2014年4月26日土曜日

摸写コレクション

古典の作品を手元に蔵め、気が向くままにそれを開いてみる。オリジナルものでなければならないという拘らないさえ捨てていれば、個人の蔵書という形で研究をやっている者なら誰もが真剣に取り込んでいると言えよう。一方では、古典作品の電子公開に伴い、在来の印刷物ではなく、電子画像を対象とするものなら、まったく次元の違う集合が可能になってきた。

現在に進めている「後三年合戦絵詞」をめぐる研究にあわせて、とりあえず一つの実践例を試みることにして、この絵巻にまつわる摸写本情報をまとめてみた。絵巻や摸写の基本書誌なら、これまで丁寧に集められている。しかし権威がある分、時間が過ぎたものであり、それを補うための公の研究機関による電子データベースでさえ、十分な更新が行われていない。一方では、公私の機関に所蔵され、あるいは新たに購入されたものはつぎつぎと公表、公開された。特定の作品について、既存の基本書誌、新出のタイトル、それに公開されたもののリンク、この三つの情報をまとめておけば、鑑賞や研究にそれなりに役立つものではないかと思い至った。有意義なものとして、名づけて「絵巻摸写コレクション」というささやかなセクションをこのブログの右下に添えた。

「コレクション」という名にふさわしく、内容はすべてを反映している自信がなく、あくまでも一人の調査範囲に止まる。だが、電子の形態だから、世の中に向かって開放し、関心から人と共有し、有意義な情報提供さえ密かに期待している。しかも随時に更新可能だから、怠らうに手入れを続けたい。

2014年4月25日金曜日

「後三年合戦絵詞」摸本書誌

基本書誌
『国書総目録』(増補版、一九八九年、岩波書店)
・・「後三年合戦絵」の項目に、東博重文本と31点の摸写、「奥州後三年絵巻並絵詞」に1点の摸写を収録。この内、巻物形態の摸写は計19点。
国文学研究資料館「日本古典籍総合目録データベース
・・上記の書誌を掲載するとともに、さらに館蔵のフィルム11点、この内、『国書総目録』未収録の巻物は6点。

新出諸本
後三年合戦絵巻」、東京富士美術館蔵(部分電子公開、下記参照)
後三年絵巻」、早稲田大学図書館蔵(電子公開、下記参照)
後三年合戦絵詞」、永青文庫蔵、三巻、福田太華写、天保15年(1844)
八幡太郎絵詞」、成城大学図書館蔵、三巻
後三年之戦図並文」、立教大学図書館蔵、一巻(巻下)
後三年合戦絵詞」、中野書店蔵(店頭にて電子公開)
後三年軍記」、大英博物館蔵(電子公開、下記参照)

電子公開
後三年合戦絵巻」、国立東京博物館蔵、重要文化財
・・元禄十四年(1701)補修の持明院特進基時奥書。なお現在知られている模本はすべてこの補修以後のものである。(「e国宝」)
前九年絵巻物」、国立国会図書館蔵、七巻
・・「後三年絵巻物」は最初の六巻(「国立国会図書館デジタル化資料」)
後三年役絵巻」、京都大学付属図書館蔵、一巻(上巻と中巻より)
・・嘉永六年(1853)、呉景文写、墨線の絵(「京都大学図書館機構」)
後三年合戦絵詞」、早稲田大学図書館蔵、三巻
・・同図書館カタログに「『国書総目録』記載」と注記(「早稲田大学古典籍総合データベース」)
後三年絵巻」、早稲田大学図書館蔵、一巻(上巻)
・・小嶋一鳳識語、文政6年(1823)(「早稲田大学古典籍総合データベース」)
後三年合戦之絵」、早稲田大学図書館蔵、一巻(下巻)
・・松岡清助識語、文政4年(1821)(「早稲田大学古典籍総合データベース」)
後三年合戦絵詞」、東北大学付属図書館蔵、一巻(上巻)
・・後半は着色なし(「東北大学デジタルコレクション」より)
八幡太郎絵詞」、東京国立博物館蔵、三巻
・・渡辺始興、平成十七年(2005)修理(「東京国立博物館画像検索」)
奥州後三年記」、国文学研究資料館蔵、国文研貴重書、三巻
・・鈴木熹三二尚志、松平忠厚蔵本を用い、「私に彩色す」とある。文政13年(1830)(「所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース」)
後三年役絵巻」、国文学研究資料館蔵、一巻(上巻)
・・(「所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース」)
後三年合戦絵巻」、東京富士美術館蔵、三巻
・・源琦、明和7年(1770)(「東京富士美術館」)
後三年軍記」、大英博物館蔵、一巻(中巻)
・・1881年同博物館収蔵(「Collection online - British Museum」)
後三年合戦絵詞」、中野書店、三巻
・・(同書店店頭展示、2013年7月確認)

2014年4月19日土曜日

摸写の創意

絵巻は摸写されていた。そのような摸写の作は、実はかなりの数に及び、しかもその多くは今日まで伝わっている。わざわざ絵巻を摸したのだから、きっと全神経を使い、ありったけの注意を払って、オリジナル絵巻に似せるようにしたに違いないと想像されがちだが、現実的にはそれに程遠い。しかも、たとえば技術的に不可能だといったような理由で簡単に片付けられるようなものでもない。

