2009年12月29日火曜日

海に浮んで

一年の最後の数日となった。仕事も一段落して、ほんの十日たらずの冬休みに入る。暖かいところを求めて、短い旅行にでかけた。

091225数日にわたり、海に浮んでいる。太平洋の東側の大陸にそって、船がゆっくりと航行する。それを追いかけるのは、群をなす大きな海鳥だ。体は猫ぐらいのサイズにはなろうか、嘴に赤い一点を持ち、足は平たく伸ばして、水面でもきっと力強い。ふだんはまったく見られない風景を眺め、睡眠も食事もリズムがすっかり変わってしまうほどの変則な時間を過ごす。一年を締めくくるに、これも悪くはない。

まわりのすべてが、とにかく水平線にそって、際限なく横へと広がる。まっすぐを見れば、人間の目の及ぶ範囲は約30キロ。陸地でずいぶんと確認できたものだが、海ではほぼ初めてだ。それぐらいの距離にある町は、わずかに輪郭を表わし、それより向こうのものは、丸い地球の向こう側に溶け込んでいく。

大陸の港や島の沖に接近するたびに、景観がゆっくりと大きく変わる。視線の及ぶものは、立場や角度によってこうも違うものだと、鮮やかに知らされる。船の上に乗り、動くデッキに身を任せていて、そのような変化を受身に受け入れるほかはない。目に入ってすぐ消えたものは、想像と記憶によって補うほかはない。

一方では、変わらないものもある。それは満天の星。吸い込まれそうだ。無限に広がり、すべてを包む。見つめるほどに、豊かな奥行きを見せてくれている。

「もういくつ寝ると…」。もうすぐまたお正月だ。Y2Kなどと、わくわくして年を数えたのは、まるでこの間の出来事のようだ。だが、二十一世紀も二桁に入る。来る年も実りの多いものであるように。

2009年12月19日土曜日

「遭難」の距離

日本とは、地球の表と裏という距離にある。言葉や生活を仕事の対象としているものとしては、このような距離とは喜べない、あえて言えばマイナス的なものだろう。だが、与えられたものは、そう簡単に変えられるものではない。しかもよく考えてみれば、この距離のおかげで得られることも、けっしてないわけではない。

たとえば職場で交わされる会話である。日本語で行われるものはそのほんの一部に過ぎず、日本語話者はそもそも少ないのですから、議論の内容はどうしても限られ、ときにはかなり偏ったものになってしまう。ただ、日常生活に日本がない分、わずかな話題でも、まるで虫眼鏡をかけて取り掛かっているかのようにじっくりと吟味し、日本にいればとてもここまで関心を注ぐことがないのだろうと、自分ながらはっとする思いは一度や二度ではなかった。

たとえば昨日の会話があった。朝早く眺めたNHKの、同じく金曜日の夜の「ニュース9」の一番のニュースがなぜか気になった。最初に聞こえてきたのは、「片山氏、遭難」。場所が富士山だから注目があつまったのかと、可哀そうなことになったなあと、内心思ったその瞬間に、片山氏本人がコメントする様子が画面に躍り出た。あっけに取られ、目を疑った。遭難とは、あくまでも命を落としたとのことを指して言うものだと信じきっていたからだ。同行者を失ったとの難に遭遇したことには違いないが、それにしても、有名人ばかりにスポットライトを与えて、表現に余裕を失ったのではないかと、表現の理由をあれこれと想像してやまない。はっきり言えば、このようなキャッチフレーズが続いたら、日本語が持たない。

日本語のない日常から生まれた言葉への要らない詮索だろうか。そうでもないとすれば、時の距離を隔てたビジュアルの世界への思いに、どのような自覚や警戒が必要とするのだろうか。

2009年12月12日土曜日

匿名の絵師

日本と中国の絵画史に興味を持つ人に、絵師(画師)と聞けば、どのような異なるイメージ、ひいては学問的な問題意識が戻ってくるのだろうか。

中国のそれをまず考えてみよう。最初に語られてくるのは、間違いなく長い、長い名前のリストだ。なんの予備知識なしに付き合わされたら、まずは圧倒されて、おもわず浮き腰になって逃げ出したくなるものだ。その下敷きになるのは、「画論」と(現代の人々によって便宜に)呼ばれる膨大な文献群だ。そこに記されたのは、とにもかくにも画師の名前のリストであり、その伝記であり、作品の目録である。しかもそれらの名前同士にはれっきとした上下関係が形成され、東晋の顧愷之、南朝の陸探微、唐の吴道子、閻立本、宋の李公麟、李唐などをトップにして、かれらが生きていた時期だけではなく、その後の世代にもずっと師承されるものだった。ここには実際の作品があったかどうかはむしろ二次的なものになってしまう。たとえ作品があって、そこからなにも突飛なものが認められなくても、その歴史的な評価には一向に差し障りがないまま、何時まで経っても文人たちによって嬉々として語り伝えられるものだった。

これに対して、日本のこととなるとどうだろうか。絵師と言えば、まず人間としてのイメージが浮かんでくるのかもしれない。ただ残念なことに、『絵師草子』に描かれたあの滑稽な顔だ。しかもそれが偶然な現象ではないことを物語っているかのように、『宝物集』に収められた貧乏絵師の妻の訴えなど、平行する説話は枚挙に遑ない。このことは、個々の絵師の生活実態、社会やその社交的な生活圏での地位、絵描きとして腕前、周りからの絵や絵以外のことへの期待、などなどのこととはさほど関係がなかったとさえ言える。言って見れば、匿名に終始する絵師という、時代通じての一つの文化的な現象なのだ。たとえ無類な日記記録者が世に出て、その記録者自身が絵の所有、絵の鑑賞、ひいては絵の作成に情熱を燃やしたとしても、名前のある絵師が不思議なぐらい顔を見せてくれない。

中国のありかたはある程度理解できるにしても、日本のこの現象はなぜかとてもミステリアス。その答え、はたしてどんなところに求めるべきだろうか。

2009年12月5日土曜日

古写真

夏ごろの事だった。一人でバンクーバーへ旅行し、友人との昼食の席上、古写真のコレクターであるハル女史(Ms. A. Hall)という方を紹介された。幕末から明治にかけての古写真を蒐集し、今年の春先にエドモントの美術館で展覧会を設けたばかりとのことだった。楽しい会話から程なく経って、その展覧会のカタログが一冊送られてきた。

カタログの説明によると、ハル女史がコレクションを始めたのは、すでに四十年前のことであり、ご主人から新婚のプレゼントとして一冊のアルバムが贈られたのが、そのきっかけだったとか。コレクションの中味はいまやすでに800枚に上り、展覧会にはその中から200枚ほど出品され、カタログにも約100枚収録された。

幕末の日本を収めた古写真は、いうまでもなく非常に魅力のある分野であり、膨大な関心を集めている。気軽にいくつかのキーワードを入れてオンラインで検索してみれば、たとえばYahooには「古写真」というカテゴリーが用意されているぐらいだ。大学図書館などが運営するデーターベースなども複数あって、写真を眺めて興味が尽きない。

写真という技術の成立は、19世紀30年代の終わりに遡れる。一方では、写真に収められた日本は、当時の西洋人の好奇心に満ちた視線を映し出しながら、日本ならではのタッチがすでに施されている。このカタログの解説によれば、撮影された写真に色つけを加えるというこ091205とは、ほかの国ではさほど見られず、もっぱら日本的な試みだとされる。そうだとすれば、色への感性や希求ということもさることながら、浮世絵の絵師たちの存在と、その職人的な腕前がこれを可能にしたに違いない。カタログの巻頭を飾ったのは、まさにそのような職人の仕事ぶりだ。武士、美人、飛脚、ひいては刺青や駕籠など、幕末の古写真といえばすぐ思い浮かべるような場面とはまた一味違った、ユニークな風景だった。

ちなみに、展覧会のタイトルそのものはずばり「KOSHASHIN」だった。英語を話す人にはもちろん伝わらず、解説文に英訳を添えられた。ただ、それは「old photo」ではなく、「period photographs」だった。なお、同じ時代の西洋の写真のことを記述して、「early photo」という述語がより多用されているらしい。豊穣なビジュアルの世界、西洋のそれに併せて、探求を試みたい。

幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース
日本残像

2009年11月28日土曜日

学生のビジュアル表現

普段の生活を大きく乱してしまう大雪は、年に一度は降る。朝起きて降り積もる雪に嘆くときが多いが、昨日はそれが夕方のラッシュに起きた。10分程度の距離は一時間か二時間以上も掛かってしまって、とんだ週末となった。

雪本番を迎えつつ、大学では学期の終わりに近づき、どの授業も纏めに入った。学期末試験はほぼ作成できて、来週明け早々にも印刷に回し、初級クラスは残るは講義一回だけで、あとは小テスト、それにグループ発表のみだ。書きたての原稿を手にして、せわしく話し合っている学生の姿が目立ち、動画で提出しようと、撮影のロケも「野次馬組」まで交えて行われていたりして、ほほえましい。

今学期の新しい試みの一つに、少人数の作文のクラスにおいて、作業を週一度にオンラインに公開するというやり方を取った。どうも学生たちの波長にかなり合ったらしく、予想以上の手ごたえを感じた。そのクラスも最後の一回のみとなって、写真の使用を制限するというこれまでの方針を外して、今度はビジュアルによる表現、という要求を出した。

英語圏で生活していて余計に感じることだが、ビジュアル手段を生かして表現を豊かにするということに掛けては、日本の文化にかなりのマジックパワーが隠されている。それは、百年千年の伝統を持ち出すまでもなく、毎日の生活の中で目に入ってくる新聞、雑誌の紙面、あるいは街角に充満する広告ポスターなどを眺めれば十分に感じ取れる。ビジュアル表現をするために、異なる手段ひいては絵描きなどの能力が必要だ云々と議論する以前のものである。

いうまでもなく日本語のクラスでビジュアル表現法を教えているわけではない。だが、そこが若い学生たちの驚異的な吸収力だ。絵描きを習っていなくても、日本語の発音やセンテンス構造との格闘とともに、日本ならではのものがいっぱい目に入っていて、それを肌で感じ取り、表現に取り込む。その感性がどのように無理難題な宿題に反映されることだろうか、はなはだ興味深い。

日本語作文ボード

2009年11月21日土曜日

マンガを披いてみれば

0911121 たまたま漫画「陰陽師」数冊が手に入った。これまでならただぱらぱらとページをめくってみて、そのまま閉ってしまうものだが、なぜかページを、会話を飛ばさずに追ってみた。全部読了ということまでにはいかないが、ともかくいまも読み続けている。

この作品をめぐり、映画などのこともさることながら、いまなお記憶に残る会話があった。もうかなり数年前のことになるが、ある集まりのあと、飲み屋で数人の若者と同じテーブルに着いた。いずれも初対面の、それも理科系の大学院生で、共通した話題を見出すために互いに模索しあった。そこでいつの間にかたどり着いたのは、マンガだった。その中の一人は、この「陰陽師」のファンであり、その読書経験を熱く語ってくれた。曰く、つぎの出版までわくわくして待ちきれない、一冊が手に入ると一気に読み通す、数時間の作業であり、読み返すこともよくある、読む順番としては絵と文字とどちらからともなく交替に、などなど。その語り口はなぜかとても知的で、生き生きとして説得力があった。絵の読み方を考えることを自負していながらも、なぜかその時だけはまるで異文化、異国人を眺める思いだった。

同じ作品を手に入れて、それものんびりと構えてはいるが、それでもあの若者が語ったような感覚を体験することなど、とても無理なことだと分かった。しかしながら、漫画の文字の、絵の、そしてストーリの枠組みやそれを伝えるための約束ごと、拠ってかかるベースとリズムといったものさえ受け止められたら、それなりに楽しいものだということは、確かだ。

まんが批判の代表的な論拠の一つには、画像があって、文字が最小限に減らされたから、読者の想像力が限られたものにならざるをえないとのことがあげられる。しかしながら、その画像だってあくまでも断片でいて、作為が満ち溢れるものであり、それを読解するためには、限りなく読者の想像力が必要とされる。これまた見過ごすわけにはいかない事実だろう。

2009年11月14日土曜日

描かれた「絵合」

少人数の外国文学のクラスに誘われて、一時間ほどのゲスト講義をした。テーマは源氏物語。学生たちは、何点かの世界の古典を英語で、源氏物語の場合はそれもダイジェストバージョンで読んでいる。源氏という聖地にはとても踏み入れる覚悟がないにもかかわらず、学生たちの熱心な勉強ぶりに押されて、講壇に立った。選んだ切り口は、いうまでもなく源氏を描いた画像群だった。

源氏をめぐる絵画表現は、じつに豊かだ。それらを平安から室町と時代を横断し、絵巻から扇面、屏風、絵本、はては合貝や歌札とジャンルを通じて眺めるとすれば、さまざまな興味深いことが見えてくる。分かりやすい例として、「絵合」を描いたものをやや詳しく取り上げた。

描かれたのは、冷泉帝とかれが寵愛を注ぐ前斎宮と弘徽殿女御という二人の女性、それにそれぞれの女性の後ろ盾となる源氏と頭中将という二人の貴人である。一枚の絵に収めいれるには、じつに安定した人間関係であり、ほどよい物語の分量である。二人の貴人を絵合の場の外に押し出して簾をもって視線を遮断したり、冷泉帝の注意を女性ではなくて外の二人に貴人に向かわせたりして、絵師の腕前はいかほどのものであっても、どんな幼稚な描き方をしていても、見ごたえのある画面になる。しかも違う絵を並べておけば、さまざまなバージョンの構図が行われたことに心を惹かれる。五人全員が登場するものをスタンダードな構図だとすれば、女性だけのもの、二人の貴人を描かないもの、はてには二人の貴人と女性で冷泉帝の姿が見られないものと、表現というよりも、絵師の遊び心まで覗かれる。0911114一方では、絵の背後には濃厚なストーリがあった。一人の皇帝と二人の女御とそれぞれの親という、個人名を隠していても、今日の外国人の読者に難なく伝えられる一方、たとえば登場人物の年齢(冷泉帝は13才、弘徽殿女御は14才、前斎宮は22才)、源氏と冷泉帝との血縁関係、さらに画面に登場していない尼宮(藤壺)や朱雀院の存在や思いまで連想すれば、一枚の絵から読み取れる物語の世界は無限に広がる。

これだけ予備知識が必要とされる物語の読解を、若い学生たちはどこまでこなせるのだろうか。そもそも源氏の絵にはどこまで共鳴が覚えられるものだろうか。はなはだ心もとない。これをテーマにしたレポートが提出されたら読ませてほしいと、担当の教授に頼んでおいた。

2009年11月7日土曜日

TTSを思い出す

明日の日曜日、勤務大学の教室にて小さな集まりが予定され、一時間ほどおしゃべりの時間を与えられた。集まってくるのは、日本語教育に関心を持ち、あるいはそれに携わっている方々である。思いついたテーマは、「音をめぐって」。自分の関心事をぶっつけてみて、どのような反応が起こるか、内心楽しみにしている。

話の一つに、音をめぐる歴史的な変化を取り上げよう。音・声を記録するために、人間が最初に案出したのは、ほかならぬ文字だったろう。その目で見れば、ほんの最近になって、音声を物理的に記録し、思う通りに再現する方法がようやく実現できた。それが大きなディスクであり、だんだん小さくなっていくテープであり、いまはデジタル信号である。記録するメディアの変化により、記録する分量も飛躍的に増えた。どんなに大きな図書館でも、音声を記録するテープを対象となればついつい所蔵する方針を丁寧に考え直さなければならないが、デジタル信号となれば、たとえばラジオ放送ならとにかくすべてを記録しておこうということは、図書館どころか、個人レベルでもさかんにやられているだろう。そして、インターネットという伝播の手段の登場だ。記録されたものを人に渡すことはほぼゼロコストで実行可能になり、著作権というやっかいなことさえクリアできれば、音声という媒体はどれだけ繁盛するだろうか。

つぎに何が起こるのだろうか。メディアとしての音声は、必然的に再び文字へ戻るのだと見る。すなわち、文字と音声との間に自由に往来することだ。ここに、数年前あれこれと遊んで眺めていたTTSソフトの一群を思い出す。「Text To Speech」と称されている。いまやかなりのレベルまで実用されていて、一例を挙げれば、最近購入したビデオカメラ付きのiPodナノは、ポッドキャストの番組名をかなり聞きやすい語り口で知らせてくれている。新しい技術の応用は、びっくりした視線で迎えられることさえなく、自然と日常の生活の中に溶け込んだものなのだ。

「PC Online」サイトの記事は、この水曜日から慶応大学で開催された「21世紀コンピューティングカンファレンス」をレポートし、「Photo Real Talking Head」という展示を紹介した。口などのパーツを選んで顔を組み立て、それがTTSにあわせて動き出すという、聞くからに初歩的な作り方をしている。しかし、文字、音声になんらかの外装を付けて、それを実用に送り出そうとする苦心が見えて、なぜか微笑ましい。

