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2019年7月20日土曜日

ネット授業2019

インターネットで繋いだ遠隔授業は、今年もさせてもらった。専修大学が設けてくれたこの行事は、数えてみれば2011年にはじめて招かれ(「スカイプ授業」)、それからほぼ毎年のように続いてきた。せっかくの機会なので、つとめて同じ内容を繰り返さない方針を取り、今年の講義では、「十二類合戦絵巻」を取り出した。

一時間半の授業では、半分の時間は事前に用意した録画を再生し、残りの半分は質疑応答という方法を取った。聴講してくれたのは、日本の古典文学に関心を持つ一年生が中心だった。考えてみれば大学に入ってわずか数か月しか経っていないのに、しっかりと大学生の振る舞いを身に付いたように見える。マイクやカメラが設置された講壇前に出てきて質問をしてもらう段取りになっていたが、最初から最後までスムーズに進行できた。問われた質問も、印象に残ったものが多かった。「判者はどうして鹿なのか」、「鹿や狸にも言葉遊びがあったのか」、「狸はなぜ鬼になろうとしたのか」など単純なものから、「この絵巻、だれが見たのか」、「構図には名作からの受け継ぎがあったとすれば、文章にも受け継ぎがあったのか」、などなど。とりわけ後者のほうには、つい説明に力が入った。

今度の授業の内容は、去年の秋のシンポジウムでの発表を踏まえた(「ノン・ヒューマン」)。ただ、若い学生が対象なので、「まんが訳」をめぐる考えや実例にまで議論を展開した。写真は、配布資料からの一コマである。

2017年1月7日土曜日

動画・あきみち

古典の作品、とりわけ絵の付いたそれを声で届けてみようという試みは、これまで少しずつ続けてきた。その間、音声入力、動画制作、そして保存や伝播関連の技術が進化し、いろいろなことが手軽に出来るようになった。新年にあわせて、ここに一篇の新しいタイトルを加える。御伽草子の代表作「あきみち」である。

物語は、まずなによりも、面白い。並の秩序が守られていなかった世の中における武勇談だが、そこに色仕掛けの知恵比べ、悪人退治、血を血で洗う復讐、そしてか弱い女性の勇気と性、目まぐるしいほどの多彩多様な要素がいっぱい詰まっている。物語の内容や影響力にふさわしく、これまでには繰り返し研究の対象となり、注釈付きの本文まで作成されている(「日本古典文学大系」38所収)。それらの成果を参照しつつ、朗読に選んだ底本は、国会図書館に所蔵され、デジタル公開されたものである。あわせて五十二帖(そのうち、挿絵十六枚を含む)、約一万二千文字の分量である。格調高く書写された本文、可愛らしい挿絵、ともに古典の魅力を伝えている。すべての画像をAdobe Premiereに読み込み、時間軸に引き出して赤い罫線を被せ、朗読にあわせて罫線を動かしながら読まれている文字を指し示す動画を仕立てた。

「あきみち」の全文朗読動画は、上下あわせて五十分強の長さにわたる。YouTubeにアップロードした。現在の日常生活において、これだけの動画を終わりまで見続けることは、ささやかなチャレンジだろう。そのような余裕がありそうだったら、ぜひ動画にアクセスし、音声に耳を傾け、変体かなの文字に目を凝らしてみてください。きっとよい経験になるはずだ。

「動画・あきみち」()(

2012年7月15日日曜日

翻刻・読み下し

「翻刻」と「読み下し」。この二つの言葉の字面の意味、語彙史的な由来、一対の用語としてのバランス、語感など、言葉を観察する場合の要素はともかくとして、いわゆる国文学の界隈ではその内容がはっきりしている。すなわちかつて使われていた書写システムによって記された文章を、現在の人々が読めるようなスタンダードな文字に翻(ひるがえ)して作り変えること、そして普通に読んで分かる程度適宜に言葉を漢字に置き換えることである。送り仮名やら繰り返し字や返り点やら、現行の文字表記の基準が定まらなかったり、対応できなかったりするケースは多々あるが、現実的には大らかなに対応せざるをえない。

現代の人々は、昔の文字をそのまま読む必要がないから、読めないというよりも読まないということが事実だろう。したがって、このプロセスを通らなければ、古典は普通の読者には届かない。そのため、理論上すべての古典は、数え切れないもろもろの諸本を含めて、まずは一通りこの作業が必要となる。残されている古典の規模から考えれば、気が遠くなる作業だ。世の中は、いまや何でもデジタルという風潮だ。そのうち、まずは部分的に、あるいは一つの作品について、数枚のもののみ読み出してパソコンに教えたら、あとは自動的に答えが出てくるといったようなマジックも実現することだろう。ただすぐにはそこまでのシステムが生まれてくることがとても思えない。まずなによりも、古典の字面を完璧に読めるとの知識や自信は、第一線の研究者だって十分に持ち合わせているわけでもないのだから、どうしてもすこしずつ進めるしかないものだ。

