2010年1月30日土曜日

芥川龍之介の思う絵巻

芥川龍之介には『往生絵巻』という短編がある。阿弥陀仏と唱えながら街を行く五位の入道を見物する人々の会話をもって構築された秀逸な一篇である。

作品は、童、そして鮨売の女の騒がしい掛け声から始まる。絵巻を知っている読者なら、さっそく「福富草紙」の会話、「長谷雄草紙」の街角の光景を思い出すに違いない。とりわけこの二つの絵巻をどこまで見ていても飽きない読者なら、うきうき、わくわくした思いを押さえながら、一気に終わりまで読み進むものだろう。

街角の人々の会話には、いたるところに芥川らしい機知やユーモアが見られる。世を捨てて出家する勇気を感嘆する声があれば、捨てられた家族が不憫だとさっそく反論があがり、それも「弥陀仏でも女でも」家族を奪われたら恨みが生まれるものだと論破される。仏と女と並べるものかと、思わずツッコミを入れたくなる。荒っぽい武士の行いとなれば、仏の在り処を法師に尋ねようと、なんと刀を引き抜いて法師の胸に突きつけて聞き出そうとするものだから、分かるわけがないと、くすくす笑ってしまう。人間百様のさまざまな思い、行いを俯瞰的に眺め、洗練された短い会話をもって縦横無断に表現してみせるのは、まさに芥川ならではの腕前だ。

道行く五位の入道に投げかけられた視線をゆっくりと移動して捉えて行き、それが一つまた一つ、消えたと思ったらさらに魅力的なものが現われたという形で連綿と続いて、まさに一巻の絵巻だ。さらに言えば、絵にするものならば、背景も細部の描写もなにも施さないで、余白をいっぱい残したままのスタイルが相応しい。闊達な筆捌きと無造作な会話、それだけで十分だ。

しかしながら、さきの二つの絵巻を見る経験を持ち合わせない読者には、この作品の世界ははたしてどう映るものだろうか。ちょっぴり敷居が高いかもしれない。少なくとも、何回も読み返す私には、今昔物語の虜になった芥川龍之介がますます普通の読者のことを省みる余裕を失いはじめた書き方をしているもんだと勝手に想像しながら、難解な語彙や表現を追い続けていたことを書き留めておきたい。

2010年1月23日土曜日

聖火トーチがやってきた

バンクーバーで開催される冬オリンピックは、日に日に近づいてきた。その中で、生活するこの町の名前も日本のマスコミに連日登場するようになり、日本のトップアスリートたちが最後の訓練地を目指してここに集まってくる。実際のところ、その場所とは、勤務する大学に所属するリンクであり、普段は本大学の学生だけではなく、普通の市民にも開放されて、日常生活の一部として親しまれているところだ。

数日まえ、そのリンクの上で聖火トーチリレーのセレモニーがあった。30分ちょっとの行事には、6000を超える人々が集まったと新聞などが報じている。早朝に行われたもので、学生や同僚たちとともに参加し、心より応援を送った。リンクはいっぱいのライトに照らされて、普段とは一味違う晴れ晴れしい姿を見せてくれている。観客席には観衆が溢れ、旗を手にした人々がリンクのすぐ側まで詰め寄った。歓声と拍手の中、聖火トーチは四回ほどリンクを走りまわった。それを手にしたのは、これまで二回も受賞に輝いたオリンピックのメダリストであり、そしてこれからカナダチームの選手代表である。因みに、その選手代表の名前は「ヨシダ」だとプログラムで見て分かった。若くて輝くような笑顔はとても印象的だった。

100123リンクの側に立って、カメラを構えて連続撮影を試みた 。カメラって、やはり不思議。シャッターを押し続けて、出来上がった写真を見て、目に入っていたはずだが、記憶にはまったくないものが残される。たとえば右の一枚。トーチには火が見えず、スケーターは視線は足に落とし、全身の筋肉は不自然な姿勢を保てる以外、どこにも力が入っていない。ここまで鮮明に撮れていて、まったく気づいたことのなかった瞬間が、ここにはあった。

動画もいいが、静止画は時にはもっと味わいがあって、しみじみと繰り返して眺める。そして、絵の構図、その虚構と真実まで思いを巡らせてくれてやまないと気づかされる。

2010年1月16日土曜日

学生たちと漱石の夢を読む

大学で新学期が始まった。今学期の担当は、英訳で読む日本の現代文学。計38時間の授業で、予備知識ほとんどなしの日本語学習者に150年近くの激動を伴う日本の作家や作品を紹介する。かなりの挑戦であり、楽しみである。最小限の背景知識の講義を経て、さっそく夏目漱石に入った。取り上げるのは、自分が学生時代に愉快で苦い経験を味わった『夢十夜』である。