2009年10月31日土曜日

論文集到着

一年前のいまごろ、古典文学をテーマにしたシンポジウcapt000aムに参加してハーバード大学を訪れた。その間のことをこのブログにも数回書いた。その集まりの成果は、一年も経たないうちにりっぱな論文集になり、今週の初頭、編集出版元の国文学研究資料館より送られてきた。一冊の論集を形にするためにどれだけの人々が苦労を重ねてきたのかと思いかえしながら、はるばる海を越えて送られてきたものを手にして、感慨深い。感謝の念をここに記しておきたい。

思えば二日程度の集まりでしたが、その企画となればじつに長かった。最初にこの集まりのことを聞いたのは、たしか2007年の春、学生たちを連れて専修大学で語学研修を行う間のことだった。学生たちが使う狭い教室に入り、インターネットのアクセスもままならない状態の中であれこれとやりとりをしていたことは、いまでも鮮明に覚えている。それまでには企画がすでにかなり続いていたことはいうまでもない。

同じ集まりは、今年はヨーロッパもロンドンに場を移して似たような枠組みをもって続いたと伺う。そのテーマは、「横断する日本文学」。しかもシンポジウム開催に先立って、詳細なプログラムや発表の要旨が日本語と英語の両方の言語によって纏められて、読みやすい形で公開されている。純粋な古典文学研究においても、研究の様態も発表の場もずいぶん変わってしまったものだと、なぜか実感を新たにした。日本の公的な研究機関がリーダシップを取り、代表的な学者たちが一堂に集まって知見を披露し、その記録があまり過度な手入れをしないで世に送り出される。古典文学という、長い下積みや言語の基礎知識が必要とする学問だが、日本の学者と外国の学者が同じ土俵で交流し、研究に用いる言葉がたとえ互いに精通しなくても理解しあうように努力し、つとめて交流から最大の養分を汲みとる。すこし前の時代ではとても考えられないあり方ではなかろうか。

同じ構図で見れば、遠いカナダに身をおいて、あくまでも大きな渦に巻き込まれるように、たまにしか参加できないでいる。ただ、外側にいる分、新鮮でいて、刺激が多い。大切にしたいものだ。

2009年10月24日土曜日

ストリートビューがやってきた

学生に教わって、自分が生活して町を含めて、カナダのいくつかの都市がグーグルの「ストリートビュー」に登場したことが分かった。これまで、東京やボストンの旅行にかなり使っていたがために、なんとなくずっと楽しみにしていて、さっそくアクセスして眺めてみた。日常生活しているだけに、ついつい時間を忘れてあっちこっちを見て回った。

まず画像の画質もアクセススピードも前よりさらに快適になったとの印象を受けた。ストリートビューの魅力は、なによりもいつまでも続く町の風景なのだ。毎日通っているところ、知識として持っていてもいまだ訪ねていないところ、噂ばかり聞いてとても実際に行ってみることなど適えそうもないところ、などなど、頭の中に浮かんだ予想や期待に照らし合わせつつ、目の前に延々と展開してくるビジュアル的な風景は、実に素晴らしい。

091022実際の生活の中でも、これまで数回、カメラを屋根 に高く据えつけた車を目撃した。ゴーグルのロゴもさほど目立たないがはっきりと読めた。思えば、ストリートの様子を画像データにするというのは、途方もなく地味で、アナログ的なものだ。いくら高級なカメラ、最先端のパソコン、特殊な編集ソフトを駆使したとしても、データそのものがそもそも存在していない。すべての大通りや小道をまんぺんなくカメラに捕えることから始めなくちゃならない。気の遠くなるような作業だ。一方では、電子がメディアになっているいまの世の中において、製作者の意図するところは、なによりもまず町の様子をいかに知る、調べるということであって、おそらくそれを記録するという発想にはかなり遠いかもしれない。しかしながら、現在の生活についての、この上もないユニークな記録になることには間違いがない。簡単に消えたり、更新したりすることができる電子メディアは、大量で負担にならないで保存することが可能だ。百年、千年単位で人間の社会を考えてみれば、どれだけ貴重なビジュアル資料になるのだろうか。

ちなみに勤務している大学の正面玄関に向かって、私がカメラを構えてグーグルのカメラ車を撮ろうとしたところがいまのストリートビューに記録されて公開されている。友人や同僚たちに見せて、何回も楽しい話題にした。

2009年10月17日土曜日

東京一週間

昨日、短い東京への旅行から戻ってきた。国際交流基金の招待を受けて、箱根、赤坂と三日間の会議に出席し、世界から集まってきた学者たちととても有意義な交流が出来た。

091017会議のテーマは、「世界日本研究者フォーラム」。十四の国から十六人の研究者が集まり、いま現在の世界における日本研究ということをテーマに、実に自由自在に語りあった。いうまでもなく研究者たちはそれぞれに違う国からだけではなく、研究分野もかなり離れていて、発言の内容もほぼその国における日本研究という、かなり巨視的なものだった。とりわけ研究や教育におけるお国の自慢話、あるいはその国ならではの期待などがさかんに議論され、国が違うと事情がこんなにも違うんだと改めて認識させられ、「世界の日本研究」といわれても、まったく違う世界のことをはじめて聞かされたものだとの思いに打たれたのは、一度や二度に止まらなかった。それに加えて、休憩時間での会話なども、それぞれの教育機関での研究制度、業績形態、評価方法など、研究そのものよりも、研究にまつわり、それをサポートし、それを囲みこむ方面の話題が中心だった。おかげで、たまにしか出てこなかった古典、古文、ひいては画像資料にかかわる話題が出てきても、それが主流になれない、基礎としてもっと強めなければといった、嘆きのトーンに伴うものだった。

招待側の実に真心を込めた、思いやりが伴う行き届いた対応には、ただ感激した。学期のど真ん中に一週間も職場を空けてしまったことは、これまでほとんど経験がなく、会議の合間にも、採点、作文添削、申請書の仕上げなどの作業をこなしたが、授業や他のもろもろの仕事などは、職場の同僚たちの協力に頼らざるをえなかった。終わってみれば、それだけの価値があるものなんだと、充実した思いが持てた。ちなみに、研究や授業に使うユニークな道具も数点購入できて、さっそく実際に試してみたい。

公開シンポジウム:世界日本研究者フォーラム

2009年10月10日土曜日

JSAC・2009

先週の週末、JSAC2009学会に出て、デジタルと古典画像をテーマに短い発表をしてきた。三日にわたる会議の長いスケジュールの中の、もっとも後ろの位置を与えられて、発表が始まったのは、すでに日曜日の昼ごろだった。学会の場所は隣の町にある大学だということで、交通的には他の参加者と比べてすこし有利だという判断からだろうか。それでも運転して3時間ぐらい離れたところだった。遠路の人々はほとんど帰ってしまうのではないかと見込んで、プリント資料も10枚程度しか用意しなかったが、結局予想した人数の三倍以上の方々が居残り、話し甲斐を感じた時間だった。

発表の内容は、ほぼ雑誌『文学』に書かせてもらった随筆に沿ったものだった。現状の概観、それに散発な、ところどころ愚痴とも区別を付けがたいような議論に終始するものだが、日常的に考えをし、自分ひとりのささやかな力でもなんらかの作業を試みるための、思考の記録であることには間違いない。いわば日常の生活、研究、そして仕事の中で特別に気づかなくても深く関わらざるをえなくなったデジタル環境へ目を向け、意識的に立ち止り、軽く振り返ったものだった。だが、いつかもうすこし腰をすえてこれに取り掛かり、形のある研究プロジェクトに育てたいとの気持ちはずって捨てきれずに持っていることも確かだ。

学会の場では、会場に残ってくれた方々は、誰も日本古典研究をテーマにこそしていないが、それぞれにデジタル環境と自分の学問の経験との関わりを同じように身をもって体験し、つねに考えを与えている。おかげで真摯なコメントをたくさんいただいた。外にはすでに淡い雪が降りはじめたが、発表の後の質疑応答や解散したあとの会話に、いつになく熱気を感じた。研究分野が違っていても、デジタルとはそれぞれの形で関わっているという実感をあらためて得た。

ちなみにそれより一週間ほど前に購入したビデオカメラ付きの「ナノ」を思いつきで講壇に置いて、発表を録音した。音質は予想以上に良かった。ほとんどデジタル道具だと気づかないまま、日常の生活にデジタル媒体が入り込んできた。しかもそのおかげで、道具を持たなかった時に思いついても実行しなかっただろうとのスタイルや資料を持ちえた。

2009年10月3日土曜日

絵に耳を欹てる

絵巻のありかたを考える場合、絵を一つのメディアとして眺めるということは、さまざまな新たな視野を開けてくれる。メディアとしての絵に注目すれば、それに並ぶメディア、読むものなら文字あるいは記号やサイン、体の五感でアクセスするものなら音、味などがあると言えよう。

この中では、おそらく音/声のことが一番魅力的ではなかろうか。絵や文字とはまったく異なる次元のものでいながらも、一方では、読まれるものとはつねに互いに支えあうような関係にあって、緊密な連動が認められる。とりわけ多くの人間が文字を読めなかった、あるいは絵そのものに簡単にアクセスできなかった昔の時代であれば、音のメディアとしての役目がとりわけ際立った。

そのような音のことには、なぜかつねに一種の魅力を感じる。できれば、中世の、絵巻が盛んに読まれた、楽しまれた時代のことが知りたい。だが、どうやって探求すべきだろうか。録音という手段も、そのような可能性への想定もまったくなかった時代のこと、はたしてどこまで模索できるものだろうか。そもそもどこを出発地にし、試しの一歩を、どこから踏み出したらよかろうか。手探りの状態だが、その難しさでさえ一つの刺激に変わった。

じつは、これをテーマにしたささやかな論考を試みた。中世の日記から得られた実例、踏襲される表現様式にまで成長した絵の構図、絵巻作成にあたっての自覚と覚悟と、一つの絵巻をめぐるいくつかの側面を意識的に同じ土俵に並べてみた。その論考が先週出版されたことをここで報告したい。

『文学』第10巻第5号

2009年9月26日土曜日

三次元画像の誘惑

デジタル処理とは、広い意味を持ち、しかもその意味が日を追って変わり続ける。古典の画像資料を対象としたそれは、したがってただ記録の媒体を在来の紙あるいはフィルムに取り代わってメモリー・ディスクを持ち出したには限らない。画像をスクリーンやモニターに映し出すのと同時に、人々はさまざまなかつて存在しなかったものに挑戦する。

その中の一つは、いわゆる三次元画像だ。代表的なテーマは、あの洛中洛外図が挙げられる。作品群の形をなす大きな数の名品の作成と伝存、実際の都市景観との対応、いまなお人々の生活が行われつづける時間の連続など、さまざまな要素が重なり、このような試みへの期待が明らかに感じられる。関西地域で生活していれば頻繁にそのような研究の進歩を時の話題として接することができる。たとえば日文研ではすでに十年以上前からこれを課題として取り掛かり、半年ほど前には、立命館大学動体計測研究会主催の研究成果報告会も行われた。

考えて見れば、目の前にある様子をこれから撮影しようと思っても、それを三次元のものとして仕上げるためには、特別な工夫を施さなければならない。突き詰めて言えば、二次元画像以上の情報を取り込まなければ、三次元画像にはならない。そもそも絵師の構想を経た、その腕前によって大きく左右された二次元の画像を三次元のものすることは、その根底においてかなりの無理が存在していよう。ただし、そのようなことを嘆いたり、不可能だと諦めたりばかりするのは、芸がない。そもそも人間の飽きない知的な願望がこれを支えている。不可能なものに誘惑を感じているからこそ、新たな可能性が隠されているものであろう。

090926あるいは一ヶ月ほど前に発売された一つの小さな新製品がヒントを示しているかもしれない。三次元写真を撮る、見せるデジタルカメラだ。レンズ二つのカメラなら、ずいぶん昔からあれこれとあったが、それがついにデジタル装置として生まれ変わり、しかもその気さえあればだれでも手に入れられるまで身近なものとなった。デジタルという保存と処理の手軽さ、画質の精密さ、ディスプレーなどの周辺装置との連動など、まさにわくわくさせるような道具の進歩である。現実生活の中で、新しいタイプの画像としてビジュアルの情報を記録し、使用し、それを楽しむということを通じて、新たな期待や習慣が身に付けるようになる。まさにその過程で古典画像を立体的に見る、見せることが現実性を帯びてくるのではなかろうかと、想像したい。

2009年9月19日土曜日

ローマ字はモノグラム

前回に引き続き花押のことを考えてみたい。今度は英語圏に目を向けてみる。そこにも文字と絵との交差というものはもちろん存在している。漢字は花押なら、ローマ字はモノグラム(monogram)だ。

北米で生活していると、日常の中で日本のと違う作法あるいはスタイルをあげるとすれば、そのトップに個人の署名が上げられるだろう。印鑑というものはほぼ存在せず、その代わり署名というのは、仕事の場に限らず、クレジットカードでの買い物などでも頻繁に要求される。最近になって、署名用電子パットを用いるような業種まで多く見られるようになった。自分の署名の書き方を思い巡らし、あれこれと試して見るという経験はいまでも記憶に新しく、成人に向かう若者たちの模索をじかに見つめたことも一度や二度ではない。

090919しかしながら、そのような署名の文化において、モノグラム はだいぶ異なる役目を果たしている。あえて言えば、漢字圏で署名そのもののために発達してきた花押と違って、モノグラムは、おなじく文字を用いて絵的な構図を作り上げていても、実際の役目は、むしろロゴの一種だ。頭文字などを視覚的な効果を狙って丁寧に組み合わせ、洗練された構図に仕上げるる。一方では、それは集団や個人のシンボルになっていても、実際に関わったことの証明としての署名にはさほど使われていない。実際に生活の中で見かけるのは、バッグなどの商品のデザイン、野球球団のロゴなどがすぐに思い起こされるものぐらいだ。

ちなみに日本での生活風景の中ですぐに思いつくのは、JRということではなかろうか。英語圏の文化で言えば、それは「リガチュア(Ligature、合字)」と言い、さらに違うカテゴリーに分類されるものだ。

2009年9月12日土曜日

花押と画押

文字は、それ自体一つのビジュアル的な表現媒体でもある。現代の生活においてこそ、教育基準やらパソコンにおける文字コードやフォントセットやらという過程を経て、文字の同性化がすさまじいスピードで進み、文字のビジュアル的な特性は、わずかに書道などの場において認められるぐらいだ。一方では、歴史的な文化伝統において文字と絵との交差、言い換えれば文字でありながらも絵的な要素を限りなく必要としたものと言えば、おそらくまず「花押」を挙げるべきだろう。

花押という言葉は、最初は日本語の単語として覚えた。とりわけ武士のそれなどを眺めて、言葉とそれが指し示す対象と時代の中における位相など、一つの中世文化のセットとして習い、理解していた。それが唐や宋の文献や詩・詞に頻繁に登場し、りっぱな中国語だと気づいたのは、だいぶ後のことだった。もともとかなり近代まで使われていた言葉には、「画押」がある。発音が近くても、こちらのほうは動詞であり、自分の名前を意味する「押」を紙に「描(画)く」ということになる。しかもあの魯迅の小説に登場した阿Qという人物のエピソードに代表されたように、文字を上手く書けなくて、やむをえず自分の名前の代わりに、時にはなんでも良いから勝手に書いたものというニュアンスまで加わった。

090912中国の歴史上、広く語られた花押としては、宋の徽宗皇帝のものがある。筆の数がきわめて少なく、単純な構成を取っているが、間違いなく考え抜かれて、洗練されたものだ。あわせて四本の横・縦の線が示したのは、「天下一人」という四つの文字だ。二番目の横線が三つの文字に計三回使われたという計算になる。まさに天下人の花押だから、その背後に隠された政治的、文化的な威厳も無言に伝わって重い。

ならば、花押と文字との一番の違いはどこに存在するのだろうか。答えが明瞭だろう。万人共通、天下に通用するという文字と違い、花押はあくまでも一人の人間についての情報であり、その人間が関わりをもつ範囲にのみ使用され、機能されるものだ。その意味では、皇帝も武士の将軍も、権勢を持っている間は、天下と同一視され、その花押も万人に知られるとの理屈になるが、それが時代の移り変わりと共に淘汰され、忘れられてしまう。すなわち、特定の人間のことが分からなければ、その人の花押とはそもそも意味を成さないものだ。花押を読み解き、識別することの難解さも、なっとく出来る感じだ。

2009年9月5日土曜日

絵巻から飛び出したパオ

目的もなくインターネットのリンクをあれこれとクリックしているうちに、右の写真(上半分)にたどり着いた。中国の辺地を旅行する愛好家が撮ったスナップ写真だが、いつかどこかで見たことがあるような原風景で、はっと心が打たれた。

写真に写ったのは、あの万里の長城の西の端っこなる嘉峪関にある観光地の一角である。「天下第一墩」という名前で知られているもので、長城のスタート地点としてのシンボル的なものだ。「墩」とは日本語で使われていない文字だが、現代中国語ではかなり使用頻度の高いもので、ここでは土を盛り上げた台、建物の土台といったぐらいの意味を持つ。明の時代に修築した長城の土台が昔の姿をほとんど消えた形の遺跡となり、古戦場の面影を覗かせている。そこで、長城とのゆかりから、新たに復元された軍隊の駐屯地が一つのテーマ区域となり、写真に収めたものだった。

