2009年12月29日火曜日

海に浮んで

一年の最後の数日となった。仕事も一段落して、ほんの十日たらずの冬休みに入る。暖かいところを求めて、短い旅行にでかけた。

091225数日にわたり、海に浮んでいる。太平洋の東側の大陸にそって、船がゆっくりと航行する。それを追いかけるのは、群をなす大きな海鳥だ。体は猫ぐらいのサイズにはなろうか、嘴に赤い一点を持ち、足は平たく伸ばして、水面でもきっと力強い。ふだんはまったく見られない風景を眺め、睡眠も食事もリズムがすっかり変わってしまうほどの変則な時間を過ごす。一年を締めくくるに、これも悪くはない。

まわりのすべてが、とにかく水平線にそって、際限なく横へと広がる。まっすぐを見れば、人間の目の及ぶ範囲は約30キロ。陸地でずいぶんと確認できたものだが、海ではほぼ初めてだ。それぐらいの距離にある町は、わずかに輪郭を表わし、それより向こうのものは、丸い地球の向こう側に溶け込んでいく。

大陸の港や島の沖に接近するたびに、景観がゆっくりと大きく変わる。視線の及ぶものは、立場や角度によってこうも違うものだと、鮮やかに知らされる。船の上に乗り、動くデッキに身を任せていて、そのような変化を受身に受け入れるほかはない。目に入ってすぐ消えたものは、想像と記憶によって補うほかはない。

一方では、変わらないものもある。それは満天の星。吸い込まれそうだ。無限に広がり、すべてを包む。見つめるほどに、豊かな奥行きを見せてくれている。

「もういくつ寝ると…」。もうすぐまたお正月だ。Y2Kなどと、わくわくして年を数えたのは、まるでこの間の出来事のようだ。だが、二十一世紀も二桁に入る。来る年も実りの多いものであるように。

2009年12月19日土曜日

「遭難」の距離

日本とは、地球の表と裏という距離にある。言葉や生活を仕事の対象としているものとしては、このような距離とは喜べない、あえて言えばマイナス的なものだろう。だが、与えられたものは、そう簡単に変えられるものではない。しかもよく考えてみれば、この距離のおかげで得られることも、けっしてないわけではない。

たとえば職場で交わされる会話である。日本語で行われるものはそのほんの一部に過ぎず、日本語話者はそもそも少ないのですから、議論の内容はどうしても限られ、ときにはかなり偏ったものになってしまう。ただ、日常生活に日本がない分、わずかな話題でも、まるで虫眼鏡をかけて取り掛かっているかのようにじっくりと吟味し、日本にいればとてもここまで関心を注ぐことがないのだろうと、自分ながらはっとする思いは一度や二度ではなかった。

たとえば昨日の会話があった。朝早く眺めたNHKの、同じく金曜日の夜の「ニュース9」の一番のニュースがなぜか気になった。最初に聞こえてきたのは、「片山氏、遭難」。場所が富士山だから注目があつまったのかと、可哀そうなことになったなあと、内心思ったその瞬間に、片山氏本人がコメントする様子が画面に躍り出た。あっけに取られ、目を疑った。遭難とは、あくまでも命を落としたとのことを指して言うものだと信じきっていたからだ。同行者を失ったとの難に遭遇したことには違いないが、それにしても、有名人ばかりにスポットライトを与えて、表現に余裕を失ったのではないかと、表現の理由をあれこれと想像してやまない。はっきり言えば、このようなキャッチフレーズが続いたら、日本語が持たない。

日本語のない日常から生まれた言葉への要らない詮索だろうか。そうでもないとすれば、時の距離を隔てたビジュアルの世界への思いに、どのような自覚や警戒が必要とするのだろうか。

