2011年1月29日土曜日

「e国宝」がiTunesにやってきた

今週、いくつかのメディアが前後して取り上げたニュースの一つには、20日に公開されたiPhoneアプリの「e国宝」があった。iPadにはいまだ対応していないが、小さなスクリーンだけでも十分満喫できる。多数の美術館が自慢にしている所蔵品にこんな形でアクセスできて、いささか驚きを覚えた。

110129アプリが対応した言語は、英語と日本語。タイトルの英訳は、字面にこだわらずに「e-Museum」としている。もともと、アクセスする情報は国宝に限られたものではなく、重要文化財も多数含まれる。アプリの内容は、あくまでも一つの専用ブラウザ。すなわち同じ名前で去年三月から開設されたサイトの情報を、使いやすい形でiPhone、iPodなどの機械にもたらしたのである。言い換えれば、これがなくても同じ情報を携帯に呼び出すことができないことはない。だが、これこそアップルのスタイルが私たちにもたらした貴重な経験の一つだ。無限にある情報の中から、特定のものを必要に沿って整理し、それを特化した方法で提供してくれる。提供のありかたに工夫が託されているので、きちんとした思いが伝わってくる。パソコンがあるのになぜタブレットの機械が必要なのかと、じつは昨日も友人に聞かれた。特定のアプリを通じて接する発見続きの魅力、どうやらいまだに十分に伝わっていない。

ちなみに、絵巻の詞書はiPod、iPadのホーム画面に最適だ。流麗な文字と規則正しいアイコンの配列は、互いにマッチしていて、並たいていの風景写真などよりはるかに見ごたえがある。あくまでも個人の趣味にすぎないものだが。

2011年1月22日土曜日

辞の至らぬ所は、絵

明時代の画像資料をあれこれと探ってみるうちに、つぎのような短い記述に出会った。どうも演義小説を論じる学者の中で繰り返し引用されたもののようである。明の後期(十七世紀初頭)に刊行された「禅真逸史」という南北朝(五世紀初頭から六世紀後半)時代を背景にした小説に添えられた八項目にわたる解題内容の一つである。

110122図像似作儿態。然史中炎凉好丑,辞绘之,辞所不到,図絵之。昔人云:詩中有画。余亦云:画中有詩。俾観者展卷,而人情物理,城市山林,勝敗窮通,皇畿野店,无不一覧而尽。其間仿景必真,伝神必肖,可称写照妙手,奚徒鉛塹為工。

現代日本語に書き直したら、およそつぎのような感じだろうか。

絵は、幼稚に見える。しかしながら、世の中の浮き沈みや善悪を、言葉をもって著わし、伝えきれないところは絵をもってそれを描く。昔の人なら、詩の中に絵があるとよく言うが、我はそれに倣って、絵の中に詩があると言いたい。これを観る者は、頁を披き、人情道理、都会や山林、勝敗応変、中央や地方、市場や店舗の様子などすべて一覧してしまう。とりわけ自然を絵いて迫真のこと、人間を伝えて巧妙な出来栄え、まさに一流で、ただの活字を並べ変えたり、版を刻んだりするような工匠の域を遥かに超えたものだ。

絵の役目を解説して、それが言葉と絵との相補完する関係にあるものだと真正面から取り上げることには、感嘆を禁じえない。この解題を書き残した出版者の名前は夏履先、号は心心仙侶。杭州で書肆を営んだということ以外、かれについてさほど伝わっていない。おそらく一介の地方文化人にすぎず、独特の見解で世を驚かせるような存在ではなかったのだろう。その目で読めば、叙事の絵を述べながらも、「詩・画」との数百年も前の言説を繰り返すのも、いささかの陳腐を感じさせた。ただ、あるいはそれだからこそ、ビジュアルの表現を世の中の常識になったと、いっそう教えてくれているのかもしれない。