答えはすぐに思いついた。この風景の既視感は、あの絵巻の画面からくるものだった。「胡笳十八拍図」である。写真と対照して、絵巻から一つの画面から小さな一部分を取り出して、観光写真と並べた。匈奴に攫われた蔡文姫という女性が主人公を描くものだが、画面に小さく描かれたのは文姫自身ではなくて、彼女の侍女の一人だったと思われる。建物を比較すれば、絵巻に描かれた移動的なものと復元建築の半永久的なスタイル、それから規模にも使用される材料にも、多くの違いが認められよう。しかしながら、カメラアングルも関わって、なぜか両者がはっきりと繋がり、遠くにある異域や過ぎ去った古代のことに思いを馳せてしみじみとさせてくれた。

復元の建物はなにを根拠にしたのだろうか。もともと宋の絵巻など参照の対象には上らなかったのではなかろうか。そんなに昔の資料に遡らなくても、近代の記録、それになんらかの建物の実物などで十分に用を満たすことができるに違いない。いずれにしても、復元建物を捉えた観光写真のおかげで、ひさしぶりに絵巻の画面を眺め、思いに耽るひと時を得た。

2009年9月1日火曜日

デジタル時代の絵巻研究に寄せて

中世文学会創設五十周年の記念シンポジウムにおいて、二人のパネリストがともに三十年前に刊行された「日本絵巻大成」に触れて、絵巻研究に及ぼした影響を振り返った(『中世文学研究は日本文化を解明できるか』笠間書院、二〇〇六年)。フルカラー、フルサイズの出版が絵巻を研究者の書斎にもたらしたとすれば、日進月歩のデジタル技術はまさにつぎのステージを作り出した。時代の変わり目に巡り合い、そのインパクトの大きさは誰もが身に沁みて感じている。

まず具体的な話から始めよう。いわゆる奈良絵本・絵巻という作品群を印刷された出版物だけで読むなら、今でも三十年前の絵巻の状況と大して違わない。文字テキストが翻刻されるが、作品全点をカラーで読むということはなかなか難しい。膨大な分量の異本も手伝って、それがすべて印刷されることはほとんど不可能に近い。しかしながらインターネットに目を転じれば事情が一変する。現在公開されている画像だけでもじつに一万五千枚以上に上り、しかもすさまじいスピードで増え続けている。画像の平均的なサイズや画質はたいていの出版物に比べて勝るとも劣らない。新たな印刷出版がなくても、この資料群をめぐる研究環境がすでにある程度整ったとさえ言える。

デジタル環境の担い手たちはどのような形でデジタル資料を作ってきたのだろうか。絵巻・絵本のオンライン公開という分野に限って考えれば、およそつぎの三つの流れが指摘できるのではなかろうか。一つ目はその機関の所蔵をデジタルに撮影してオンラインで公開するものである。図書館の蔵書を宣伝し、利用に便宜を提供することが最初の目的であった。中でも京都大学付属図書館はかなり早い時期からそれを実行し、国宝級のものを含む一流の資料を初めてパソコンで眺めたときの感動はいまでも記憶に新しい。二つ目は公立、私立の博物館、美術館である。館内利用のカタログをオンラインに公開し、撮影済みのフイルムを再利用するのが一つの形態である。とりわけ東京国立博物館の場合、目指すタイトルをピンポイントで調べる以外、画像データの全容を簡単に掴めきれないほど膨大な分量である。三つ目は外部の所蔵者との協力である。デジタル公開には専門的なサポートなどが必要であり、すべての所蔵者が公開する技術、あるいはそうする優先順位を備えているわけではない。世界の、そして地域の宝蔵をデジタル化し続ける「世界のデジタル奈良絵本データベース」(慶応義塾大学)、「奈良地域関連資料画像データベース」(奈良女子大学)の貢献は計り知れない。(ブログ「絵巻三昧」参照)

一方、一人の研究者として、絵巻をめぐるデジタル環境にどのようなことを期待するのだろうか。三つのことを記しておきたい。

まずは、サーチエンジンがインターネットの鍵となるように、デジタル画像の現状を把握するツールが一番の課題だ。すでに個人運営の目録サイトがいくつか現われているが、それぞれ限界があって、組織的な取り組みが必要だ。そのあり方として「JAIRO」(国立情報学研究所)が一つの参考になるだろう。論文目録といった作業の延長ではなく、オンラインリソースの集合と集積利用の実現だ。動的に現状を捉え、さらに画像のサムネイルや最小限の文字データの追加が望ましい。

すでに公開されたものは学術研究に積極的に関わりをもつべきだ。いうまでもなくデジタルによる蔵書展示やカタログ提供は、それだけでも非常にありがたい。しかしながらそのような公開と学術利用との間にいまだ隔たりがあり、しかもそれを意図的に作り出す傾向さえある。たいていのデジタル公開は引用禁止を原則とし、申し込みがあれば許可するという形で使用申請を要求する。その逆の対応、すなわち研究者の利用を歓迎し、明確なタイトルや作成日付などの関連データ、内容変更をしないとの約束を明記して引用を可能かつ簡単にすることができないのだろうか。データの悪用を心配する声がすぐ聞こえるが、まれなはずの悪用を退治するのではなく、それを恐れるがためにあるべき利用を妨げてしまっては、代償があまりにも大きい。

デジタル環境の創出において、異なる分野間の交流や協力が大事だ。新たな技術、データのあり方やその理想像に対する関心、常識と希望のぶっつけあいこそ一番建設的だ。さらに知識や情報を載せる新らしい媒体を作成するに当たり、業績ある研究者だけではなく、大学院生などの学習者たちも参加すべきであり、しかも彼らにも重要な役割があるはずだ。そのような仕組みを積極的に作り上げなければならない。

新らしいデジタル時代において、われわれはいまや選ばれたタイトルを書斎にではなく、数多くのコレクションをまるごと自分の机の上に据えられるようになった。しかしながら環境が目まぐるしく変わっていても、研究をするのは研究者だ。どんなデジタルリソースが現われてきても、答えが自然に分かるようなマジックは起こらない。われわれにできることは、先入観を持たないで環境を見つめ、新たなツールを使いこなせるように努力するぐらいだ。その上、ツールそのものの進化にも寄与できればなおさら良い。
『文学』岩波書店
2009年9月、228-229頁

2009年8月29日土曜日

絵巻への視線

中原康富の絵巻鑑賞をめぐり、このブログで一度触れた(2008-01-09)。この夏、さらに声という角度からの思索を試み、康富の日記から着想を得た小論を纏めた。先の週末、ある小さな集まりに参加するために隣の都市にある大学を訪ね、研究の近況を交流するという場が持たれて、自分の持ち時間で論文の内容を報告した。あまり討議する時間がなかったが、それでも考えさせられる質問を一つ受けた。

きっと康富の体験があまりにも生き生きとしたものだったからだろう、その質問は、中世の読者として、絵巻に描かれたものをはたしてどのような感覚で読んでいたのだろうか、歴史なのか虚構なのか、というものだった。さっそく頭に浮かんできたのは、例の有名な「絵空事」(『古今著聞集』)だった。ただ、あれは絵師たちが交わした絵についての会話であって、読者への関心には必ずしも答えていない。

そこで康富が残した「後三年絵」の鑑賞記をいま一度読み返した。絵巻を見た記憶をそのまま千文字程度の長い文章を駆使して日記に書き記すということ自体、いろいろな意味で感嘆の対象になる。ここに康富の視線ということを考えるならば、およそつぎのことが言えるだろう。遠い昔に起こった出来事をめぐり、その詳細を知る手掛かりがあまりにも少なく、基本的な情報に飢えていた中、一巻の絵巻の鑑賞はとりもなおさず過ぎ去った歴史との再会という体験だった。ひた走りに走った康富の筆先には、かれが感じ取った知的な興奮と、後日のための情報の整理と索引作り的なものだった。さらに言えば、一つの情報源としての絵巻は、康富にとって文字の部分の役割が圧倒的に重みを持っていたものだった。その日の日記には、一箇所だけ絵の構図についてのわずか十数文字の詮索があって、中国の知識まで引き出しにして、康富の読書記の中でもむしろ特殊な部類に属するものだと言えよう。

いうまでもなく康富の鑑賞記は、絵巻享受のほんの一例に過ぎない。鑑賞や読書ほど個人的なものがなく、読者の数だけ異なる方法が形成されていたのではなかろうか。思えば近年の室町政権の研究の一環としての、権力の象徴としての絵巻の所有、作成などの発見が続き、さまざまな次元の違う模索が試みられている。一層豊富な読書、鑑賞の体験はこれからも次々と私たちの前に現われてくるのだろう。

集まりでの質問者ははたしてこのブログにも目を通すのだろうか。すこしでも答えになれることを内心祈りつつ。

2009年8月22日土曜日

寄せ集めの絵巻

今週、中国の地方新聞を賑わせた一つの小さなニュースがあった。「七君子図」というタイトルをもつ一巻の巻物が地方の美術館である蘇州博物館に所蔵され、報道関係に公開されたということである。

ここでは、君子とは竹のことであり、竹をもって聖人君子の清らかな性格を喩えることからこのような対応関係が生まれた。従って「七君子図」といういかにも文人風のタイトルをもつこの巻物の内容は、七枚の異なる竹の絵の寄せ集めである。巻物を仕立てたのは清の時代まで下るもののようだが、描かれた絵は、元の絵師のものだ。六人の絵師の七枚の作品が納められたこと、中の二人はこれ以外確認できる絵作が伝わっていないこと、現代に入ってからの所蔵者が台湾に渡ったこと、中国の国宝(「一級文物」)に指定されてずっと中央の美術館に保存されてきたことなど、人々の注目を集める要素はいくつもあわせ持つ。そこで、今度は中央に寄託されたものが地方に返されたという形での古美術品の所在が披露され、関連の報道にはいずれも「故郷に戻る」との言葉が踊る。

興味を感じるのは、ここに見られる絵と巻との二つの形態の融合、とりわけその意図と理由である。いわば巻物を作成するために絵を描くのではなく、すでにあった絵のもっとも理想的な保蔵手段としてそれを巻物に仕立てたのだった。一巻のものに纏められていても、共通のテーマをもつ複数の名作であり、鑑賞する人々もそのような気持ちでこの巻物に対面する。日本のものからあえて性格の近いものを求めようとするものなら、古書の手鑑的なものだろうか。中国の伝統における絵巻がもつ一つの見逃しがちな側面である。

ちなみに新聞記事などを見れば、この巻物のことを「画巻」ではなく「長巻」とした。どこまで意図的な使い分けか定かではないが、意味深長な言葉選びではある。

国宝「七君子図」永帰故里(『姑蘇晩報』より)

2009年8月15日土曜日

不具の文字

ニューヨーク・メトロポリタン美術館には、十数年前から寄贈された『孝経図』を所蔵している。北宋の絵師李公麟が描いたものだと伝えられる。このブログにて一度触れたが(2008年12月14日)、ひさしぶりに眺めなおした。今度は、宋の書の代表作として名高い李公麟の文字を見つめた。『孝経』の全文を書き写し、それぞれ対応する章段の絵の後ろに位置するような作りになっている。

右の写真は、第12章より切り取った。なんの気なしに眺めて、自分の目を疑った。どれも現在通用する文字とまったく違わず、書としてのスタイルも思わず真似したくなるようなりっぱなものだ。しかし、「敬」という文字は最後の一画を欠く。素晴らしい文字の中に置かれてそれが余計に目立ち、まるで畸形にして異様だ。しかも繰り返して現われているので、無心の手違いではなくて、明らかに意図的なものだった。

調べてみれば理由がすぐに分かった。李公麟が生活していた宋の時代、その最初の皇帝である宋太宗趙匡胤の父の名前は赵弘殷、祖父の名前は趙敬である。太宗の祖先への敬意を払うために、同じ文字を憚り、それをほかの文字に置き換えるという対応だった。ただしここでは儒学の経を書き写している。その文章を勝手に変えるわけにはいかないから、一歩下がって、文字を不完全な形で書きとめた。時代が下がり、宋の王朝が終わった後になって、この絵巻を模写した作品ではこの制約を受けることがなく、同じ文字が普通のように書くようになる。しかしながら皇帝や皇帝の先祖の名前を文章などで避けるというやり方は、廃れるどころか、日増しにルールが厳しくなり、それを間違えてしまうと、とても不注意などで片付けれられる問題ではなく、時には命を落とすような罪になるものだった。

『孝経』の第1章は、孝行の意味合いを明らかにすることを謳い、孝行とは自分の体を傷付けないことから始まり、先祖に名誉をもたらすことを終着とすると教える。考えてみれば、趙敬という人間は、梁の朝廷で微々たる官職に勤めただけで、大した功績を世に残したわけではない。だが、宋王朝を切り開いた孫を持っただけで、天下の文字を一人占めにしたのだった。親へ名誉をという教えの実行は、これに越したことがなかろう。

「貴人と同じものを用い、同じ名前を名乗ることは僭越だ。」「文字を不完全にしておけば、それでないものだと認識される。」以上のような礼儀や文字感覚は、今日の中国においては、まったく過ぎ去った時代のものとなり、人々の行動はもちろん、感覚や記憶からもほとんど完全に消え去った。それでも、古典を読んで一つの知識として思い出してみれば、やはり歴史の年輪を感じてやまない。

2009年8月8日土曜日

絵と文字の間

周りとの会話で、いつまで経っても記憶に残るものがある。つぎのはその中の一つである。教育を専門とする同僚が雑談で研究室にやってきて、壁に掛けられた書を指さして、「文字を壁に飾るなんて、東洋的なんだな」と洩らした。いささか俄然とした。

西洋的に見れば、文字と絵との間には越えられない境があって、意味を伝える役目を持つ文字は絵と違うものだとの認識なんだと、とりあえずそう理解した。ならば両者の融合を西洋の伝統から見出せないものかと、気になった。実際、それだけなら実例はいくらでも見つけ出せる。手っ取り早いのは、前回触れた「ケルズの書」だ。

八世紀に作成されたこのアイルランドの国宝(ケルズはアイルランドの東部にある町の地名)は、ラテン語で聖書を写した。今日に伝わる計340丁は、ベラム(皮紙)に記され、まさに文字と絵との競演による美しいものだ。ただし、その文字と絵との関わり方は、たとえば絵巻と比べればまったく異なる様相を呈する。写真はその中のほんの一つの抜き出しだ(309R)。「ヨハネによる福音書」を記すテキストの本文の中に、ところどころに文字が絵と変わり、大きく書かれた文字には、人間の顔、動物、草花などが描かれる。文字そのものの形は、「g」「b」など今日のとぜんぜん違わないからこそ、余計に親しみを感じさせられる。もともとこれは本文からのものだが、章のカバーページになれば、それこそ絵が主体となり、文字を骨組みとした豪華なものになり、文字を見出すのが一苦労なぐらいだ。

文字の領分に絵が入り込む。文字を読み進めながら、気楽に顔を出す絵を楽しむ。対して東洋となれば、このような作りは、きわめて遊び的なもの以外、採用されることが少ない。あえて言えば、絵に文字を併記するが、文字に絵を入り込ませるような余裕を持たせない。

文字と絵に注ぐ人々の視線、それにおける東洋と西洋との違いには厳然としたものがある。ただ、文字と絵との距離といえば、はたしてどちらのほうがより離れたものだと捉えられていたのだろうか。その答えは、どうやらそう簡単ではなさそうだ。

2009年8月1日土曜日

図書館という空間

八月に入り、室外の気温が室内を上回る夏らしい日が続いている。週末になって、だいぶ前に話題になった映画「天使と悪魔」を見た。話題作の小説は読み出してはいたが、なぜか期待したものと違い、途中で放り出した。その分、映画ではストーリーと関係なく、贅沢なぐらいの画面があって、それなりに楽しめた。

西洋の古典美に飾られた空間については、ほとんどなんの知識も持ち合わせず、古い年輪を伴う西洋の風景には、簡単に圧倒されてしまう。映画には、これでもかとさまざまな造りの教会、観光客で溢れる広場、修復中の殿堂、鎖で閉ざされる会議ホールを見せてくれて、新鮮なものばかりだった。中では、ストーリーの山場の一つには図書館の書庫(アーカイブ)があった。しかしながら、こちらのほうはなぜか日本のどこかの新しい私立大学の図書館の書庫に迷い込んだような感じだった。空気を入れない真空状態など、予期しなかった要素もあった。ただ、肝心のストーリーのほうと言えば、全知全能な主人公が、ラテン語かイタリア語か分からないが、調査資料を守衛の人に手当たり次第に訳させたり、密封の空間を本棚で破ろうと必死になったりと、トンチンカンなエピソードで構成されているのだから、どこまで信じてよいものやら。

ヨーロッパの図書館は、たくさん訪ねているわけではないが、それでもとりわけ強い印象を残したところがあった。アイルランドのダブリン大学トリニティー・カレッジ・オールドライブラリーである。十九世紀半ばに出来上がったもので、建物の外観は、むしろ平淡なものだ。しかしその中は、すごい。いまやダブリンの観光スポットにまでなっているが、入場料を払ってそこに所蔵されている「ケルズの書」を拝観する。八世紀に制作された聖書の手写本でアイルランドの国宝、さしずめ日本における「源氏物語絵巻」のようなものだ。その展示のオマケ的な感覚で、展示ホールから出て、階段を登って、通称ロング・ルームに入る。予備知識を持たないで入ってしまったら、間違いなく目を疑うような空間だ。なにせ二十万冊の古書を一堂に集まった場所だから、東洋的な感覚から言えば、まさにこの世のものとも思わないような、信じられない風景だ。もともと冷静に考えると、東洋の風土からすれば、建築の様式からにしてすでに制限があり、いくら書籍が山積みになっていても、それをそこまで一面に並べるような空間など、まずは存在しないのだから、驚くのは無理もない。

一方では、そのような西洋の伝統をだれもが誇りに思っているのだろうけど、英語圏で生活してみれば、普通の家にある狭い一室の書斎でも、家の主人は平気に「ライブラリー」と名乗る。一つの言葉に注ぐ人々の感覚、いま一つ掴めきれない。

The Long Room, Trinity College Library

2009年7月25日土曜日

「彩絵粲然」の日本屏風

中国の古典に見られる日本の美術工芸、とりわけ絵画についての記録は、言葉通りに数えきれないほどあった。一例として、つぎの数行を読んで見よう。

日本国、古倭奴国也、自以近日所出、故改之。有画不知姓名、伝写其国風物山水小景、設色甚重、多用金碧。考其真未必有此、第欲彩絵粲然、以取観美也。然因以見殊方異域人物風俗、又蛮陬夷貊,非礼義之地、而能留意絵事、亦可尚也。抑又見華夏之文明、有以漸被、豈復較其工拙耶?