20140419「後三年合戦絵詞」の摸写作品を披き、配色のことを取り上げてみよう。それこそ千差万別であって、原典を円心に置くとすれば、その出来栄えはきれいにさまざまな方向に散り張っている。中には、内容に関係なく豪華な配色もあれば、最初こそあれこれと色を試して、途中になってまるで諦めたかのうに色を投げ出したものある。色を一切退けて、流暢な墨線のみによって絵を描きおこして見る者を関心させたと思えば、こまこまと色について文字で指示を示して、そのような情報をどうやって受け止めるべきかと戸惑いを感じずにはいられないものもある。さらには、巧妙な色感覚を披露して、原典の様子にお構いなく、それ自体が一つの独自に統一された美しい世界を演出している。(写真:大英博物館に所蔵されている「後三年」摸写本より)

以上のような「後三年」摸写の諸状況を纏め、ささやかな分析を加えたものが最近活字になった。今度もまた印刷した抜き刷りは郵便の手違いでいまだ手元に届かず、代わりにさっそくオンラインで公開されたお陰で電子ファイルで読めるようになった。あわせてここにリンクを添えるので、関心ある方はどうぞ目を通してください。

絵巻の摸写から何を読み取れるか

2014年4月12日土曜日

ポンチ絵

さる火曜日、めずらしく授業外の時間においてふだんの学生たちを対象にささやかな文化の講義をした。はじめての試みとしてのレクチャー・シリーズの一環として設けられたもので、絵巻の話を持ち出した。そこで、すこしでも学生たちの日常に近づけようと、漫画への展開をテーマに据えた。音声や動画まで動員させて、何人かの好奇心を確実に惹き起こすことがあればと、願うばかりだ。

20140412話を準備している間に、「ポンチ絵」という言葉を知った。これまでの自分の語彙リストにはまったくなかったものである。調べてみれば、国語辞書には確かに収録されていて、れっきとした使用例を擁している。江戸も最末期においてイギリス人が発刊した雑誌「The Japan Punch」に由来したもので、パンチならぬポンチとなったと、一様に解説されている。雑誌の中味は、一コマ漫画なる「カトーン」。時事諷刺と社会批判などをモットとし、あの時代の雰囲気を垣間見る格好の資料として、近年は複製まで出版されている。ならば、あの「北斎漫画」にいう「漫画」と、いまごろの「マンガ」とを繋げる最高の中継点を成すものなのだ。なによりも、絵描きの手本的なスケッチではなくても、内容のあるものだから、それまでの「漫画」とは一線を劃したものだ。一方では、ポンチのままだとどうしても言葉としては収まりが悪い。普通の人々にも素直に受け入れてもらうためには、やはり在来の、しかもおそらくはそこそこしか知られていなかった漫画という名称に置き換えられることが、ささやかな運命だったかもしれない。

それにしても、一つのユニークな言葉としてのポンチ絵は、世に現われた上限が明らかだが、それははたしていつごろまで使われたのだろうか。いまごろ、発達されたデータサーチのリソースを持って、簡単に答えが得られるものだろうけど、まったく利用していない分、その様子には不案内で、すぐには手がかりが得られない。

2014年4月5日土曜日

言語習得の理論と実践

勤務校ではあれこれと変化が起こっている。身近な出来事の一つに、所属している学科は他の学科と統合して倍の規模になり、名前も変った。行政的に発効されたのは去年の七月からのことだが、二日まえから、二日連続のささやかな学科新設の記念行事があった。言語学と五つの外国語が集合されたので、アメリカから言語学と外国語教育の研究者を一名ずつ招待して、合わせて三回の講演会が開催された。

言語学と外国語教育は、至近距離にあるようでいて、まったく違う分野である。そういう意味もあって、互いの分野の人をも相手にしながらの講演や議論を聞いていて、あれこれと興味深い。中にはこのような一齣があった。言語学の学者は有名な理論を紹介して、言語習得は幼児からでなければならない、一定の年齢を過ぎたらもう無理という仮説を紹介した。これに対して、外国語教育の学者はすかさずそれ自身の経験を持ちだして、十七歳からはじめて勉強を始めたにもかかわらず、いまはその言語の教師として誰にも引けを取らないとのことを持ちだした。もともと和やかな場で論争を披露するのではないから、このような鮮明な対立でも、「自分はきっと例外だったに違いない、晩熟したものだった」と、いかにも優雅に紛らしたものだった。その通りだろう、成年になってから外国を学習してそれを熟練に操る人や、逆に子どものころからしっかりした生活や教育を経験しても母国語を満足に使えない人、いやというほど知っている。ただ、一つの影響力のある理論は、どのような実際の反例があったにせよ、特定の文脈の中で検討され、展開されてきて、人々の認識にきちんと貢献していることも、疑えないことだろう。

個人的には、就職したその日から所属の学科には「東アジア研究」という名前が加えられたもので、それが一つのひそかな自慢だった。それもいまや過去の歴史となった。ただただ時の流れを実感させられるものである。