2010年8月28日土曜日

夢の種

100828 久しぶりに映画館に入り、評判の映画を見た。「Inception」、日本での公式タイトルはそのまま「インセプション」。一般の観衆に分かるような言葉だとはともて思えない。字面の意味は「発端」だが、ここの場合、さしずめ「夢の種」。人間の頭脳に夢を人為的に植えつけるという内容のSF映画だ。ストーリは入りこんでいて、かなり難渋なものに仕上げられているが、コアの骨組みとなったのは、夫婦愛や会社戦争といったありふれたもので、それなりに分かりやすい。一部の映画としてのハイライトは、あくまでも夢と、これにまつわるいろいろなエピソードやからくりで、とにかくビジュアル的に見応えがあった。

夢のとりこになったはてに、それを本物の生活と対立させ、やがてこの世のものか幻の夢かその境が疑われるとは、まさに古代中国哲学の結晶の一つだった。ただ、映画の見所もまさにそこに焦点を定めた。現実世界と交差するものだからこそ、突拍子もない想像が生まれてくる。夢を作り上げるために実際の建物まで作ってそれをデザインする、ちっぽけな電線を使って他人と夢を共有する、倍増する時間軸をもとに冷静に展開を予想する、などなど、まさに奇想天外でいて、西洋的な発想の見本市的なものだ。一方では、風景が並外れたものであっても、そこを暮らすのはあくまでも普通の人間のみで、生き物についての虚像がいっさい入らなかったのも、なぜか拍子抜けな思いが拭えなかった。

典型的なハリウッド映画であっても、主演渡辺謙の役者ぶりはまごとにりっぱだ。そのしゃべり方と言えば、日本という生活の匂いをきれいに消し去り、話し方を操る能力、その極致な可能性を見せ付けてくれた。ただ、老人になったあとの、あのお化けのような滑稽な顔メークはまったくいただけなくて、思わず笑ってしまった。

2010年8月21日土曜日

塗師の悲哀

狂言には、「塗師」という一作がある。狂言の典型的な構成をもっていて、三人の役柄は、師匠、弟子、弟子の妻と振り分けられ、巧みな人間模様を凝縮された時間や空間の中で展開してみせた。都で職人としての生き方に落胆し、生計を立てるために都落ちをした塗師の師匠が弟子を訪ねるが、弟子の妻に妨げられて、一こまの喜劇が広げられる。

塗師を都から追い出した理由とは、いかにも切実なものだった。その本人がいわく、いまの世の中は「何事も当世様(とうせいよう)当世様と申して」、かれ自身のような昔ながらの職人は、自慢の腕前を振るう機会がとことん減ってしまって、ついにその日の暮らしにも対応しきれなくなった。いわば時の流れには追いつけられなくて、流行から脱落した言いようのない悲哀が込められるものだった。もともとその「当世様」とははたしてどのようなものだったのか、詳しくは語られていない。推測するには、塗師の本業にかかわる絵柄、材料や工法、あるいは商品の流通、評判などもろもろの方面にわたるものではなかろうか。

中世の塗師のような職人たちが、なにを理想にし、どのような出来栄えに憧れ、まわりの環境にいかに順応したのか、今日になれば、残された記録はあまりにも少ない。その中にあって、狂言とは、いうまでもなくそれを述べるためのものではない。ただ、舞台上で大勢の観衆に伝えることを前提にしたのだから、かなり常識なことを述べていて、見る者になんの苦労もなく理解してもらわなければならない。その意味では、「当世様」に打ちのめられた一人の塗師の存在は、参考の意味が大きい。

2010年8月17日火曜日

英訳と俳画

週末にかけて一つの学会に出かけてきた。そのテーマは日本語教育。日本語の現状や教え方をめぐって参加者たちが大いに語り合った。その中で、期せずして絵に関わる議論にも出会って、あれこれと考えさせられる瞬間があった。

基調講演で述べられたつぎの一件は、とりわけ印象に残った。日本語の英訳というテーマで、そこに挙げられた実例の一つは、あの「古池や」という俳句をめぐるものだった。蛙はFROG。ただし、あの句において、それが一匹の蛙なのか、それとも複数のものなのか、言葉のレベルで表現されていない。いわば作者と読者との間の共通の理解に任せられ、あるいはたとえその理解が共通しなくても、許容される範囲に属するもので、無言のうちに処理されるべきものだった。しかしながら、一旦英語に置き換えてみれば、これがとたんに問題となってしまう。訳者はともかくどれか一方に決め付けなければならない。厄介な問題だ。そこへ講演者は、俳画を持ち出した。芭蕉本人もかかわった作品を紹介して、いわば作者においてはそれが単数だったことをスマートに立証した形になった。

それにしても、おびただしい英訳の存在は興味深い。いま問題にしている蛙の訳をめぐって言えば、訳者の解釈をもとに、それを単数としたり、あるいは複数のものだと捉えたりしたとの結果は、簡単に想像できる。だが、思いも寄らないものもあった。なんと「FOG」のみで、前置詞も、複数もつけないような訳だった。英語でありながら、英語の基本ルールを無視した。こんな翻訳、はたして読者に伝わるのか、いや、翻訳者のきわめて個人的な遊びに流されるものではないかと、疑問を感じてならなかった。

読んで得する翻訳情報マガジン

2010年8月7日土曜日

書き人知らず

書き手の名前が記されていない匿名メールは、そもそも削除して読まないと相場が決まっている。しかしながら、時にはまったく違う文脈でそのようなものに出会う。今週も一度そのような経験をした。

なにげなく入ってきたのは、二年半ほどまえに公開した「義経地獄破り」サイトに関連するものだった。一点の間違ったリンクの存在を指摘してくれた。完全にサイト作業の手落ちで、これまで気づかなかったのが不思議なぐらいだ。メールの内容は、とても親切。間違い指摘という用件とともに、青森のまつりに出かけてこの作品のことを知り、インターネットであれこれと調べて音読の試みにたどり着き、さらにファンタジックな古典をもっと読みたいなど、朗らかな内容だった。このような読者に役立てるとは、うれしいかぎりだ。いうまでもなくさっそく間違いを訂正し、お礼の返事を送った。

和歌では、無数の「詠み人知らず」の作品が存在する。それにならっていえば、匿名のメールは、まさしく「書き人知らず」と言えよう。返事を期待する、関わりを明記させるなどと思われなくない、という遠慮の表われだろう。きっとそれに違いないと思う。