120715いま出来ることは、デジタル環境の進歩に寄与する思いまで込めて、コツコツと作業を積み重ねることだろう。この考えから、オンライン公開されている『田原藤太秀郷』という絵巻をめぐる作業を試した。原文は合わせて三巻、約千行、二万文字ぐらいの分量だ。あれこれの仕事、とりわけ旅行などの合間に、携帯のパソコンにタイプし出した。先週、同じ公式サイトでアップロードされた。昔なら、このような作業は活字になるということしか公開の道がなかったこともあって、研究業績の大きな一部だったのだが、いまはそのような思いはまったく薄い。むしろ古典をめぐってまた一つ会話の話題が出来た程度のもので、ただすなおに嬉しい。むしろこれに合わせて特別に作成してもらったページはデザインが非常に綺麗で、動きが良い。そして、なによりも絵巻に展開されたストーリは、奇想天外、奇怪愉快で、この上なく楽しい。ぜひ読んでみてください。

田原藤太秀郷(翻刻、読み下し)

2012年5月14日月曜日

模写本の効用

週末は研究会で東京に出かけた。それに合わせて、二つの大学の国文学研究室を訪ね、いずれも心のこもったもてなしを受け、先生や大学院生たちと充実な会話ができた。とりわけ一つの内輪の研究会に飛び入りで参加させてもらった。来月に予定されている全国規模の研究大会での特別展示のために、展示品の解題集作成がその集まりの理由である。非常にユニークな展示になりそうで、一つの大学の、それも近年になってはじめて積極的に蒐集した20点を超える上質な模写が中心になる。一流の名作の模写から、いまだタイトルもストーリも不明なものに至るまで、非常に見ごたえがあるものばかりだ。

120513中世名品の模写。このグループの作品をどのように見るべきだろうか。美術品の物差しをもってこれを図るとの視野は、もうとっくに歴史や文学を研究する立場を束縛するものではなくなった。絵巻などの名作の内容を理解する、それを読み解くという意味では、模写は貴重な位置を占めていることには、だんだん共通認識が成り立つようになった。一方では、模写本を実際にどのように応用するのか、それにはどのような可能性が隠されているのか、まだまだこれからの課題である。一例としては、たとえばつぎのことがすぐに思いつく。一部の名品は、現在伝来していても、色が剥落し、線が薄れて、いわば変わり果てた姿を見せている。一方では、数百年前に行われた模写となれば、現在とはかなり異なる状態のものがそこにあり、いまや見られないものも多く残っていた。そのため、名品のかつての姿を模索する上で、大きな参考になる。さらに複数の模写を並べ、互いに比較することを通じて、原本の変遷、模写そのものの順番や性格を考える上でも、ヒントが多くて、魅力的な課題だ。

同じ研究会に先立って、学部生を対象としたゼミが行われ、惜しみなく持ち出された貴重な巻物を、関心を持つ若い学生が丁寧に開いたり、巻き戻したりしている眺めは、じつにいい風景だった。古くから伝わった書物や巻物を体感するということは、とりわけバーチャルが日常となったいまの若い世代の人々には、どんな説明や読書でも代えられない貴重な経験に違いないと改めて感じた。

2011年10月16日日曜日

スカイプ授業

東京のある大学に招かれて、スカイプを用いての講義をさせてもらった。とても貴重な経験だった。今学期は御草子を読んでいるという大勢の学生たちを相手に、御伽草の絵そのものを読むということをテーマにした。日常の講義などではとても出来ないことなので、講義する自分もかなりの興味を覚えた。選んだテーマは、出産。在学中の大学生には、やや重いテーマではないかと危惧していたが、総じて好意に受け止めてくれた。授業のあとに回収したコメントには、「身近なもの」とまで記した学生は何人もいて、ほっとした

短いクラスで意図的にうち出したコンセプトは、あくまでも絵をじっくり見ようというものだった。絵巻を読む立場からすれば、至って当たり前のものだが、若い学生たちにはこのようなアプローチが浸透するまでにはいまだかなりの道のりがあるものだと感じた。そもそも話が出産となれば、それが不浄で穢れたもので、払いをもって立ち向かうべき対象だと、どうやら高校の時から一つの文化的な理解として教わってきて、それをまるで一つの常識として身に付けてきた若者がかなりいた。そのような安易な主張にすこしでも懐疑を持たせ、人生の大きな一環への地道な営為にもっと目を向けるようにと、ちょっとでも手伝えたらと願った。

技術的なことを簡単に書き留めておこう。主催校のこれまでの経験から、三十分程度の録画を前もって作成しておくとのことを要求した。それに応えて、あまり大きなサイズにならないように、数十枚の画像を、パワーポイントと同等の要領で、800x600ドットのサイズに落として、それを説明する録音にあわせて、ムービーメーカーにかけた。いま時のHD動画ファイル(1920×1080)には遠く及ばないものだが、大きなスクリーンに映し出しても、それなりに見るに耐えられるもので、しかも学生たちからは「鮮明だ」とのコメントを多数寄せられた。あるいはYouTubeの動画をスマフォンで見ている日常には、たしかに十分なビジュアルな伝達力を持つものだったかもしれない。