2011年1月15日土曜日

哪吒伝説

110115今週の講義は、哪吒伝説である。子供時代の読書記憶を呼び起こしつつ、学生たちとともに古典の原作を読み直し、少なからぬ愉しみを味わえた。

哪吒とは、中国伝統において一つのユニークなアイコンに違いない。明時代の小説に描かれたそれをいま読んでみても、ストーリの展開、エピソード表現のリズム、作者の想像力など、どれを取り上げてみても、初々しくて、魅力が衰えない。その理由の一つには、やや文学研究っぽく言えば、逆転の構図が挙げられよう。三年六ヶ月の妊娠の末に生まれてきた子供を迎える父親の最初の行動は、剣を振るい落とすことだった。しかも真っ二つに割れた肉の塊から赤ちゃんが飛び出す。竜宮とは遥か彼方に存在する巨大な建物なのに、哪吒が腹掛けを海に入れただけで、それが大地震に見舞われたように揺れ動く。強靭無敵な竜は、子供の腕飾りの輪の一撃であっけなく命を落とし、おまけに筋まで抜き取られてしまい、竜王本人でさえ、哪吒に命じられるまま、蛇(!)に姿を変えさせられてしまう。人々の常識を悉く反転させたエピソードの展開は、愉快痛快、極まりない。

哪吒伝説を記す「封神演義」は、同時代の作品の中で、格が劣る。しかも版本でしか伝わらず、ビジュアルものは数枚の挿絵に過ぎない。しかしながら、遠い昔に初めてこれを読んだとき、繰り返し現れた殺伐したエピソードで、目を覆いたくなる気持ちでいたことだけは、妙に覚えている。生々しい文学描写の裏返しだった、ということだろうか。

2011年1月8日土曜日

公開シンポジウム

知人に教わるまま、オンラインで公開されたあるシンポジウムの録画に辿りついた。去年の暮れに、東京藝術大学が主催したもので、電子メディアに関わる学者やトップ責任者たちが一堂に集まって、最新の研究や見解を報告するものだった。このような講演を東京に身を置かなくても、ほぼ同時進行的にアクセスできるようになったものだと、いささかの感慨を覚えながら、見入った。

発表者の発言から習ったことはじつに多かった。国立国会図書館館長のご報告からは、まさに日本の国力の一端を窺えた気がして、電子メディアのあり方をあらためて思い返した。とりわけ、そこに「法整備」という言葉も登場した。メディアと公立機関と、二つを連結するものとして、時代の発展に対応する法律があるものだと、気づかされた。一方では、法律となれば、どうしてもあのGoogleが取った一連の行動を思い出さずにはいられない。アメリカ的な法律へのアプローチと、法律の「新制」あるいは「修正」ではなくて、「整備」という言葉に集約された日本的なアプローチが表現されて、両者を並べて眺め、じつに興味深い。

ところで、有名人の演説だという気持ちを抱えたからだろうか、ついついあの「TED」と比較してみた。もともと、学術のシンポジウムと、一般者向けのスピーチと、両者の狙いはまったく異なる。ただ、それにしてもこのような講演録画の公開が三週間以上も過ぎて、アクセス回数がわずかに「3,299」との数字には驚いた。さらに一桁上に行ってもなんの不思議もない。そこには、公開する機関が本腰を入れて取り掛かることが必要ではないかと、内心、エールを送りたくなった。

アーカイブから紡ぎ出される知

2011年1月1日土曜日

卯の歳

明けましておめでとうございます。

またまた新しい一年を迎えた。まったく異なる文化圏で生活していて、卯の歳ということ自体が、すでに一つの文化的なテーマであり、周りの人々にささやかな意外や悦びをもたらすものである。職場の忘年会(中味もスタイルも違っていて、日本のそれとはおよそまったくの別物)の雑談でこれに触れたら、同僚たちが、さっそく家族へのお土産にウサギの置物に決まったと宣言したり、自分の歳などぜったいに口にしないのに、あっさりと干支を誇らしげに言ったりして、一つの文化を、あくまでも異なるものとしておおらかに接する心温まる風景がそこにあった。

110101一方では、ウサギ、と言っても野ウサギだが、現在住んでいる区域にかなりの数が生息していて、日常的にその群れに出会うことがしばしばである。その生態には、つねに感心する。冬になれば、それまでのとはまるで別物かのように変身し、毛皮が真っ白になり、体形さえ真ん丸いものに変わった。厳しい吹雪や厚い積雪の中を跳ね回るかれらを眺めて、つくづくと自然の造化を思い返す。