2017年9月30日土曜日

パンダの名前

今週伝わってきたニュースの一つには、上野のパンだの赤ちゃんに関連するものがあった。生れて百日過ぎたところでようやく名前が決まり、それが大々的に発表され、一つのフィーバーを巻き起こした。

個人的には、名前そのものではなくて、それの英語表記に目を奪われた。名前に用いた文字はまず無難であり、シャンシャンという響きも心地よい。ただ、発表の場において示されたローマ字表記は、なんと「Xiang Xiang」となっている。これを知らずに最初に英語でかわされた情報に接したとき、それを伝えた人が単純なエラーをしたとばかり思い込み、気に止めなかった。だが、同じ表記が再び目に入り、ようやくこれが正式なものだと知り、不思議でならなかった。結論からいうと、「Xiang Xiang」とはいうまでもなく日本人には通じなくて、英語としても平均的な人々が発音できないものである。これが採用された意図も文脈も難解である。そこで同僚の一人に教えてもらったらようやく説明がついた。すくなくとも発表の場のあの表記は、中国語のつもりなんだ。日本人を相手にして、たとえばスベインやイタリア関連の出来事ならその言語で表記するのと同じ理屈で、中国語表記をしているものである。ただ、中国語を母国語とするわたしには、こう言われるまでにはこれが伝わらなかった。理由は簡単だ。ピンインというものは、発音を記録する手段や、中国語習得のツールであっても、中国語表記の一部分として全面に押し出されることは現実的にはほとんど皆無だからである。

やっかいなことに、パンダの名前という出来事を英語として伝えるとなれば、これで余分な苦労が生じてしまう。事実、ほとんどの英語の記事は「Xiang Xiang」の表記を用い、これがはたしてどこの国のことなのか分からなくなるという混乱が起こり、はてには「日本語ではShan Shan、中国語ではXiang Xiang」という妙な記事まで現れた(Daily News, 2017-0-25)。記者の神対応に脱帽だ。

2017年9月23日土曜日

WiP 2017

職場にはささやかな伝統がある。新学年の始まりにあわせ、同僚たちが集まってそれぞれの研究上の関心事を語りあうというものである。名付けてWiP(Work in Progress)。今年のそれは金曜日の午後に開かれ、一時間半の間に14名の発表が行われ、それぞれスライド一枚のみ用意して、3分のプレゼンと2分の質疑応答という形である。発表者には大学院生もいて、専門分野は近世ヨーロッパ文学や言語学関連が多かった。

すこしでも共通した関心を誘い、かつ説明しやすいように、「仮名百語」を持ち出して、デジタルアプローチについての考えを述べてみた。質問には興味深いものがあった。「実際の授業に使えるか」、「変体仮名はいつごろ使われたのか」、「どこまで字形のスタンダードが存在するのか」など、基礎的な背景知識に関わるものがほとんどだった。ただ、その中で、若い大学院生からの質問はいささか意外だった。いわく、「アプリは無料なら、ソースコードは公開しているのだろうか。」プログラミングのことを意識しているらしく、人文系の学生にとっても、デジタル技術の利用や再生産はかなり意識され、身近なものになったのだと気付かされた。

行事のはじめに、部署統合であらたに出来上がったスクールの長は挨拶し、3分間発表の大切さを力説した。院生や若い同僚たちを念頭にしたものだろうけど、自己紹介のために短いバージョンの説明を用意しておくことは、研究のキャリアのために必須なのだと伝授する。実用的で積極的な自己アピール、どこか朗らかでいて楽天的な、いかにも西洋的な心構えだった。

2017年9月16日土曜日

長恨歌絵巻

今学期の講義は始まった。担当のクラスの一つは英語で読む中国と日本の古典。なんらかの形で互いに交流のあった名作を八点選び、これから十三週間かけて読んでいくというものである。最初の一篇はあの「長恨歌」。詩の内容を説明するために、チェスター・ビーティー・ライブラリー蔵「長恨歌絵巻」(狩野山雪筆)を持ち出して、絵の画面を学生たちといっしょに眺めるという方法を取った。

同絵巻は、とにかく詩の再現に最大の精力をかけている。そういう意味においては、詩の文言と画像の内容は高度に呼応し、ところによっては極端なぐらい重複している。その中において、たとえば画像の中での相互のズレ、表現にみる齟齬などを見つけ出し、その理由などを推測することは、一つのテーマになる。いちばん分かりやすいのは、絵巻の最後の部分だろう。詩にある「海上に仙山あり」を描いて、この世にありえない荘厳な楼閣を三回も繰り返し登場させた。道士が訪ねる、貴妃と対面する、会話するという三つの段階を叙事的に表し、それに合わせて、貴妃の寝室は三回とも覗かれるようになっている。しかしながら、それがまったく同じ角度でありながらも、屋根の形、回廊へのつながりなど、それぞれまったく違うものになっている。あえて一つの可能な解釈を試みるのならば、いまごろのファンタジック映画の中によく現れてくる動く建物、変幻自在に姿を変え続けるまぼろしの風景に迷い込んだとでも言えるのだろうか。

