2011年11月28日月曜日

カメラを構える、続々

先週は、まさにもみじが最高の数日だった。葉っぱの形は深く記憶しているが、その色がこうも一日々々と変わり続け、深まっていくとはいままで気付かなかった。この季節に似合うのは、やはりカメラ。ただなぜか綺麗に撮り尽くされた感じで、自分のレンズから一味違うものを出そうと思っても、なかなか叶わない。

写真のテーマを風景と人物という二つに分けてみるならば、後者の人物の撮り方にはいっこうに要領を得ていない。撮影対象と会話をつづけ、しかもそれが撮るための会話であって、内容よりは顔や表情にひらめきを発見するのだという心構えは、繰り返し教わるが、実際にカメラを構えると、どうしても相手に本気に話しかけてしまい、答えてしまう。そのようにしていつの間にか風景になった人物、あるいは風景を撮る要領で撮る人物をカメラに収めるほかはDSC_5297なかった。しかしながら、ここは日本。レンズを通してみるものには、ここならでは発見がある。たとえばもみじシーズンの夜。日差しの中の輝く木々こそ鑑賞の対象かと思ったら、昼以上に観光地に長い列が出来て、人工の光で照らし出す庭園の外で人々は静かに順番を待ち、料金を払って狭い空間に吸い込まれていく。さらに観察すれば、そのような人々には、夫婦のような恰好は少なく、家族連れはさらに稀で、代わりに同僚、旧友、同級生、さらに遠路からのツアーといった集まりが圧倒的に多いようだ。

ところで一人で散歩するには、カメラは最高の道連れだ。思い立って約六年ぶりにカメラを買い替えた。ただこの六年という間隔は長すぎたせいか、手に入れた新しい道具とはいまだぎこちない「会話」を続けていて、その素性を掴めきれない。

2011年11月20日日曜日

ダブル報恩

友人に誘われて、木津川市で開催されているある特別展を見てきた。けっして規模は大きくない、どちらかと言えば地域密着型文化施設による主催だが、しかしながら、木津川という地を共通テーマにもつ中世や近世の絵画資料を中心に据え、中には、地元のお寺などが所蔵する五点の絵巻が一堂に集まったことに、少なからずに驚いた。関西地域の薀蓄や歴史の厚みをしみじみと感じさせられた。

展示の中の一点、「蟹満寺縁起絵巻」は、最近になってその存在が報告され、初めて公共の場で展示されるものである。描かれたのは、動物報恩という中世の人々が好んで語るテーマだった。絵巻全体の構成から言えば、ある意味では異様なまでに動物と人間との間の恩と報恩を訴えた。現存四つの画面のうち、親子がそれぞれ蟹と蛙を助けるという二つの場面に続き、輝くような男に装う蛇の来訪を受け、そして最後は、いささか血なまぐさい、グロテスクな人間蛇退治ならぬ蟹の蛇噛み殺すというハイライトが展開される。ただし、人物の服装や建物なDSCN9764どを描く絵は、どれも色使いが輝かしくて、暗澹な思いなど微塵も感じさせない。むしろ二種類もの動物に救いを与え、蛙と蟹によってそれぞれの形で感謝され、恩を報いられるというダブルの救助、報恩という話のユニークな内容は、あくまでもめでたくてありがたい。展示室に陳列されたのは蛇に襲われる蛙を救った場面である。蛇の口から逃れた蛙は、なぜかすぐそばにある川に飛んで帰るのではなく、人間のいる方向へやってくるのだった。しかもまるで赤ちゃんのように両方の前足を伸ばし、会話まで持ちかけているようで、見ていて微笑ましい。

特別展は12月11日まで。時間を作り、電車を乗り継いで訪ねて、一見する価値が十二分にある。

木津川ものがたり
「蟹満寺縁起絵巻」を初公開

2011年11月14日月曜日

画像と遊ぶ

やや遅れた話題を記しておく。すでに数週間まえのことになるが、現在進行中の共同研究プロジェクトを外部の人々に紹介するために、それぞれ一枚のパネルを作成するような計らいがあり、そのための画像を用意することを要求された。いつもながらこのような必要は、新たな画像処理の方法を習得し、あれこれとデジタルマジックを試すよい機会となる。喜んで時間を費やした。

