2013年3月30日土曜日

絵で絵を注釈

古典文学の研究において、注釈は基礎作業である。昔の言葉で書かれた文章を、語彙、文型、それから表現の定型など、一々現代の言葉に置き換える。必要に応じて同時代の用例を取り出して並べる。その用例とは、むしろ数が少ないほど見つけ出せたのだと珍重される向きがある。

そこで、絵巻などおなじく古典の文献となれば、間違いなくこのような注釈が必要なのだ。絵巻にも文章があって、同じ要領で取り扱うことはいうまでもないが、眼目になるのは、やはり絵そのものである。ビジュアルなもので、時代を超えて共通するものもあれば、その時代ならではの風景や常識が数えきれずに隠され、解釈を呼びかけている。そこで、絵を現代の言葉、あるいは同時に同時代の言葉に置き換えることがまず必要だろう。それに加えて、絵ならば絵でも説明できるはずだ。具体的に考えれば、たとえば特定の人物を後ろ姿で描かれたものなら、同じ作品から違う角度のもの、あるいは違う作品から同じ人物の絵、ひいては肖像画までを取ってきて並べて良かろう。それから、あの地獄絵においてまな板に乗せられて折檻される地獄の風景に対して、まな板を用いた台所の絵が取り出されたら、明らかに参考になるだろう。考えてみれば当然必要な作業だが、理由はなにともあれ、とにかくほとんどまったく手付かれていないのが現状だ。

そこで、世の中の媒体は、紙からデジタルに移り変わりつつある。印刷物では簡単に実現できなかった絵による絵の注釈は、デジタルなら方法的には可能になるのかもしれない。いま風のビジネスのの世界の用語を借りて言えば、デジタル方法を用いた絵の注釈は、ひとつのコンセプトだと考えられる。実現すべき理由と魅力があっても、いまだ実行に移されていない。ビジネス世界のコンセプトは、つぎなるステップとして、あのクラウドファンディングといって、お金を集めて作品に変えてしまう。さて、古典研究ではどうなるのだろうか。

2013年3月23日土曜日

動画YouTube

今週、ニュースメディアが取り上げた出来事の一つには、あのYouTubeのユーザーが一億人を突破したということがあった。NHKのニュース番組でさえ、もしこの数を国の人口に喩えたら世界三番目の国になるとか、いささか意味不明のアピールをしている。一方では、このことをなぜか自分の限られた日常においても非常に具体的な形で体感している。今学期の授業では、教室に備え付けてあるパソコンがだいぶ使いやすくなったこともあって、担当している二つのクラスには毎日日本からのその日のニュースを主にYouTubeから2、3分間分だけ用意して、説明しながら見せている。三年生のクラスの場合、この作業はクラス開始前の5分のみに限定し、ほとんどの学生が毎回早々に集まってきているという嬉しい現象まで定着した。

一方では、いまどきの若者は、動画という媒体をどんどん手軽に使い込んでいる。いつものことながら、クラスにはきっと一人や二人、写真好きの典型的な「撮影オタク」が入っている。これまでならただその練達な作品どこかのサイトにあげていたのだが、いまはそのような若者でも写真を自慢する方法として、写真を動画に編集したのである。音楽に乗せてビデオを作り、それを汎用アルバムという感覚でYouTubeなどのサイトに平気にあげる。これに対して、こういうポップな感覚はなかなか自分のものにはできない。ものを見てゆくリズムを他人の手に任せてしまうことは、どうしても肌にあわず、個人的に不得手だとでも言えようか。

ただ、このように自己分析、自分説得をしていながらも、動画との距離が確実に縮まっている。おなじく今週でのささやかな身辺のできごとの中には、YouTubeと関連するものが二件もあった。一つは個人ユーザーによる情報交換サイトまで苦労して調べて、ようやく自分のYouTubeアカウントをApple TVに取り入れた。もう一つは大学の行事である。日本語弁論大会入賞者のビデオをこれまでのように大学のサーバーに乗せられなくて、対処方を関係者に問い合わせるのも億劫だから、ただYouTubeにあげて、そのリンクを大学のサイトに貼り付けた。さほど意識しなくても、動画のある日常生活がたしかに広がっている。

Prize Winners' List

2013年3月16日土曜日

ビッグデータ

今週もまた小さな研究発表を三つも聞いた。その中の二つはデジタル人文学に関連するもので、しかもいずれもいま流行のビッグデータを対象とするものだった。一つ目は、中世英文学に現われた魔女をめぐるものを対象としたデーターベースの開発であり、二つ目は、これまた近世の英文学における小説という概念の出現や同時代の他のジャンルとの関連をデータ的に数値分析を試みたものである。データを纏めてさらなる研究の基礎を作り上げる、あるいは新しいタイプのデータをフルに活用して特定の発見を求めるという、二つの発表は期せずして現時点のビッグデータ利用の違う可能性をかなり具体的に提示した。