2011年9月18日日曜日

視線移動の流れ

同僚との雑談のなかで、いわゆる「視線追跡」技術とその応用に話が及んだ。主にたとえば言語学研究で使われるもので、特定のものを読むために、読者の視線移動の軌道を記録し、分析するために開発されたものである。なにも言語学だけに限定するものでもないだろうから、絵画を見るにあたっての視線を追跡する110918研究だって、これまできっと行われていたと想像している。思えば一篇の文章を読むものならば、読者はたいてい決まった順番を守るものであり、それは追跡する必要もないぐらい明晰なものなのだろう。でも、絵となれば、事情はどうなるのだろうか。視線の移動ということに関していえば、それを文章を読むのと同じレベルで考えることなど、そもそも可能なのだろうか。

絵巻の絵でいえば、それはさしずめ右から左への視線の流れがまず存在することだろう。典型的な読者は、巻物をすこしずつ左へ披き、右手で巻き上げるのと同時に、視線を先へと送っていく。その途中において、テキストによって語られたストーリとの対応を思い起こしずつ、画面のハイライトを捉え、一枚の絵では収めきれないストーリの展開を想像のなかで膨らませてゆく。その途中において、ハイライトを起点として、詞書には触れられていない絵の要素を見つけ出して、想像と照らし合わせる。ただ、これはあくまでも大きな流れであって、これに対する例外は、いくらでも存在するものだろう。文章の場合でさえ読者が特定の部分を読み直したりするものだから、絵の場合はそれがもっと自由な形になるものだろう。ただし、普通の読者は、たとえば一枚の絵に対面して順を追ってすこしずつ満遍なくすべてを見ておくことなどまずないのだろう。そこにはまさに絵を観るための基本的な仕組みが隠され、そこに作者と読者との対話の基盤が存在するものである。

ところで、以上のプロセスを分かりやすいように説明しようと思えば、どのようなビジュアル的な方法を取るべきだろうか。絵の上に罫線を引いたりするようなことも考えられるだろうけど、どうしても乱暴でいて、野暮にさえ思ってならない。もっと気の利いたような方法があるはずだ。とりわけアナログ名模写、デジタルの画像処理といった可能な手段を十分に生かしたら、それ自体一つの有意義なチャレンジなのだ。

2009年8月29日土曜日

絵巻への視線

中原康富の絵巻鑑賞をめぐり、このブログで一度触れた(2008-01-09)。この夏、さらに声という角度からの思索を試み、康富の日記から着想を得た小論を纏めた。先の週末、ある小さな集まりに参加するために隣の都市にある大学を訪ね、研究の近況を交流するという場が持たれて、自分の持ち時間で論文の内容を報告した。あまり討議する時間がなかったが、それでも考えさせられる質問を一つ受けた。

きっと康富の体験があまりにも生き生きとしたものだったからだろう、その質問は、中世の読者として、絵巻に描かれたものをはたしてどのような感覚で読んでいたのだろうか、歴史なのか虚構なのか、というものだった。さっそく頭に浮かんできたのは、例の有名な「絵空事」(『古今著聞集』)だった。ただ、あれは絵師たちが交わした絵についての会話であって、読者への関心には必ずしも答えていない。

そこで康富が残した「後三年絵」の鑑賞記をいま一度読み返した。絵巻を見た記憶をそのまま千文字程度の長い文章を駆使して日記に書き記すということ自体、いろいろな意味で感嘆の対象になる。ここに康富の視線ということを考えるならば、およそつぎのことが言えるだろう。遠い昔に起こった出来事をめぐり、その詳細を知る手掛かりがあまりにも少なく、基本的な情報に飢えていた中、一巻の絵巻の鑑賞はとりもなおさず過ぎ去った歴史との再会という体験だった。ひた走りに走った康富の筆先には、かれが感じ取った知的な興奮と、後日のための情報の整理と索引作り的なものだった。さらに言えば、一つの情報源としての絵巻は、康富にとって文字の部分の役割が圧倒的に重みを持っていたものだった。その日の日記には、一箇所だけ絵の構図についてのわずか十数文字の詮索があって、中国の知識まで引き出しにして、康富の読書記の中でもむしろ特殊な部類に属するものだと言えよう。

いうまでもなく康富の鑑賞記は、絵巻享受のほんの一例に過ぎない。鑑賞や読書ほど個人的なものがなく、読者の数だけ異なる方法が形成されていたのではなかろうか。思えば近年の室町政権の研究の一環としての、権力の象徴としての絵巻の所有、作成などの発見が続き、さまざまな次元の違う模索が試みられている。一層豊富な読書、鑑賞の体験はこれからも次々と私たちの前に現われてくるのだろう。

集まりでの質問者ははたしてこのブログにも目を通すのだろうか。すこしでも答えになれることを内心祈りつつ。

2009年2月7日土曜日

百器の百鬼

二年前の秋、日文研所蔵の絵巻をめぐり、『百鬼夜行絵巻』のことをこのブログに書いた(2007年10月21日)。いまになって分かったのだが、それよりわずか数ヶ月前に、同じテーマの絵巻がもう一点同コレクションに加わった。しかも、それを起点として、『百鬼夜行絵巻』全体を捉えなおす研究が行われ、その成果が最近刊行された。小松和彦教授の『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書ビジュアル版)である。一気に読了した。

