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2012年3月1日木曜日

デジタルの提言

世の中は、デジタル環境が凄まじい勢いで加速しつつ暮らしの隅々まで普及している。その中で、状況変化の外に身を置いたまま不本意に巻き込まれるよりも、むしろ積極的に対応したいという思いで、自分の研究や大学教育の現場にデジタル環境を導入し、あれこれとささやかな試みを繰り返してきた。さらに去年の夏から、職場から与えられた研究休暇の間、日文研で共同研究を企画・組織する機会をいただいた。「デジタル環境」と「古典画像研究」との交差をテーマに掲げ、大学や研究機関の研究者のみならず、図書館、美術館などでデジタル環境構築の最前線に携わっている関係者に参加をお願いして、密度の高い議論を重ねている。

ことがデジタル環境の構築や創出となれば、日本での展開には、ほかの国ではさほど見かけない特徴をもっている。とりわけここ二、三年の状況からすれば、つぎのことが一番顕著かと思う。たとえば北米を中心とする英語圏の国々におけるグーグル、アマゾンといった新興企業が大きな牽引力を発揮し、しかもその発展を伴って企業自身が大きく成長するというようなケースは日本では見受けられない。規模では負けず、同じく情報や流通分野で本領を発揮する多数の日本企業は、デジタル環境の関与においては、いまだに様子見の立場を堅持し、決定的なアクションを打ち出そうとしない。しかしながら、企業関与の不在という状況の代わりに、日本で見かけられるのは、公的な資金の投入や公的な機関の積極的な寄与である。研究所や教育機関が主体となって所蔵資料をデジタル化し、それを公開するという動きに続き、国立公立の図書館、美術館、博物館などは、伝統的な枠組みに拘らない予算が組まれ、しかも関連する法律の修正などの対応まで講じられながら、目を見張るようなスピードでデジタル環境の構築が進んでいる。国レベルの資源の使用において、この構図をほかの国と比較して議論するのも一つの課題にはなるだろう。それはともかくとして、ここでは一つの事実認識としてまず確認しておきたい。そしてより大事なのは、そのような貴重な資源や無数の人々の労力をすこしでも無駄にしないために、その恩恵を受ける一人ひとりが智慧を傾けるべきことだろう。

新たなデジタル環境は、われわれに記録の方法、表現の媒体、教育の手段を提供してくれている。その中で、学術研究という立場では、どのような関わり方を持つべきだろうか。とりわけようやく形を持ち始めた一つのまったく新しい環境にかかわるルール作りや枠組みの形成には、これまでにない試練が満ちている。これに関連して、考えが繰り返し立ち戻ったのはつぎの二つのことである。

まずは、デジタルデータの作成やその結果を、いかにして在来の研究活動に組み入れるかということである。

一般論になるが、一つの研究活動に携わったら、その成果が「残る」、「使われる」、そして「使える」ということを理想にするだろう。デジタルデータを作成する立場からすれば、思いはまったく同じなはずだ。ただし、ここで操作可能なレベルで考えるならば、対応すべき順番はちょうど逆になる。すなわちデジタルデータを作成するうえで、まずはそれがどのように使われる可能性を獲得するか、ということだ。

すでに多数存在するデータベースの利用から具体的に考えてみよう。現状では、研究者はデータベースを通して特定のテキストあるいは画像資料までたどり着き、それを研究成果に用いたとしても、ほとんどの場合そのような利用のプロセスを触れない。その結果、まるで群書を読破したかのようにピンポイントで関連資料が提供される。特定のデジタル資源を開発し、制作するために研究機関や研究者が計り知れない知恵と労力をつぎ込んだにもかかわらず、そのおかげで使用された資料は所蔵関連で記される程度で、デジタル関連の貢献はなにもなかったかのように見過ごされてしまう。データベース作業を真剣に取り組んだ研究者ほど、この経験は切実かと思う。

そのような研究成果の記述の仕方に意見を言うまえに、デジタルデータを作成する側にも対応すべきことがあるかもしれない。突き詰めて言えば、「使える」という意味で、現行のデジタル成果の形態は、在来の研究発表のスタイルに十分に応えていない。「使える」と言えば、どんな調べ方にも対応する、充実なヒットが生まれる、使い勝手がよい、という条件は、もちろんその基礎である。一方では、そのように得られた結果を通行のスタイルで記述できるかどうかも、同じく「使える」かどうかの必須条件だろう。考えてみれば、最先端の携帯読書機械だって、電子書籍となれば、ページ捲りの動画ひいては音声などを再現しようと、余計な機能をいっぱい詰めてしまう。そうすることの理由は、あくまでも在来の紙媒体の書物を読む慣習を模擬することを通じて、読書経験の連続性を図るものにほかならない。ならば、学術活動の一環として開発するデジタル成果の表現方法は、現行の学術発表の様式を尊重し、引用されたり、再現されたりするための、すこしでも抵抗の少ないフォーマットを案出する努力をしなければならない。内容を特定する長々としたサイトアドレスは、サイトの中でなら問題がなかろうが、出版形態の引用には向かないことは、だれの目にもあきらかだ。さらに言えば、多くのデジタルリソースは、電子環境での手軽に内容を変えられる特徴に捕らわれて、すこしでもより充実したものにしようと改変や更新を続け、それを一つの完成品にする責任を拒んだ向きさえある。未完成でいて、いつまでも変り続けるということは、研究成果の記述が漏れる結果に繋がる。もしこの観察がさほど間違っていなければ、対応の仕方は意外と簡単かもしれない。たとえば、はっきりしたシリーズ名を添えて、オンラインと連動する、読みやすくて個別に保存できるものを、PDFなり、EPUBなり単独の形で提供したら良いはずだ。特定の内容のものについては、確定してこれ以上変えないという姿勢を表明し、かつその担保として使い手に形のあるものを手渡せば、研究利用、とりわけ成果記述のために大きく環境が整ってくるのではなかろうか。

つぎは、研究機関への期待である。新たなデジタル環境の誕生は、さまざまな形をもって在来の社会的な仕組みの再編成という結果をもたらす。その意味では、日文研という、他と較べて歴史の浅い組織は新たな可能性に直面している。

過去四半世紀にわたり、日文研を訪ね、ここで得難い研究生活を送った外国人研究者の数は、数百に及ぶだろう。ここで主催された共同研究に参加経験を持つ国内の研究者となれば、おそらくさらに一桁上の数字になろう。膨大な数の国際シンポジウムや出版物などに集約されたように、日文研という機関の一番の特色は、まさに国内外にわたる学際的な学術交流と研究である。そうなれば、デジタル環境を生かして、このような日文研の過去の経験者たちをコアなメンバーとする、学術研究のさまざまな分野のための研究・交流の場を設けることは、およそ自然な展開であり、これこそよその研究機関には簡単に追随を許さない分野である。デジタル環境の現状では、現在日本の学術活動において、伝統ある中堅の学会でさえ、例会を周知させるためのホームページを持たず、そのようなきわめて初歩的な情報を知人などを通じて聞きまわるほかはない。また共同研究では、紙媒体の出版には向かないような成果となれば、適当な発表の場が皆無に等しい。一方では、デジタル媒体を用いて成果を公表することにおいて、日文研はすでにいくつかのプロジェクトをもって実績を残している。たとえば、多くの大学図書館などは、独自の所蔵のみを対象とするデータベースを作るのに対して、日文研は、それに加えて、「在外日本美術」のような世界を視野とするデータを提供し、現在公開中の「研究支援データベース」群は、最初から研究テーマ上のアプローチである。このような研究成果の記録や発表に加えて、これを用いての国内外、学際的な人的交流、研究基地の形成ということは、まさにこれまでの研究活動の延長であり、デジタルという道具を用いた新しいタイプの、次世代の研究センター像が隠されているものではなかろうかと、一つの理想像を求めたい。