夢とは奇異なものだ。儚いもの、適えられないものの異名を持つが、「黄梁の夢」もあれば、冷や汗ばかり残る悪夢もある。漱石が語ったのは、あきらかに後者のものに属する。絶世の感性が成せるわざで、どこか今様のホラー話に通じる。漱石ワールドにおいて、いわば洒落な諧謔ではなく、じっくり読めば読むほどぞっとするような、一つのセンテンスですべてをぶち壊してしまう嗜虐な色合いが強い。そしてどれも精巧に組み立てられて、一枚の絵になる。細かくて、魅力的でいながら、論理がなく軽快に飛び跳ね、希望と失望、時間と空間、男と女、親と子、個人と家族が織り交ぜる。それも想念ではなく、奇想、妄想、狂想のオンパレードで、その中のどこかに、はなはだ個人的な記憶がぴったりと嵌め込めるから、不思議なものだ。

100116学生たちの一人ひとりの読みは、口頭発表や掲示板への書き込みなどをもって展開する。はたして漱石の思いを受け止められるのだろうか。思えば三年ほど前にあらたに制作された映画だって、漱石の姿を思い切ってデフォルメしたものだから、学生たちのどんな自由な受け止め方でも咎められないだろう。

漱石の夢という鏡において、どのような顔が映し出せるのだろうか、わくわくしている。

2010年1月9日土曜日

茶臼山古墳の銅鏡

ここ数日、新聞やテレビを賑わせる話題の一つには、奈良桜井茶臼山古墳における発掘成果があった。一つの古墳からこれまで最多の銅鏡が発見され、その数はなんと八十一枚に上ると報じられている。

いつごろからだろうか、銅鏡が映し出した卑弥呼が生活していた三世紀という、文字記録のなかった時代のことをロマンと定義して語られている。あまりにも情報がなくて、すべて想像に任せるという歴史事実への気持ちの現われだろうか。もちろんこれを研究の対象とすれば、想像や推測で対応するわけには行かず、たしかな物証が第一義的に要求される。そこで、今度の発掘では、中国の魏の年号(正始元、240年)の銘文が入った鏡まで確認できた。研究者、関係者の興奮は、想像に難くない。

100109テレビの報道を通じて、銅鏡特定のプロセスを初めて覗き、これまでまったく考えていなかっただけに、はっと思わされるものが多かった。この古墳の発掘は、これが初めてではなく、新たに見つかったのは、形を留まった鏡ではなく、サイズさまざまな破片だった。その数は三百点を超えた。墓に入れられて千年経とうと、銅の鏡がぼろぼろの砕片になることはなかろうが、長い歴史の中で盗掘などの災難に晒され、人為的な破壊がこの結果をもたらした。そこで、無数の破片をどのように復元するものかと、ついにおもちゃのレゴを連想し、余計なロマンが紛れ込まないかとつい心配してしまう。しかしながら、銅鏡は想像をもって組み立てるのではなく、これまで出土などで知られた実物に照らし合わせてゆくものだった。いわばないものを作り出すのではなく、存在してある実物のどの部分に当たるかを模作するという、逆の方向の確認だった。いうまでもなく最初から同じものが複数に作られ、しかも完璧に保存された実物が存在するということが前提なのだ。

模様が描かれた紙の上に置かれた銅鏡の欠片を眺めて、ついに絵巻のことを思い出す。原則的には一部しか作らない、たとえ複数に作ってもまったく同じものが望めない、作品そのものを繰り返し披いたり鑑賞したりすることだけで消耗されて形がすこしずつ変わってしまう。同じ復元といってもまったく違うことを意味する。媒体の違いがどこまでも大きいと改めて思い知らされた。

2010年1月2日土曜日

百虎図

明けましておめでとうございます。

新しい一年が始まった。今年の干支は、寅年。日本で交わされた年賀には、寅という文字と虎の絵柄が横に並んで巷を賑わせていると想像する。一方では、中国では同じ干支を表現しても寅という文字を用いず、もっぱら虎年と称して、勇猛な虎の図案を配する。虎を含む目出度い言葉も膨大な数で思い出され、祝賀の口上に述べられている。

虎にまつわる絵と言えば、「百虎図」がまず思い出される。これを名乗る作品は無数にあって、いわば一つの作品のジャンル名の観を呈する。もともと「百」と言っても、百鳥、百牛、百花、ひいては百家、百科、百貨という言葉から察せられるように、必ずしも数字の百を意味するものではなく、百だと錯覚させてしまうぐらい大勢の、といったぐらいの意味合いである。虎の場合で言えば、それは百八頭の虎を描くものあれば、一頭しかないものあり、もちろん百頭と丁寧に描いたものもある。さらに、さかんに喜ばれる画題のわりには、権威をもつ基準作のようなものが存在せず、無数の絵師たちによって熱烈な愛好者の期待に応えつつ描かれ、伝われてきたが、一つの作品が無数の模作を生み出すといった中国絵画の常套がさほど認められない。

100102「百虎図」の作品群には、巻物の形態を取るものもある。ここには、日本の絵巻にまったくと言っていいほど見られない一つのスタイルがある。巻物のタイトルを巻頭に飾るものだ。日本の絵巻で言えば、最初の一段の詞書のスペースを丸ごと占拠するものだ。しかも文字を大きく書くということで、三つの文字を巻物の展開する方向に沿って右から左へ展開する。一部の古態の額などに見られるような文字の配列となる。

百の虎が一ヶ所に集まってしまうのは、実際的なものとしてちょっぴり想像しにくい。だが、絵に描かれたそれは、虚構的な風情が加わわり、なぜか目出度いものだ。