新書というスタイルだが、なぜか贅沢なぐらい豪華な印象を与える一冊だ。きれいな色合いを持ったカラー印刷と、世界各国の公私にわたる図書館、コレクションに所蔵された絵巻を惜しみなくふんだんに使ったことがその理由だろう。著者や出版社の情熱が伝わる。そして、なんという豊穣な世界だろうか。「百鬼」に馴染みを持たない一般の読者も、これまで数々の難問にどのようにして取り掛かろうかと彷徨う研究者も一様に惹きつけられて離れられない。出版からわずかな時間しか経っていないが、各新聞の読書欄の書評に取り上げられ、熱心な読者のブログに読書感が記されている。きっとこの出版を受けたと思われるが、先日、NHKの9時のニュースでさえ、新しい絵巻発見だと取り上げた。

絵巻研究という立場から言えば、一つのタイトルの作品を俯瞰的に眺め、その全体像を捉えようとする姿勢は、まさに待望されるものだ。これには、なぜか『平家物語』研究をめぐる、その初期の基礎研究の数々を思い出される。しかも研究対象は、近世の書写、模写まで取り入れ、それらの作品をすべて同じ土俵に登らせる。まさに絵巻研究の新たなスタンダードだ。これからの『百鬼夜行絵巻』の研究者は、まずはこの一冊を熟読しておかないと、新たな出発ができないことだろう。

ここに、この本から習ったことの一つを記しておきたい。数多い諸伝本の中に、四つに分類する基準作の一つは、兵庫県立歴史博物館所蔵本である。そのタイトルは、『百器夜行絵巻』。同じ「キ」であっても鬼ではなくて、器である。大きなヒントが隠されたような気がしてならない。そもそももろもろの器物の鬼と夜の都大路を行列する百の鬼とは、どうして繋がったのだろうか。平安時代に語り伝えられた伝説の鬼たちが、どうして器物たちによってその正体をすり替えかれたのだろうか。その間の飛躍をめぐり、いまだ明快な答えが得られていない。だが、それは意外と卑近でいて、なんの捻りもなかったのかもしれない。素朴で単純極まりない言葉遊びに由来したのではなかろうか。つまり、百と数える器たちに命を吹き込み、そのついでに、知れわたった平安のタームを拾いあげ、夜行する百鬼に託した。いかにも中世的な機敏ではなかろうか。しかも、あまりにも明白なゆえに、「百器」と名乗るのも、解説するのも、野暮で憚っていたに違いない。

日文研所蔵のこの貴重な絵巻は、すでにインターネットで公開されている。誰でも簡単にアクセス出来て、しかも並大抵の印刷物よりはるかに高い画質で鑑賞できる。一方では、普通の出版の慣習に逆行して、この素晴らしいビジュアル新書がより大きいサイズでの再版することをひそかに心待ちしたい。

毎日jp・今週の本棚

2009年1月31日土曜日

光源氏と藤壺が見た絵巻

古典を英訳でよむという授業で、先週、『源氏物語』を取り上げた。二回の講義に続き、四十分ほど学生たちを講壇に立たせた。いまごろの若者たちの感性が見どころであり、学生たちもしっかりとその期待に応えてくれて、漫画やらゲームやらを言及し、そして一月から上映中のテレビアニメ「源氏物語千年紀Genji」を紹介した。不覚にも、このフジテレビの一大イベントにはまったく気づいていない。学生たちに教わるままに、さっそくYouTubeにアクセスして、その第一話を覗いた。

そもそも漫画をベースにして作り上げたアニメは、絵巻のビジュアル世界のありかたを無視せざるをえない、たとえ苦労を試みてもそれを再現できるはずがない。時代感覚やら美的感覚やらといった抽象的なこと云々よりも、まずはメディアが違う、表現内容の量が圧倒的に異質だからだ。したがって、絵巻的な構想をちりばめるような試みは、アニメにおいて最初から諦めたのではないかと見る。しかしながら、興味深いことに、そのようなメディア的な宿命への反動からだろうか、絵巻の存在など知っているぞとでも宣言しているかのように、絵巻をまつわる逸話がさっそく用意されたのだった。それはなんと内裏にはじめて登場した藤壺が光源氏を喜ばせようと、自分の家から持ってきたのだと言って、絵巻を源氏とともに鑑賞するという、いかにも唐突なものだった。アニメは丁寧にもそれが「鳥獣戯画」だと描く。おまけに、絵巻を三つも四つもいっぱいに開いて、相互に重ならせながら乱雑に広げたのだった。絵巻をいっぱいに広げて床に置く、このような妙な鑑賞法は、たしかどこかの戦国武士のドラマに収められたと記憶する。それを再び目撃して、思わず唖然とした。

広げられて重なる絵巻、この構図は、思えばある雑誌のグラビアで用いられたのが早い例ではなかろうか。カラー写真にて贅沢にスペースを使って絵巻の物理的な特徴を目いっぱいに紹介するという奇抜な狙いは、雑誌を見たとき強く伝わったと覚えている。しかしながら、それがここまで成長したとは、予想しなかった。その裏にはなんの理由があったのだろうか。現代の人々に絵巻というものを伝えるために、ここまでメディアの性格を無視して、乱暴に扱わないと叶えないものかと、はなはだ理解に苦しむ。

