2009年12月19日土曜日

「遭難」の距離

日本とは、地球の表と裏という距離にある。言葉や生活を仕事の対象としているものとしては、このような距離とは喜べない、あえて言えばマイナス的なものだろう。だが、与えられたものは、そう簡単に変えられるものではない。しかもよく考えてみれば、この距離のおかげで得られることも、けっしてないわけではない。

たとえば職場で交わされる会話である。日本語で行われるものはそのほんの一部に過ぎず、日本語話者はそもそも少ないのですから、議論の内容はどうしても限られ、ときにはかなり偏ったものになってしまう。ただ、日常生活に日本がない分、わずかな話題でも、まるで虫眼鏡をかけて取り掛かっているかのようにじっくりと吟味し、日本にいればとてもここまで関心を注ぐことがないのだろうと、自分ながらはっとする思いは一度や二度ではなかった。

たとえば昨日の会話があった。朝早く眺めたNHKの、同じく金曜日の夜の「ニュース9」の一番のニュースがなぜか気になった。最初に聞こえてきたのは、「片山氏、遭難」。場所が富士山だから注目があつまったのかと、可哀そうなことになったなあと、内心思ったその瞬間に、片山氏本人がコメントする様子が画面に躍り出た。あっけに取られ、目を疑った。遭難とは、あくまでも命を落としたとのことを指して言うものだと信じきっていたからだ。同行者を失ったとの難に遭遇したことには違いないが、それにしても、有名人ばかりにスポットライトを与えて、表現に余裕を失ったのではないかと、表現の理由をあれこれと想像してやまない。はっきり言えば、このようなキャッチフレーズが続いたら、日本語が持たない。

日本語のない日常から生まれた言葉への要らない詮索だろうか。そうでもないとすれば、時の距離を隔てたビジュアルの世界への思いに、どのような自覚や警戒が必要とするのだろうか。

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