「日文研」への投稿は、これが二回目になる。前回二三号掲載のタイトルは、まさに「デジタルの誘い」。一二年経っても同じテーマを掲げてしまい、足踏みをしているようだが、一回り期待が大きくなったとも言える。デジタルというものが、紙にも匹敵するような新たな道具だとすれば、これからさらに一〇年経っても変化が続き、模索が繰り返させられてもなんの不思議もない。大きな変化の入り口にようやく立ったいま、時代の趨勢が決まってからたしかな足取りで参加するのも一つのシナリオだろう。一方では、より積極的に取り組み、枠組みの形成やルール作りに加わりたい。日文研というこの上ない快適な研究環境に恵まれ、そのような考えがいっそう強まる。
(カルガリー大学教授/国際日本文化研究センター外国人研究員)
日文研 No. 48・2012年3月

2010年12月1日水曜日

不思議な「自炊」 (リレー随筆)

前回の「リレー随筆」で、下野香織先生はフランス滞在秘話を交えて、「以言伝心」を興味深く書かれた。リレーのご指名をいただいたので、それに賛同しつつ、あえて逆説の一例を取り上げてみよう。結論から言えば、並大抵の言語知識を持っていても意味を伝え切れず、首を傾げて苦闘せざるをえない、そのような笑うに笑えない一つの言葉の光景である。

「自炊」という言葉、もちろん知っていると高を括ることなかれ。ここでいう「自炊」とは、食事や料理とはいっさい関係ない、さらに言えば今時のデジタル環境の応用の一こまであり、この言葉の使い方そのものには、日本語表現の無規制な増幅と、社会生活における日本人の道徳的な自制が象徴的に現われていると言えば、どなたかすでにピンときただろうか。

まず、「自炊」の内容から説明しよう。「自炊」とは、パソコンなどで読む電子書籍を自分で作成するという、一つの新しいプロセスを指す。具体的には、本屋から書籍を購入してきて、それをページがばらばらになるように裁断し、スキャナーに掛けてPDFなどのフォーマットの電子ファイルに作成する。なおこのような作業の最大の理由は、本の保管と書斎スペースの確保にあるので、「自炊」を終えた書籍のページは廃棄される運びとなる。注目してもらいたいのは、このような「自炊」とは、一部の極端な愛好者しか手を染めない行動ではないことだ。これまで多くのメジャーな新聞が特別に記事を組んで取り上げている(「朝日新聞」8月19日、「産経新聞」9月25日、「読売新聞」9月27日、など)。さらに、巷では「自炊」するためのスキャナー、はたまた専用の書籍裁断機が売られ、インターネットでは「自炊」請負の有料サービス(一冊100円が相場だとか)の広告が打たれている。

ここでは、まず社会生活としての「自炊」の文化的な側面を眺めてみよう。「自炊」という行動が行われる理由は、いうまでもなく日本の電子書籍環境にある。すなわち書籍を電子の形で購入、閲覧、保存といった技術的な手段が確保された今、これに対する需要が確実に存在しているにもかかわらず、出版社などは、さまざまな理由によって、電子出版には頑として取り掛かろうとしない。一方では、読者の人々はなんらかの方法で電子出版や流通を後押しするのではなく、在来の書籍を購入して、電子化を各自の手で仕上げてしまうという形で対応した。この方法は、電子の媒体の根本的な特徴(複製や流通の利便性)を無視し、各自でデジタル化するという途轍もない無駄を厭わない遠回りなものだ。この行動自体は、一つの意思表現である。その裏には、一種の文化的な矜持が伴っていよう。「自炊」を謳う議論は、電子データの流通どころか、その交換や再利用などにはけっして触れない。電子メディアにおける著作権のことに不確定なところがあるかぎり、それとはいっさい関わらないところに立場を持ち、書籍を実際に購入して、それ相応の代償を支払った物理的な証拠を手にしたことで、著作権侵害のような非難はけっしてさせないという潔癖志向が、ここから否応なしに見受けられる。

話を言葉の領分に戻そう。一つの新語として、「自炊」はまさに不思議だ。まずは確認しておくが、電子書籍の手作りを指すこの言葉の構成は、まったくのデタラメでもない。その由来は、書籍から電子データを「自」分で「吸い」あげることにあったとされる。ただ、この場合、それが「自吸」でもなければ、「ジスイ」でもないことが、ミステリアス。考えてみよう。これまで存在しなかったことを言い表すために、それに対応する表現が必要となり、新しい言葉が誕生する。それにはおよそ三つのあり方が考えられる。既存の言葉の流用、言語ルールに沿った活用、そしていっさい存在しなかった言葉の創出である。それぞれ実例を挙げてみよう。既存の言葉の流用は一番多く、たとえば携帯電話を指して「電話」が用いられ、やがてこれが普通になって、在来の電話が「固定電話」と修飾的な工夫を施さざるをえない。これに対して、二番目のものは言語ルールに沿った活用があり、言葉の活用が魅力的で知的な要素が多い。最近気づいた例で言えば、「就職活動」が短縮して「就活」となり、これに習って「婚活」が語られ、やがて今時の若者の気質を表わすものとして「恋活」が造られる。三番目は一切存在しなかったものを編み出すもので、「KY」などがまさにその典型だ。以上の形で新語のありかたを捉えるものならば、「自炊」はそのどれにも当てはまらない、まさに特殊なものだ。一つの新しい出来事を指しながら、すでに存在していて、頻繁に使われ、かつ意味の関連がまったくない言葉を用いる。しかも、これをもって電子書籍の自作を意味させても、食事を自分で作るという言葉になんらかの影響を与えようとするわけではなく、それと区別を持たせようともしない。一種の言葉の乱暴な応用だとされてもやむをえない、言葉のありかたとして、はなはだ異様なものだと言えよう。

裁断され、スキャナーに掛けられ終わったページの集合は、書籍の変わり果てたもので、もはや書籍とは言えない。だが、それがちり紙として捨てられるのではなく、束ねられて古本屋に流されるとウワサに聞く。つねに電子書籍に惹き付けられている筆者ではあるが、「自炊」という名の、本を裁断することから始まる、本とは言いようのないこの極端な付き合いには、どうしても拒絶感を禁じえない。これなど、ただの愚痴にしか聞こえないのだろうか。

つぎの「リレー随筆」は、ヨーク大学の矢吹ソウ典子先生が快くバトンを引き受けてくださった。いつも学会で刺激の多い発表を聞かせてくれるが、どのようなことを書かれるのか、いまから楽しみにしている。

CAJLE Newsletter No. 41・2010年12月

2010年7月1日木曜日

留学の東と西

このコラムの名は「天南地北」。特集のテーマである留学をめぐり投稿させていただく運びとなり、自然にこのタイトルにたどり着いた。いうまでもなく日本と中国という東アジアにおける東・西であり、大洋を隔てる東洋と西洋である。


まず、一つのささやかな個人の経験を書かせてもらいたい。

いまからちょうど二十年前、さほどまともな準備もせずに英語圏での生活を始めた。未知の外国での生活にありがちなことだが、まずは言葉という壁にぶつかり、失語の苦痛をさまざまな局面やレベルにおいて味わわされた。会話あるいは交流をいかにして身に付けるべきかと、外国語教育においては優雅に構えて論じることもできようが、イントネーションのらしさやしゃべり方のリズムなど構う余裕などまったくなくて、表現の完遂はあくまでも語彙にあるということをまざまざと知らされた。単語選びの的確さ、似通った語彙の区別、その背後にある社会的常識への理解など、言葉との格闘である。その中で、かなり長い時期にわたって悩まされたのは、「留学」という一語だった。英語において、これに当たる言葉はどうしても見つからなかいのである。

これほど単純明快にして、ゆたかな思いや多様な行動パターンが詰められるコンセプトに対応する言葉が英語にないとは、どうしても信じられなかった。思いついたら辞書を調べ、答えが出てこなくてその辞書を疑い、友人に訊ねまわって、満足な説明が戻ってこなければ質問する自分の表現の限界を嘆く。そのような模索の末、得られたのは言いようのないもどかしさばかりだった。

