クラスで今週のテーマは、孫悟空。まずは、ドラゴンボールなどは、ぜったい絡ませないでと念を押した上で、学生たちに議論を展開させた。それでも、発言は自然と日本と中国の悟空像に走った。たとえばこのような見解が述べられた。日本の悟空は、ヒーロー、対して中国の悟空は、ワルだと言わないにしても、凡人以上に失敗する、周りを構わずに面倒を起こす。なるほどと思った。さらに追求すれば、日本のそれは、外国もののゆえに自由自在に変化を与えられるが、中国のそれは、大事な伝統だたら自由にできない、などと文化論まで話が大きくなった。
若い学生たちの意見を聞いて、思わず自分の学生時代の記憶が呼び起こされた。日本に渡って、日本バージョンのさまざまな西遊記話に初めて接したとき、それがなんと自由闊達なものだとかなりの驚きを覚えた。いうまでもなく自分の中にはっきりとできた唐三蔵、孫悟空像に相対させてそう考えたのだった。テレビドラマの中で有名女優が三蔵法師を扮すると聞けば、目からウロコの思いだった。中国では考えもよらなかった、かと言って西遊記の自由自在な精神に妙にマッチしたものだと、ひそかに感心もした。
しかしながら、だ。いまの中国に目を転じてみれば、古典ストーリの再生産に限っていえば、束縛されるものがすっかり解かされたことだけはたしかのようだ。同じく孫悟空の例でいえば、最新のドラマシリーズでは、それがいっそうの変わりようを見せた。あの名高いナタ太子とのエピソードでは、「断背」(これまた中国語の新語。あのアメリカ映画のタイトルから得た表現)、すなわち男性同士の恋愛までにおわせるものだったとか。ウロコどころか、開いた口が塞がらない、といったところだ。
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