現代日本語に訳せば、およそつぎの通りだ。

日本国、昔は倭奴国、日が昇るのに近いゆえにこの名に改めた。絵師不明の絵が本朝に伝わり、その国の風物山水などの景色を描いたとされる。その色使いはきわめて誇張的だ。金箔などを多用して、本当の景色を描いているはずはなく、ただ鮮やかな色を狙い、それが美しいと考えただけだ。しかしながら、そこから異国の人物風俗を見ることができよう。開化されず、礼儀も伝わらない土地なのに、絵のことを大切にしていることは、讃えるべきだ。これをもって中華の文明が東に伝わることを知り、その絵の出来栄え云々など見過ごしてもよかろう。

文章の後半の、日本という存在についての議論は、一笑に付すべきだろう。異なる文化への無知、そこからくる軽視は、自我中心の価値観に縛られたことの表現にほかならない。むしろそのような偏屈な認識に立脚していても、絵の出来栄えに驚嘆を感じざるをえなかったことにもっと注目してよかろう。さらに言えば、同じ山水画をテーマにしていても、日本の絵師が中国のスタイルや技法とまったく異なる境地を開いたことをここに確認できたと言えよう。上記の段落に続いて、約同じ字数を用いて渡宋した僧侶との交流、とりわけかれらがいまだに隷書を用いていることなどを記し、さらに「海山風景図」「風俗図(二帳)」という三つの所蔵屏風の名を書き留めた。

この記録は、北宋に作成された宮廷所蔵の絵画6396点、絵師231人を記録した『宣和画譜』(卷十二)による。同書が成立したのは、宣和庚子(1120年)、あの『源氏物語絵巻』の成立よりさらに数十年前のことだった。

『宣和画譜』(宋・逸名)

2009年7月18日土曜日

音読・蒙古襲来絵詞

「音読・日本の絵巻」に新しいタイトルを加えた。『蒙古襲来絵詞』である。

これまでの音読のどのタイトルもけっして「易しい」ものがなかったが、「蒙古襲来」のこの一篇は、詞書との格闘となれば、また格段だった。文字の分量は約9200字、原文と現代語訳の音読は合わせて70分をちょっと超えた。上質な全巻写真、さまざまな研究による翻刻や語彙、段落の内容検討など、基礎的な条件がかなり整備されていると言わなければならない。それに加えて、詞書の原文には人名などの漢字語彙には多くの振り仮名が付けられていることも、声に出して読むためにはなんとも有り難いものだ。

それでも、やはり難しかった。

まず一番に挙げたいのは、詞書に消えてしまったものがあまりにも多いことだ。中世から伝わる絵巻には、詞書の散逸はむしろつき物だが、この一篇はとりわけ違う。なにせ段落ごとだけではなくて、連続して一行に数文字ずつ読めないのだから、およその意味合いが推測出来ても、声に出して読むにはいかにも響きが悪い。

二番目は、その特殊な文章のスタイルだ。かなりの長文にも関わらず、その多くはまるで自分の子孫のために書いたものだとも思えないような、内輪でない人間にはとても伝わりにくい書き方だった。あえて言えば、共に戦場を潜り抜けた者同士、ひいては著者自分自身にしか分からないような内容ばかりだった。分かってもらうという意識の希薄さと、膨大な作業を経ての絵巻の作成という行為との距離は、いったいどのような精神構造に支えられたのだろうか。もともとそのような困惑に襲われながらも、声で伝えるということを考えれば、文字よりは音のほうがいく分読者に届けやすいのではなかろうかとも思った。もちろん、それは音読するこちらの理解が間違っていなければの話に限るものだが。

このタイトルの作成に大いに助かったのは、全巻にわたる現代語訳がすでに施されたことだ。大倉隆二氏の『蒙古襲来絵詞を読む』(海鳥社、2007年)である。インターネットに公開されている情報を辿って、唐突に著者に連絡を取ったところ、さっそくのご快諾が届けられて、感謝に堪えない。努めて翻訳文を変えないで、読むための情報(注釈的な人名や年号、語彙単位の言い換え)を一部省略して朗読した。著者の意図を大して背かなかったことを祈るのみである。

最後に、技術的なことを一つ記しておきたい。詞書の掲載は文字テキストによる縦書きに拘ってきた。しかしながら、安心して対応できるのはいまだ「Internet Explore」のみ。日増しにユーザーを増やしている「Firefox」、「Chrome」などへの対応の方法もあれこれと報告されているが、どれも便宜的なもので、ブラウザーの更新には対応しきれない。仕方なく「Internet Explorerにて縦書きの詞書をご覧ください」との一行を加えた。

音読というささやかな試みは、名作の絵巻が楽しまれ、勉強や研究の場でもすこしでも役立てればと願う。

音読・蒙古襲来絵詞

2009年7月11日土曜日

戦場の竹崎季長

『蒙古襲来絵詞』の詞書は、妙な味わいを持つ。

一つの絵巻としてきわめて異色なこの作品は、そもそも個人的な記録との立場を貫き、制作者竹崎季長という一人の下級武士の武勇談をもって構成され、それを記録することだけを目的とする。前後して登場したさまざまな人間も、かれを中心とし、戦場におけるかれ自身の伝説的な行動の信憑性を保障するために語られたものばかりだった。

その中につぎのエピソードがあった。弘安の役(1281年)の最中、後世には神風と信じられた7月30日の夜の台風が起こった後の出来事である。大勢にやってきた蒙古軍に対して、竹崎たちはおよそ防戦ではなく、敗退する敵を追跡し、すこしでも自分の手にかかる戦果を増やしたいという合戦の流れとなった。そこに、一人の武士から「割れ残」った船に「しかるべき物ども」が乗船したとの情報をもたらされた。これを聞いた季長はとっさにつぎの判断を述べた。

「おほせのごとくはらひのけ候は、歩兵とおぼえ候。ふねにのせ候はよきものにてぞ候らん。
これを一人もうちとゞめたくこそ候へ(船から大勢追い払われたのは、下級兵士の歩兵であり、その代わりに船に乗ったのは身分の高い将領たちに違いない。一人でも逃したくない。)」

これに続いて、自分の配下の船が到着しない季長は、なりふり構わずに他人の戦船に乗り、連れの侍どころか、自分の兜さえ持たないまま敵船に向かった。絵巻の絵は、かれの乗船、追跡、そして敵船上での死闘の様子を細かく描く。絵に見る敵船の乗員たちは、たしかに戦場の一線を走る武士とは異なる服装になるが、そのかれらがはたして季長の言う「良き者」だったかどうか、その詳細は、現在伝わった部分では確かめ出来ない。

そこで、季長の推論がはたして正しかったのだろうか。そもそも合戦の勝敗がほぼ決まったあととは言え、下級兵士を残して、将領だけが船に乗って逃げてしまうという行動は、簡単に起こるものだろうか。手掛かりを求めて中国のほうの正史に目を移すが、なんと明白に記されているものだった。『元史』列伝九十五につぎのような一行があった。

「文虎等諸将各自択堅好船乘之、捨士卒十余万於山下。(文虎らの諸軍将は、それぞれ頑丈な船を選んでそれに乘り、兵士十余万人を島に見捨ててしまった)。」(至元十八年八月五日)

蒙古襲来の歴史研究は、この合戦の背景、とりわけ元軍失敗の要因となる民族の対立、軍隊構成の欠陥、戦術の未熟など、多くのことを報告している。そのような歴史的な要素もさることながら、戦場を走り回る一人の練熟な兵士たる竹崎季長の知恵と判断は、われわれを深く感嘆させるものがあった。

2009年7月4日土曜日

会話の日常

大学の研究室にいれば、ときどき誰かがドアを叩く。たいてい教えた、あるいはこれから教えるであろう学生だが、大学という場にさほど縁のない人も現れる。勇気をもって訪ねにやってきたということが顔に書いてあるような、畏まった姿勢であり、こちらもいつになく丁寧に対応する。

そのような知らない人々との会話は、どこかスリリングでさえある。まずどの言語を使うかを判断するところから始まる場合が多い。英語が母国語かどうかは、ほぼすぐに見当がつくが、英語でなければ、それが中国語、日本語、ひいては韓国語のどれかとなると、服装や身なりでは簡単に見分けられない。中国語だと言われても、台湾や香港ならなんとか気づくが、マレーシア、ベトナム、あるいはインドネシアなどとなれば、本人が説明するまでとても区別がつかない。しかも共通の母語が中国語だと互いに了解したとしても、そのまま英語での会話を続けたいとの人もけっして少なくない。

短い会話を成し遂げるためには、互いにどのような知識を持ち、どの分野に関わり、どういう結論が期待されるかを把握することが肝心だ。なにせ突然持ちかけられてくる話題は、あまりにも広い範囲にわたる。それこそ小学生でも知っている漢字の書き方や意味から、骨董品の鑑定メモ、自作の漢詩、法律書類の説明など、見ず知らずの人にさっと見せてよいものやら、あるいは逆に知らない人だからこそ見せてしまったのではないかと、こちらが考えさせられるものばかりだ。

先日もそのような訪問客がいた。今度は、本人では解けないという一点の禅詩を持ち込まれた。努めて分かりやすい言葉に置き換え、似たような詩の読解要領などまで交えて説明してあげた。こちらの話をどこまで理解してもらえたのだろうか、あのようなアプローチではたしてためになったのだろうか、その人が帰った後もなぜかしばらくずっと気になっていた。

大学という職場ならではの、一つのユニークな日常風景である。

2009年6月27日土曜日

声の今とむかし

                   (「CAJLE Newsletter」2009年6月号より)
大学での講義は四月に終わり、例年と同じように九月までは研究に専念する時間だ。今年は、一年以上前から約束していた一篇の雑誌論文をまず書き上げること。そのテーマは、日本中世の声である。

わたしの研究対象は、絵巻という、きわめて日本的な要素の強い中世の古典だ。典型的な絵巻は、詞書と絵とが交互に書き入れられる。このような作品を理解するために、声という視点を持ち込むというアプローチのきっかけは、しかしながら、いたって現在的なものだ。それは、マルチメディア。これまで文学と言えば、言葉の通りの、文によって成された学問であって、文字によって記録された資料に限定してきた。文字記録は当然一つのメディアであるが、それが一つのみで、比較する対象を視野に取り入れないがために、メディアという目で眺めることが少なかった。それに対して、絵巻は絵と文字という異なる記録方式によって成り立つ。ビジュアルとテキストと、メディアの競演だと捉えれば、そこに自然に音声という要素が浮かびあがってくる。りっぱなマルチメディアだ。

このように、メディアという角度から物ごとを眺めてみれば、さまざまなことに気づくようになる。話はだいぶ飛ぶが、たとえばわたしたちが仕事にしている日本語教育について考えてみよう。日本語学習者を育てるには、声、声を発する、しゃべってもらうことは、言語能力を図る上で何よりも大事な指標だ。発音、イントネーションなどは、学習者の成績判定が難しい。筆記試験となればいい成績が取れても、会話となるとまったく満足に交流できないという学生の苦労を、われわれは数え切れないほど知っている。また、反対のこともある。話すことをもって言語能力のすべてだと考えるあまり、会話能力のみをもって勉強の結果を判断しようとする。かつてかなり広く使われていた教科書があって、その全編にわたってすべてローマ字表記にしたものだった。仮名や漢字の読み書きなどは一切不要で、会話だけに専念してよいとの意図がありありだった。一つのメディアへの極端な傾斜だったと言えよう。

ところで、日本の古典を考える上で、メディアについての観察からどのような手がかりが得られるのだろうか。まず、明らかなことだが、録音機といった便利な道具は現代の特権であり、これに恵まれなかった中世の声そのものは、たとえば古典芸能や古来の祭りの伝承を信じる以外、そのあり方を伺うことなどもう不可能なことだ。しかしその反面、中世の声が聞けなくても、それをめぐるさまざまな情報が文字や絵などの形で伝わり、そこから声の様子をさぐることができる。一つの資料群を挙げてみるとなれば、中世の文化人が記した日記がある。これは膨大な分量に上るもので、いまやその多くがデジタル化されて、オンラインで検索することまで可能だ。その中から、いろいろな声が聞こえてくる。たとえばつぎのような記録がある。ある文化人が旺盛な勉強意欲を満足させるために、忙しい日常の中で、食事などの間に仕える人に書籍を読み上げてもらった。まさに人間録音機よろしくといった、ほほえましい風景ではなかろうか。それから、日本古典の核心を成す物語は、まさに「物を語る」行為から出来上がり、口から耳へという伝達を基本としたものだった。したがって、一部の学者によれば、声を出さないで本を読むという黙読は、近現代ならではの行動であり、古代、中世の人々には、声を出しての音読以外、読書する術をまったく身に着けていなかったと、いささか極端な意見まであった。

高々と読み上げられ、語られる声を伴う絵巻の鑑賞は、したがって声があるゆえの場、時間、ないし読者たちの精神のありかたを現代のわれわれに伝えている。声のある、いや、エネルギーに漲った声が充満する日本中世の時空への旅は、知の刺激が詰まっていて、まさに興味が尽きない。

2009年6月20日土曜日

安禄山の醜態

美人の誉れが高い楊貴妃といえば、入浴を連想するというのが中国の古典教養の一つに数えられる。風呂上りのエロチックな状況がどれだけ語られてきたのだろうか。しかしながら、同じく「長恨歌」をテーマにする絵巻を披いてみれば、そこにはなんと美女ならぬ、いい歳をしているお爺さんが湯船に漬かっている。顎に蓄えたりっぱな髭、締まりを失った裸の体、わけの分からない神妙な表情、過剰なほどに着飾った妙齢の女性たちに囲まれて、まったく不思議な構図だ。堂上には、年齢不詳だが、少なくとも湯船の中の男よりは若く見える男女が対座して、これを見つめる。予備知識を持たないでこれを見れば、誰もが唖然とさせられるものだ。

絵巻の詞書を読めばようやく描かれている事情が分かる。つぎのような一行がある。
  かの安禄山をはたかになしてむつきのうへにのせて生れ子なくまねを
  しけるををかしかりて(かの安禄山を裸に成して襁褓の上に乗せて、
  生れ子泣く真似をしけるを可笑しかりて)
裸を晒し出しているのは、かの悪名高い安禄山なのだ。ならば堂上の男女こそ玄宗皇帝と楊貴妃である。すなわちここでは安禄山が皇帝と貴妃を自分の生まれの親として拝め、そして二人を楽しまそうと、赤ちゃんの真似事をしたのだった。オムツや泣く仕草などはそのまま絵にするのではなく、産湯を使うという、いっそうショッキングな活劇を演じさせたのだった。いうまでもなく絵に描かれたのは豪華な宮廷風景だが、詞書はこれをしっかりとスキャンダルとして語り、しかも玄宗皇帝のありかたを批判すべきものだと、戒めの文言を忘れなかった。

このような奇想天外なエピソードは、はたして中世の日本の文人たちが作り出したものだろうか。はたまた中国関係の文献からなんらかのヒントを得て、それを敷衍した結果なのだろうか。一件の説話としての著作権の帰属はさておくとして、楊貴妃をめぐる宮廷政治への批判という立場は間違いなく受け継がれている。一方では、エピソードの骨組みは、例の「二十四孝」の教えに妙に沿っている。いわば親を楽しませることが最大のテーマであり、それを達成させるためには、自分を忘れ、自然の摂理を無視するまでに人為的な演出をしてしまう。思えば、絵巻のビジュアルな表現は、そのような古風の教えや精神まで朗らかに哄笑のターゲットに祭り上げたのではなかろうか。