そもそも「留学」とは、日本語の造語に違いない。外国に留まって学ぶというのがその字面の意味だろうが、もちろん外国に渡る事も留まることも思うとおりに叶えられない時代に用いられた言葉だった。したがって留学とは、つねに空間的にも時間的にも普段の生活からかけ離れたものだった。約三十年前に日本に渡って勉学した筆者も、わずかながらそのような留学ということの重みを肌で感じていた。あのころ、旅費など、個人の力ではとても賄えないという意味でまったく問題ではなかった。たとえ留学生として数年生活していて、その間の生活費を切り詰めて帰省の旅費をなんとか工面できたとしても、里帰りするためにはさまざまな考慮や許可が必要とされていた。そのため、国の外に出るということは、一種の言いようのない覚悟が伴ったもので、それこそ大昔の「取経」「遣唐」と照らし合わせて語られるべきものであった。

もちろんそこまでの感覚をもつ言葉を英語に求めようとしたら、あまりにも無謀だ。そうではなくて、ただ純粋に学習制度における留学でさえどうも英語表現に存在していない。普通の辞書などに示されるのは、「study abroad」である。たしかに「外国での学習」だ。しかしながらこれが指すのは、既存の教育仕組みの中の一部であり、日本語に言う「短期留学」「交換留学」のようなものだ。自国の大学あるいは大学院に通わないで外国で勉強し、そこの学位を取得するといった経歴は、英語ではどうしても長い文章を駆使して説明せざるをえず、一言で言い表すような単純なものではない。留学に対する考えの違いは、東洋と西洋の言葉においてその位相がすでに極端に現れている。

そのような留学だから、それを経験した一人の人間へのインパクトは計り知れない。筆者の場合も、いろいろな側面においてそれを経験した。留学生として日本に渡ったのは一九八二年のことだった。大学での専攻は日本語だったため、留学といえば日本だという認識をずっと持っていた。しかしながら同じグループの中では日本について勉強した者はほんの少数派であり、自然科学系の学生が圧倒的だった。「ヨーロッパやアメリカを目指していたんだ」と何回も語ろうとする同級生の顔は、記憶に新しい。一方では、最初の留学生活から十年近く経ったあと、西洋とは知識も縁もないままカナダで仕事を始めるようになった。北米の地を踏んで、同じ年齢や経歴の人々と交流をしてみて、留学した国が異なるだけで、人間がこうも違う性格や考え方を持つものかと驚いたことは一度や二度ではなかった。

特定の知識を習得する傍ら、まったく異なる社会生活の中に入り、それまで身に付けられなかった、ひいては持っていたものと丸きり逆の価値観を体験することが、つねに留学の最大の収穫である。それと共に、異なる考え方に接することが出来たおかげで、自身が捨てずに持ち続けるものに対しても距離を取りやすくなり、客観視できるようになる。加えるに、留学が適えられるのは、学問のエリートと呼ぼうと、裕福な家族に生まれた幸運児だろうと、はたまた個人の弛まない努力の結果だろうと、結果的には少数の人間にすぎない。この事実も、社会や文化の差異について観察、感知することを大きく促し、役に立った。

筆者には、一つのささやかな仮説がある。同じ留学生でも、学部生と大学院生と分けて考えるならば、後者より前者のほうがより全面的に留学先の国の生活に符合し、その価値観を身を持って実践する。しかもそれは大学の評判、専攻の内容、恩師の人間性などにさほど関連がない。その理由は、二十歳前後の四年、あるいは二十歳後半にかけての三年から六年という歳の差にあるのだろう。すなわち言葉の壁を乗り越えるための苦闘も含めて、留学による緊張とその達成が、どこまでも一人の人間の成長に鮮明に刻まれる。留学という経歴は、多感な青春の記憶に集約し、その人の人生に大きな烙印を残す。

留学は、とりもなおさず教育の一環である。教育はその国の政策、施策の大事な構成である以上、時代の進歩、政治の姿勢、人材の育成など多様な立場から取り上げられ、論じられるのも当然だろう。ここにも東洋と西洋との異同が明らかで、興味深い。

まず留学生を送り出すことから考えてみよう。一国の将来を担う若者を育てることにかかわるものなので、西洋も東洋も、程度の差こそあれ、ともに援助する方針を取る。カナダの場合、たとえば筆者の勤務する大学のことを実例にしてやや具体的に紹介してみよう。約三万人の学部生を抱える大学では、少人数の交換留学以外、年間約三十の短期留学を設けている。典型的な構成は、定員二十名、滞在期間一ヶ月、習得単位六単位(学部卒には百二十単位必要)、費用五千ドル、という内容である。外国語勉強のプログラムもあるが、ほとんどは言語学習と無関係なものである。このように年間わずか数百人規模の短期留学のプログラムしか設けず、参加者には、ほぼ全員五百ないし千ドルの奨学金を与える。さらに学生ローンを提供したり、追加的な優遇策を設けたりして、留学をサポートする措置を数々用意してより多くの参加者を募る。

一方、留学生を受け入れるということになれば、西洋と東洋では俄然と大きな違いが見えてくる。カナダの場合、学費の金額を知って、中国や日本からやってきた学生が思わず唖然としたことはしばしば耳にする。それは金額自体のことではない。留学生だということだけで、地方の学生の倍かそれ以上が請求されるからだ。学費は履修する科目ごとに支払うものなので、この金額の差は繰り返し表面化され、余計に立場による待遇の差を思い知らされる。このような対応は、教育に対する社会的な認識に由来する。すなわち教育を賄うのは、税金である。納税者は、国の未来を背負う若い世代に投資しても、外国のために学生を育てる義務を持たない、というのがこのシステムを支えるシビアな発想だ。ここに思わず日本のことを振り返る。現行の外国人留学生の優遇政策は、教育を通じて国をアピールする、あるいは遠方からやってくるお客様を歓待するという発想に寄りかかっているのではなかろうか。因みに、この考え方は日本だけのものではなく、中国や韓国の留学生受け入れ政策にも認められ、まさに東洋的なものである。

終わりに再び言葉の話題に戻りたい。

今の中国語には、留学に関連する新しい表現の一群が加わった。日本風に言えば、年間流行語大賞的なものである。その筆頭には「海亀」「海帯(昆布)」が挙げられる。中国語では亀と帰、帯と待とそれぞれ発音が同じなので、大洋の向こうに行って帰ってきた者、あるいはそのような経歴を持ちながらいまだ仕事がなくて職を待っている人々を指す。さらに、二〇〇九年には「被留学」が喧伝された。本人の意思に関わらず、親あるいは社会の圧力により留学を強いられたとのことを意味する。いずれも留学ということへのこの上ない希望と期待が失望に変わったときの言いようのない気持ちの表われだと思う。ただ海外生活が長い筆者のような人間には、理屈として理解できるにしても、これを体感的には受け入れることは難しい。中国における留学にまつわる社会の視線の変化は、このような言葉において、もう一方の極端な様相を見せてくれる。

時代の移り変わりにおいて、留学、そしてそれが人々にもたらす影響は激しく変容を続けてきた。個々人への関わり方が如何なものにせよ、留学はつねに社会の進歩に寄与し、教育の大事な一部を成すものだと信じる。
『中国21』Vol.33
東方書店
2010年7月、297-300頁

2009年9月1日火曜日

デジタル時代の絵巻研究に寄せて

中世文学会創設五十周年の記念シンポジウムにおいて、二人のパネリストがともに三十年前に刊行された「日本絵巻大成」に触れて、絵巻研究に及ぼした影響を振り返った(『中世文学研究は日本文化を解明できるか』笠間書院、二〇〇六年)。フルカラー、フルサイズの出版が絵巻を研究者の書斎にもたらしたとすれば、日進月歩のデジタル技術はまさにつぎのステージを作り出した。時代の変わり目に巡り合い、そのインパクトの大きさは誰もが身に沁みて感じている。

まず具体的な話から始めよう。いわゆる奈良絵本・絵巻という作品群を印刷された出版物だけで読むなら、今でも三十年前の絵巻の状況と大して違わない。文字テキストが翻刻されるが、作品全点をカラーで読むということはなかなか難しい。膨大な分量の異本も手伝って、それがすべて印刷されることはほとんど不可能に近い。しかしながらインターネットに目を転じれば事情が一変する。現在公開されている画像だけでもじつに一万五千枚以上に上り、しかもすさまじいスピードで増え続けている。画像の平均的なサイズや画質はたいていの出版物に比べて勝るとも劣らない。新たな印刷出版がなくても、この資料群をめぐる研究環境がすでにある程度整ったとさえ言える。

