうか。メディアとしての音声は、必然的に再び文字へ戻るのだと見る。すなわち、文字と音声との間に自由に往来することだ。ここに、数年前あれこれと遊んで眺めていたTTSソフトの一群を思い出す。「Text To Speech」と称されている。いまやかなりのレベルまで実用されていて、一例を挙げれば、最近購入したビデオカメラ付きのiPodナノは、ポッドキャストの番組名をかなり聞きやすい語り口で知らせてくれている。新しい技術の応用は、びっくりした視線で迎えられることさえなく、自然と日常の生活の中に溶け込んだものなのだ。

「PC Online」サイトの記事は、この水曜日から慶応大学で開催された「21世紀コンピューティングカンファレンス」をレポートし、「Photo Real Talking Head」という展示を紹介した。口などのパーツを選んで顔を組み立て、それがTTSにあわせて動き出すという、聞くからに初歩的な作り方をしている。しかし、文字、音声になんらかの外装を付けて、それを実用に送り出そうとする苦心が見えて、なぜか微笑ましい。

2009年10月31日土曜日

論文集到着

一年前のいまごろ、古典文学をテーマにしたシンポジウcapt000aムに参加してハーバード大学を訪れた。その間のことをこのブログにも数回書いた。その集まりの成果は、一年も経たないうちにりっぱな論文集になり、今週の初頭、編集出版元の国文学研究資料館より送られてきた。一冊の論集を形にするためにどれだけの人々が苦労を重ねてきたのかと思いかえしながら、はるばる海を越えて送られてきたものを手にして、感慨深い。感謝の念をここに記しておきたい。

思えば二日程度の集まりでしたが、その企画となればじつに長かった。最初にこの集まりのことを聞いたのは、たしか2007年の春、学生たちを連れて専修大学で語学研修を行う間のことだった。学生たちが使う狭い教室に入り、インターネットのアクセスもままならない状態の中であれこれとやりとりをしていたことは、いまでも鮮明に覚えている。それまでには企画がすでにかなり続いていたことはいうまでもない。

同じ集まりは、今年はヨーロッパもロンドンに場を移して似たような枠組みをもって続いたと伺う。そのテーマは、「横断する日本文学」。しかもシンポジウム開催に先立って、詳細なプログラムや発表の要旨が日本語と英語の両方の言語によって纏められて、読みやすい形で公開されている。純粋な古典文学研究においても、研究の様態も発表の場もずいぶん変わってしまったものだと、なぜか実感を新たにした。日本の公的な研究機関がリーダシップを取り、代表的な学者たちが一堂に集まって知見を披露し、その記録があまり過度な手入れをしないで世に送り出される。古典文学という、長い下積みや言語の基礎知識が必要とする学問だが、日本の学者と外国の学者が同じ土俵で交流し、研究に用いる言葉がたとえ互いに精通しなくても理解しあうように努力し、つとめて交流から最大の養分を汲みとる。すこし前の時代ではとても考えられないあり方ではなかろうか。

同じ構図で見れば、遠いカナダに身をおいて、あくまでも大きな渦に巻き込まれるように、たまにしか参加できないでいる。ただ、外側にいる分、新鮮でいて、刺激が多い。大切にしたいものだ。

2009年10月24日土曜日

ストリートビューがやってきた

学生に教わって、自分が生活して町を含めて、カナダのいくつかの都市がグーグルの「ストリートビュー」に登場したことが分かった。これまで、東京やボストンの旅行にかなり使っていたがために、なんとなくずっと楽しみにしていて、さっそくアクセスして眺めてみた。日常生活しているだけに、ついつい時間を忘れてあっちこっちを見て回った。

まず画像の画質もアクセススピードも前よりさらに快適になったとの印象を受けた。ストリートビューの魅力は、なによりもいつまでも続く町の風景なのだ。毎日通っているところ、知識として持っていてもいまだ訪ねていないところ、噂ばかり聞いてとても実際に行ってみることなど適えそうもないところ、などなど、頭の中に浮かんだ予想や期待に照らし合わせつつ、目の前に延々と展開してくるビジュアル的な風景は、実に素晴らしい。

091022実際の生活の中でも、これまで数回、カメラを屋根 に高く据えつけた車を目撃した。ゴーグルのロゴもさほど目立たないがはっきりと読めた。思えば、ストリートの様子を画像データにするというのは、途方もなく地味で、アナログ的なものだ。いくら高級なカメラ、最先端のパソコン、特殊な編集ソフトを駆使したとしても、データそのものがそもそも存在していない。すべての大通りや小道をまんぺんなくカメラに捕えることから始めなくちゃならない。気の遠くなるような作業だ。一方では、電子がメディアになっているいまの世の中において、製作者の意図するところは、なによりもまず町の様子をいかに知る、調べるということであって、おそらくそれを記録するという発想にはかなり遠いかもしれない。しかしながら、現在の生活についての、この上もないユニークな記録になることには間違いがない。簡単に消えたり、更新したりすることができる電子メディアは、大量で負担にならないで保存することが可能だ。百年、千年単位で人間の社会を考えてみれば、どれだけ貴重なビジュアル資料になるのだろうか。

ちなみに勤務している大学の正面玄関に向かって、私がカメラを構えてグーグルのカメラ車を撮ろうとしたところがいまのストリートビューに記録されて公開されている。友人や同僚たちに見せて、何回も楽しい話題にした。