ちなみに、番組の製作者は、このような視聴を予期していたかどうか、ひいてはインターネットのおかげで、北米の地で日本語もさほど分からないような若者たちの鑑賞対象となったことを、はたして喜ぶのか、はたまた著作権が侵害されたと怒るのか、すぐには見当がつかない。ただし、アニメのビジュアル的なアプローチが若者たちの抱く古典への距離を大いに縮めたことをはっきりと記しておきたい。

朝日jp・注目アニメ紹介

2008年4月16日水曜日

絵巻の使い方

たとえば近年出版された規模の大きい歴史辞書、それから古代や中世の歴史を分かりやすく紹介する入門書、解説書などの出版物には、絵巻の画面がよく使われている。そこでは、絵巻そのものについての関心が薄く、ただ辞書や解説書の内容に沿って、それに対応できそうな絵巻の画面を選び、ほんの一部分のみを切り出して載せるものである。それは歴史人物や寺院などの宗教建築だったり、戦争や火災などの歴史事件だったりする。一枚の絵は、時に百も千もの言葉に勝る。絵が用いられたことにより、述べられている内容はぐんと身近なものとなり、生き生きとしたものに映る。

いうまでもなく、そのような出版物を通じて、絵巻の画面も大きく知られるようになった。こんな素晴らしい絵があったものだと、改めて認識されることが多い。

ただし、以上のような絵巻へのアプローチ、すなわち絵の使い方が、一巻の絵巻が表現しようとした文脈から離れ、想定していた読み方と関係ないということを、われわれはつねに覚えておくべきだろう。絵巻は、特定の人物の顔や身体特徴などを記録しようとした写実的な表現形態ではなかった。それよりも、絵と文字との競演により、連続した文脈をもって、特定の状況、伝説、物語、極端に要約すればストーリーを伝えようとしたものだった。

中世の歴史に目を向ければ、絵巻とは最大の、ときにはほぼ唯一のビジュアル文献群である。そのため、教育などのために知識を視覚的な要素を交えて伝えようとすれば、そこにはさほど多くの選択の余地が用意されていない。そして、何よりも絵巻という資料群は、そのようなアプローチを拒んでいないどころか、その豊かな内容と平易な表現をもって、さまざまな試みを向こうから進んでを誘ってくれている。したがって、わたしたちに出来ることは、つねに初心に戻り、絵によって語られようとしているストーリーを理解し、吸収するという愉しみ方を忘れないでいるということだろう。

2008年3月4日火曜日

贅沢な「耳学問」

今日も興味深い古日記に見られる一つの記事を記しておく。古代の日常生活の中でどのような声が飛び交っていたかということを考える上で、あまりにも強烈な実例なのだ。

この記録は、「天下一の大学生」との誉れをもつ藤原頼長(1120-1156)の日記『台記』に収められたものだ。康治2年(1143)11月17日の条に、つぎの通りの文字が見られる。

「余近年学経、不暇学史、因之、自今春命生徒五人、食物及沐浴之時、令語南史要書三反、昨終其功。(余、近年経を学し、史を学する暇なし。これに因り、今春より生徒五人に命じ、食物及び沐浴の時、南史要書を三反語らしめ、昨その功を終ふ。)」

千年近くも前の記録なのに、「生徒」「食物」といった、今日でもきわめて身近な言葉の数々に驚く。あえて記事全体を現在の言い方に置き換えれば、おそらくつぎのような文章になるだろう。

「私は、近年、経書を学び、史書を読む暇がない。そのため、この春から五人の教え子に頼み、食事あるいは入浴の時、南史要書を三回ほど読み上げらせ、昨日をもって目出度くすべて終了した。」

わずかな説明を加えるとすれば、『南史』とは中国歴史書の「二十四史」の一つで、南北朝時代(439-589年)の南朝にあたる四つの国の歴史を記したものである。『南史要書』という書物は、きっと『南史』を抄出した平安時代の注釈書だったのだろう。

思えば、読みたい本があっても事情により適えられず、そのため、目で読む代わりに、生身の人間を録音機よろしくと働かせ、内容を耳で聞くという、まるで至福の勉強法だった。まさに耳から入るまともな学問、今日のわれわれにとってもいたって耳寄りの話だ。考えようによれば、iPodといった音声を記録する道具の普及により、生身の人間を立たせなくても済むというのが、この千年の間の文明のわずかな変化だとすべきかもしれない。

2008年2月23日土曜日

巻物の変身

先日、「巻物の日記」(2月3日)を書いて、本心とても適えられそうもないと諦めつつ、軽い気持ちで「本人の思いを聞きたいものだ」と結んだ。しかしながら、読書を進めていくうちに、「本人」ではないが、なんと答えが現われてきたんだ。単純でいて、しかし自分の想像にはまったく浮かばなかっただけに、いささか衝撃を受けた。

なんのことはない。巻物という形態は、もともと冊子という装丁と隣り合わせのものだった。右の図(『日本史用語大辞典』より)が示しているように、巻物を披いた状態で、繰り返し折りたたんだら、そのままりっぱな冊子に変身する。そうしておいたら、冊子本がもっている「飛ばし読み」に対応する特徴などがすべて保証され、しかも必要があれば、巻き上げて一瞬にして巻物に戻ってしまう。日記の研究者たちによれば、現存する日記、それも『名月記』『実隆公記』といった広く知られているもののいくつかの巻には、折本に仕立てておいて筆記しはじめたもの、あるいは巻物で書き上げてしまってから必要に応じて折本に折った跡が鮮明に伝わっている。さらに、たとえば『実隆公記』の場合だと、記主の三条西実隆は、巻物、冊子、再び巻物と、記入するにあたって意識的に違う媒体を選んでいた。いわば媒体そのものが変身するのみならず、書く人も、さまざまな考慮から「変心」をしていたものだった。

