2011年2月26日土曜日

面接官を勤めて

今週一週間は、大学の「読書週間」。講義がすべて休講したこの短い時間に、長めの会議や行事がいくつも設けられ、とりわけ週の後半は、ここ数年続いてきた面接官の役目を勤めた。日本政府が設立した学校教育に携わるプログラムのために参加者を選定するものである。ぎっしりとしたスケジュールの中で、若い学生と密度の高い会話を経験できた。

面接に現れてきた若者たちは、りっぱな服装に身を纏い、ふだん教室などで見かけるのとは明らかに違う身なりである。中でも、かなりの人は、飛行機なり、三時間や六時間の運転のすえに試験場に辿りついたのだから、わずか二、三十分にかける意気込みようが伝わる。面接には、半分は公式質問のやり取り、半分はその場の状況にあわせての会話だったが、緊張を持ちながらも、丁寧でてきぱきした答えはもちろんのこと、考えようによってはかなり酷なロールプレーまで余裕をもって対応してくれた。会話の合間に、このような状況を日本の学生を対象にすれば、マニュアルから仕入れたような標準答案ばかりを聞かされるのじゃないかと、なぜか想像してしまった。目の前の若者は、総じてそのようなことを潔きとせず、むしろ自分のカラーを見せる、たとえ根拠がなくても自信たっぷりなところをアピールしようと努めた。面接をする立場として、職業上、ついつい受験者の在学の成績、学位修得にかけた年数などの記録に目が走ってしまうが、それでもかなりの場合、本人を前にして、熱気あふれる答えに押されて、知らず知らずに高い点数をつけてあげた。

例年の数字から言えば、実際にこの仕事を手に入れられたのは、全体の申請者の二、三割、面接に漕ぎ着けられた者の半分弱に過ぎない。しかしながら、おそらくこの申請に合格できなくても、それぞれの若者にはかなりの思い出になる。頼もしくて逞しい、清々しい若者たちとの会話を終えて、気持ちの良い疲れを久しぶりに感じた。

2011年2月19日土曜日

裏も表も絵巻になる

今週、あの国宝「鳥獣戯画」が新聞を賑わせた。絵巻の一部は、もともと一枚の紙の裏と表に描かれ、それが二枚に剥がされて、台紙に貼り付けて一巻に仕立てられたものだと、絵巻に関心をもつ者にはちょっぴり衝撃的な発見が報道された。

110219ことの詳細はいまは新聞記事に伝えられたものに留まる。そこから総合して得た情報によれば、一枚の紙の裏表に人物と動物が分かれて描かれ、それも人物が先で動物が後だった。これを分離し、台紙に貼り付けて巻物に仕立てたのは江戸時代だと思われる。以上の情報からはつぎの推論が自然に導かれる。江戸までには、絵のどちら側にも台紙が付かなかった。すなわちまとめて保存されていただろうが、普通の巻物ではなかった。さらに遡って考えれば、絵の制作当初は、人物と動物というさほど関連性のないものを物理的に一枚の紙を用いた。紙がこの上ない貴重品だったという客観的な理由がもちろん働いたのだろうが、古典文献によく見る「紙背文書」とはまた異なる成立の理由の存在を思わせる。もちろん理由を突き止めることはなによりもの魅力的な課題だ。

中国美術史の上で、絵の偽造に関わってよく知られている一つのやり方がある。表装のやり直しなどの際、一枚の絵を二枚に剥がし、それにより一枚の絵から同じ絵柄が描かれる二枚の絵が得られるというものである。「鳥獣戯画」をめぐる発見からはどうしてもそれを連想させられるが、結果はまるで違う。なによりも、江戸の表装師のおかげで、国宝なるりっぱな巻物が今日に伝わっているのだ。

朝日新聞:鳥獣戯画・技法解明

2011年2月12日土曜日

ヒーロー悟空

クラスで今週のテーマは、孫悟空。まずは、ドラゴンボールなどは、ぜったい絡ませないでと念を押した上で、学生たちに議論を展開させた。それでも、発言は自然と日本と中国の悟空像に走った。たとえばこのような見解が述べられた。日本の悟空は、ヒーロー、対して中国の悟空は、ワルだと言わないにしても、凡人以上に失敗する、周りを構わずに面倒を起こす。なるほどと思った。さらに追求すれば、日本のそれは、外国もののゆえに自由自在に変化を与えられるが、中国のそれは、大事な伝統だたら自由にできない、などと文化論まで話が大きくなった。

若い学生たちの意見を聞いて、思わず自分の学生時代の記憶が呼び起こされた。日本に渡って、日本バージョンのさまざまな西遊記話に初めて接したとき、それがなんと自由闊達なものだとかなりの驚きを覚えた。いうまでもなく自分の中にはっきりとできた唐三蔵、孫悟空像に相対させてそう考えたのだった。テレビドラマの中で有名女優が三蔵法師を扮すると聞けば、目からウロコの思いだった。中国では考えもよらなかった、かと言って西遊記の自由自在な精神に妙にマッチしたものだと、ひそかに感心もした。

110212しかしながら、だ。いまの中国に目を転じてみれば、古典ストーリの再生産に限っていえば、束縛されるものがすっかり解かされたことだけはたしかのようだ。同じく孫悟空の例でいえば、最新のドラマシリーズでは、それがいっそうの変わりようを見せた。あの名高いナタ太子とのエピソードでは、「断背」(これまた中国語の新語。あのアメリカ映画のタイトルから得た表現)、すなわち男性同士の恋愛までにおわせるものだったとか。ウロコどころか、開いた口が塞がらない、といったところだ。

2011年2月5日土曜日

「車争図屏風」を学生と見る

講義の場では、画像資料をオンラインでアクセスして見せるということは、昔の紙のレジュメが比較にならないぐらいの迫真さ、使いやすさを持つ。ただ、限られた時間の中で絵を見せることは、かならずしも効果的なものではなく、かといって、ただリンクを教えてあげても、どれぐらいの学生が見てくれるのやら、心もとない。その中で、スケジュールをやりくりして、とにかく絵をスクリーンに持ち出した。

110205講義のテーマは、「源氏物語・葵」、タイラー氏の英語訳を二週間ほどの時間をかけて学生たちと読む。あまりにも基礎知識を持ち合わせていない学生には、あの英訳でも学術的な注意が払われすぎた感じがして、理解することはかならずしも簡単ではない。やむをえず思い切りストーリのラインを追いなさい、とのアドバイスで対応した。その中で用いたのは、「e国宝」で公開されている「車争図屏風」。ストーリの場面や雰囲気を味わうためには、非常にためになった。源氏が中心を構える派手やパレードと、轟々とした荒声まで聞こえききそうな喧嘩という、二つのエピソードによる構成は、いたって分かりやすい。

画面をじっくりと眺めた。とにかくりっぱだ。しかもどこかコミカルで誇張されたのが微笑ましい。その一番には、牛車のサイズがあげられるだろう。屋形の高さは、「延喜内匠式」によれば3尺4寸、一メータをちょっと超えたところだろうか。だが、屏風に描かれたのは、人間の平均的な身長などから推算して、これの倍には優になる。それが巨大な車輪に乗せて、牛車の全体の高さはおそらく五メートルにまで届き、思うに屋形の中で女房たちは座るのではなく、数人にして踊りでもしているのではないかと空想してしまった。ただし、一枚の襖絵あるいは屏風としては、その分、たしかに迫力がある。

狩野山楽筆「車争図屏風」