京都大学附属図書館(谷村文庫)蔵『長恨歌抄』
大阪大谷大学図書館蔵『長恨歌絵巻』

2009年6月13日土曜日

かぐやの着月

今週のニュースに「かぐや」が何回も登場した。月周回衛星かぐやが、予定より四ヶ月ほど長い観察を終え、木曜日の早朝、月に落下した。人造の衛星だから、その終末も人間の希望のままに動かされ、地球からの観察ができるように時間や場所が制御され、その通りの結果になった。正式発表によれば、衝突の閃光などの画像は現在編集中で、近いうちに公開されるとのことである。

思えば、月の衛星は最終的には果てしない宇宙に放り出されるのではなく、着地ならぬ着月する形でその寿命を終えるということは、最初からの予定に違いない。それを記述する言葉も、したがって月への「落下」「衝突」に尽きる。人間の最高の知恵を詰め込んだ金属の塊が無人の月球にぶつかり、無数の破片となって消える光景は、どう考えても感傷的なものだ。だが、その衛星に「かぐや」という名前が与えられたところに、われわれの感情の琴線が触れられ、ロマンが生まれる。新聞やテレビの報道に見られる語彙も、まさに「月を触る」「月に帰る」だった。古代のかぐや姫の伝説においては、その彼女の昇天が焦点の一つであり、そのありかたや用いられた道具がさまざまだった。だが、そのかぐや姫が経験したつぎの瞬間はどのようなものだったのだろうか。月にたどり着き、厳かな宮殿の門が大きく開き、彼女を迎え入れたに違いないが、そのような想像は、実際に残されている古典で読むことができない。だから、去る木曜日の早朝の観察記録は、まさにそのような伝説を延長させ、あらたな生命を吹き入れたものではなかろうか。

かぐや姫とペアになる中国の神話があった。しかも月に赴くその伝説の主人公は同じく女性であり、その名前は「嫦娥」という。嫦娥の昇天には、随行もいなくて、道具も用いられていなかった。あくまでも長い袖や裾を靡かせながらの飛行だった。長い歴史の中で中国の文人、詩人たちは、月に行って、そこに住み着いたあとの嫦娥の生活ぶりをたくさん詠みあげたが、月到着の瞬間には同じく目を向けなかった。ーー実は、「嫦娥」という名の月周回衛星が打ち上げられていた。それも三ヶ月ほど前に同じく着月という形で予定の使命を終え、月に入るその瞬間が衛星かぐやの撮影によって記録された、とか。

宇宙航空研究開発機構

2009年6月6日土曜日

宋徽宗・写生珍禽図

一巻の中国絵巻をめぐるニュースが今週の新聞の一角を賑わせた。宋の皇帝徽宗(在位1100-1125)の手による「写生珍禽図」が北京で競売に掛けられ、新たな持ち主を得るようになった。かつては京都にある有隣館も一時期所蔵していたこの巻物が、七年前の競売ではベルギーのコレクターの手に移り、今度は匿名の中国人の所有となった。千年に近い歴史をもつ作品だけあって、ただの古書籍、絵画、あるいは美術品に止まらず、古代からの宝物という形で公の場で現われ、競争の末に新たな所有者の手に移る結果になった。

巻物のサイズは、縦27.5ミリ、全長521.5ミリである。もともと内容からすれば「絵巻」と呼ぶにはかなりの躊躇を感じる。十二段に別れて墨絵で描かれたのは、計20羽の鳥たちだけだった。鳥は、画眉(がびちょう)、喜鵲(かささぎ)、戴胜(やつがしら)、麻雀(すずめ)、雉鳩(きじばと)と、異なる種類が集まり、それが一羽かペアになって木や花の枝に止まり、最後の一段では、地面に飛び降りた二羽の子鳥が親鳥に向かっている。前後の画面の間には関連がなく、いわば鳥のカタログを巻物という記録の媒体に描き留めたという体裁になる。したがって一巻の巻物の内容全体を貫く場や時間、あるいはストーリが流れているわけではない。

一方では、一点の古代作品としては、これ以上望めないほどの由緒正しいものだ。まずはその作者はれっきとした皇帝であり、それもさまざまなドラマを残した悲劇の人物なのだ。中国の古典の常として、その所有が変われば、新たな所蔵者は作品自体に証拠を残し、その典型的なやり方として構図などかまわずにじかに印章を押すものだった。この巻物にも宋代の印章が計14個も残され、それもいずれも料紙のつなぎ目を選んで押したものだった。さらに清の乾隆皇帝となれば、これが非常に気に入ったと見て、作品にはじめて文字を書き入れた。それが画面の空白を選び、一段の先だったり、後ろだったりして、中の二つは横書きとさえなった。文字の内容は、一種の画題を付けたようなもので、第一段に「杏苑春声」と書いたように、詩情を狙おうとするものだった。

時を超えて伝わる一点しかない巻物は、その所有者となれば、おのずと特権的な者にかぎる。その特権というのは、昔は政治力、いまは財力といったところだろうか。したがって昔は巻物に押された印章、いまはさまざまな形で残される転売の値段がその記録となる。この二つの側面を感じさせるには、中国語と日本語によるマスメディアの報道ぶりがある。日本の報道には落札金額が七億七千万円という数字が踊り、対して中国語の記事はどれも国を失い、画作が却って伝わる不運の皇帝の生涯に触れる。読み比べてなんとも味わい深い。

2009年5月30日土曜日

烏丸光広の覚書

毛利家伝来の『平治物語絵巻(常磐巻)』には、江戸初期の公卿、歌人なる烏丸光広が記した別紙が付く。日付は寛永9年(1632)8月15日。その内容はつぎの通りだ。

「この一まきは、仁和寺御むろ法守親王の御手なり。ゑはとさのなにかしと也。おほよそ詞なけれは、そのことはわきえかたし。ゑにうつらされは、そのありさまさたかならす。さるによりて、ゑさうしをとりとりにひめをかせ給ふことは、あかしの中宮、むらさきのうへなと、いまもむかしにおなしかるへし。(この一巻は、仁和寺御室法守親王の御手なり。絵は土佐の何某と也。凡そ詞なければ、その言葉別きえ難し。絵に写らざれば、その有りさま定かならず。さるによりて、絵冊子をとりどりに秘め置かせ給ふことは、明石の中宮、紫の上など、今も昔に同じかるべし。)」

詞書の筆者や絵を描いた絵師についての情報を書き留めるためのものだが、絵師の名前は不明のまま、筆者の推定も信用されていなくて、極書としての機能はさほど高いものとは言いがたい。そして一つの句に「ことば」を二回も使い、短い段落で似た意味のことを繰り返したなど、文章としても必ずしも丁寧に考えて書いたとは見えない。しかしながら、逆に言えば、無造作に書き残したということは、それこそ光広がもっている考えや、かれ周辺の常識を自然に流露したとも取れて、却って注目に値するかもしれない。

ここでは、能書との評判が高い光広が絵巻における書の大事さを力説する。詞書がなければ作品自体の意味が伝わらない、絵に文字が伴わなければ全体の様子が分からないと、光広が言う。その上、ずばり「源氏物語絵巻」に話を持っていく。物語でも絵巻でも第一級の古典として目されたものだから、極めて自然な文脈だろう。ただし、光広のイメージにあったのはどのようなものだったのだろうか。今日の読者なら、すぐ「東屋」を描いた、浮舟に絵を眺めてもらいながら、別の冊子に仕立てられた一冊を侍女右近に読ませるというあの画面を思い出すのだろう。

そもそも絵巻の伝統における冊子と巻物、さらに言えば別々に仕立てられた絵と文字と、一続きになる巻物をめぐる物理的な鑑賞の仕方の違いは、今日の研究者にとって頭を悩ませるテーマの一つだ。光広がどこまでこの疑問に直面していたのか確かではないが、「とりどりに秘め置かせ給ふ」との覚書は挑発的だった。それは今になってもきちんと答えられていない。

2009年5月23日土曜日

デジタル・リサーチ

なにかの課題をめぐってあれこれと考えたら、いまや手を伸ばせば届ける辞書ではなく、まずはキーを叩いて、オンラインであっちこっち見て回る。今度の一週間も、印象に残るデータベースをいくつか使った。意外と助かったという満足感、それに伴う感激。そしてなぜかすぐ感じた不思議なぐらいの疑問や期待。それのメモをここに残そう。

「JAIRO」(国立情報学研究所)。「リポジトリ」というまったく耳に慣れない言葉は、いつの間にかここまで大きな流れになってしまった。大学の紀要など、これまでど日本国内でさえどこでも簡単に調べられるわけではない、外国にいればまずは期待できない資料群を、こんなにも手軽にアクセスできるようになったとは。そらに、それほど対象資料の性格のことに拘らずに、学会での配布資料やオンラインの電子展示の解説まで掲載してくれることにも、はなはだ感心した。ただし、対象は少なくとも倍ぐらい拡大すべきだろう。ここまで実績があり、かつ資料の性格に沿ったものだから、もっと説明し、やり方をサポートすれば、もっと多くの大学などの研究機関が参加するのではなかろうか。それぞれの機関の自主にだけ任せるのではなく、まさに「マーケティング」をする意気込みを持たないと。

「国指定文化財データベース」(文化庁)。昔なら図書館の専門参考書コーナーではじめて見つけられるような手掛かりだが、いまやキーワードを入力すればすぐ確認できるようになった。膨大なデータならではの安心感が伴う。だが、政府機関が運営しているものだから、せめて国の美術館の所蔵物、あるいは寄託管理の美術品ぐらい、所在を明記すべきだろう。

その美術館へのアクセスも日に日に変わっている。公立私立とさまざまな規模の美術館、文庫などの機関は、データの整理や公開について言えば、まさにスタートラインに立ち並んだばかりだ。所蔵品のデータベースは、それこそ基本的な役目の一部をなすものだから、一日でも早く実現してほしい。中でも国レベルの機関が率先してスタンダードを作り上げるべきだ。これまですでに写真化されたものを業務形態の拡大という形で公開するのではなく、それこそ機関の性格をアピールするというぐらいの姿勢で取り掛からなければならないだろう。

あとは、性格のまったく違うアプローチをもって、新しいビジネスモデルを模索するマンモス会社の動きだ。検索でたどり着くグーグルの「書籍」やアマゾンの「なか見」、どれも特別にアナウンスするわけでもなく、あるいはそれが間に合わないぐらいすさまじいスピードで情報を作成し、なにげなく公開している。リソースのあり方が変容しつづけていて、まさに目が離せない。

以上、どれも「あればいいのに」的なグチに聞こえてしまうだろうか。もともとどこまで発達したといっても、所詮はなんらかのためのツールに過ぎない。それへの過大な期待などを持ちはじめると、こちらの問題になってしまう。さらに言えば、書籍に印刷したこれまでの辞書や参考書だって、どれも同じような注文が言えるのではなかろうか。相手が電子リソースだから、ついつい期待しすぎたのではなかろうか。

2009年5月16日土曜日

中山定規が目撃したもの

巻物という媒体は、すでに日常実用から消えてしまった。したがって、それに伴うさまざまな使用法、使いこなすためのコツ、ひいては長い伝統に由来する作法など無形のものは、多く想像に頼るほかはない。ただし、浩瀚な歴史記録の中に、時には予想を超えた記事に出会う。つぎの一件は、十五世紀中葉、室町中期のものだ。

これは、『薩戒記(さっかいき)』という、中山定親が書き記した日記の中の一こまである。時は応永33年(1426年)1月6日、日記主は宰相中将という官位にいた。その日、暦上の理由で一日遅れに年頭恒例の叙位がとり行われた。行事の一部として新しく官位に昇進した人々の名前を書き留めることがあった。実際に筆を手に執るのは、右大将久我清通、そばに仕えるのは、蔵人弁俊国であった。記入するのは、一巻の巻物であり、しかもすでに例年の記録によってぎっしりなっていると見えて、その年の分は、巻物の一番後ろに書き入れることになる。そこで、巻物の取り扱い方そのものが、中山定規をいささか驚かせた。

日記に記されたところによってこれを再現してみよう。巻物を手にした右大将久我が、両手で巻物を披き、それも台や机などに置くわけでもなく、ずっと胸ほどの高さのところに持ち上げたままの状態だった。巻物が最後のところまで開いたあと、今度は左手に握っている軸を反対に巻き上げ、内容を記してある巻物の表面が表に来るようにした。そのまま巻き上げてゆき、やがて記入すべきところが左手の軸の上に来たところで、今度は右の軸をまるごと左手に握り、右手は筆を取り出して記入しはじめる。結果のところ、巻物を披き、それに内容を記入するという二つのプロセスは、持ち上げたままの両手の中で行ったのだった。

このような巻物の取り扱い方を記し留めようと、中山定規はかなりの文字を使い、それでも十分な自信が持てないと見えて、略図まで四枚ほど添えた。文字では、これが「是源家説也」と由緒のあるものだとコメントをし、「尤珍様ナリ」「スルスルトハ不見、聊巻ニクキ様也」と、その場に感じた印象を書き記すことも忘れなかった。その通りだろう。いまのような扱い方だと、珍しかろうが、常人ではとてもできないような離れ業で、事がスムーズに運ばれるには程遠く、どう考えても見苦しいものだったのだろう。

中山定規が身を置かれた空間とは、どれぐらいのものだろうか。そこに居合わせたすべて人々が全員同じくこの行動を細かく観察できたのだろうか。いずれにしても、多くの人々が注目する中、行事の大事な要素をなす時間が、たしかにじっくり緩やかに流れていたに違いなかった。

2009年5月9日土曜日

デジタル・リソースを求めて

電子リソースを見なおして、試しに一つのリンクリストを作成して右に載せた。似たようなリストがいくつか公開されており、しかも自分がそれを作っても随時に更新する自信がとてもないから、これまで決心が付かなかったが、あえて一歩踏み出した。

デジタル資料は、量、質とも日を追うごとに広がり、進んでいる。それはまさにいまの時代ならではのメディアであり、学術研究にとっても確実に大きな部分になっている。それの意味や効用など、いまさら数え上げる必要もない。ここでは、一つの簡単なリストを作成するにあたって、気づいたことを三つほど書き留めておこう。

デジタル資料を公開するためには、それを作成し、その成果を日常的に管理する母体がまず存在しなければならない。いまは、それは主に大学や美術館、公的な研究機関であり、大学なら図書館、美術館なら情報サービス、というような部署がその任に当てられている。いずれも在来の業務内容からの延長で、あえて言えば好意的な付け出しという感じが拭えない。デジタル資料の重要性、必要性がさらに認識されるつぎの世代になって、はじめて構造的な変化が起こってくるだろう。その意味では、多数の資料を持つ別のグループ、とりわけお寺、神社、私立の文庫などの参加は、まさにその次の世代に期待するものである。

数々のリソースは、まずその名前の付け方からにしてまちまちだ。その中で一番多いのは、「データベース」。これは明らかに言葉の誤用、あるいは誤解を誘うものだろう。画像リソースは、「コレクション」「電子ライブラリー」であっても、検索を第一義とするデータベースではなかろう。そもそもデジタル画像を「データ」と定義するためにはあれこれと限定を加えなければならないし、画像を眺めることが出来ても、いろいろな形でサーチを掛けるほど、まだそこまで発達していない。それから、ほとんどどのリソースでも、画像の枚数、規格、作成の時期など、資料としての最小限の情報を提供していない。そのためのスタンダードがあるかどうかは別として、それをある程度の完成をもつ作品だと見る視点が欠けているからではなかろうか。

それぞれの資料作成者の立場により、現在あるリソースは絶え間なく変容を続ける。そのために、資料の使用者からすれば、これらの情報を整理することが余計に必要となってくる。はたしてどのような資料がデジタル化されたのか、デジタルの形でアプローチできるものとして、どのような異なるバージョンが存在しているのか、必要最小限の情報があまりにも不足している。一昔の、索引や文庫蔵書目録を作成するような地味で根気強い作業が必要だが、一つの課題として覚えたい。

自宅のパソコンの前に座っていながら、地球の反対側にあるさまざまな貴重な資料にアクセスする。前には想像も出来なかった環境の有り難さを噛みしめながら、よりよいものに思いを馳せる。そのためにでも、右のささやかなリソースリストをすこしずつ充実させていきたい。

2009年5月8日金曜日

デジタル・リソース

大学付属図書館
東北大学 狩野文庫画像データベース(画像分類)
東京大学 電子版貴重書コレクション
東京大学史料編纂所 玉ものまへ
慶応義塾大学
世界のデジタル奈良絵本データベース (公開終了)
早稲田大学 古典籍総合データベース
筑波大学 電子化資料
立教大学 デジタルライブラリー
國學院大學 デジタルライブラリー(奈良絵本・絵巻物関係)
駒沢大学 電子貴重書庫
白百合女子大学 貴重書ライブラリー
青山学院大学 本学デジタル資料
明星大学 奈良絵本絵巻の世界
都留文科大学 貴重書
中京大学 電子図書館
岐阜大学 奈良絵本
京都大学 絵巻物・奈良絵本コレクション
龍谷大学 貴重書画像データベース
佛教大学 デジタルコレクション
大阪大谷大学 電子版貴重図書コレクション
奈良女子大学 奈良地域関連資料画像データベース
奈良教育大学 奈良絵本
広島大学 奈良絵本室町時代物語
愛媛大学 電子図書館
九州大学 日本古典籍画像データベース