研究のテーマは、デジタル環境と日本の古典画像。互いに離れているこの二つのことを一つの画像のなかに持ち込もうと、さっそくそのコンセプトを決めた。古典のほうは、中世絵巻の代表格である「百鬼夜行」からハイライトとなる鬼の顔をある模写本から切り出す。デジタルのほうは、その画像が変形されたことをもって示す。だが、実際にやってみて、「デジタル」を表現することでは思わぬ形で苦労をさせられた。画像のデジタル化といえばそれをデジタル信号のドットに置き換えるということだから、そのドットさえ持ち出せば十分だと思い込んでしまった。画像の一角に狙いを定めて、すこしずつ違うサイズの枡をかけて、色を変えて、画像がデジタルに分解され、再現されたことを意味しようとした。出来上がったものを見て、自分はそれなりに満足したのだが、しかしながら周りの同僚に見せたら、そのような意図は一向に伝わらなかった。パソコンの画面をじっと見つめ、色や桝目のサイズをあれこれといじっているうちに、はっと思いついた。デジタルとは0と1の数字だということが広く知られ111112ているものだ。ならば数字そのものを入れて、デジタルという要素を明らかに書き入れたら、分かってもらえるものとなるだろう。けっきょくのところ、最終的に提出した画像はまさにこのような構図になった。しかしながら、理由がどこにあるのだろうか、はっきりしたコメントはいまだ一つも戻ってきていない。

そもそも古典画像とデジタル環境、この二つのことを合わせて一つの研究テーマにすること自体は、すでにかなりの跳躍があったのかもしれない。しかしながら、周りの研究者たちはみんなそれぞれの形でサポートをしてくれている。この週末にも、研究の意図やありかたをめぐる発表の場が用意されて、刺激になる交流ができた。組織者や参加者たちは熱心に問いただしてくれた質問や疑問などは、いまだ自分の中でしきりに反芻している。

2011年11月7日月曜日

中国の高速道路にて

祝日を含め、週末にかけて短い帰省をした。ほぼ一年半ぶりに親や親戚の顔を見て、ありがたい数日を過ごした。

中国の変化は激しい。これは風来坊の旅人にとっても、はたまたそこで毎日生活している人々にとっても、まったく同じ感覚なのだ。故郷は間違いなく大都会に属するが、目まぐるしい発展を始めたのはなぜかほかの都市と較べてはるかに遅く、都市建設に明らかな変化が見られるようになったのはわずかここ数年なのだ。だが、その分だけあって、いざ始まると言葉通りに目まぐるしい。いまやマンションでも新築ならどこも20階以上で、かつエレベーターや広々した駐車場が付く。昔の記憶は地名のみで、ランドマークはほとんどすべて消え、コンサートホールなど同じ性格のものが建て替えられたとしても、まったく別物となった。サービス業を中心にその質が格段に高くなり、街角の写真屋さんでさえ社旨や挨拶の合唱で開店を迎える。一方では、普段生活している人々が物価の急激な高騰に戸惑う様子もかなりの場面で切実に見受けられた。

いつもながら違う土地を訪ねると、どうしても印象に刻むような瞬間がいくつ残る。今度の旅の中の一つは、こうだ。五、六車線があって、自転車も走らない高速道路で、中年の男はしっかりした足取りで車の中を潜って道路を横断していた。車の中に乗ってそれを眺めたら、なぜか思いはあの「1Q84」のハイライトの場面と重なる。だが、目の前の男は全身力を抜いて、太極拳でもやっているかのようにこの上なくリラックスした歩き方をしていた。そう遠くはない向こう側にりっぱな陸橋がバックになっていて、なぜかとても象徴的で考えさせれる構図だった。