2009年12月12日土曜日

匿名の絵師

日本と中国の絵画史に興味を持つ人に、絵師(画師)と聞けば、どのような異なるイメージ、ひいては学問的な問題意識が戻ってくるのだろうか。

中国のそれをまず考えてみよう。最初に語られてくるのは、間違いなく長い、長い名前のリストだ。なんの予備知識なしに付き合わされたら、まずは圧倒されて、おもわず浮き腰になって逃げ出したくなるものだ。その下敷きになるのは、「画論」と(現代の人々によって便宜に)呼ばれる膨大な文献群だ。そこに記されたのは、とにもかくにも画師の名前のリストであり、その伝記であり、作品の目録である。しかもそれらの名前同士にはれっきとした上下関係が形成され、東晋の顧愷之、南朝の陸探微、唐の吴道子、閻立本、宋の李公麟、李唐などをトップにして、かれらが生きていた時期だけではなく、その後の世代にもずっと師承されるものだった。ここには実際の作品があったかどうかはむしろ二次的なものになってしまう。たとえ作品があって、そこからなにも突飛なものが認められなくても、その歴史的な評価には一向に差し障りがないまま、何時まで経っても文人たちによって嬉々として語り伝えられるものだった。

これに対して、日本のこととなるとどうだろうか。絵師と言えば、まず人間としてのイメージが浮かんでくるのかもしれない。ただ残念なことに、『絵師草子』に描かれたあの滑稽な顔だ。しかもそれが偶然な現象ではないことを物語っているかのように、『宝物集』に収められた貧乏絵師の妻の訴えなど、平行する説話は枚挙に遑ない。このことは、個々の絵師の生活実態、社会やその社交的な生活圏での地位、絵描きとして腕前、周りからの絵や絵以外のことへの期待、などなどのこととはさほど関係がなかったとさえ言える。言って見れば、匿名に終始する絵師という、時代通じての一つの文化的な現象なのだ。たとえ無類な日記記録者が世に出て、その記録者自身が絵の所有、絵の鑑賞、ひいては絵の作成に情熱を燃やしたとしても、名前のある絵師が不思議なぐらい顔を見せてくれない。

中国のありかたはある程度理解できるにしても、日本のこの現象はなぜかとてもミステリアス。その答え、はたしてどんなところに求めるべきだろうか。

2009年12月5日土曜日

古写真

夏ごろの事だった。一人でバンクーバーへ旅行し、友人との昼食の席上、古写真のコレクターであるハル女史(Ms. A. Hall)という方を紹介された。幕末から明治にかけての古写真を蒐集し、今年の春先にエドモントの美術館で展覧会を設けたばかりとのことだった。楽しい会話から程なく経って、その展覧会のカタログが一冊送られてきた。

カタログの説明によると、ハル女史がコレクションを始めたのは、すでに四十年前のことであり、ご主人から新婚のプレゼントとして一冊のアルバムが贈られたのが、そのきっかけだったとか。コレクションの中味はいまやすでに800枚に上り、展覧会にはその中から200枚ほど出品され、カタログにも約100枚収録された。

幕末の日本を収めた古写真は、いうまでもなく非常に魅力のある分野であり、膨大な関心を集めている。気軽にいくつかのキーワードを入れてオンラインで検索してみれば、たとえばYahooには「古写真」というカテゴリーが用意されているぐらいだ。大学図書館などが運営するデーターベースなども複数あって、写真を眺めて興味が尽きない。

写真という技術の成立は、19世紀30年代の終わりに遡れる。一方では、写真に収められた日本は、当時の西洋人の好奇心に満ちた視線を映し出しながら、日本ならではのタッチがすでに施されている。このカタログの解説によれば、撮影された写真に色つけを加えるというこ091205とは、ほかの国ではさほど見られず、もっぱら日本的な試みだとされる。そうだとすれば、色への感性や希求ということもさることながら、浮世絵の絵師たちの存在と、その職人的な腕前がこれを可能にしたに違いない。カタログの巻頭を飾ったのは、まさにそのような職人の仕事ぶりだ。武士、美人、飛脚、ひいては刺青や駕籠など、幕末の古写真といえばすぐ思い浮かべるような場面とはまた一味違った、ユニークな風景だった。

ちなみに、展覧会のタイトルそのものはずばり「KOSHASHIN」だった。英語を話す人にはもちろん伝わらず、解説文に英訳を添えられた。ただ、それは「old photo」ではなく、「period photographs」だった。なお、同じ時代の西洋の写真のことを記述して、「early photo」という述語がより多用されているらしい。豊穣なビジュアルの世界、西洋のそれに併せて、探求を試みたい。

幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース
日本残像