デジタル環境の担い手たちはどのような形でデジタル資料を作ってきたのだろうか。絵巻・絵本のオンライン公開という分野に限って考えれば、およそつぎの三つの流れが指摘できるのではなかろうか。一つ目はその機関の所蔵をデジタルに撮影してオンラインで公開するものである。図書館の蔵書を宣伝し、利用に便宜を提供することが最初の目的であった。中でも京都大学付属図書館はかなり早い時期からそれを実行し、国宝級のものを含む一流の資料を初めてパソコンで眺めたときの感動はいまでも記憶に新しい。二つ目は公立、私立の博物館、美術館である。館内利用のカタログをオンラインに公開し、撮影済みのフイルムを再利用するのが一つの形態である。とりわけ東京国立博物館の場合、目指すタイトルをピンポイントで調べる以外、画像データの全容を簡単に掴めきれないほど膨大な分量である。三つ目は外部の所蔵者との協力である。デジタル公開には専門的なサポートなどが必要であり、すべての所蔵者が公開する技術、あるいはそうする優先順位を備えているわけではない。世界の、そして地域の宝蔵をデジタル化し続ける「世界のデジタル奈良絵本データベース」(慶応義塾大学)、「奈良地域関連資料画像データベース」(奈良女子大学)の貢献は計り知れない。(ブログ「絵巻三昧」参照)

一方、一人の研究者として、絵巻をめぐるデジタル環境にどのようなことを期待するのだろうか。三つのことを記しておきたい。

まずは、サーチエンジンがインターネットの鍵となるように、デジタル画像の現状を把握するツールが一番の課題だ。すでに個人運営の目録サイトがいくつか現われているが、それぞれ限界があって、組織的な取り組みが必要だ。そのあり方として「JAIRO」(国立情報学研究所)が一つの参考になるだろう。論文目録といった作業の延長ではなく、オンラインリソースの集合と集積利用の実現だ。動的に現状を捉え、さらに画像のサムネイルや最小限の文字データの追加が望ましい。

すでに公開されたものは学術研究に積極的に関わりをもつべきだ。いうまでもなくデジタルによる蔵書展示やカタログ提供は、それだけでも非常にありがたい。しかしながらそのような公開と学術利用との間にいまだ隔たりがあり、しかもそれを意図的に作り出す傾向さえある。たいていのデジタル公開は引用禁止を原則とし、申し込みがあれば許可するという形で使用申請を要求する。その逆の対応、すなわち研究者の利用を歓迎し、明確なタイトルや作成日付などの関連データ、内容変更をしないとの約束を明記して引用を可能かつ簡単にすることができないのだろうか。データの悪用を心配する声がすぐ聞こえるが、まれなはずの悪用を退治するのではなく、それを恐れるがためにあるべき利用を妨げてしまっては、代償があまりにも大きい。

デジタル環境の創出において、異なる分野間の交流や協力が大事だ。新たな技術、データのあり方やその理想像に対する関心、常識と希望のぶっつけあいこそ一番建設的だ。さらに知識や情報を載せる新らしい媒体を作成するに当たり、業績ある研究者だけではなく、大学院生などの学習者たちも参加すべきであり、しかも彼らにも重要な役割があるはずだ。そのような仕組みを積極的に作り上げなければならない。

新らしいデジタル時代において、われわれはいまや選ばれたタイトルを書斎にではなく、数多くのコレクションをまるごと自分の机の上に据えられるようになった。しかしながら環境が目まぐるしく変わっていても、研究をするのは研究者だ。どんなデジタルリソースが現われてきても、答えが自然に分かるようなマジックは起こらない。われわれにできることは、先入観を持たないで環境を見つめ、新たなツールを使いこなせるように努力するぐらいだ。その上、ツールそのものの進化にも寄与できればなおさら良い。
『文学』岩波書店
2009年9月、228-229頁

2008年9月1日月曜日

『岩波古語辞典』をいただく

楊暁捷(昭六三博士)

手元に一冊の『岩波古語辞典』がある。本屋や図書館でもあまり見かけない机上版で、何回引越しをしても、いつでも本棚の手がすぐ届くところに置いてきた。佐竹先生からいただいた大事なプレゼントである。

あれは、国文研究室の門を潜って数ヶ月経ったころのことだった。中国の大学を出て、まったく未知の世界に足を踏み入れて、言葉も文化も仕来りも人の顔も何一つ分からないまま、ただただ周りの好意に縋っての無我夢中の毎日だった。そんな中、佐竹先生に廊下で名前を呼び止められ、先生の研究室に案内され、これをさっと手渡された。辞書に挟まれた贈呈の便箋には「祝京都大学大学院修士課程入学・一九八三年三月」と先生ご自筆の文字が添えられている。人に見せることも憚るような、この上ない喜びを伴う宝物である。

佐竹先生の思い出は、国文大学院の先輩や同級生の間に交わされた会話の数々から始まった。佐竹先生の浩瀚な学問や大きな存在感は、つねに研究室での学生同士の好話題だった。先生の本が出版されたら、みんなで競って通読して自分なりの読書感を披露し、一般の視聴者を対象にした先生のラジオ講座が放送されると、それを丁寧にテープに取り、大事に分け合った。いうまでもなく、なんの予備知識も判断の基準も分からなかった私には、そのような会話に参加できるはずもなく、ただ張りつめた集中力を以ってじっと聞いて、理解しようと懸命だった。「ダンディー」の一言が出ると、こっそり辞書を披いて意味を調べ、自分が目にした先生の後ろ姿、書籍などに掲載された写真などを眺めて、実際に意味するところ、それを取り巻く価値感覚を確かめた。そのような経験はすべて新鮮でいて刺激に満ち、研究書を読む以上に勉強の思い出となった。

あのころの国文研究室では、先生と学生との間につねに言いようのない緊張感があった。リラックスして先生と交わした会話は、数えられるほどであった。毎年、忘年会や新歓コンパが開かれ、それも普段は訪ねることのない珍しいところを会場にし、宴会の場で歌を歌わされたりしたこともある。しかしながら、宴会が済み、院生たちがほぼ全員つぎの飲み屋へ向っても、そのような二次会に先生方が現われるようなことは、一度もなかったように覚えている。そのような距離感が、勉強の励みになった。先生には厳しく見守られている、そのような先生を失望させないためにでも失敗を少なくしないと、との思いはみんな共有していた。修士論文試問の席で、佐竹先生から受けたご指摘、そして新しい研究方向へのご指示には、どんなに勇気を与えられ、そのあと、どれだけ反芻したものだろうか。短い大学院での学生生活の単純でいて朦朧としたひた向きな読書の毎日は、すべてその年齢ならではの貴重なものであり、一生の財産である。

佐竹先生に最後にお目にかかったのは、国文学研究資料館の館長室内だった。先生から親しく声を掛けられ、研究のことなど恥ずかしくてとても持ち出せなかったが、その代わり、カナダでの仕事、自分の家庭や子どものことまで話したと記憶している。大学院で教わったころからすでに十年以上経っていたはずだが、やや痩せられた以外、佐竹先生のまったくお変わりのない、厳しくて親しい顔が、いまでも昨日のことのように脳裏によみがえる。
(京都大学国文学会会報、平成20年9月、56号)

2008年7月1日火曜日

「KY」な日本語

去る4月の終わりに東京での八ヶ月にわたる研究滞在を終えた。久しぶりに日本でじっくり腰を下ろして暮らしてみて、言葉の表現にもあれこれと見識が得られた。その中で印象深いことを一つあげるとすれば、恐らくやはり「KY式日本語」にほかならないだろう。

