2014年8月30日土曜日

ゲームとフィルム

前回の話題の続きを記しておく。まずは、おなじく言葉についてだが、英語表現にみるいささかな不思議がある。それは、学問分野としての映画についての研究のことを、なぜか「ムービ」研究とは言わず、「フィルム」研究と呼ぶ。きっとなにかの理由があるに違いないが、自分の中では、「能」と「謡曲」との使い分けのようなものだと勝手に解釈しているが、いつか確かめておきたい。

ここにフィルムを持ち出したのも、先週のゲームをテーマにした集まりに関連している。集まりの主催者は研究機関だということで、発表者となるとゲームを対象にした研究者が圧倒的だった。ゲームを実際に創作する人もいたが、あきらかに少数派に属する。ゲームという、まだまだ娯楽の一つとしての新参もので、変化もはなはだ激しいのに、はたして研究の対象となりうるのか、正直内心かなり疑問をもっていたものだった。そのようなわたしの目に映ったのは、多くの研究者がまるで正統な映画研究の手法を意識して踏襲したかのように、映画を語るがごとくゲームに立ち向かったものだった。いわば、ゲームの表現方法、ゲームの世界観、ゲームをまつわる社会現象や文化認識、などなど。はたしてゲームがそこまで文化的な意味合いを荷負うだけの完成度を持っているのだろうか。プレーヤーを惹きつける力だけあげてみれば、小説の読者や映画の観客と比較しても引けを取らないことはよく承知してはいるのだが。

以上の思い、とりわけ映画研究の方法論への自覚の有無について、一人の研究者に思い切ってぶつけてみた。意外な答えが戻ってきた。いわく、その方の研究意識においては、ゲームというものはいかにして映画と違うのかということへの追求が最大のテーマなのだ、とか。どうやら素朴な問いは、当たらなくても遠く外れてはいない。ゲームをめぐる文化的な視線としての、現時点の一つの立ち位置として、記憶に値するかもしれない。

2014年8月24日日曜日

DH再考

20140823週末にかけて、誘われてゲームをテーマとする学会に出かけてきた。とくべつに研究に打ち込んだわけでもないのに、ともかく発表に名前を入れてもらって、わずかな時間だがみんなの前に立った。あとは、あくまでも関心をもつものに耳を欹て、知恵を集合した作品を眺めていた。ためになるものには数多く出会った。中でもDHという言葉をめぐる議論がとても印象的だった。

この話題を持ち出したのは、複数招待された基調講演の方々の一人だった。DHという言葉をタイトルに現れたのだから、どのようなアプローチが取られるものかと、興味津津だった。実際の話が始まると、カナダ風の鳥鴨ローストだの、ロシアドールだの、聞く人を楽しませるひっかけはいっぱい用意していて、中身は新たに作られた研究所の苦労話や驚異な成果の宣伝などが中心で、結論になってようやくDHが飛び出した。一方では、講演者の所属大学はたしかにDHのプログラムを提供している数すくない機関の一つだ。いささか妙に思い、さっそく質問に立って、DHということをわざと避けたのではないかと、その理由をやんわりと訪ねた。しかしながら、その答えは、率直でいて鋭い。いわく、DHという言葉は、学者受けが良くて、研究者同士、ひいては教育機関の運営者からすれば魅力的なものだ。しかしながら、いったん社会に向き変えると、受け止め方はまったく異なる。そもそも人文学という言葉からその意味するところを説明してあげなければならない。そこで、そうと分かったら、その対応はまさに鮮やか。大学や研究助成の申請などには、DHを前面に持ち出すが、一般社会に向けて、違う言葉を選ぶ。そして講演者の場合、それはゲーム研究・開発というものなのだ。

言葉をいじるということの強烈なぐらいの実例だ。言葉の本質は、聞く人との交流にある。そのために、聞く人の関心を見抜き、それに応じて発信するということは、まさに言葉選びのイロハにほかならない。分かりきったことだが、あらためて知らされた思いだった。

Replaying Japan 2014

2014年8月16日土曜日

アプリを求めて

のんびりした時間が続いたら、ときどき思い出したように身の回りのガジェットをいじってみる。なにかの作業のツールを探し求めるというのは、一種のリラックスした時間の過ごし方である。この間、アンドロイド携帯用の、写真をスライトショーにするものをと、狙いを定めた。どうせすぐにでも見つけられるだろうと睨んだが、意外と苦労した。