図書館、美術館
国立博物館 e国宝
東京国立博物館 カラーフィルム検索
国立国会図書館 デジタル化資料・古典籍資料絵入り本の様ざま
国立公文書館 デジタルアーカイブ
京都国立博物館 高精細画像閲覧システム
サントリー美術館 コレクションデータベース(絵画絵巻)
日本芸術文化振興会 文化デジタルライブラリー(能楽資料)
京都府立図書館 貴重書データベース(絵画)
神戸市立博物館 名品選
秋田県立図書館 所蔵貴重資料
諏訪市博物館 竹取物語絵巻
内藤記念くすり博物館 収蔵品デジタルアーカイブ

研究機関
国文学研究資料館 新奈良絵本画像データベース
国際日本文化研究センター 絵巻物データベース
参考リンク、関連記事 文化庁 文化遺産オンライン (部分公開の情報を含む)
藤原重雄 リンク集・デジタル奈良絵本
笠羽晴夫 デジタルアーカイブ百景(2006-01-2008-11)
(全点公開の絵巻、絵本を含むもの。2012-07-27更新)   

2009年5月2日土曜日

猪に縄を掛けよ

今週一週間、世界を走りまわり、人々を翻弄した言葉を一つあげるとすれば、「豚インフルエンザ」にほかならない。警告、予防、伝染の実例、はてや航空便の取り消しや乗客の呼び戻しと隔離、まさに神経を尖らせるものだった。

言葉を眺めた。この新種のウイルスを英語では「swine flu」という。日本語で報道を聞いたあと、英語での表現に「pig」が用いられるかなと、疑いながら会話から聞かされたもので、最初はとんだ勘違いをした。鳥のつぎは白鳥(sman)か、まるでダジャレなネーミングじゃないかと。

会話の中で「swine」が登場しないわけでもないが、辞書では、文語の表現だともある。そういえば、ブタの誕生はいざ知らず、日本語では、「シシ」だった。それもその昔、『万葉集』にすでに詠まれていたものだから、付き合いの歴史が長い。「嶺に臥す鹿猪」(3428)や、「射ゆ猪鹿」(3344)と、長閑な雲の下に山の峯々にのんびりと寝そべったり、あるいは飼われるのではなく、人間に格好の狩猟の対象となったりした猪たちが、それ自身が古代の風景の一つだった。

思えば、山の中で昼寝をする猪たちは、きっと木陰や岩の陰を求めていたに違いない。たしかにその通りのものは、絵巻の画面に確認することができる。『法然上人絵伝』(巻三)には、比叡山の仏堂の下で巨体を隠すまでもなく横になっている二頭の猪が描かれた。そして、だれもがすぐ思い出すのは、やはり『鳥獣戯画』の画面だろう。世の中にペットがあっても、その遥か昔の姿ではなかろうか。それも、その飼い主は大勢のウサギやカエルたちだった。猪は、嘴に縄を掛けられ、毛並みに手入れを受けている。暴れる野獣を馴らそうと、そのような願望は、千年、いやそれよりもっと昔から人間の心にあり、絵師たちの手に託されていたのだった。

一方では、ブタと名乗ったウイルスは、世の中の人々の視線を強烈に集めたが、それもどうやらすでに過去の出来事となった。科学的な見解、それに少なからぬビジネスの事情により、このネーミングは変えられ、時効のあいまいな「新型」、あるいは無味乾燥な番号に置き換えられた。それも日本語、英語、中国語の世界で一斉に行った。目まぐるしく移りかわる言葉の風景の一瞬を、せめて切り取って記憶したい。

2009年4月26日日曜日

エマキ・ネット

今週のほとんどの時間は、学生たちの学期レポートを読むために費やした。最初の通読がようやく終わり、これから採点やコメント記入に取り掛かる。いわば今学年の講義に関連する最後の作業だ。

学生たちが作成した参考書リストを眺めると、いかにもオンラインのリソースが多用されている。もともと一流の学術雑誌だって、いまやオンラインでアクセスさせてくれているという世の中だから、やむをえないというよりも、環境の便利さをただ切に感じるだけだ。一方では、その中において、伝統的な出版などには頼らないで、いわゆる自主作成したサイトやオンライン資料だって、侮れない。たとえば、「エマキ・ネット」というサイトから一人の学生が多く引用した。Neil Cohn氏という方が運営しているもので、サイトに入り、ついついあっちこっちと眺めまわって、その充実ぶりに感心した。そこまでの内容をもつものに「emaki」というドメンの名前を持っていかれても悔いはない、というのは、ワケもない印象だった。

サイトの運営者は、明らかに絵を描くということに関してかなりの腕前をもつ。したがってページのあっちこっちに漫画タッチのユニークな絵が散りばめられて、見ていて楽しい。一方では、世に溢れるマンガ、ひいては絵巻の愛好家と違って、「ビジュアル・ランゲージ」という独自の斬り口を持ち、それをりっぱに立ち向かっている。いわば絵というものの魅力を言葉を用いて解体させて、解説しようと努める。それから、用いている言語は英語、自然な結果として「エマキ」とはもうひとつの世界に存在するものとして接し、まずはそれを異質なものとして受け止めて語り始めるものだった。この奇妙な親近感と異様な距離感は、なんとも言いようがない。

たとえば、サイトがなにげなく用意した「絵巻とは(What are Emaki?)」という解題の一ページを眺めてみよう。タイトルバーにある絵巻という二文字をクリックするとよい。ほどよい分量の絵と文字、バランスよいイラストと写真の配置、じつに要領よくて分かりやすい。大仏に選んだのは、奈良のそれではなくて鎌倉のそれだったことは、東京観光にはしゃぐ若者たちの顔を思い出させて、ほほえましい。「マキ」を説明して、寿司を持ち出したところは、もう言葉通りのマンガ的なセンスにほかならない。しかも最後のところには、なんと世界地図に配置された絵巻だった。絵巻がエジプトやヨーロッパの名品まで並べられているものだから、それを囲んださまざまな古代からの伝統をさっそく調べて、確認したくなった。

このサイトの重みをなしたのは、PDFの形で公開された論考、それに作者本人の講演録画だろう。絵を言葉で説明する、という立場からすれば、その言葉とは、絵巻が用いた日本語ではないことに、一つの大きなチャレンジが加わった。言葉の壁は、高くて分厚い。その分、まったく異なる文化を身に持つ人々を惹きつける。英語も分かる絵巻ファンは、かならずしも作者が想定した読者に属さないだろうが、それでもじっくりと読んでみたい、話を聞いてみたいものだ。

エマキ・ネット

2009年4月18日土曜日

年度講義を終えて

さる金曜日をもって、大学今年度の講義がすべて終了した。翻訳で読む中国と日本の古典という授業も、二十九人の学生を対象に、計十三週間、三十八時間の講義を行った。例年に無く長くて雪の多い一冬だったが、終わってみれば、天気など自然などの理由に影響されたのは、「寝過ごした」「時差の変化に気づかなかった」と謝りに来たのとほぼ同じ数の極少数の学生に止まり、クラス全体はすべて最初に配ったスケジュール通りに進行し、いまはその全部の計画が完成されたという結果になる。

クラスの最後の二時間は、提出してもらうレポートについての口頭発表に当てた。一人ずつ三分の時間を与えて、取り上げるテーマ、アプローチ、それにハイライトについて語ってもらった。クラスの中でも外でも、積極的に交流しようとする生徒は、どうしてもその性格によるところが多い。そのために、半分強制的に発言させてみるというのも、一つの狙いだった。限られた時間内でみんなの前で個別の質疑を試みるということは、聞く人々にもいい刺激になったもようだ。

レポートに日本の絵巻にまつわるテーマを選ぼうとするのは、五人ほどに上った。このクラスは今度で四回目だが、過去に比べてずいぶんと増えたとの印象をもつ。一方では、すこしでもユニークな議論を持ち出そうとの努力は、期せずしてその構想をマンガ、アニメ、あるいは西洋の絵画との比較に走らせた。対象がビジュアル的なものであっても、あるいはそれだけに、どれだけ感性的な知識や生活の日常にかかわる常識が必要とされるものかと、改めて感じさせられた。参照物として身近なもの、あるいは直感的に自信のあるものを持ち出すということは、勉強の段階の一つとしては、賢明な選択だろう。だが、その分、対象とのあまりもの距離を、身近なものをもって感じ取ろうとするあまり、ありがちな誤解に直結することも、一つの落とし穴だ。教える人としてできることは、講義の中ではそのような比較や比喩を努めて避けること、それに、違うものを比較するにはその先にある何かを狙うべきだと繰り返すぐらいだった。

わずか二、三分の口頭発表の如何によらず、じっさいに書き上げられたレポートは、その出来栄えが格段に違うことは、これまでの経験で知っている。そのレポートの提出は、きたる月曜日。そのあとは、こちらがじっくりと読む順番だ。いつもながら、それには採点が伴うものだから、単純に楽しもうというわけにはいかない。なっとくのゆく評価ができるように、教師には、学生に負けないぐらい気の引き締まる作業だ。

2009年4月12日日曜日

マンガ対アニメ、一本勝ち

今学期の講義もあと一週間と終わりに近づいた。教室では、最後の一章の絵巻が課題となり、小テストも済んだ。その中のクラス風景を一つ記しておこう。

学生発表で、発表者が熱を込めてマンガとアニメとの優劣を語り続けた。メディア、音声などについての議論を促そうとしたわたしの講義の思い入れに答えようとした一つの努力に違いなかった。それを聞きながら、思わずつぎのような質問をしてみた。「もしおなじストーリを伝えるマンガとアニメが両方あるとすれば、どれを選ぶ?」学生たちはさっそく反応してくれた。発表者だけ迷わずマンガのほうに手をあげたが、結局はアニメのほうが、二対一以上の大差で勝ち、あっさりと勝負がついた。別の学生は、すかさず通的な意見を補足してくれた。曰く、日本でこそマンガが流行ってからアニメになるとの流れだが、北米にいると、そのマンガを読もうとしても読めず、結局はアニメでストーリを楽しむほかはないんのだ、とか。日本と北米での市場現状のことまで目を配った、非常に大人的な見解だった。

マンガとアニメ、もともと異なるメディアで、読書あるいは鑑賞もこれまたあくまでも個人的な経験なのだ。そういう意味で、違う体験を比較させようとする質問の仕方には、かなりの乱暴なところがあったのだろう。ただし、若者たちの無邪気な対応やはっきりした反応は、大切なヒントを示してくれていることも見逃せない。人間は豊富なメディアになじみ、豊かな感性を引き出すような表現手段をいったん手に入れてしまえば、かつてあった素朴な手段に逆転することなどとても難しい。「むかしはよかった」、「よいストーリはじっくりと時間をかけて噛み締めるべきものだ」、といった議論をしても、とうてい始まらない。

マンガやアニメが究極に発達したところに、「リア充」などの造語が世の中を流行ったとか。NHKニュース番組にてこれを聞いて、信じられなくて調べてみたら、すでにウィキペディアに解説が設けられている。ただし、ウィキペディアの日本語版のみで、英語も含めて、多言語での対応リンクは一つもない。これ自体は、アニメを語る教室の中の若者たちから感じ取った印象とはとてもマッチしていて、妙にナットクした。

2009年4月4日土曜日

デジタル「霊異記」

奈良女子大学が運営する「奈良地域関連資料画像データベース」に新たなタイトルが加わった。国宝・興福寺本『日本霊異記』である。タイトルを見るだけでわくわくしてきた。

さっそくサイトに入って覗いた。とにかく画質や画像表示のスタイルが素晴らしい。アクセス環境に配慮した二つの画像フォーマット、いまや普及が激しい大画面モニターに対応した自由サイズの表示枠、軽快なサーバーの動きなど、デジタル画像環境の飛躍な進歩を如実に表している。とりわけこの一点の資料の特性、すなわち時間的に先に書かれながらも、いつの間にか裏に回された『金蔵論』のありかたを伝えるために、「近赤外線撮影との比較」や「透過表示」といった工夫など、じつにいたりつくせりのデジタル公開である。

このような資料を眺めていて、どうしても二十年ほど前の研究環境を思い起こす。このような古い資料は、実物を簡単に見られるはずがない。国宝レベルのものだから、影印が施されて、読みたいところなどはそれに当ってみることも可能だが、いかせん「影印」(この言葉、いまやどれだけの人が聞いて分かるのだろうか)。サイズ、色、巻物ならぬ冊子ページにあわせたレイアウトなど、もともとの資料の姿をさぐるためには、よほどの想像力が必要だった。それでもそのような出版物は、若い学生まで含めた人々にどんなに重宝されていたことやら。それに比べて、デジタル公開は、情報の豊富さやアクセスの便利さにおいて、まさに雲泥の差だ。

文字を教えるという仕事の関心から、ついつい千年まえの文字の姿そのものをじっくり見つめた。たとえばタイトルともなった右の三文字、いかにも象徴的なものだ。現代文字の「霊異記」と距離がないようでいて、じつは三つのタイプの違いを見せてくれている。「異」はほぼその通りでいながらも、上は「甲」から「田」に変わったということで、字形に修正が加えられた典型例だと言えよう。「記」の偏は筆の勢いでこの形に終着したものだが、中国の簡略文字の言偏の由来を鮮明に表している。「霊」となれば、現代の文字のほうが真ん中に「一」が入って、千年前の書き方のほうが簡略だったという意外な事実を見せつけられた。文字の移り変わり、いたって味わいがあるのではなかろうか。

貴重な資料のデジタル公開をしてくれた興福寺に敬服の念を禁じえない。これだけ上質なデジタル資料を手にして、専門家はきっと多くの発見ができるに違いない。そのような議論もじっくり聞きたいものだ。

興福寺本『日本霊異記』

2009年3月28日土曜日

絵に詩を読む

今週の講義のテーマは、中国絵画である。十一世紀、北宋の絵師李公麟を取り上げた。

李公麟とは、数ある絵師の中でも間違いなく第一級のグループに入る人間だった。世に伝わる絵の作品もさることながら、考えようによれば、実際の絵作以上に、伝説や逸話の多かった。中では、彼の絵を通じて、広く絵の読みかた、鑑賞の仕方にかかわる中国古来の文化人たちの心の動きや価値観を覗かせてくれるような、じつに味わい深いものがあった。

たとえばつぎのようなことが『宣和画譜」(卷七)に記されている。

蓋深得杜甫作詩体制而移於画。如甫作「縛鶏行」不在鶏虫之得失,乃在於注目寒江倚山閣之時。公麟畫陶潛「帰去来兮図」,不在於田園松菊,乃在於臨清流處。甫作「茅屋爲秋風所拔歌」,雖衾破屋漏非所恤,而欲大庇天下寒士倶歓。顔公麟作「陽関図」,以離别惨恨為人之常情,而設釣者於水浜,忘形塊坐,哀楽不関其意。

意訳すれば、ほぼつぎの通りだ。

(李公麟は)杜甫が用いた詩の詠み方を体得して、それを自分の絵に取り入れた。例をあげて見てみよう。杜甫の「縛鶏行」は、鶏や虫のあり様よりも、孤亭に身を置き、尽きない流れに目を向ける時を詠む。同じく李公麟の陶淵明を主人公とする「帰去来兮図」は、田園の松や菊ではなく、清い渓流に望むところを描く。杜甫の「茅屋歌」は、雨で布団がずたずたになり、雨漏りした家が使えないでいながらも、世の中のすべての人が共に憂えないで喜ぶことを願い、李公麟の「陽関図」は、離別や怨恨の情を傍らに押して、水辺で釣りの人を設ける。その姿は、まさに我を忘れて、人間のすべての哀楽には関わりを持たないという風貌なのだ。

絵と詩とは共通している。絵を見るためには詩を理解する、詩を楽しむ、詩を嗜むぐらいの教養がなければ適えられない。素晴らしい詩は絵を見るものであり、上等な絵は詩を聞くものである。などなど、中国の絵を鑑賞するにあたってのレトリックは、書ききれないほどあった。だが、その多くは、どうしても捉えようのないリズムや雰囲気といった、抽象的な議論に終始して、はなはだ主観的なものになりがちだ。それに比べて、ここでの議論は、いかにも簡潔にして分かりやすい。詩の詠み方を取り入れたと言っても、あくまでもなにを描くかという、描く対象に尽きる。

もともと以上の議論は、つぎの一言で結ばれる。「唯覧者得之(ただ絵を観覧する者が意得するのみ)」。李公麟の、あるいは他の有名無名の絵師たちの絵を読み解くということは、突き詰めて言えば、あくまでも読む人の器量にかかるものだ。一つの画論としては、いかにも謙虚にして含蓄した記述であって、しかも後世の読者たちへのなにげない挑戦だったと感じてならない。