カナダで生活していても、気づいた人が多いかと思う。「KY」とは、「空気が読めない」とのこと。言わば、その場の雰囲気や人々の感情には疎く、周りから浮いてしまう変わり者だという、人の性格についてのネガティブなレッテルだ。あえて解説するまでもないが、英語の略語の格好をしていて、英語の言葉とは関係なく、日本語をローマ字に書き換えたうえで、その頭文字を集めたものだ。もともとこのような言葉の作り方は、「KY」という一語から始まったものではなく、たとえば「NHK」だって、「日本放送協会」の頭文字だから、れっきとした「KY」語だ。ただ、そのような言語学的な議論とは関係なく、いまや「KY」を筆頭に膨大な数の言葉の一群が現われ、それも言葉遣いに自由奔放な若者だけではなく、大の大人やマスコミまで巻き込んでしまうのだから、シマツが悪い。

そもそも「KY」にスポットライトを当ててこれを一挙に表現の表舞台に引きずり出したのは、去年の秋ごろに、いまから一つ前の内閣総理大臣についての捉え方としてマスコミがこの言葉を選んだことに始まった。それにより一挙に「KY」、そして「KY」のような言葉の存在が注目された。わたしが実際に出会った二つの実例を記しておこう。前後して会った二人の昔からの友人のことである。その一人は、研究一徹の頑固親父のイメージを地でいくような人で、ビールを飲み交わしたら、しみじみと中学生の息子さんに「KY」と揶揄され、空気に合わせるもんじゃないと諭してやったとのエピソードを披露してくれた。もう一人のほうは、いつでも自己主張をはっきりしていて正論を張り、そのため学生に慕われるタイプの大学教師で、自分の教え子たちから、「KY」でいて、空気が読めないのではなくてそれを「読まない」と言われたんだよとにんまり。生きた言葉、そして機敏に富んだ言葉遣いがありありと伝わってくる会話は、何時まで経っても記憶に残っている。

「KY」語の妙味は、そのもっともらしい格好からは、とても簡単に想像が付かない意味あい、言い換えれば、字面と中味とのギャップだった。たとえば「AM」は「後でまたね」、「WH」は「話題変更」という辺りは、まだ無難で微笑ましい。「JK」(女子高生)、「DD」(誰でも大好き)は、洒落ていて感心してしまう。しかしながら、「MK5」(マジキレる5秒前)、「ATM」(アホな父ちゃんもういらへん)となれば、どう考えても内輪でしか通用できない隠語に過ぎない。このような言葉でまともな交流ができるとは、正常な感覚からすればとても考えられない。

ここに来て、日本の社会でのこのような言葉への対応が、むしろ興味深い。「KY」語が面白そうだと思ったら、もうりっぱな学者から大手の出版社まで一斉に取り掛かり、語学的な議論、文化論的な観察、はては「単語帳」「辞書」まで作りあげ、あっという間にそれを本屋に並べてしまう。けっして新しい潮流に乗り遅れまい、知らないで笑われたら堪らないといったような思惑が見え見えの構えだった。まさに日本風の大人の対応の典型であり、日本的な言語感覚、ひいては社会生活のバランスを覗き見できた思いがしてならない。

「KY」語とは、あくまでも一つの言語風景だ。紙上の空論だけでは始まらない。ならば、自分でも感覚が掴められるものかと、気楽に掛かって作文を思い巡らした。苦労したあげく、つぎのようなものしか思い浮かばなかった。

「世の中はKY語がはやっているが、その使い方となればどれも「CB」(超微妙)でいて、「IW」(意味わかんない)。声掛けられても「HT」(話ついて行けない)、やっと分かったと思ったら、「TK」(とんだ勘違い)。いらいらして「MM」(マジムカつく)。無理するもんじゃない。「TD」(テンションダウン)だ。お手上げだ。」

タイトルには、もっともらしく「日本語」と付けたが、実際は、はなはだ身勝手な「KYな日本語教師」にしかならなかったのかもしれない。

Newsletter No. 36・2008年7月

2007年12月1日土曜日

ソウル紀行

私は現在研究休暇で東京に滞在している。先日、ある小規模の国際研究集会に参加するためにソウルを訪ねた。約五年ぶりの韓国旅行で、数々の思い出が出来た。

日本の中世文学をテーマに日本で研究生活を送ると、ふだん会話をしている周りの人間は、どなたもいわゆる国語国文学出身で、日本語とはきわめて遠い存在である。しかし韓国へ渡ってみると、新しく出会った人も、久しぶりに会う古い友人も、みんな何らかの形で仕事として日本語教育に携わっている。いわば同業者の思いを分け合い、自然と会話が弾み、そして内心、周りの看板など見た目以上に外国に来たとの実感を受けた。

韓国人の日本語レベルは高い。言語的に日本語と韓国語が近いなど、繰り返し議論される話題ではあるが、それでも実際の様子を伺うと、やはり驚くばかりだ。たとえばつぎのことを教えてもらった。日本語を専攻とする大学生の多くは二、三年生の時点で日本語能力試験一級に合格してしまう。ほとんどの大学は、一級合格をごくあたりまえのように卒業の必須条件とし、それをどうしてもクリアできない生徒には、代わりの試験を用意したりしてフォローするような政策もあるが、あくまでも例外とのことである。日本国内では、一級合格は、留学生にとって大学入学のための基準だということから考えて、当たり前といえば当たり前だ。でも、カナダで日本語を教えていて、それがどれだけ難しいことかは、身をもって知らされている。

一方では、大学での講座設置の様子などを尋ねたり、観察したりすると、日本語関係の学科はほぼ例外なく日本語を外国語として習った韓国人が中心となって運営し、しかもその中では男性教官の数が圧倒的に多い。それに対して、母国語話者の日本人は、あくまでもお雇い外国人として大学の教壇に立つ。だが、それにもかかわらず、日本からやってきた先生方は、韓国の魅力に惹かれて、つい永く居てしまう。いうまでもなくそのような先生たちは学生にこよなく愛され、電車とかで偶然に出会う先生と学生との流暢な日本語での会話を傍から見て、やはり心温まる光景である。

いまや韓国では日本ブームといわれて久しい。実際にソウルの街角を歩いていても、それを実感することができる。われわれ十数人の小グループは、電車を使って会場への移動を繰り返し、どこでも遠慮なく日本語で会話をするが、それでもさほど周囲からの特別な視線を感じない。繁華街や地下鉄の看板などは外国語を併記し、それがほぼ韓国語、英語、日本語、中国語という順番を保つ。だが、実際に市場などの人々に会話を持ちかけると、英語よりも日本語がよく通じる。夜遅くまで繁華街の道端の特設ステージで歌や踊りのパフォーマンスが続き、登場するアイドルたちの服装や仕草には、やはり日本の影響が目立つ。一方では、新聞や書籍の文章からは漢字が急速に消滅した。古典資料では韓国の文献も漢字頼りに親近感を持っていただけに、どことなく寂しく感じた。

短い滞在の最終日、すべての活動が終わったあとの真夜中近く、親しい韓国人の友人に案内していただいて、清渓川の川沿いを散歩した。ソウル市内の幹線道路を取り除いて古い川を再現して、二、三年前に完成したとのこと。韓国の底力を覗いたような思いだった。

Newsletter No. 35・2007年12月

2007年6月1日金曜日

ブログ・日本語の風景

大学の春のコースを担当して、20名の学生を語学研修に東京へ連れて行くことになった。元気はつらつな学生たちには、調査や研究のプロジェクトを課す。若者たちはそれにはきちんと応えてくれる。そこで、勉強をさせるだけでは能がないと思い、半分学生たちの情熱にほだされながら、自分もなにかをやってみようという気になった。思いついたのは、インターネットで流行のブログだった。名付けて「日本語の風景」。

ブログとは何か、いわゆるホームページとはどう違う、とすぐ聞かれる。手短く言えば、本質的な違いはないと考えてよい。あえて言えば、ホームページは人間あるいは特定のテーマを取りあげ、それについての体系的な情報なり知識なりをまとめて載せる。対してブログとは、ほぼ定期的な情報の追加を特徴とする。言い換えれば、前者は考え抜いたものを丁寧に構築して、それをいっぺんに公開するのに対して、後者は特定のテーマをめぐり、現在進行形に内容を付け加えていく。それから、読者の発言がそのまま公表できるのも、ブログの基本機能になっている。現実の中では、ブログを発信の場とする人が多く、Google、Yahooなどの大手のプロバイダーが提供するスペースやパターンをベースにして、驚くべき広範囲の、深みのある議論が交わされている。