いわゆるビッグデータというものは、かなりのスピードで脚光を浴びている。いうまでもなくそのようなデータが存在することを前提とするものである。そのようなデータがビッグだと言える理由の基本には、個人や小さなグループがいくらこつこつとやっていても拵えることのできそうもない規模のデータなのである。さらに言えば、そのようなデータは、自然に狭い意味で集められたものではなく、むしろ新聞、社会活動の記録、あるいはこれまで記録に残ったすべての古典文献といった、まとまった集まりをベースにするものである。そこで、そのようなデータの利用の仕方が、今時の研究者の関心事を集めた。具体的にいえば、そのようなデータが存在してはじめて可能となる課題が現われてくる。一方では、どんなテーマでも、データ自体がテーマより前に存在していたので、それを使えるように整理したり、それを使用するための手段を開発したり、データを見つめる立脚点を見つけ出したりして、切り込みの方法から工夫しなければならない。データの整理と、使用のプロセスの確立、この二つはとりあえず現時点でのデジタル人文学の大きな課題なのだろう。

英文学の話ばかり聞いてきて、思わず日本のことを振り返った。残念なことに、著作権やらさまざまな考慮が躊躇をもたらして、そのようなビッグデータの出現は著しく遅れている。あえて言えば、大きな図書館での古典文献のデジタル画像による公開が見られたことだろうか。古典文献を電子テキストにしたのは、わずかに国文学研究資料館の実践があるのみで、これからの課題だと言わなければならない。

大系本文データベース

2013年3月9日土曜日

最古の地図

今週もまた小さな研究発表を聞く機会があった。その中で、極めて常識なものとして、世界最古の地図のことが触れられた。この頃、意識せずに繰り返し地図というテーマに戻り、かつ最古となれば、関心を持たずにはいられなかった。

130309その地図というのは、「バビロニアの世界地図」と通称されるものである。作られたのは、紀元前4世紀とも7世紀とも伝えられ、いまは大英博物館に所蔵されている。小さな粘土の板に、上半分には楔形文字によるテキストが記入され、下半分は世界の全体像が描かれている。その世界というものは、上方にバビロンが位置し、縦にユーフラテス川とチグリス川が流れ、周辺には山や主要都市が書き込まれる。さらにこれらをすべて囲むには、「しょっぱい水」との文字で指示された海があり、その向こう側には想像の土地が広がっている。真ん丸い帯の形をした海、四角いバビロンなど、地図全体ははなはだ形式化され、そのバビロンのある北の方角を上に位置させることなども併せて、地図としての抽象された要素が明確に表現されている。

このような確実な実例を目の前にし、2500年以上に及ぶ地図というものを考えて、戸惑いを覚えざるをえないことだろう。そもそもこれこそ地図というべき大事な要素を備えたものにほかならない。対して、いまごろのオンラインの地図などとなれば、衛星写真、航空写真、街を走行する視線、リアルタイムの定点観察など、静止画から動画までフルに活用され、「地図」というものは限りなく精細にして具体的なものに変身を遂げた。ここまで表現の手段を駆使した現在のわれわれにとって、地図において地形や位置を記録し、それを抽象的に捉える余地、あるいはそのような必要がはたしてまだあるのだろうか。

2013年3月3日日曜日

絵に語らせようと思えば

今学期担当している作文クラスは、予定を半分越えて、ようやく佳境に入った。わずか数週間で作文表現の精度の進歩にはそれほど目覚しいものがあるわけではないが、それはともかく、学生一人ひとりが自分の書きたいことを伝えようとする気持ちがはっきりと現われ、中味が充実して、読んでいてじつに楽しい。ユニークな文章からは、普段クラスではけっして分からない若者たちの活動、苦労、思い出などがいきいきと伝わっている。その中では、とりわけ画像の使用において、同じ作文クラスが三回目になる今学期では、一つの面白い発見があった。

ブログに載せる文章として、写真は一枚まで使用可能というルールを最初から設けた。しかしながら、いつの間にか半分近い学生が数枚の写真を一枚に合成して文章に入れることを申し合わせたようにし始めた。いわゆる「観光はがきスタイル」である。最初にこれを見たとき、ほんとうに手元にある観光はがきをそのままコピーしてきたのかと思ったが、よく見てみれば、やはり苦労して作ったものだった。中には自分の姿が入ったユニークな写真を丁寧に斜めの枠に組み入れ、さらに個性的なキャラクターまで添えたものもあった。いうまでもなく伝えたいことが多くて、どれも割愛できないという考えから出発したものだろう。それにしても、このような対応からは、画像使用にかける書き手の思いが垣間見られたような気がしてならない。それは、はたして叙事にかけての饒舌なのか、絵を見て感じ取る読者の想像力を信用しないのか、はたまた今時の平均的な読み方に対応して、こまの多い漫画に影響されて、画像を多数綴らせないと安心できないという感性なのだろうか。

もともとこのブログも、ずっと写真を使うなら一枚までとの方針を取ってきた。それに際しての絵の選び方だが、絵としても楽しめる、文章で伝えきれないものを伝える、文字の表現を広げる、ということが理想だが、正直に言って、いまだまったく要領を得ないでいることだけは明らかだ。