今日のわれわれが推測する巻物の不便さを数百年前の古人たちもたしかに感じていたことを知って、なぜかほっとする思いだった。そして、その中で当時の人々があえて巻物を選んだことにはきっとそれなりの理由があったことも推測できる。同じく先学の説によれば、冊子本に較べて、巻物にはすくなくとも二つの利点があるとのことだ。一つは、当時の日記は関係の文書などの書類を纏めて保存するという役割があり、そのため、断片のものを日記に貼り付けるため、巻物ならそれらを巻き上げて保存するには最適だった。いま一つ、暦などに日記を記すにあたり、紙の裏をあわせて利用するという情況もあり、表と裏を合わせて使えるということは、これまた粘葉綴の冊子本に備わらない特徴だった。

書物の物理的な展開と屈折、尽きない想像を誘う。

2008年2月19日火曜日

地獄絵観賞記

短い数行の日記のことを記しておきたい。これを残してくれたのは、三条西実隆(1455~1537)という、室町後期の屈指の文化人である。

晩頭有召之間参候。□□、奈良霊物、以大般若経料紙、由託宣六百巻画図者殊勝之由有勅語、当時纔三十巻計相残る云々、拝□之、人間病苦之体、鬼界飢渇之憂、地獄苦痛之趣等、惑涙銘肝、更驚無常者也。深夜退出就寝。(『実隆公記』文明十年三月二十六日)

時は文明十年(1478)春のある日の夜である。後土御門天皇に呼び出されるまま、実隆は内裏に入り、きっとめずらしい出来事に違いないという絵巻の拝観が適えられ、それが一気に真夜中まで続いた。奈良からもたらされた絵巻の肝心のタイトルは、日記の損傷によるものだろうか、伝わっていない。ただ当初六百巻にもおよぶといわれるものがわずかに三十巻程度しか伝わっていないと記されている。五百年以上も経った今日からすれば、それだってずいぶんと分量の多い作品である。絵巻の内容を記して、実隆は「人間病苦の体、鬼界飢渇の憂、地獄苦痛の趣」と思わず美麗な漢文を持ち出す。そしてこれに続いて、かれ自身の打たれた思いを記して、「涙に惑い、肝に銘じ、更に無常に驚くものなり」と結ぶ。「惑涙」という表現は今日すでに使わないが、きっと「銘肝」と同じような重い意味合いが込められていたに違いない。

実隆に深い印象を与えたのは、いうまでもなく絵巻にある絵というよりも、まずはそこに描かれた内容だったのだろう。一方では、今日のわたしたちにこの日記がもつ真摯な思いを伝えてくれたのは、私的な記録にもかかわらず、思わず練りに練った表現に結晶したことが象徴しているように、実隆が受けた名状しがたい感慨は、まさに絵ならではの表現媒体がもたらしたインパクトに拠ったものではなかろうか。

文明十年とは、まさにあの応仁の乱がようやく終着を見せた年であり、十年の戦乱を経た京都の巷は、時の人々、とりわけ知識人たちにはきっと地獄を思わせただろう。その中でのこの短い観賞記は、読み返して、なまなましい。

2008年1月29日火曜日

絵のある巻物を聞く

平安末期に成立されたものを基に、南北朝時代に作り直された物語『しのびね』には、その始まりにおいて、絵巻を楽しむ様子を伝える貴重なエピソーが記されている。物語のヒーロー少将は、琴の音を聞いて心を惹かれ、夜になって、朧げながら意中の姫君を見初める。少将の目の前に展開されてきたのは、まるで神秘な様子だった。

「隅の間の方に、細き隙見つけてのぞき給へば、人々集まりて、絵にやあらん、巻物見居たり。

少し奥の方に添ひ臥したる人や、もし姫君といふ人ならんと、目をつけて見給へば、菊のうつろひたる五つばかり、白き袴ぞ見ゆる。髪のこぼれかかりたるは、まづうつくしやと、ふと見えたるに、顔はそばみたれば見えず。四十あまりなる尼君、白き衣のなえばめる着て、より臥して、絵物語見居るたり。「目のかすみて、小さき文字は見えぬこそいとあはれ。積もる年のしるしにこそ。火明かくかかげんや」といふに、小さき童よりて、ことごとしくかかげたれば、きらきらと見ゆる。

奥なる人、腕を枕にして居給へれば、「御殿篭るにや、さらば読みさしてん」といふに、少し起きあがりて、「さもあらず、よく聞き侍るを」とて、少しほほゑみたる顔の、(略)」

ここに、一つの絵巻享受の現場として、記述を読み返そう。姫君をはじめ人々を惹きつけたのは、絵の付いているに違いない巻物だった。複数の人々がそれを囲み、中で年寄りで、一番の知識の持ち主である尼君が書かれた文字を読み上げる。歳を嘆く口調で文字が良く見えないと言えば、だれかがさっそく明かりを強くした。そして、主役のはずの姫君は、控えめに奥に居たので、「もうお休みの時間でしょうか。止めましょうか」と気を使うと、「聞いているよ」と元気の良い声が戻ってくる。