その中で、わたしが選んだテーマは、仕事の対象である日本語である。言葉そのものだけを議論の対象にするのではなく、日本語の使用者、学習者、さらに日本語を第二外国語として習った経験者といった、複数の立場を交互に取ることにした。いわば日本語への観察や思考を通じて、日本語の豊かな表現、楽しい仕組み、場合によってはいささか理不尽な言い回しなどをメモ風に記していく。以上の考えを気軽に読んでもらえるように、一つひとつの条目には、テーマに沿った写真を添え、広がりを持つように関連のサイトを一つないし二つ選んだ。さらに自分のクラスの学生たちにもある程度意味が伝わるように、毎回二、三行の英語によるハイライトも付け加えた。

ブログとは、定期的に書き出すものである以上、それを実践しようと思った。やや過酷だと承知しながら、一日一題を自分に課した。正直に言って、このような経験はこれまでまったく持ったことがない。はたしてそれが可能かどうか、それをこなすためには、どのようなリズムをものにしなければならないのか、まったく未知の世界だ。でも、その分、スリリングな挑戦にも思えた。ただし、自分にはそのような決心が実行できるように、「六十日限定」という逃げ道を用意した。このブログを学生たちと一緒の旅行の土産にし、旅行が終わるころには終止を打つ、ということだ。たとえて言えば百メートル競走の覚悟で取り掛かる。競走には気力を搾り出すぐらいの苦労がつきものだ。そこまでしても得るものは、もちろんあるはずだ。自分に観察や思考を促すきっかけ、そのような考えをおぼろげにも形に残しておく仕組み、そしてそれを他人と交流できる形で発表する場をもつこと、挙げてみればまずこれぐらいのことは言えるだろう。 

ブログの大きな魅力の一つは、同じテーマに関心をもつ人々と交流できることだ。それは、毎日なにかと書き出しているわたしのささやかな夢でもある。皆様もどうぞお暇なおりにでも覗いてください。そして、「友情出演」ならぬ友情投稿を期待したい。

(日本語の風景:http://nihongo2007.blogspot.com

Newsletter No. 34・2007年6月

2006年12月1日金曜日

NHKスタジオパーク見聞録

夏の終わりにひさしぶりに一人で日本を訪ねた。わずか七泊のスケジュールで、二つの講演、一点の貴重資料の調査と、駆け足で五つの都市を廻った。CAJLEの皆さんがトロント年次大会に楽しく集まったころ、東京の渋谷界隈をぶらぶらし、蒸し暑い日本であれこれと思い出を作った。その中の一つをここに記してみたい。
 
滞在の最終日、旅行社の人が繰り返した楽観的な予想に反して、帰りたい日のチケットはどうしても手に入らず、おかげでなんの約束も入っていない空白の一日が出来てしまった。これといった目的もないまま、とにかく新宿方向へと歩き出した。広い公園を横切ったところ、そこはNHKスタジオパークだった。ホットな日本の映像を毎日見せてくれるNHKだから、さっそく入場券を買って中に入った。でも、そこは子供づれや地方からの観光客で賑わい、私にはいささか場違いなものだった。一通り見て、出ようとしたところに、番組生放送見学の看板が目に飛び込んできた。番組の名前は「スタジオパークからこんにちは」。見物客の中を通ってゲストをスタジオの中に迎え入れ、二人のホストがゆっくりと話を聞くというユニークな番組は、学生時代の思い出にあって、それだけで懐かしかった。

番組のポスターを改めて見たら、ホストには有働由美子との名前が載っていた。あの有働キャスターだ。「ニュース10」のスポーツキャスター、メインキャスターを勤め、テレビ画面に毎日映っていたNHKの顔だった。日本の夜の10時は、カルガリー時間の朝6時か7時なので、毎日のように朝起きてはその日のニュースを見て、日本の出来事や話題を、ときには音声やビデオテープを携えて日本語の教室に持ち込んでいた。今年の春になってその番組が消えてしまったことは、残念でならなかった。テレビ画面の向こうにいるアナウンサーをこの目で見られるのだと、どきどきして見学の方法を尋ねた。放送時間より二時間前に申し込み、希望者が多すぎると抽選になるとのことだった。私のように時間を持て余した人はそんなにいなかったからだろうか、何の苦もなく見学の番号をもらい、スタジオ内にあるレストランで定食を取って、放送開始30分前にスタジオの中に入れてもらった。

スタジオの中では、放送まで3時間ほど前から十人ぐらいのメンバーのチームがずっと慌しく動き回っていた。有働キャスターはその中心に座り、台本を入念にチェックしていた。開演5分ほど前になり、二人のキャスターがまず現われ、観客、見学者たちに盛り上げるように指示した。男性の小川浩司キャスターは見学者に向かって、「一番遠くから来ている人は」と問いかけたので、迷わず手を挙げた。「カナダからの見学者までいるのよ」と、カメラがスタジオに切り替えるまでのほんのわずかな時間の中で、ゲストにまで紹介された。

その日のゲストは、前田吟さんだった。寅さんの映画に妹婿としてぜんぶに出演し、いま放送中の大河ドラマに出ているなど、まさに時の俳優なのだ。雑談のような形で番組が進み、しかもこんな長寿番組で勝手が知り尽されているはずなのに、丁寧な準備ぶりには舌を巻いた。与えられた席はちょうどメインカメラのすぐそばなので、カメラマンの手元の、ぎっしりと書き込まれた台本をときどき覗くことが出来た。すべての内容は台本通りに進み、ゲストも質問の内容を心得ていた。見たところ、一つだけの例外は、カラオケの話になって小川キャスターが「十八番(おはこ)は」と聞いて、それを歌ってほしいと迫ったあたりだった。ゲストは明らかに戸惑い、それを有働キャスターが円滑に助け舟を出した。ホストは二つぐらい用意された質問を割愛させられたらしく、プロデューサーと思われる人は、ずっと厳しい顔でボードに時間のことなどを書いて指示を出し続けていた。
 
一時間の番組はあっという間に終わった。ゲストが帰ってからは二人のキャスターが見学する人々に丁寧に話しかけた。そこでカナダから来た私のことが再び話題になり、有働キャスターは淀みなく英語で質問し、中国語で挨拶した。テレビカメラは止まり、撮影も禁止で残念だったが、今度はカナダから学生を連れて見学にくるとお応えし、いい思い出になった。

日本語の教室では、NHKの番組はつねに理想的な教材だ。一方では、著作権などのことで思うままに導入することができないのも現状だ。思えば現在の著作権のありかたとその発想はメディアの発展に伴っておらず、テレビ番組について言えば、もっとたくさんの人々に見てもらいたいという製作の狙いとは必ずしも一致していない。いつかはこのような状況に変化が起こり、日本と日本語に関心を持ち始めたばかりの外国の若者たちも、かれらの日本語の先生が選び、解説をつけた番組を楽しめることができるようになることを願ってやまない。

Newsletter No. 33・2006年12月

2006年10月1日日曜日

音声メディアに思う

中世文学会成立五十周年にあたる全国大会に参加しようとする願いはついに適えられなかった。しかしながら、笠間書院関係者の好意により、大会の録音テープから起こした記録が電子メールを通じて送られてきた。普段は本や論文でしか接しない方々の顔や話しかたを想像しながら大会の雰囲気に浸り、知的な刺激いっぱいの発表や討議を文字にて聴講するというありがたい経験ができた。とりわけ中世の画像資料へのアプローチを「メディア・媒体」という切口で迫ったパネルからは、少なからずのものを学んだ。数々の在来の、そして新生のメディアが交差する中で、その恩恵を受け、時にはその発展に振り回されつつ、歴史と文学の古典を見直す有意義なきっかけを確かに垣間見る思いをした。