思えば十年ほどまえ、国際集会に参加して、修復されて間もないこの絵巻を実際に拝見した(「チェスタービーティー・ライブラリーより」)。研究者たちといっしょに展示ホールに入り、感嘆のざわめきの中でこれを眺め、そして翌日になって、発表の会場から抜け出して一人で展示ケースの前に立ち続けたことは、まるで昨日のことのように記憶に新しい。

2017年9月9日土曜日

京都大学デジタルアーカイブ

今週伝わってきたニュースの一つには、京都大学付属図書館がこれまでの貴重書デジタルデータベースをリニューアルして、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」と名前を改めて公開したのがあった。約1,500タイトル、約14万コマという分量もさることながら、画質やアクセスの方法など、まさに現時点のデジタル公開の最先端を代表するものである。わくわくして内容を眺め、さっそくにでも三週間ほどあとに予定されている一つの特別講義にこのアーカイブに収録された「弁慶物語」をとりあげることに決めた。

正確で完全な記録はきっとどこかに存在していると思うが、京都大学は古典画像資料のデジタル公開に一番最初に取り掛かった機関の一つである。手元に残っているものを見れば、早いものは1994年前後に遡り、現在でもアクセスできる「國女歌舞妓繪詞」の最初の「WWW版」は1996年1月と記され、その画像のサイズ(625x462)は、いまのサムネイルと変わらないものである。しかしながら、インターネットを通して御伽草子の画像を見れたとの当時の興奮はいまなお記憶に新しく、なによりも多くの出版物のカラー写真だってまさにこの程度のものだと付け加えておかなければならない。

それに対して、今度のリニューアルの大きな眼目は、サイトの冒頭に掲げられているように、「デジタルアーカイブの国際規格IIIFに対応してい」ることである。ここに来て、画像の公開にも、各自適宜に判断するのではなく、国際的に頼れる規格というものが存在するようになった。このIIIFの規格というのは、たとえば画像の色彩や解像度などを規定するものではなく、デジタル画像そのものの相互利用の利便を目指すものである。具体的には画像の見せ方、引用の仕方、そして画像内容に対する文字情報の追加などに細かな工夫や配慮が図られている。言い換えれば、京都大学のデジタルアーカイブの歩みにおいて、画像資料公開における20年の進化が集約されている。それは、画像の解像度が高くなったり、通信スピードが速くなったりするようなところに止まるものではない。突き詰めて言えば、画像を閲覧させることから、それを利用させることへと進化したものである。

このように考えれば、図書館の役割をあらためて見直さなければならない。もともと図書が集まるところだった図書館は、いまやデジタルという新しい性格の情報を作成し、それの公開の仕方を模索して実践するところに進化したのである。印刷された図書を貸し出すという在来の方法とは根本的に異なるデジタル情報の利用には、どのような未来が待っているのだろうか、まだまだ明確な答えができたとは言えない。情報メディアにおいて、むしろ図書館が一歩先をリードしている。今度は用意された資料をどう利用するのか、研究者たちが本領を見せる順番になる。

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

2017年9月2日土曜日

動画・からいと

カナダの大学の新学年は、九月をもって始まることになっている。夏は終わった。静かに流れた時間を記憶するために、古典朗読のタイトルをさらに一点制作した。今度も同じくYouTubeで公開することにした。

とりあげたのは、御伽草子に収録された一点、「からいと」である。底本は、国文学研究資料館所蔵で、「日本古典籍データセット」から公開されたものである。原典は上下二冊、あわせて三十五帖、約一万二千文字。これをややゆっくりしたスピードで読み上げ、約一時間強の長さの録音となる。文字の上に朗読の箇所を示す罫線を動かすという、これまで何回か試みた動画は、わりあい簡単に作成できるので、こんども採用した。一方では、原典に計十二枚の絵が挿入されている。これをベースに作品を十二の部分に分け、十二の短い動画ファイルに纏めた。

古典を朗読で親しんでもらう、美しい変体仮名への指示もあわせて提示することにより、古典文字読解の知識まで身につけてもらう、これを目指した個人的なささやかな試みである。一方では、たとえば慶応義塾大学メディアセンターが公開している「くずし字OCR」、Googleが提供している読み上げエンジンを組み合わせれば、いまの作業は自動的に完成する可能性はすでにそこに存在している。それが実際に実現されるまでに、それへの期待も含めて、いまのような努力を続けることはけっして無意味ではあるまい。

動画・からいと