物語が語ろうとしたのは、男主人公の垣間見である。そして、絵のある巻物を囲む女性の一群は、それに十分に応えられる、まるで精緻に設けられた舞台の一齣のように、少将の目の前に繰り広げられた。

いうまでもなく、絵に接することは、人、時、場によって違う。絵巻をすべてこう見なければならない理由はどこにもない。だが、だれかの声に引かれつつ、複数の人々でストーリーを共有し、耳で聞いて目で見て思いに馳せるという楽しみ方は、長らく語られ、記憶され、憧れられる情況だったと言えよう。

京都大学附属図書館創立百周年記念公開展示会図録

2008年1月8日火曜日

五百五十年前の絵巻鑑賞

その昔、絵巻はどのように人々に楽しまれていたのだろうか。とても魅力的な質問である。

たとえば、つぎのような記録が中世貴族の日記に残されている。

時は室町時代中期の嘉吉2年、西暦1442年、場所は京都、主人公は中原康富である。康富は朝廷政治の中で低い地位にある官吏(正六位上)であり、役目は外記(げき)局での朝廷公事の記録や補佐である。そのような公式な仕事の傍ら、豊富な漢文の知識を生かして、貴族の弟子たちを対象によく家庭教師を引き受け、生活の補助とした。その教え子の一人は、伏見宮貞成の第二王子の貞常親王である。この貞成は時の後花園天皇の実の父親であり、貞常親王は天皇の実の弟であった。

そんな中、夏のある日、康富は友人宅を訪ねたら、そこでは思わぬ絵巻鑑賞会が開いていた。康富の友人でもある諏訪忠政という人が、家に伝来したものを自慢げに持ってきて、みんなの前で披露したのである。康富は興味津々とそれに参加した。絵巻のタイトルは「諏訪明神縁起」である。だが、康富はその場の主客というわけではなく、半分ぐらい見たところですでに夜更けになったということで、鑑賞会がお開きとなった。半分しか見られなかった康富はただ残念でならなかった(6月11日)。

数ヶ月経った冬のある日(11月26日)、家庭教師の場に生徒のお父さまが現われてきた。この人の絵巻好きというのは、どうやらかなりの評判だったらしく、ご機嫌を取ろうと、先の絵巻鑑賞のことを報告した。はたして貞成がかなり興味を示し、一度借りてきてご覧に入れようと、康富がその場で約束した。

二日あと、忠政の来訪を受けた康富は、さっそく上の経緯を伝え、貸してもらう約束を取り付けた。師走に入り、12月1日にはさっそく上等な唐櫃に入れられた絵巻が持たれて来た。ただし忠政に取っては、たとえわずかな数日とは言え、絵巻を手放すということは一大事だった。それを形にするために、わざわざ長い念書を添えた。要するにこれは自分に取ってはたいへん品物なので、確実に返却があるようにとの念押しだった。康富はもちろん承知し、そのまま忠政に伴って、一条東洞院にある伏見宮の邸宅にこれを持っていった。実際に絵巻の閲覧が適えられた貞成は思いのほか嬉しくて、その場にお礼として金覆輪の太刀を一振り忠政に与えた。

一方では、この絵巻閲覧の仲介を苦労して働いてくれた康富にもお礼を言わなければならない。そこはさすがの伏見宮。二日の後、いつもの家庭教師の仕事が終わったら、康富はさっそく呼び止められ、「文治頼朝幕下被責奥州泰衡御絵(十巻)」が出されて、その場だけだが、閲覧を許されたのである。なかなか粋な計らいではなかろうか。

同じ師走の23日に、絵巻は無事に忠政に返された。この短い間に、貞成のみではなく、絵巻はさらに内裏に持ち込まれ、天皇の玉覧に入れられた。忠政はただただ恐縮したと、実物を手元にして、たいへんな満足感に耽ったものだった。

因みに、ここに記されている絵巻の絵は、一枚も伝わっていない。しかし、幸運なことに、詞書だけは残されていて、今日でも簡単に読むことができる。

以上の生き生きとした絵巻享受の実例から、どんなことを読み取ることができるだろうか。これは、ここ数日の読書のテーマである。その初歩的な結果を近々ある研究会で発表する予定になっている。

立教大学日本学研究所・研究会のお知らせ(第33回)

2007年12月1日土曜日

絵巻を披く

先週、ある若い学生と共に、大学貴重書の五巻の絵巻を見る機会があった。若い人は、これまで本物の絵巻を扱ったのは一度だけとのことで、最初は非常に恐れ入ったが、自分の手で披くようにと勧めたところ、終わりには驚くぐらいの手つきになった。見終わった絵巻は、明らかにそれまでの状態に勝り、前に見た人より丁寧できれいに巻き上げられ、箱に収まった。

そもそも、一巻の絵巻を見るということを、どのような動詞で描くべきものだろうか。普通は、「披(ひら)く、巻戻す」というセットだろう。ところで、経験を持たない読者なら、さっそくそのような状況を身に付けるはずはない。おそらく、「さわる」「手に取る」「取り扱う」といったような段階があるのではなかろうか。そして、学芸員とかその道のプロの人になると、まさに流れるような鮮やかな手つきで「あやつる」ものだ。

