2020年10月17日土曜日

JSAC

年に一度のJSAC(カナダ日本研究学会)は、オンライン開催で今日と明日の二日の日程で行われている。初日は予定通りに終わり、あわせて12本の発表と、太神楽実演、リモートレセプションと、ぎっしりしたスケジュールとなった。プログラムのハイライトについて、noteで簡単に報告しておいた。(JSAC2020年年次集会

勉強になった内容は多くあった。「役員報酬」ではカルロス・ゴーン事件、「公共政策」では中央と地方、「満州国」では防疫と人体実験、「日本2020」では失ったオリンピックや地方の祭り、「地震」では日本の東北とカナダのバンクーバー、などなど、発表のテーマからはちょっと予想もしなかった方向へ話が広がり、聞いていてあれこれと新しい知見に惹かれた。個人的にとりわけ考えさせられたのは、「バーチャル研究旅行」。学生たちを日本に連れて行くことをこれまでの仕事のハイライトだとずっと捉えてきた自分としては、バーチャル日本旅行とは、想像もできない存在だ。ただ、現実問題として、これまでのような旅行はいつになったら可能になるのか、見当も付かない。となれば、バーチャル旅行は自然に選択に上がってくる。考えてみれば、語学のクラスがとりわけその通りだが、すべての勉強はバーチャル的なのだ。人為的に作り上げた限定的な環境において、目標とする言葉をすこしずつ伝え、覚えさせていくものだ。そのような文脈の中で、旅行だってバーチャル的体験させることは、一切体験できないより、積極的な要素が大いにあるのだろう。このような割り切った考えは、あるいは必要になってくるのかもしれない。

明日には、わたしも一つの発表を予定している。『徒然草』の絵注釈を取り上げる。日本の知識人の随筆、そしてそれへのビジュアル的なアプローチにすこしでも関心を呼び起こすことができればと、丁寧に話を展開したいと思う。

2020年10月10日土曜日

講義ビデオ

ここ数日、講義用のビデオを一つ作成した。久しぶりに取り掛かる作業で、パソコン環境の変化を探りつつ、それなりに試行錯誤をした。二、三メモしておく。

いま、講義ビデオを作成しようと思えば、ZOOMを代表とする講義用のプラットフォームを利用して、講義する様子をそのまま録画することがまず考えに浮かんでくるのだろう。一方では、パワーポイントを使いなれた人なら、それをベースにして、音声をスライドに合わせるという方法もよく取られる。目下の作業は、いわば一度だけのことで、そして一通り話したのを編集して要らないものを削ることが想定され、途中にビデオも挿入したいから、講義録画を止めた。後者のやりかたは、かつて集中的に利用したが、今度の場合、画像数が多く、そのため音声を小分けに振り当てることは面倒だ。そこで折衷した案を用いた。まず講義の内容を録音し、それを聞き直して編集する。つづいてパワーポイントのファイルを独立の画像に保存し、それを音声に順番をおって被せる。この作業は、単純なほど良いので、これまでMovieMakerのような機能限定のものを用いたが、今度のビデオや動画の挿入により、かなりの制限を感じた。やむをえずPremiereを起動し、いささか大げさだが、一通り動画ファイルを仕上げた。作成したものをYouTubeにあげ、これで組織者へのファイルの明け渡しも簡単になった。

講義にビデオを利用することは、リモート教室が普通になったいま、たしかに便利だ。ただ、これに頼りすぎると、どうしても一方通行的な講義になってしまう。避けたいものだ。聞く人との交流のための工夫は、つぎの課題だろう。

2020年10月3日土曜日

盛遠物語

三週間先にあるネット授業が予定されている。それへの準備に取り掛かり、黄表紙『敵討義女英』を取り出した。これの朗読動画を制作したあと、物語のハイライトである小春の死についてかつてここで書いてみた(「袈裟御前から小春へ」)。これを講義の内容の一部とし、関連の資料を確かめ、スライドに纏めた。

このような限定的な用途においては、オンラインでのリソースがすでにほとんどの期待に応えてくれている。いまの課題である黄表紙作品の出典としての『源平盛衰記』の記述をめぐり、まさに一つの実例を示してくれた。盛衰記のデジタル底本を求めてみれば、バージニア大学図書館が公開している「Japanese Text Initiative」がさっそくヒットし、利用しようとする巻第十九「文覚発心附東帰節女事」から関連の段落を簡単に取得できた。講義の資料としてビジュアルの要素が大事なので、『源平盛衰記図絵』を思い出し、盛遠の行動とその悲劇はドラマチックで絵になるだろうと目論んで調べたら、はたしてその通りだった。画像も国文学研究資料館が提供している。写真はその画像の一部だ。さらに、この話を敷衍して一篇の短編に仕立てた芥川龍之介の創作を思い出し、それも「青空文庫」からアクセスできた。一方では、版本の画像なら安心して使えるが、電子テキストになれば、一度入力のプロセスを通過したので、やはり用心が必要だ。はたして盛衰記の電子テキストにおけるこの段落には、「吊には御渡候まじきやらん」という妙な一行があり、手元の底本と読み比べてみれば、「弔」の誤りだった。OCRによる入力作業の痕跡が残されてしまったという結果だろう。

デジタルテキストなら入力の精度、版本などの電子画像なら対象となる伝本など、古典のデジタル化は一度で終わるようなことではけっしてない。複数の公開、そしてさまざまな利用への対応など、これからはもっともっと多彩多様なリソースが現れてくることだろう。利用者としては、ただ待ち遠しい。

2020年9月26日土曜日

夢のプロット

古典の物語、絵巻や奈良絵本、能や狂言、そして現代小説などに語られる夢のことについて、これまでこのブログでも何回となく取り上げてきた。振り返ってみれば、どれも記された夢、語られた夢であり、自分との距離を努めて持たせていた。夢とはだれだって経験するものだが、そのような個人的な夢を記録して他人に伝えることは、あるいはそれなりの覚悟が必要かもしれない。

よく言われるように、夢には、色、匂い、触り、声と音と、人の五感に訴えるところがある。さらに、物語的な展開、言い換えれば物語のプロットをもつ夢を見たことがあるのだろうか。それには込み入ったストーリーが展開され、人の会話はもとより、状況を説明するナレーションまでついたものなのだ。それは、時にはしんみり、時にはミステリアスに感覚に訴え、切実にして切羽詰まり、そのまま小説になるのではないかと斜めに眺める瞬間さえある。はてにはそれが夢だと悟り、それでも物ごとの結末を見たいが一心で目を瞑ろうと我慢する。ただ、醒めてみれば、あれだけ真実のようなこともあまりにも突飛でわけが分からず、しかもその詳細はまるで朝の露みたいにあっという間に記憶から消え去っていくものなのだ。

夢というテーマに関連して、かつて研究会(「夢と表象-メディア・歴史・文化」)に参加し、そこから生れた論集に投稿までした。いまから思えば、いろいろな意味でたいへん勉強になった。上の写真は、論集のカバーの一部だ。