2016年3月26日土曜日

読書の姿

平安時代における読書の様子といえば、「源氏物語絵巻・東屋」の画面がすぐに思い浮ぶ。絵と文字の両媒体の併存、読まれる声に耳を傾けながら絵に見入るとの享受の方法、そしてそのような様子がまとめて一枚の画像に収められ、千年に近い時間を経て今日に伝わるという事実、これらは何重も重なり、人を惹きつけて離さない。現に教科書や辞典などでは、この画面が繰り返し取り上げられている。

その中で、「絵巻で見る平安時代の暮らし」と題する三省堂による特設ページを見て、あらためて感心を覚えた。すでに三年ほど続いてきた連載もので、絵巻の場面を選んで、特定のテーマに絞って解説をするという内容である。この東屋の場面も解説の対象となった。この場面をめぐり、六人の人物と、あわせて二十六も数えるアイテムに記号や数字を付けて、丁寧に対応する言葉を添えた。もともと解説はかならずしも完璧だというわけではない。たとえば、浮舟の前に置かれた冊子本を「冊子の絵」と決めつけれれているが、右近の手の中のものと照らしあわせて、文字を記されたものがあってもおかしくなかろう。また、ストーリの説明にまっすぐ「源氏物語」の本文を引用し、詞書の存在をまったく無視したのも残念だと言わざるをえない。しかしながら、解説文は、あくまでも慎重で丁寧だ。この場面に関して言えば、あまり触られることのない無名の二人の女房について、右近の読み聞かせに聞き入っているとの説は、この場の空気を理解するうえで、なんとも素晴らしい。

ここでは、解説の内容よりも、表現方法のありかたが気になる。トレースを加えた画面に数字を入れるということは、あくまでも紙印刷という媒体からきた制限によるものだ。インターネットで伝えるとなれば、電子媒体の利点を生かさなければ意味が半減する。そのような可能性は、いくらでもあるはずだ。そのようなものは、模索されていない、さらにいえば、だれでも安心して気軽に使えるようなフォーマットがいまだ開発されていないことこそ、今日における読書の姿を映し出すことも含めて、むしろ見逃してはいけない大事な課題なのだろう。

絵巻で見る平安時代の暮らし

2016年3月19日土曜日

Kobo Glo HD

研究休暇のまっただ中ということで、読書する時間がだいぶ増え、普段は読みたくても手が出ない読み物もどんどん乱読の対象に加わった。その合間に、読書のツールをいじり、あれこれと試してみた。ここ数日、手元にあるテキストファイルのものを取り出し、タブレットで開いた。あらためて気づくものだが、タブレットは具体的な用途に対して、そのサイズの手応えは微妙に違い、けっして大きいほど良いという単純なものではない。PDFのファイルなら快適であっても、テキストファイルとなると無駄が目立つ。そして、なによりも目の動きからくる疲れだって、無視できない。

そこで、思いついて本棚の奥に押し込まれた電子書籍リーダーを取り出した。数年前に購入した「Kobo Glo」という機種だ。使い方を確かめてみたら、テキストファイルへの対応にはまったく問題はない。必要とする最小限の条件とは、縦書きと振り仮名への対応という二つだけだった。いずれもEPUB3への変換というプロセスさえ取れば、スムーズに実現できた。あとは使用するフォントを変えてみたり、EPUBファイル変換にあたってカバー代わりの画像まで探して添えたりして読書環境を微調整したら、タブレットとはまた一味違う読書ツールが生まれた。さすがに軽くて、集中出来て、しかもなによりも目に優しい。

調べてみれば、「Glo」の発売は、すでに三年半前のことである。そのあとも、Koboはほぼ年一回のベースで製品を更新し、その一番新しいモデルは、カナダでは一年前に発売した「Glo HD」だと分かった。日本語の書籍が中心なので、すこし前なら日本での購入が要求されるが、いまごろは、そのような境界線もすでに存在しなくなった。近くの電気屋に行って、棚に置いてあるものをさっと手に取って支払い、戻ってきたらパソコンに繋げることもなくすでにこれまで購入した書籍を含む個人のKoboコレクションに完璧にアクセスできた。小さなデバイスの進化は、使いやすさの実現をもってユーザーに実感させている。

2016年3月12日土曜日

黄表紙に読む忠臣蔵

すでに二週間もまえのこととなった。大学に知名の学者を迎えて、忠臣蔵をテーマにする講演が行われた。講演は、歌舞伎と黄表紙という二つのメディアの交差から江戸の文化を読み解き、そして両者を繋げるスポットには忠臣蔵を据え付けるという、鮮やかなアプローチを取って展開してくれた。

改めて考えてみれば、黄表紙の作品群は、不思議な魅力を持っている。それの大きな特徴は、なんと言っても、絵の中に入り込んだ膨大な分量の文字だろう。今日の平均的な読者には、この文字情報は、まずは一つの壁となり、気軽な接近を拒んでいると言わざるをえない。しかしながら、想像するには、江戸の人々には、これら文字は、けっして負担でもなんでもなく、作品が身近なものとなるための前提であり、必須条件である。このようなスタイルの読み物の流行は、江戸の社会における識字率の高さを物語っていることには間違いがないが、そこは、仮名主体の文章ということがミソだろう。試して同時代の中国のことを思い出してみれば、老若男女に幅ひろく受け入れられるような、情報密度の濃い読み物は、いささか簡単には思い当たらない。

会場には、六十名を超える学生たちが集まり、けっして身近だとは言えないテーマを熱心に聞き入った。若者たちからの質問や書き残してくれたコメントなどからは、知的な刺激のほどがよく伝わっている。それから、講演のスタイルとして、浮世絵や黄表紙の絵をとにかく数多く、スクリーンいっぱいに出したから、視覚的なインパクトが大きかった。なにはともあれ、黄表紙とパロディという二つの言葉でも関心ある学生たちの記憶に植え付けることができれば、十分な収穫だと言えよう。

Chūshingura & the Edo Literary Imagination

2016年3月5日土曜日

スピーチ・コンテスト

今日の一日は、勤務校での年に一度のメイン行事である日本語弁論大会の開催に過ごした。スピーチのコンテスト、発想もやり方も明らかに西洋的なものだが、それでもカタカナ言葉を頑なに不用にして、あくまでもやや古風の言い方としての弁論大会と名乗り続けている。

スピーチを披露したのは、いまどきの大学生。ステージに上がったのは、新たな知識や学習環境に足を踏み入れたばかりの新入生もいれば、大学という場の苦労も楽しみも知り尽くして卒業を間近に控える学生もいる。かれらが真摯に語られたことの多くは、言葉通りの二十歳前後の若者が抱く夢や理想であり、そして家族や友人との暮らし方であり、恋愛ひいては結婚への憧れと戸惑いである。外国語勉強をもって身につけ始めたばかりで、表現力には不自由で制限が多いものだが、それでも、あるいはそれだからこそ、各自の考えや経験を率直なセンテンスにして素直に持ち出している。若い人たちの等身大の、フレッシュな言葉の数々に、いつもながら聞いているこちらのほうこそ心が洗われる思いがするものだった。

今学期は、いわゆる研究休暇を取っている。職場での日常の仕事に携わらないという仕来りにはなっているが、それでもカメラを持ち出し、写真と録画の監督役を買って出た。画像、映像での記録や共有にはずいぶんと便利になったものである。ほぼリアルタイムで結果をYouTubeとGoogle Photosにアップロードし、関係者にリンクを知らせるだけで作業完了である。いうまでもなく個人名ではなく、組織の名前をつかって専用のアカウントを取得して発信地とするという、利用者に誤解を与えないように心がけている。