文字や絵を記録する媒体として紙を選び、大きな分量になったそれを連続して纏めようと思えば、自然に巻物という形態となる。縦書きの文字が右から左へと行を増やすに従い、紙の貼り継ぎを続ければ、無限な記録や表現の空間が生まれる。一方では、巻物という形態は、保存に向いていて、閲覧には向かない。披くのと同じ労力が必要とする巻戻しという作業は、いかにも経済的ではなくて、第一、ものを物理的に消耗する。読みたいところまで辿りつくためには、それまでの内容をすべて一通り目を通さなければならないという意味では、比喩的に言えば、巻物はアナログ的なもので、冊子本はデジタル的な性格を持つ。

巻物は、われわれの今日の生活の中では限りなく姿を消してゆく。知識のすべてを教室の中で伝授し、体得させることを前提にもつ現代の教育システムでは、巻物を扱うことまで配慮するような贅沢はとても持てない。そう思えば、わたしの場合、絵巻をはじめてじっくりと自分の手で触ったのは、例のスペンサー・コレクションだった。大きな扉に止められた部屋の一角に、日本の絵巻がまるで無造作に山済みになり、それを一人で広い台に繰り広げていく。ニューヨークの喧騒な街中に身を置かれながら、まるで異空間だった。いまから考えれば、じつに幸運な経験だった。

絵巻の中に、そして絵巻を見るためには、つねに現代の生活とは異なる時間が流れている。絵巻の中の時間まで再現するようなことは、不可能だろう。あるいは、われわれが意識的に避けようとしているのかもしれない。

2007年10月3日水曜日

清少納言の感性

絵巻は、平安文化の花形の一つである。「絵」と呼ばれる作品群は膨大な数で文献資料に残り、さまざまな形で貴族たちの日常生活に入り、そのほとんどの場合において華やかなハイライトとなった。

平安時代の人々の感性を伝えてくれた代表的な人物を挙げるとすれば、まず清少納言の名があがるだろう。清少納言の絵巻観を求めて『枕草子』を紐解けば、つぎのようなまるっきり対照する意見が目に止まる。いずれもごく短い文章で、内容は分かりやすい。

まずは『枕草紙』三十一段。この段の始まりはこうである。

「こころゆくもの よくかいたる女絵の、ことばをかしうつけておほかる。」

これに続き、「こころゆくもの」、すなわち気持ちのいいもの、わくわくさせてくれるものとして、たくさんの女房が牛車に乗った様子、上等な便箋に細く書かれた手紙など、風景や品物がリストアップされる。どうやら清少納言にとって、素晴らしいものといえば、まず思い浮かんだのは絵巻、それも興味深い詞書が付いていて、しかもそれが長いほど望ましい、ということだったらしい。

今日に伝わる絵巻のなかで、平安時代のものは、総じて詞書の内容が短い。絵巻のストーリーが熟知された物語や説話に取材され、それが十分に知られているがために、詞書の役割は相対的に小さい、読者が文字よりも絵のほうを期待していたのでは、というのは今日のおよその推測である。それに対して、中世に入ってから詞書の分量はすこしずつ増え、文字と絵との比例で言っても文字がはるかに上回るいう作品も多数作成されていた。

それにしても、文字の記述が多いほどいい、ストーリーの展開を絵を追って確認すると同時に、もっともっと文字が読みたい、という素朴な印象を、平安の、それも清少納言レベルの知的な女性に述べられたとは。

一方では、『枕草紙』百十六段は、一転して絵巻の絵についての不満を記す。つぎはこの段の全文である。

「絵にかきおとりするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女のかたち。」

三種類の草と花、そして綺麗に描かれた物語の中の男女の主人公たちの顔姿は、絵に描かれてしまうとかならず見えが思わしくなくなる、という意見だ。

ここに挙げられているものは、よく考えてみれば、二つのまったく性格の異なるものだ。花や草のようなものは紙に描かれると、現実の世界に見せた生き生きとした生命力が薄れて、目の前の実物とは比べものにならない。対して、物語の中の人物は、だれも見たことのないものであり、いわば読者の想像の世界にだけ存在するものだ。そのような想像によって育まれた豊かなイメージは、紙に描かれたものによって、想像に反したりして、破壊されてしまう、ということが問題の核心だろう。言い換えれば、ここは絵師の腕前など問題にしていない。絵の宿命的なことをめぐっての、真摯な読者の苦悩なのである。

清少納言の魅力は、まずなによりも彼女の繊細で感性豊か感受性、そして好き嫌いをはっきりと述べてしまうという歯に衣せずの書きぶりにあるのだろう。そういう意味では、彼女の意見をもって平安の人々の意見を代表させるとなれば、どこか語弊が生じる。はっきり言えば、平安の人々の平均的な感性が清少納言に言い表されているとはとても思えない。清少納言の意見は一番鋭くて、先端を走るものだ。ただ、その分、今日のわれわれにはよけいにずしんと心に来て、考えさせてしまう。(絵:『枕草紙絵巻』に描かれた清少納言)