2009年3月21日土曜日

四季に向う

今週も引き続き学生たちと謡曲「邯鄲」を読んでいた。締めくくりとして、四人の学生にグループ発表をさせて、さまざまなフレッシュな読み方を四十分ほど語ってもらった。

話題に上ったことの一つには、あのいたって中世的な発想なる四季幻想があった。謡曲の詞章につぎの謡いがある。「四季折々は目の前にて、春夏秋冬万木千草も一日に花咲けり。」数え切れないほどの四季の風景、あるいは「四季の庭」に代表されるような空想の景色を伝える中世の作品の中では、はなはだ短い一節ではあるが、能という様式のゆえんに洗練された形を通じて、見るもの、聞くものを無限の想像に誘う。

生活している地では、夏や冬があっても、春や秋は短くて、四季と呼ぶべき自然にはそもそも縁が薄い。生まれてこの方ほとんどこの地を離れたこともないような若者たちには、はたして日本的な自然と時間をどこまで理解できるのか、ばくぜんと不安を抱えていた。案の定、そのような学生たちの議論は、人間と自然との関係に走り、四季を目の前に一覧することをもって、人間の、自然をコントロールしようとする意欲、あるいは潜在的な意識の表現だと結論に急ぐ。思えば中世を通り過ぎたいま、中世の感覚など所詮紙上の議論に過ぎず、したがって自然コントロール云々の認識も、ぜったいにありえないと主張しても始まらない。ただ、それを知っていながらも、やはり婉曲に自分の感覚を言って聞かせざるをえなかった。上記の引用のセリフは、そのすぐあとにくる「面白や、不思議やな」とあわせて考えるべきだろう。四季を一瞬にして一身に体験できることは、あくまでもありえないことから生まれた豪華さ、出来ないからこそ憧れてしまうといった、高揚を伴う素朴な心象にすぎない。そのような感覚から、即宇宙を手に握ろうとしたものだと読み解くのは、いささか飛躍があったのではなかろうか、と。

しかしながら、そのような中世的な心象も、なぜか古き良き伝統として残されることなく、いつの間にか跡形もなく消え去っていった。その後の文学の世界では、たまに再現されることがあっても、あくまでも懐古的ものであって、これを一種の理想像と捉えるにはほど遠い。この中世的な発想が廃棄されるプロセス、さらに言えばそれを結果に至らしめた理由とは、どこに求めるべきだろうか。

2009年3月14日土曜日

邯鄲の夢

夢の話となれば、謡曲「邯鄲」のことがすぐ思いに浮かんでくる。あれは美しい夢を溢れんばかりの美辞麗句と、優雅な舞をもって語ったものだ。豪華な宮殿、四季の移り変わりを一目で見渡せる奇跡、そして皇位まで勧められた運命、それこそ第一級の夢物語だった。

邯鄲とは、いうまでもなく紀元前の中国の戦国時代に遡れる地名であり、その邯鄲の地に奇妙な枕にしばし頭を任せて見た夢は、科挙の試験やら、外敵を懲らした戦功やら、内容こそ違うが、その枠組みが遠く唐の時代の説話においてすでに形が出来上がっていた。しかも邯鄲という地は、現在でも同じ地名のままだ。いまやその土地を訪ねれば、観光を目的とする古い建築群が存在し、多数の石碑などに囲みながら、「盧生祠」「黄梁店」など古風の建物がぴかぴかの扁額を掲げている。おまけに、夢を見た盧生という一人の男だけではどうも寂しいといったような思いも働いたのだろうか、そのかれに枕を授けた老人まできちんと名前を明かしてくれて、それは中国歴史上名高い道士の一人呂洞賓だったということになる。

だが、夢とは、すべて美しいものに限ると思えばあまい。ことはこの邯鄲の夢であっても例外ではない。それを教えてくれたのは、古典演劇ということでつねに謡曲の比較対象とされた元時代の雑劇をすぐ挙げられるだろう。雑劇の代表作者の一人馬致遠の手による作品には「邯鄲道省悟黄粱夢」との一篇があり、まさに邯鄲の夢を描いたものだった。夢を通じて、悟りの道を示されたというストーリの大筋は、一通り同じだが、しかしながら夢の内容はまるっきり対極なもので、美夢どころか、言葉通りの悪夢だった。そこでは、夢を見た人、すなわち悟りを必要としたのは、道士になる前の呂洞賓だった。かれの夢の前半は、同じ栄華を辿ったものであって、舞台に表現されることもなく飛ばされた。だが、夢の後半では、呂が数々の苦難や恥辱を嘗め尽くされた。豊かな会話や鮮やかな人物像を通じて演じられたのは、前後して酒、金、女性、家族といったすべての縁を切らされた数々のエピソードだった。その結果、かれは不本意ながらも、この世を捨てて出家遁世する用意をすべて夢の中で整える結果となった。

いつの時代においても、人間はいい夢を手に入れようと願う。ただし、どのような理想的な夢を手に入れたとしても、それを自慢するとはあまり聞かない。それどころか、いい夢そのものをどう対処すべきか、そもそも一様の答えがあるはずがない。夢から悟りを求めるというは、一つの答えに過ぎない。まったく同じストーリの筋道を辿りながら、芥川龍之介は小説『邯鄲』において、まったく逆の、「夢だから、なお生きたいのです」という主張を語った。納得できるものではなかろうか。

謡曲「邯鄲」は、能面「邯鄲男」を用いる。ただしこの面からは、美しい夢に酔いしれた陶酔、人生のすべてを体験した満足、あるいはあらゆる悩みを切り捨てた悟りを見出す自信などとても持てないのは、私一人だけだろうか。

2009年3月7日土曜日

悪玉に仕上げられた絵師

今週、学生たちと一緒に読んだは、「漢宮秋」という元の雑劇である。話の主人公は、匈奴と婚姻を結ばせるために、漢の皇帝の宮殿から送り出された薄幸の美人・王昭君。だが、長い歴史の中で、王昭君の生涯にかかわった漢の皇帝や匈奴の王はおろか、彼女本人まで「四大美人」などとラベルの付いたグループの中の一人に過ぎなかったのに対して、ここに登場した一人の絵師が、しかしながらいつまでも特筆され続ける突飛な存在となった。それは、毛延寿という名の憎まれた悪玉の人間だった。

毛延寿の名前を記した古い記録は、遠く晋の時代の『西京雑記』に遡り、西漢の首都長安をめぐるさまざまな出来事の一つとして、絵師の嘆かれるべし運命を伝える実例として語られた。話のあらすじはこうだ。漢の後宮に選ばれた王昭君がかれに賄賂を送らなかったことが理由で顔を醜く描かれ、やがて匈奴に送り出される運命に強いられ、絶世の美人を不本意に失った皇帝が毛延寿を死刑に処す。この出来事は、それ以来千七百年もの歴史において、すこしずつ形を変えながら語られてきた。たとえば賄賂を贈ろうとしなかった王昭君の理由一つを取り上げてみても、家族の貧乏ということを始め、賄賂を求める悪事への反抗という正義感、そのようなことがとり行われているのに気づかなかったという無知あるいは純情、はたまた自分の美貌への自信など、あれこれと数えられる。ストーリの結末は、毛延寿の処刑だ。これには、先の古い記録から衝撃的だった。殺されたのは毛一人のみならず、その同僚の絵師たちがことごとく首を斬られたのだった。それも「捨市」といって、市場での見せしめの処刑だった。考えてみれば、罪の内容よりも、首斬りそのものに人々が関心をもっていたことだろうか。

一方では、元の雑劇は、このストーリの展開にさまざまな形で想像を膨らませた。まず毛延寿その人は、まるで近隣の人を訪ねるかのようにいとも簡単に匈奴の王宮に現れる。しかも王昭君をわざと醜く描いたのだから、それを綺麗に描くことぐらい手の内であって、そのような絵を携えて匈奴の王に進呈すれば、絶世の美人を奪い取ることを目標とする戦争が忽ち目の前に展開されてしまう。やがて予想通りに美女を手に入れたが、漢と匈奴との二つの世界は簡単に越えられるものではなく、その境界だとされる黒龍江に王昭君が身を投げて自害してしまう。

毛延寿をめぐる伝説は、いまでも続いている。一番新しいものと言えば、2008年に49話のテレビドラマに作られた。そこでは、王昭君とその家族は、彼女を救い出すために醜く描かれようと必死に工作したのだが、その方法とは、毛に賄賂として一軒の家を贈るという、こちらはまったく新意のないものだった。

だが、長い歴史の中で毛延寿の伝説に疑問を投げた人がいなかったわけではない。それの一番強い声は、宋の詩人王安石をあげるべきだろう。「意態由来画不成、当时枉殺毛延寿」(「明妃曲」)との一句は力強い。人間の顔や精神は描ききれるものではなく、毛延寿もあくまでも理不尽な犠牲だったと詩人が言う。絵師の力量を客観的に眺めたいという、人々の直感にかなえるものだろう。しかしながら、はたして人間の精神は、描ききれないものだろうか。詩人の主張のこの前提は、むしろ大いに議論すべきものを育んでいる。また別に考えたい。

2009年2月28日土曜日

かぐや姫の読み比べ

「竹取物語」をめぐる講義を終えて、ストーリの内容や人物などについて学生たちにそれぞれの読み方を書いてもらった。大学内のネットワークにクラスのコーナーを構えて、実名で短い読書感を投稿させ、クラスの学生だけそれを読み合わせるという形を取る。もともと自由活発な議論をさせることを目的としていたものだが、それにしても、あまりにもユニークな見解が記されて、いささか困惑を覚えたぐらいだった。

かぐや姫が主人公の話だから、女性の美貌、その力強さ、あるいは万能で超人的な存在ぐらいのことは期待していた。しかしながら、そのような分かりきったことへの言及は、けっきょくサボり気味の学生から穴埋め的に聞こえてきた程度だった。多くの学生はやはり自分で考えて、しかもほかの人とはちょっと違う意見を出そうと努力した。ただその意見の内容となれば、ちょっぴり奇想天外。かぐや姫の昇天を人生の無常、ひいては竹取をもって仏教的な教えだとしたのは、まだ序の口。極端な議論となれば、かぐや姫を可哀そうな孤児とみなし、したがって竹からこれを見つけた竹取翁夫婦のことを、身寄りのない子供を献身的に養ったとして親切な人だと決め付ける。一人の意見では、かぐや姫の性格を分析して、丁寧な言葉を選んで求婚者たちを断ったのだから、日本社会の礼儀正しいことを現わしたものだと言う。さらに数人もの学生が、ストーリの語ろうとするものが意味不明だとして、これを日本文化の曖昧さに結びつけようとした。きっと十数年前のあのノーベル受賞講演のことをどこかで読んでいたに違いないなあと妙になっとくした。

このような議論は、言ってみれば日本文化へのステレオタイプの議論の見本のようなものだろう。いうまでもなく日本の古典、日本文化への知識の不足に由来するものだ。限られた知識の中でやりくりをするために、ついつい知っていること、あるいはみんなに言われていることを持ってきて、すこし無理があっても、関連を拵えて対象にくっつける。しかも本人としては、場合によってはかなりの満足を感じて自慢にするものだ。

このような学生は、考えようによれば、とても教えやすい。基礎知識を持ってきて説明してあげれば、目が輝いて、新天地を見つけ出したように喜ぶ。教える立場にいる人間もやりがいを感じる。だが、それがともかくとして、知識があまりにもないと、独創のつもりでいても、つい短絡な議論になるしかないということを、むしろ教壇に立つ自分に、ある種の警戒として訴えているように感じてならない。

2009年2月22日日曜日

かぐや姫の昇天

来る月曜日の講義は、「竹取物語」を取り上げる。短いバージョンのものを選ぼうと、『今昔物語集』に語られたそれを用いる。そして、今度のクラスでは初めて絵巻の画面を用いる予定だ。

いずれも江戸時代に入ってからの作だが、「竹取物語」を描いた作品の数が多い。その多くが非常に綺麗な状態で今日に伝わり、しかもかなりの点数のものが全作インターネットで公開されている。国会図書館九州大学附属図書館龍谷大学電子図書館立教大学図書館諏訪市博物館などは、その中の代表的なものだ。

かぐや姫を主人公とするこの物語は、いうまでもなく、その出生、求婚者への難題、かぐや姫の昇天といったエピソードを基本構成とする。これらの内容を描く画面をそれぞれ比較することだけでも、かなり楽しい。

たとえば、物語のハイライトとなる昇天である。竹取という伝説においては、これはそもそも非常に大きな対立を抱えた結末だ。一方では、来迎によりかぐや姫と天上界とのつながりが分かり、この世の人とは本質的に違うという事実が明らかになる。そのような憧れの人をこの世で生活を共にしたことを、物語の主人公たちは内心自慢さえした。しかしながら、かぐや姫の昇天は彼女をこの世から永遠に失うということを意味し、かつての喜びがすべてそっくりそのまま悲しみとなる。絵巻の画面は、したがってこの二つの対立した要素をしっかりと表現する。来迎は、祥雲に乗った乗り物に集約する。もちろん仏教伝説における数々の往生物語の再現だ。来迎の乗り物が輿だったり牛車だったりし、取り巻く天女たちが日本風の服装あるいは唐風の服装を身にまとう。しかも乗り物がいまだ空っぽの到来もあれば、姫が中に乗って去っていく構図もある。これに対して、後者の、人間の世から消えてゆくかぐや姫を止めようとする表現は、意外と共通していた。武士たちの唐突な登場だった。かれらは鑓を握り、弓を構え、ひいては天女たちとの距離をすこしでも短く詰めようと思ったからだろうか、建物の屋根の上に陣取る。(写真は諏訪市博物館蔵『竹取物語絵巻』より)

八十年代後半、かぐや姫の物語がめずらしく映画化された。宇宙船云々との宣伝文句に惹きつけられて、大学院生の友人と数人で公開早々に映画館で見た。現代風のラブロマンスのストーリに仕立てられたことなど、ほとんどなにも印象に残っていないが、最後の昇天の場面は、一筋のライトによって身を包んだだけの、あまりにも安逸な作りだったため、かなりがっかりしたことだけはいつまで経っても覚えている。六年ほど前にこのストーリは、今度はなぜか血みどろな復讐劇としてテレビドラマに復活した(「怪談百物語・かぐや姫」)。ハイライトの昇天は先の映画の構図をほぼそっくりそのまま応用した。この世に存在しないあり様へのビジュアル的な想像力とは、そんなに簡単に進歩するものではないものだとなぜか妙に合点した。

2009年2月14日土曜日

セツ・ワ

今週の講義のテーマは、説話。『今昔物語集』から一話取り上げ、学生たちとじっくりと読む。そこで自然に「説話」という言葉から説明しなくてはならない。「せつわ」、なぜか自明でいて、議論が巻きつく文学研究の用語だ。これを機に自分を悩ませる困惑を記し留めておこう。

日本語における説話とは、名詞で、ある特定の古典作品の一群を指す。たいていの文学辞典などに記されたように、これはあくまでも学者たちによって用いられた術語で、それが使い始められたのは、わずか先世紀の初頭にまで遡ることしかできず、非常に新しい言葉である。これによって括られた作品のタイトルは、いずれも「記」「集」「伝」「抄」あるいは「物語」だったことを考えあわせると、妙になっとくする。だが、そもそも「説話」という言葉の字面の意味とは何だろうか。「ものがたり」の構造をもつ「説を話す」のか、中国語語彙の転用で「話を説く」のか、はたまた、説いたり話したりした、説と話という二つの活動の同列したものだろうか。

考えてみれば、自分にこのささいな混乱をもたらした理由の一つには、中国語におけるこの言葉の用法にあったに違いない。「説話」とは、現代中国語においていたって使用率の高いもので、あくまでも「話をする」との意味の動詞だ。それに多くの動詞が簡単に名詞に変身できるにもかかわらず、この言葉を名詞として使われる実例は、現代語においてほとんど皆無に近い。

しかしながら、中国古典の世界に目を転じれば、事情は一変する。「説話」とは、完璧な名詞であり、りっぱな文学用語だった。その実例は、宋の文献に遡れる。耐得翁の『都城紀勝』には、つぎのような有名な記述がある。「説話には四家有り。一は小说、之を銀字児と謂う。」この記述を起点として、文学史の研究者たちは、宋における「説話」の内容、とりわけそれの分類の詳細について、活発に議論を重ねてきた。もともとのこ耐得翁の記述は、「四家」と言いながらも、「小説」に並べて、「説公案」「説鉄騎児」「説経」「説参請」と、四つという数を遥か超えたリストを無造作に書き連ねたから、学者たちを大いに混乱させたということも見逃せない。言うまでもなく、ここではそのような内容の豊富さや分類の合理さなどに立ち入らなくても、「説話」という言葉の理解に十分な知識が得られる。「平話」「話本」など、書かれた文学作品との関連まで思い出せば、「説話」という言葉の指す活動には、いっそう具体的にイメージが湧いてくる。すなわち、宋の時代における「説話」は、「説」をもって共通項目とし、さまざまなジャンルやテーマのものを声高々に語るものだった。しかもそれが繰り広げられたのが、人々が賑やかに通い合う市場だった。説明するまでもなく、宋の説話とは、一種の演劇であり、芸能だった。