同パネル討論の中では、メディアというものへの捉えかたが議論され、「情報伝達のためのメディア」とこれを限定したり、あるいは「メディアとしてのジャンル」として、在来の文学研究の伝統に組み入れたりするような、教示に富む指摘があった。ここに見えてくるのは、「メディア」という言葉が中世文学の研究においてあくまでも一つの新しい外来語だという事実だ。この言葉の参加は、ニューメディア、マルチメディア、電子メディアといった、電子の世界が凄まじいスピードをもって広まったここ十数年来の世の中の変化に関連すると言えよう。新しいタイプのメディアの出現、活用、定着への関心は、そのまま在来の伝達手段への観察と再認識へと繋がり、これまでにない電子メディアが脚光を浴びることにより、それに対する印刷メディアの性格が新たに知らされ、そして伝達の方法が異なる文字と絵のあり方への新たな視線が生まれる。言ってみれば、単なる技術の進歩が、物事への考え方、捉えかたに投影するという格好の実例がここにある。

メディアへのアプローチはいうまでもなくこれからの研究課題の一つだろう。それと同時に、メディアからのアプローチが、すでに大きな課題を提出している。初心に立ち戻り、メディアで考える文字と絵を見直せば、これに同列するもう一つのものを忘れることはできない。両者にほぼつねに存在していた音声だ。

思えば、記録手段における古典と現代の一番の違いは、音声の不在だと言えよう。いつの時代においても、情報伝達や感情表現のために、人間から人間へと声が用いられ、そして先の世代に行われたそれを記憶し、再現しようと努める。しかもほぼすべての場合おいて、声は文字、絵よりさきに存在していた。日本文学でいえば、古典、とりわけ中世文学のジャンルのいくつかをまたがる「物語」という称呼がまさに象徴的だ。さらに言えば、平家琵琶で一世風靡した覚一がもし電子レコーダーを握っていれば、覚一本というようなものはそもそも存在する理由さえなかったに違いない。音声というメディアを確実に記録する方法がなかったからこそ、文字が次善的な選択として用いられた。そして、その文字資料が、今日の文学研究の最大の対象になり、ときには他の資料に対して排他的と思われる傾向さえある。

古典を記録し、過ぎ去った時代における人々の記憶や感動を体験するためには、音声メディアの復活がかならず必要だ。そのためには、音声を記録する手段は昔からなく、音声そのものが伝わっていないということは、新たな研究を始めさせるための理由となっても、それを妨げる要素になってはならない。

以上のような提言への戸惑いは、おそらくまずつぎの二つがあるだろう。一つは昔通りの音と声、文学で言えば語りや朗読を再現することは不可能だ。いま一つは、人間の声というものは、文字や文章以上に個性のあるもので、現在に生きる一人の個人と昔の文学との開きはあまりにも大きい。言い換えれば、古典を記録し、それを同時代やつぎの世代に伝えるためには、必ず昔のままで、かつてあったものをその通りに再現しなくてはならないという考えだ。

しかしながら、古典は昔のままというのは、ただの錯覚にすぎない。われわれが一番安心して読んでいる文字資料からして例外ではない。文章をなす仮名遣い、漢字の使い方は絶えず読む人の知識や習慣に従って変わり、書写と印刷の字体、巻子、冊子と現代書籍の様式といった物理的な形態は時代の移り変わる中で大きく異なる。現代のわれわれが読んでいる古典は、昔の人々に読まれていたものとはかなりかけ離れている。同じことは画像資料についても言える。分かりやすいヒントは、おそらく近年模索されている絵巻の復元といった実例から求められよう。気が遠くなるような膨大な作業の果てに、絵巻は平安時代にかつてあったと思われる姿を見せた。突如して現れた鮮明な色彩や精細な描写から、本物を目にした興奮を感じるのか、はたまた違和感を覚えるのかは、見る人の立場によるものだろう。だが、同じはずの作品が呈示するほとんど異質に近い別の姿は、古典の昔と今の相違の大きさを端的に物語っている。

声の個人的な性格はやや違うことを考えさせる。書写された文字資料が翻刻され、印刷されるようになったプロセスは、古典作品がかつて帯びていた個人的な面影を無くし、共通にして均質な様相をもたらす。これに対して、音声をもって古典を記録することは、一人の個人をもって昔の別の個人を置き換えることを意味する。しかしながら、どのような作品にせよ、一つしかないような声はかつて存在していたのだろうか。声はいつでも個人的なものだったからこそ、長い時間の中で、伝達と表現が無数の人々により多様に繰り替えされてきた。ここでは、そのような実践の続きを望み、それが記録されることを願うのである。

以上の考えを現実に試みるものなら、どこから始めたらよいのだろうか。絵巻こそ格好の内容ではなかろうかと思う。絵巻の享受には、音声の参加がつねに伴い、音声というメディアの存在は、絵巻そのものに接するために最初から欠かせない一部分である。これまで行われてきた文字資料の翻刻、画像資料の撮影と同様、現代の人々に分かる、楽しめるものを目標にし、目で読む詞書を音声に記録しなおすという「絵巻音読プロジェクト」が実施できないものだろうか。ちなみに、『源氏物語』を平安日本語に復元して読み上げるという試みが行われたが、現代の人を対象とし、今の人々に聞いてもらうことが目的なので、そのようなことがたとえ可能だとしても避けるべきだと付け加えたい。

絵巻の詞書なら比較的に取り扱いやすい理由はいくつも挙げられる。文体として仮名書きが多く、絵の対応があって、しかも文章は短い。だが、それでも紐を解いたらすぐ読み始められるというものではない。人名、地名などの固有名詞もあれば、さほど常用されない漢語もある。それに加えて、声を出して読まないと気付かない課題は数々存在している。たとえ「今日」という言葉を持ち出しても、はたして「けふ」なのか「こんじつ」なのか、決めなければ声に出すことはできない。丁寧な考証を行い、文字資料を翻刻して定本を作るという古典文学研究の経験と知識を生かした、音声の定本を仕あげるという態勢が望まれ、多数の学者や大学院生の参加が期待される。

最後に、近年目まぐるしい発展を続ける電子メディアのありかたに触れておきたい。人々の日常生活に関わりを持ち始めた電子メディアは、文字や画像資料の記録、検索などに続き、音声の分野へようやく大きく関わりを持つようになったと見受けられる。インターネットに登場した「ポッドキャスティング」という音声伝播の方法は、わずか一年あまりで驚くばかりの人気を得て、膨大な数の人々を捉えた。音声を記録するという作業を行うには、ラジカセのテープに吹き込むということは、いまやすでに過去の時代の方法となってしまう。アナログの磁気信号をもって音声をテープに記録するという技術は、内容を正確に記す、簡単に聞ける、という利便を与えてくれたと捉えるならば、音声をデジタル信号に置き換える電子メディアは、この二つの要素を受け継ぎながら、さらにそれを確実に伝えるという可能性をつけ加えた。より低いコストをもって、記録の保存、伝播ができ、しかも製作者、享受者の拡大に伴い、新たな使用への対応、単一のメディアからマルチメディアへの展開が期待できる。

時代が進む中で、古典の作品を目だけではなく、耳を使って接し、これを楽しむという、かつてあった享受のしかたを改めて体験できる日はやがてやってくるだろう。そのような可能性を現実のものにし、音声による記録をつぎの世代に残してあげることは、中世研究におけるこれからの課題の一つだと提言したい。

『中世文学研究は日本文化を解明できるか』
中世文学会編、笠間書院
2006年10月、359-363頁

2006年6月1日木曜日

古典は声で届けよう

前回、この欄目で「ポットキャスティング」のことを書いた。それからの半年、ほぼ一日も欠かさずにインターネットから取り込んだ音声内容を楽しんできた。名作や文芸番組もあれば、その日その日のニュースもあった。そしてこのような時間が続く中で、自分からもなんらかの発信をしてみなくてはとの衝動に駆られた。わたしの研究分野は日本の古典である。「ポットキャスティング」で定期的になにかを公表することはとても無理だが、小さな規模の内容をまとめて作ってみることなら、それなりに可能だ。今回はそのささやかな試みの結果や、それに至るまでの考えを記してみる。