とりあえずまずはグーグル・ストアから始めた。写真などのキーワードを入れたら、たしかにかなりの数のものが飛び出してきた。かたっぱしから二、三個、ダウンロードしては試し、予想が外れたらさっさと削除する、こういうプロセスを結構繰り返した。なかなか思う通りのものが現われてこない。そもそもシステムに組み入れられた写真閲覧のアプリには、スライドショーの機能が付いるが、スライドのスピードも含めていっさいオプションが用意されていない。そこであれこれとアプリを試したら、写真のスライトショーという、こんなに基本的で単純なものであっても、アプリによって対応がまちまちだと気づいて唖然とした。中には、スライドはしてくれるが、写真のサイズがすべて変形されてしまったり、写真を選んだらまとめてかなりのサイズの動画ファイルを生成したり、あるいは一枚一枚の写真につき見せる時間を聞いてくれたりして、信じられないくらい面倒で、使いものにはならない。ここでようやく方針変換をし、アプリレビューサイトにアクセスすることにしました。他人が書いた使用感想などを読み比べて、やっと使えるものに辿20140816り着いた。事実、スライドショーのみに止まらず、オンラインとローカルを写真を管理したり、ひと続きのファイルをまとめて処理できたりすることから、これまで使っていたシステム付属のアプリを不要のリストに取り下げたくらいだった。ちなみに、気に入ったアプリとは、「QuickPic」という名前だ。

期待したものを満足に手に入れて、ほっとした。そこで、よく纏めてくれているレビューのサイトについては、その名前さえ覚えていないことに気づいた。あんなに熱心してまとめてくれた情報、そして何よりも無料で使えるアプリ、使いものにはならないのも含めて、作者たちはどれだけの時間と知恵を注ぎ込んだのだろうか。ただただありがたい。そして、かれらにとっての名もないユーザーとして、はたしてどうやって感謝の気持ちを伝えるべきだろうか。

2014年8月10日日曜日

巨大な碁盤

学生時代から、舞台劇を観るのがを愉しみの一つにしている。舞台上に立つ俳優たちの演技力や、ドラマの進行などとともに、限られた空間、そしていつもは限られた予算によって限定された大道具の出来栄えやその使用の仕方にも注意を奪われる。それがたとえちゃちで、見え透いたものであっても、ときにはそうであるほど、魅力を覚えてしまう。

絵巻の画面を眺めていて、ときどきそのような舞台の大道具と錯覚する。言い換えれば、空間や情況の設定に合わせ、背景となる建物や家財道具の類は、それがそうなのだと分かるぐらいで十分で、それ以上の配慮を与える余裕などとてもなくて、まるで舞台装置そっくりの役目しか担わされていない。た20140810とえば、右の画面がよい実例だ。「慕帰絵」に描かれる鎌倉の唯善房の屋敷である。画面の中で異様に存在感のあるのは、巨大な碁盤である。近くの人間、そして置かれている床の畳まで意識して見つめるほどに、妙なものだ。そういえば、品物のサイズには、まったく無頓着、しかもそれは一点のものに限らず、周りの物体や建物全体にかかわる。描かれた人間を基準にすれば、それらは異常に大きかったり、小さかったりする。もともとそのような観察は、現代の写真などを見慣れた視線のもとに現れた感覚にほかならない。

ただし、舞台装置なら、たいてい必要最小限のものに限る。そう考えれば、巨大な碁盤は、まったく逆の、不必要でかつ最大限のものに映る。この違いをどう解釈すべきだろうか。詞書には登場しない、ストーリと必然性を持たない碁盤は、はたして何のメッセージを訴えようとしているのだろうか。答えが見いだせないままでいる。

2014年8月2日土曜日

胸を裸ける女

20140802絵巻には、ときどき奇妙で、今日ではちょっと考えづらい、どう受け止めてよいのか戸惑うような場面が描かれる。その一つには、性別に関わるものがあげられよう。たとえば『一遍聖絵』に収められている右の一コマだ。

全国を雲遊する一遍の足あとは、いうまでもなく聖地や名山に及ぶ。ただ、かれの伝説的な生涯を伝える伝記は、そのような名勝の地に過剰なレスペクトを抱き、きわめてステレオ的な視線で捉えている。一方では、これを丁寧にビジュアル表現する絵巻になると、たいていのところを一様に右へと展開していく建物群をもって表現している。そのなかで、ここでの画像はあの当麻寺の門前に繰り広げられた風景の一つである。寺もほど近くなり、群衆の一群は寺を目指して道を急ぐ。かれらの身の上のことを詞書が何一つ触れることなく、出で立ちも仕草も一遍の遊行との関連においてとくべつな必然性が見られない。その中で、ここに見られるような大ぴらに胸を裸けた女性の姿が登場した。身に纏っている服装のあるべき効用をあきらかに無視し、しかもなにかの極限の情況で身なりに気を配る余裕がないとかのような設定でもなく、画面が表現しようとする意図はなかなか簡単に読みきれない。はたして女性はどうしてこのような格好をしなければならないのだろうか、これを周りの人々、それから絵巻が作成された当時の読者たちがどのように受け止めていたのか、正直さっぱり見当がつかない。

あるいは確実に言えることは、このような格好や身なりは、今日にいう色気とはさほど関係ないということぐらいだろう。当時の平均的な読者たちは、色気というものをきっとこのような構図ではなくて、まったくべつのところに求めていたに違いない。答えが見いだせないままだが、このことが確認できて、時代によって読む人の常識も異なることに気づかされただけで、まずは有意義だとしよう。