2019年10月12日土曜日

渦・UZU

日本からのお土産に雑誌をもらった。例の直木賞受賞の小説『渦』が掲載される号だ。ずいぶん前から話題になっていたのに、いまだに書店に並べられるいることにむしろちょっと意外だった。どうやら受賞作品の半分程度しか収録していないが、暇を見つけて読みはじめた。今頃の小説の気苦しいところはなく、素直に楽しめた。おもえば大阪の友人、知人にたくさん恵まれたこともけっして関係ないことではなかったと言い切れる。

近松半二の名、文学史の勉強でおぼろげに覚えた程度で、ここまでいきいきと描かれて、惹きつけられた。そこでなにげなくウェブをクリックしたら、「近松半二の死」(岡本綺堂)というフィクションもあり、青空文庫に収録されている。こちらのほうは舞台劇で、上演の記録なしとのこと。山科で一図の浄瑠璃作者らしく最期を遂げたところだが、対話は標準語、それも昭和ごく初期のもので、八十年の年月が流れた言葉の変遷を思い合せて読み進めると、これは上方方言とはまた一味違う味わいがある。近松門左衛門との関連は同じく語られ、ただ受け継いだのは、机になっている。操りから歌舞伎への変換期の騒動を後ろに感じ取り、やはりわくわくさせるところがある。

「外題」という言葉が岡本作で取り上げられた。江戸なら「名題」だと辞書が解説する。作者と大夫との内輪の会話では、演目のことをあくまでも内容を表わすキーワードを用い、プロモーションの一環として、はじめて演目に外題が付けられるとのことだ。それはさておくとして、浄瑠璃や歌舞伎の演目のあの特殊な読み方にはいつも不思議なものを感じ、振り仮名をみてなるほどと膝を打つことが多い。そういえば、『渦』へのローマ字での読み、これもわざとこの言葉の伝統に一石を投じようとしたのだろうか。

2019年10月5日土曜日

開かない巻物

ここ数日、古い巻物へのアプローチが話題になり、イギリス、アメリカなどのメディアが一斉に報道した。友人に教わり、関連の記事を読んでみた。スポットライトが当てられたのは、あのポンペイ遺跡から発掘されたパピルス(古代エジプト・ギリシャ・ローマの紙)の文献、そしてそこに書かれた文字を復元・再現するというものである。

これら二千年も前からの巻物は、二百五十年ほど前に発見され、その数は実に千八百点にも及ぶ。ただ、火山灰から掘り出されたもので、いうまでもなくすでに開かない。これまでは、どうやらそれを物理的に開こうとする努力がかなりなされたが、いずれも失敗に終わり、実物が破壊されてしまう破目になった。今度のポイントは二つ、CTスキャンの応用と、コンピューターの自動学習の導入である。医学のCTスキャンの手法を生かして、開かない巻物にダイヤモンド光源を当てる。それから、パピルスに施されたインクの物理的な徴候をコンピューターに覚えさせ、自動的に識別、合成して巻物の内容を再現するものである。いまはこの方法に狙いを定めた段階で、完全なイメージの生成はこれからの作業である。そしてそれが成功すれば、違うグループの学者の手に移り、文字の中身についての解読を任せるとまで発表されている。

以上のようなアプローチの要点を、研究チームはきれいな動画に纏めた。だれにでも分かるような、見ていて楽しいものである。高度な技術の応用を丁寧に解説し、広く共有して社会から関心を呼び起こす、この姿勢も大いに参考になると感じた。

関連の新聞記事:その一その二動画つきの解説

2019年9月28日土曜日

有料データーベース

いくつかの雑誌投稿をこの夏からずっと取り組み続け、論文の体裁のもの、エッセイなど、例年より多く書いてきた。中ではデジタルはテーマの一つだった。貴重書から大学紀要まで、海外に身を置いた生活環境からすればその恩恵は語りつくせない。一方では、振り返ってみれば、商業ベースのデジタルリソースにはつい視線を避けてきたのだと気づく。

たとえば日本の大学図書館などに入れば、たいていの場合かなりの数のものが利用できる。新聞、雑誌を網羅した大規模なものから古地図、古文書のような専門的なものまで、どれも未知の世界に導いてくれる。ただ日本から離れれば、そう簡単にはいかない。あのジャパンナレッジを取り上げてみても、たしかに機関同士の共同利用にまで対応していると聞くが、自分の勤務校にはまだまだ届かない。大学図書館のアジア担当の方は日本と無縁、現実的に利用する人もあと一人や二人しか思い浮かばないような状況であれば、諦めとまでは言わなくても、やはりこの現実から出発し、あれこれと工夫をしてやりくりをするほかはない。代替リソースの収集や確保、プロジェクトの立案からの考慮や対応、あるいは溜まった課題を日本に行ったら集中的に取り組むなど、いろいろな模索をしてきた。

思えば、デジタルネイティブ世代の学生、そして研究者には、以上のような苦労はすでに伝わらないのだろう。さらに言えば、日本にいて、いまの環境では、リソースを使いこなせることがそもそもの出発だと期待される。ひと昔の、同じ用例を多数リストアップするような基礎訓練の作業はもはや意味を成さない。大きく言えば、環境は行動を変えてしまった。

2019年9月21日土曜日

あさきゆめみし

漫画『あさきゆめみし』の全巻セットを友人が「はまるよ」とコメントを添えながら貸してくれた。ずいぶんと話題になったどころではなく、厳然と一つのジャンルを切り開いた観をもつもので、ずっと関心があった。やはり予定よりはやくページを開いた。

いまだ最初の数章しか読んでいない。最初の印象としては、すこし肩透かしを食ったというものだ。あれだけ熟知されている古典だから、正攻法でも、あるいはなんらかのヒントを持ってでも、大切なエピソードはきっと丁寧に表現しているだろうと想像していた。だが、けっこう略されていた。一方では他の帖から有名なものを持ってきて物語をよりテンポ良く展開させたところも多い。やはりクラスで学生たちとともに読んで語り合ったなどの経験も含めて、つい現代的な表現になると、批判的な目を向けてしまうという、こちらの姿勢も反省している。結論からいうと、リズムに乗るまでには、もうすこし時間がかかりそうだ。

それよりも、タイトルは、最初に聞いたときから気になっている。この「イロハ歌」からの文言とイメージの中の源氏とはなかなか繋がらなかった。そもそも「見じ(見ない)」なのか、「見し(見た)」なのか、あるいはわざわざ両方を掛けたのか、唐突には推測したくない。なにげなくクリックしているうちに、かつて机を並べてともに勉強していた先輩が正面からこれを取り上げたのを見て、読み入った。「見し」だって、歴とした根拠を持つものなのだ。記憶に止めておきたい。

「あさきゆめみし」の言語学