2017年7月22日土曜日

声の古典

ネット環境を利用した遠隔の授業を今年もさせてもらった。大学新入生が中心になる、総勢二百名に近いクラスを対象にしたもので、テーマは自由に決めてよしとの配慮を受け、「声の古典」と掲げた。古典を眺めるにあたっての声に焦点を当て、比較対象に引っ張ってくるのは、おのずと文字となる。音読、黙読といった議論もごく簡略に触れてみた。研究のテーマとして基本的なものだが、若い人々にとっては、常識には程遠く、体感を持たない抽象的なものに過ぎないのではないかと、少なからずの心配を抱えていた。

いつもながら、ゲスト講義の楽しみは学生たちとの対話である。今度の授業もほぼ三分の一ぐらいの時間をそれに割き、さまざまな質問が飛び出してきた。「文字で書かれた文章が声を出して読まれていたことはどこまで、どうやって証明できるのか」、「身分の高い貴人なら文字を知っていたはずだから、どうして読み聞かせをする必要があったのか」など、講義の主旨に沿った鋭い質問が投げかけられた。これに留まらず、今日の生活の中での声の使い方も披露され、受験勉強で利用してきた「キクタン」(英単語学習アプリ)や「世界史実況中継」(歴史補助教材)などのタイトルはどれも新鮮だった。さらに議論はメディアとしての絵に及び、漫画の構成要素である擬声語擬態語の表記を、はたして文字、音、絵のどれに近い形で受け止めているのかとクラス全員に質問し、即席のアンケートを試みた。その結果、ほぼゼロ、七、三との結果が戻ってきて、大いに考えさせられるものだった。

世の中はどんどん移り変わり、いま大学に通っている若者たちは、いわゆるデジタル・ネイティブの世代になる。ならば、メディアの利用や、情報吸収と交流のあり方を考えるには、声というのは一つのおおきな手がかりになるのかもしれない。

2017年7月16日日曜日

「影」の使われ方

「十訓抄」を読んでみたら、つぎのような短いエピソードに目を惹かれた。

有国は伴大納言の後身なり。伊豆の国にかの大納言の影をとどむ。有国が容貌、さらにたがはず。(1-32)

話の主人公は、藤原有国。この人の普通ではないところは、あの伴大納言善男の生まれ変わりという噂をもっていたことである。善男と言えば、応天門炎上の張本人であり、しかもその結末は伊豆の国への流罪だから、そこにかれの影、すなわち肖像画が伝わったことは、自然ななりゆきだった。しかしながら、そのような絵画は、この世を去った人間への思いを託すだけではなく、なんとその人が生まれ変わったことへの証拠となり、しかもこの世に行きた人に明白に繋がるツールにまでなった。一枚の絵の効力に驚くほかはない。

特定の人間の姿を留めるための肖像はどのように作成されたのか、これ自体を伝える絵巻の一場面がある。弘法大師が、弟子が描いた師の肖像にみずから筆を取って開眼を加えた様子を記したものである(「弘法大師行状絵詞」巻十第三段)。あわせて眺めると、なんとも味わい深い。

2017年7月9日日曜日

手紙の姿

一年以上まえの古いニュースである。まず、興味があればこのCNBCニュースをクリックしてみてください。一枚の絵の紹介ではなく、絵を眺める人(この場合はかなりの有名人)の視線と機敏がキモになるものである。話題性があって、知的で楽しい。同じニュースを敷衍した記事もあり、かつ日本語に訳されている

有名人の遊びに付き合い、記事にあったように、同じ絵からはさらに自撮り棒やらイヤホンやらを探し出すのも一興だろう。一方では、絵が表現しようとするテーマをそのまま素直に見つめるのも、刺激的だ。手紙という、人々の交流の基本形。この絵には、350年も時間の隔たりを感じさせない生き生きしたものがある。手紙の本体はすでに披かれ、女性の膝の上に置かれ、繰り返し読み返されたあとのことだろう。対して男性の手の中に握られたのは、手紙に添えられたカードのようなものではなかろうか。となればタイトルにあった一方向の手渡しよりも、男女がともに手紙を読み、これを語り合う状況となる。こうなれば、玄関という空間、立ち位置や服装から見る男女の間柄、そして子どもやペット意味合い、一つ一つ気になる。日本風に言えば世俗風景を明らかにするためには、画面を産んだ時代や生活の知識が読む人を無限に誘っている。

この絵に惹かれる理由は、いうまでもなく「絵師草紙」のあの有名な場面があるからだ。玄関と縁側とはまずしっかりと対応している。しかもいままさに送られた人の手に届かれようとしているという絵師の構図は、この絵のタイトルにこそ合致し、さしずめ「家の縁側で主人に手紙を渡す男」と命名したくなる。手紙の姿、そしてその授与のあり方は、意外と共通の関心を集める大事なテーマだ。

家の玄関で女に手紙を渡す男