はたして二十世紀初頭の文学研究者たちが『今昔物語集』などの作品を指すために「説話」を選んだ時には、以上のような中国古典の用法まで思い起こしていたのだろうか。

2009年2月7日土曜日

百器の百鬼

二年前の秋、日文研所蔵の絵巻をめぐり、『百鬼夜行絵巻』のことをこのブログに書いた(2007年10月21日)。いまになって分かったのだが、それよりわずか数ヶ月前に、同じテーマの絵巻がもう一点同コレクションに加わった。しかも、それを起点として、『百鬼夜行絵巻』全体を捉えなおす研究が行われ、その成果が最近刊行された。小松和彦教授の『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書ビジュアル版)である。一気に読了した。

新書というスタイルだが、なぜか贅沢なぐらい豪華な印象を与える一冊だ。きれいな色合いを持ったカラー印刷と、世界各国の公私にわたる図書館、コレクションに所蔵された絵巻を惜しみなくふんだんに使ったことがその理由だろう。著者や出版社の情熱が伝わる。そして、なんという豊穣な世界だろうか。「百鬼」に馴染みを持たない一般の読者も、これまで数々の難問にどのようにして取り掛かろうかと彷徨う研究者も一様に惹きつけられて離れられない。出版からわずかな時間しか経っていないが、各新聞の読書欄の書評に取り上げられ、熱心な読者のブログに読書感が記されている。きっとこの出版を受けたと思われるが、先日、NHKの9時のニュースでさえ、新しい絵巻発見だと取り上げた。

絵巻研究という立場から言えば、一つのタイトルの作品を俯瞰的に眺め、その全体像を捉えようとする姿勢は、まさに待望されるものだ。これには、なぜか『平家物語』研究をめぐる、その初期の基礎研究の数々を思い出される。しかも研究対象は、近世の書写、模写まで取り入れ、それらの作品をすべて同じ土俵に登らせる。まさに絵巻研究の新たなスタンダードだ。これからの『百鬼夜行絵巻』の研究者は、まずはこの一冊を熟読しておかないと、新たな出発ができないことだろう。

ここに、この本から習ったことの一つを記しておきたい。数多い諸伝本の中に、四つに分類する基準作の一つは、兵庫県立歴史博物館所蔵本である。そのタイトルは、『百器夜行絵巻』。同じ「キ」であっても鬼ではなくて、器である。大きなヒントが隠されたような気がしてならない。そもそももろもろの器物の鬼と夜の都大路を行列する百の鬼とは、どうして繋がったのだろうか。平安時代に語り伝えられた伝説の鬼たちが、どうして器物たちによってその正体をすり替えかれたのだろうか。その間の飛躍をめぐり、いまだ明快な答えが得られていない。だが、それは意外と卑近でいて、なんの捻りもなかったのかもしれない。素朴で単純極まりない言葉遊びに由来したのではなかろうか。つまり、百と数える器たちに命を吹き込み、そのついでに、知れわたった平安のタームを拾いあげ、夜行する百鬼に託した。いかにも中世的な機敏ではなかろうか。しかも、あまりにも明白なゆえに、「百器」と名乗るのも、解説するのも、野暮で憚っていたに違いない。

日文研所蔵のこの貴重な絵巻は、すでにインターネットで公開されている。誰でも簡単にアクセス出来て、しかも並大抵の印刷物よりはるかに高い画質で鑑賞できる。一方では、普通の出版の慣習に逆行して、この素晴らしいビジュアル新書がより大きいサイズでの再版することをひそかに心待ちしたい。

毎日jp・今週の本棚

2009年1月31日土曜日

光源氏と藤壺が見た絵巻

古典を英訳でよむという授業で、先週、『源氏物語』を取り上げた。二回の講義に続き、四十分ほど学生たちを講壇に立たせた。いまごろの若者たちの感性が見どころであり、学生たちもしっかりとその期待に応えてくれて、漫画やらゲームやらを言及し、そして一月から上映中のテレビアニメ「源氏物語千年紀Genji」を紹介した。不覚にも、このフジテレビの一大イベントにはまったく気づいていない。学生たちに教わるままに、さっそくYouTubeにアクセスして、その第一話を覗いた。

そもそも漫画をベースにして作り上げたアニメは、絵巻のビジュアル世界のありかたを無視せざるをえない、たとえ苦労を試みてもそれを再現できるはずがない。時代感覚やら美的感覚やらといった抽象的なこと云々よりも、まずはメディアが違う、表現内容の量が圧倒的に異質だからだ。したがって、絵巻的な構想をちりばめるような試みは、アニメにおいて最初から諦めたのではないかと見る。しかしながら、興味深いことに、そのようなメディア的な宿命への反動からだろうか、絵巻の存在など知っているぞとでも宣言しているかのように、絵巻をまつわる逸話がさっそく用意されたのだった。それはなんと内裏にはじめて登場した藤壺が光源氏を喜ばせようと、自分の家から持ってきたのだと言って、絵巻を源氏とともに鑑賞するという、いかにも唐突なものだった。アニメは丁寧にもそれが「鳥獣戯画」だと描く。おまけに、絵巻を三つも四つもいっぱいに開いて、相互に重ならせながら乱雑に広げたのだった。絵巻をいっぱいに広げて床に置く、このような妙な鑑賞法は、たしかどこかの戦国武士のドラマに収められたと記憶する。それを再び目撃して、思わず唖然とした。

広げられて重なる絵巻、この構図は、思えばある雑誌のグラビアで用いられたのが早い例ではなかろうか。カラー写真にて贅沢にスペースを使って絵巻の物理的な特徴を目いっぱいに紹介するという奇抜な狙いは、雑誌を見たとき強く伝わったと覚えている。しかしながら、それがここまで成長したとは、予想しなかった。その裏にはなんの理由があったのだろうか。現代の人々に絵巻というものを伝えるために、ここまでメディアの性格を無視して、乱暴に扱わないと叶えないものかと、はなはだ理解に苦しむ。

ちなみに、番組の製作者は、このような視聴を予期していたかどうか、ひいてはインターネットのおかげで、北米の地で日本語もさほど分からないような若者たちの鑑賞対象となったことを、はたして喜ぶのか、はたまた著作権が侵害されたと怒るのか、すぐには見当がつかない。ただし、アニメのビジュアル的なアプローチが若者たちの抱く古典への距離を大いに縮めたことをはっきりと記しておきたい。

朝日jp・注目アニメ紹介

2009年1月24日土曜日

厭勝銭

中国の暦では、十時間ほどあとにようやく丑年に入る。いま、遠く中国では、町全体が濃厚なお正月色に染められ、人々があわただしく大晦日の半一日を走り回るころである。その中国から遠く離れた北米のこの町でも、地元の新聞が一面で丑年のことや地域の華僑たちの生活をカラフルな写真付きでとりあげ、わたしも、週末にかけて数百人規模の宴会に二つも出て、何人もの懐かしい知人と語り合った。

中国の人々が抱く干支の牛のイメージと言えば、まずは「獅子奮迅」である。大きな体をして、猛然と、しかも止められそうもない力をもって前へ進む、ということに人々が思いを寄せ、めでたい祝福をその姿に託す。現代の建物の入り口や賑やかな街角などには、そのような造形の牛たちが多く目に入る。

中国の古代、それもビジュアル的なものに関心を持っていこう。そのために、さほど知られていない「厭勝銭」のことをめぐり、二三のメモを書きとめたい。

銭とは、いうまでもなく貨幣、すなわちコインのことで、中国語で古代からいまの日常生活でずっと使用しつづけている言葉である。「厭勝銭」は、「圧勝銭」「押勝銭」とも言う。ここで「厭」は「圧」「押」と同じ発音をし、人に圧迫感を感じさせるとの意味を持つと解される。「厭勝」とは、遠く漢の時代の史書にすでに記された祈祷の儀式であり、「厭勝銭」は、したがってそのような儀式のために製作されたものであり、祈祷や装飾の役目をもっていて、銭の形を模っていても、商品流通のために用いられる貨幣ではなかった。

そのような装飾のコインの中には、「生肖銭」あるいは「十二支銭」「命銭」という一群がある。古いものは、宋の時代に遡れる。その構図は、十二の干支をそれぞれ文字と画像をもって対応させることを基本とする。一枚コインに一つだけの干支を文字と絵、場合によってはそれぞれ表と裏に配置させるものもあるが、十二の干支をすべて記すのが普通である。十二の文字と絵が一面を円形に配列し、あるいは小さな円形に囲まれた絵とその外側に添えられた文字が規則的に散りばめる。その中にもちろん牛が描かれる。写真の例では、横からの視線の牛ではなく、真正面に向いた生き生きとしたポーズまで取らせている。

文字があって、絵がある。二つの媒体が規則正しく呼応する。ストーリを伝えるのではなく、装飾、あるいは祈祷という古来の伝統を伝えて、厭勝銭の絵柄は、もう一つのハーモニーを見せてくれている。

2009年1月17日土曜日

言葉の壁

英訳による中国古典文学の講義を用意して、一瞬の戸惑いを覚えた。学生たちといっしょに読む作品は、「I-wen chi」(いわゆるウェード式の綴り、ピンインだと「Yi-wen ji」)に収録されているとあった。何気なく「異聞記」だろうと思って調べたら、あの魯迅の『古小説鈎沈』にも取り上げられたそれが、関連記事とともに多く出てきた。しかし読む作品は怪異のストーリとまったく無縁のものだ。不思議に思い、あれこれと試したら、ようやく理由が分かった。綴りには間違いがないが、実際の書物は『異聞集』であって、時代も内容も異なるものだった。

不親切だなあと、まずは内心、批判の文句が浮かんできた。これは、まるで最初から十分な情報を提供することを拒んでいるのではなかろうか。せめて四声でも表記すれば、今のような苦労がなかったのに。さらに言えば、漢字そのものを入れることができないだろうかと。しかし、考え直せば、そんな簡単なものでもない。英文の翻訳に漢字を無遠慮に入れれば、中国語の出来る人には目を引くかもしれないが、それはもともと翻訳が狙う読者ではない。たとえてみれば、日本語の文章にアラビア語の文字を入れるとどうなるのだろうか。訳者自身が翻訳に自信がないとのことを暗に示すだけでなく、その言葉を知らない読者には、余計な負担以外のなにものでもなかった。

いうまでもなく、この戸惑いは、選ばれた訳語が音だけ伝えて、意味を伝えなかったことに由来する。でも、よく考えてみれば、背後にはさらに大きなことを含んでいる。

どんなに異なる言葉であろうと、交流する意思さえあれば、超えられない言葉の壁というのが存在しないものだと考える。一方では、そのような前提に立脚して取り掛かるとしても、確実に存在する言葉の距離と、それに向かっての困惑を直視すべきだ。

そもそもどのような言葉でも、それが用いられる音声と、それが持ち出そうとする意味という二つの側面をもつ。自然なことに、言葉を記録する文字は、同じく音と意味の両方を記し留めることを目標とする。このように捉えれば、英語は音を記し、読者がそれを音を再現することを通じて意味を思い出し、対して中国語の漢字は、意味を記し、読者がその意味から出発して音を思い出して、書かれた文章を理解するとおおざっぱに言えよう。ともに漢字を用いる中国語と日本語との間では、単一の文字を理解するだけなら、たしかに隔たりが少なかろうが、音声を記録するということでは、二つの言語の間のとてつもない壁が厳然にある。典型的な例だが、熟知されている日本の地名や人名が中国語に置き換えられて、語られた時に受けたぎょっとした思いは、多くの日本語話者が体験したことだろう。

人間同士の言葉を使っての交流は、音声から始まった。音だけを頼りにして、すべての交流を間に合わせられることは、もちろんだろう。そのような言葉の歴史に比べて、文字とは、はるか後に発達されたもので、はなはだ新参のものだ。文字の役目は、そのような言葉を記録することから始まり、やがて言葉を伝播する役目まで背負い、言葉を豊かにする結果をもたらす。千年を単位とする人間の歴史の進歩に新たな一歩を今日に求めるとすれば、おそらく音声そのものを記録し、伝播させることが可能になったとのことだろう。

したがって人間の言葉、それをめぐるさまざまな要素をを見直すというきっかけをわたしたちは、すでに手に入れたものだ。

2009年1月10日土曜日

比喩と説教の「十牛図」

大学の新学期は来る月曜日から始まり、冬休みの最後の週末である。いまだ丑年のお正月気分に浸りながら、今日も牛の話を続けよう。中国の「十牛図」を取り上げたい。

これも中国の絵などに興味を持つ人なら、何回も聞いたことのある作品である。もともと禅の教えを説くものとして作成され、古いものは、宋の時代の禅僧に遡り、廓庵僧(師)遠、普明など複数の僧侶の名前が絵師あるいは作者として伝えられる。しかも一つの古典作品の存在形態としてはむしろ特殊で、文章も絵柄も、その宋の時代においてすでに多彩なバリエーションを持っていた。

まずは、タイトルの「十牛図」が誤解を招く。ここに登場しているのは、なにも十の牛ではない。話の最初から最後まで通りぬいたのは、あくまでも一匹の牛であり、あえて言えばその牛をめぐる十の状況である。すなわち「尋牛」「見跡」という題目で言い表されたように、牛を探し求める、牛の跡を確認する、牛を発見する、牛を捉える、牛を飼い馴らす、牛に乗って家へ戻る、といった、いたって明晰にして細かいプロセスである。一方では、十のプロセスが丁寧に絵画化される。ただし、たとえば「尋牛」では当然牛が見えないので、十の状況において、牛の姿が登場したのは、わずかに四つにすぎない。そのような牛のことについて、たとえば、「見牛」の状況は、牛の体の後半を描くといった漠然とした絵柄の共通性も認められるが、しかしながら、話の進行にともなって、牛の体が黒から白へと変身していくとの構図もあった。絵の表現そのものが必ずしも定まった方向へ展開したのではなく、むしろ積極的な変化を理想としたものだった。

いうまでもなくここに語られているのは、牛であって、牛ではない。巨大な牛とは、探し求める真理、あるいは禅への悟りに対する比喩に他ならない。しかもその道のりは、非常にはっきりした方向性と、分かりやすい段階を持つ。牛を探すために出発した旅は、牛を得ることをもって入門し、牛を忘れ、牛を求めること、ひいてはそれを求めようとする主体まで無に付することを最終目標とする。いかにも発想の逆転であり、愉快なほどの言葉あるいは概念の遊びである。

「十牛図」の思索な魅力に惹かれて、これを敷衍する議論は、まさに「汗牛充棟」、書物にすれば部屋をいっぱいさせ、牛に汗を掻かせるほどの分量だった。活気漲る牛の姿を見つめながら、宗教的、哲学的な悟りに憧れるのか、それとも、超然的な思考とあまりにも整然とした精密なプロセスとの奇妙なほどの矛盾を覚えざるをえないのか、読む人の価値判断そのものが映し出されるものだとも言えよう。

承天閣美術館蔵「十牛図」(伝周文絵・絶海中津筆)

2009年1月3日土曜日

カウボーイの町より

丑年を迎えた。今年は、約百年ぶりの、カナダ全土にわたる「白いクリスマス」だと言われ、わたしのホームタウンも、すでに三週間以上、深い雪に包まれ、マイナス20度以下の厳しい冬が続いている。暖かい室内に留まりがちの、のんびりしたお正月となった。

思えば、牛と人間との付き合いが長い。絵巻画面に描かれたそれを思い出してみても、農耕生活のパートナーとしての牛、重い荷物をひっしに引っ張る原動力の牛、そして王朝貴人の象徴である牛車とともに、時には過剰に飾り付けられた牛、じつに枚挙に暇ない。一方では、おとなしい牛でも、いつでもどこでも人畜無害な存在というわけでもなかった。はるばる天竺の国より渡ってきて、地獄の中を繰り返し顔を見せてくれたのは、あの牛頭(ごづ)だ。人間に順応していながらも、その圧倒的に大きな体ゆえに、いやでも脅威を感じさせていたからだろう。

そのような牛だが、意外なほどに主人公にはあまりならなかった。わずかな例外をあげてみれば、日本の「駿牛図(すんぎゅうず)」、「国牛十図」、そして禅の教えを説いて、中国でも日本でも語り継がれた「十牛図」ぐらいだろうか。

わたしの住んでいる町は、カウボーイの伝統を自慢にしている。市内のあっちこっちの道路などの地名が牛ゆかりのものが用いられている。そればかりではなく、生きた牛が日増しに目の届く日常生活から姿を消えていくことに由来するだろうが、ダウンタウンや空港のあっちこっちに牛の彫像を設置して、一つの風物となった。それらの彫像は、さまざまな色や姿にデザインされている。写真のような場合、体を開いた絵巻に見立てたのではないかと目を疑う。素朴な絵の連続から、ついなにかのストーリが隠されているのではないかと、読み始める。

丑、牛、うし、カウ。今年も素晴らしい一年であるように。