今週も引き続き学生たちと謡曲「邯鄲」を読んでいた。締めくくりとして、四人の学生にグループ発表をさせて、さまざまなフレッシュな読み方を四十分ほど語ってもらった。
話題に上ったことの一つには、あのいたって中世的な発想なる四季幻想があった。謡曲の詞章につぎの謡いがある。「四季折々は目の前にて、春夏秋冬万木千草も一日に花咲けり。」数え切れないほどの四季の風景、あるいは「四季の庭」に代表されるような空想の景色を伝える中世の作品の中では、はなはだ短い一節ではあるが、能という様式のゆえんに洗練された形を通じて、見るもの、聞くものを無限の想像に誘う。
生活している地では、夏や冬があっても、春や秋は短くて、四季と呼ぶべき自然にはそもそも縁が薄い。生まれてこの方ほとんどこの地を離れたこともないような若者たちには、はたして日本的な自然と時間をどこまで理解できるのか、ばくぜんと不安を抱えていた。案の定、そのような学生たちの議論は、人間と自然との関係に走り、四季を目の前に一覧することをもって、人間の、自然をコントロールしようとする意欲、あるいは潜在的な意識の表現だと結論に急ぐ。思えば中世を通り過ぎたいま、中世の感覚など所詮紙上の議論に過ぎず、したがって自然コントロール云々の認識も、ぜったいにありえないと主張しても始まらない。ただ、それを知っていながらも、やはり婉曲に自分の感覚を言って聞かせざるをえなかった。上記の引用のセリフは、そのすぐあとにくる「面白や、不思議やな」とあわせて考えるべきだろう。四季を一瞬にして一身に体験できることは、あくまでもありえないことから生まれた豪華さ、出来ないからこそ憧れてしまうといった、高揚を伴う素朴な心象にすぎない。そのような感覚から、即宇宙を手に握ろうとしたものだと読み解くのは、いささか飛躍があったのではなかろうか、と。
しかしながら、そのような中世的な心象も、なぜか古き良き伝統として残されることなく、いつの間にか跡形もなく消え去っていった。その後の文学の世界では、たまに再現されることがあっても、あくまでも懐古的ものであって、これを一種の理想像と捉えるにはほど遠い。この中世的な発想が廃棄されるプロセス、さらに言えばそれを結果に至らしめた理由とは、どこに求めるべきだろうか。
2009年3月21日土曜日
四季に向う
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