とりあげるタイトルは『後三年合戦絵詞』という鎌倉時代に作成された絵巻である。現在は東京国立美術館に保存され、重要文化財に指定されているこの作品は、日本中世の絵巻物の基準作だとされている。絵巻に描かれたのは、十一世紀の終わり頃、東北の地で繰り広げられた中央の武士源義家と地方の覇者清原家衡・武衡との間の合戦だった。そこに語られたストーリの数々は、平安時代の武士たちのあり方を語るうえで、由緒ただしいエピソードとして頻繁に引用されて、広く知られている。一方で、私はストーリを伝える絵の役割や表現の方法を考えるという課題をもって、過去数年の時間をかけてこれを読み続けてきた。これを対象に音声表現を試みるということは、作品へのもう一つのアプローチになることは言うまでもない。

一点の絵巻の作品に音声を加えるということは、古典研究という立場からすればいくつかの理由が挙げられ、とりわけ古典の基本に関わる次の二点が大事だと思う。一つ目は、絵巻というジャンルは、昔から絵と音声との競演によるものだった。絵巻の絵を見ながら、そこに添えられる文字テキストを誰かに読ませてストーリを楽しむということは、平安や鎌倉時代の日記資料などに多く記され、ひいては絵巻の中のユニークな場面として描かれていた。貴重な作品を借りるなどして手に入ったら、尊敬のおける文人に頼んで読み上げてもらい、その傍らで絵の鑑賞に耽るという公家貴紳たちの姿を思い浮かべて、絵巻とは今日におけるテレビか映画のような物だったと言えよう。二つ目の理由は古典全体に及ぶ。日本古典文学の中心となるものが「物語」だったことが象徴しているように、もの(ストーリ)を語るということは、つねに文学活動の中心だった。かつては音声によって伝達されていた内容は、記録方法の制限により、今日のわれわれには文字に記されたものを目で読むという方法しか接することができない。だが、消えてしまった音声そのものを聞く可能性を持たない今日になっても、ストーリを耳で楽しむということを追体験することは、あっていいように思われる。

一方では、上記の二つの理由はそのまま二つのチャレンジとなる。二番目の伝達の手段としての音声から言えば、かつて行われていた文学享受の体験を思い起こさせるためには、はたして自分の声でいいのだろうか。発音のありかたから表現の能力にいたるまで、その落差はあまりにも大きい。そして一番目の、絵と文字との競演だが、テレビや映画を連想して、享受の在りようを思い描くにしても、完全な答えがそこにあるわけではない。絵巻とは今日のマンガにあたるとすれば、それをアニメ、さらに俳優実演の映画に仕立てるためには、いくつか質的な飛躍があって、安易に短絡させては重要な要素を見失う危険に直面してしまう。言うまでもなく、私は以上の難題に答えられるといった大それた自信をもっているわけではない。それどころか、文字テキストの空白をどう埋めていくかといった初歩的な作業から、すでにしどろもどろに苦労しはじめたものだった。たとえば「今日」という二文字でも、はたして「けふ」なのか、はたまた「こんにち」なのだろうか、音声に直してみないと気づかない課題は山積みだ。結局私にできることはただ一つ。丁寧に、知りうる限りの方法をもって考証を重ね、自分なりの一つの音声バージョンを試作して、可能な答えの一つを提供してみるのみだ。

絵巻『後三年合戦絵詞』の文字テキストは、計十五段、約八千文字に及ぶ。いまは原文と全文の現代語訳の両方合わせて約七十分の朗読をすべてインターネットに載せた。サイトのタイトルは、「音読・後三年合戦絵詞」。お暇な折にどうぞ一度アクセスなさってください。ご意見やご提案をお寄せくださることを心より楽しみにしている。
http://www.ucalgary.ca/~xyang/go3nen.html

Newsletter No. 32・2006年6月

2005年12月1日木曜日

「ポッドキャスティング」の勧め

個人的な体験をまず一つ披露しよう。思えば十数年前、「インターネット」という表現がまだ言葉の市民権を得ていなかったころ、パソコンに辞書一冊分ぐらいのサイズの外付けモデムを取り付け、日本語が使えるように何重もの苦労をしてシステムをいじり、ようやくモニターに朝日新聞の記事を出現させた。そして週に数十と現れてくる新しいサイトの記事を丁寧に追いかけ、その結果を学会で発表したりまでしていたものだった。いうまでもなく、そのようなインターネットとの接し方は、いつの間にか不可能となってしまった。新しいタイプのメディアの成長と共に情報を吸収していたその頃の満足感には、恐らく二度と出会うことはなかろうと、密かに誇らしく思っていた。

しかしながら、最近になってまた新たなメディアに夢中になってきた。さきの体験とダブらせて考えると、どうやら似たようなことに再び直面しようとしているようだ。今度は文字をモニターで読むのではなく、インターネットから伝わってくる音声を耳で聞くというものである。それは、やたらにカタカナを並べた「ポッドキャスティング」といって、一世風靡しているアイ・ポッドからくる造語である。ポッドキャスティングの仕組みは、いたって簡単だ。定期的に提供してくる音声の情報を特定のソフトを使って「予約」し、新しい情報がインターネットに載せられたら自動的に(あるいは手動で)個人のパソコンに保存する。その後、パソコンから音声を再生するディバイスに転送して、音楽を楽しむ感覚で聞くのだ。すなわち、音声ディバイスが電波を受信するわけではないので、ラジオのようなリアルタイムの連動はなく、あくまで受信者が内容を選んだうえでの受信なのである。ちなみに、音声の情報は、ストリーミングなどのいわば発展途上の技術から一歩下がった、MP3 といったすでに確立されたものを用いるものだと付け加えたい。

英語の世界では、ポッドキャスティングという言葉はようやく満一歳になる。それに比べると、日本での展開はまだまだこれから、という感じだ。内容のあるサイトは週にいくつか現れてきて、まだどれもさほど情報の量は多くなく、一通り聞いてみることが可能だ。膨大な個人運営の、日記風のもの以外、メジャーなところの参入が目立つ。例えばTBS ラジオ、ABC ラジオ、文化放送といった放送の大手が提供するニュース、文化記事、流行作品のラジオドラマなどがあって、実に聞き応えがある。

わたしが音声というメディアに惹き付けられる理由はいくつもある。日本語教育という仕事からして、音声のリソースにはつねに特別な愛着をもつ。日本から遠く離れて生活していれば、日々に移り変わる日本の事情や、あれこれ取り上げられる話題にはよけいに興味を感じる。それに、自分の研究分野である古典の世界への思いがある。古典と現代の、記録のメディアにおける一番の大きな違いは、音声を記録する手段の有無にある。だから古典を今日の人々に楽しんでもらうためには、音声による古典の再現がつねに期待される課題であり、音声メディアの形成と発展は、わたしにはいつも大きな刺激となる。

ごく最近行われたある調査によれば、日本での「ポッドキャスティング」への認知度は4割を超えていると言われる。どのようなデータを踏まえてかは不明だが、実感としてはそこまでにはとても至らない気がする。いずれにしても、読書や仕事の合間にさまざまな内容の音声を聞いてみるのは、理屈抜きに楽しい。興味のある方はぜひ試してみるようお勧めする。日本語の内容なら「Podcast Now!」(http://podcastnow.net/blog/ )、英語の内容なら「Yahoo Podcasts」(http://podcasts.yahoo.com/)から始めたら良かろう。音声プレーヤーさえ一個あればこと足りる。あとは目をモニターから逸らして、悠然と構えて、楽しもう。

Newsletter No. 31・2005年12月

2005年6月1日水曜日

日本アニメのマジックパワー

今年の二月に、JETプログラム参加者の採用面接を手伝わせてもらった。予想していた通り、個性豊かなカナダ青年の溢れんばかりのパワーに接して、心が洗われる思いだった。とりわけ印象に残ったものの中には、車椅子に乗って四百キロ以上も離れた町からやってきた一人の若者との会話があった。話を聞けば日本のアニメとの出会いが縁で、今はアニメ全般の仕事をセミプロでやっていると言う。そこでわたしも本気になって、かねてから気にしていた質問をぶつけてみた。ずばり「日本アニメのマジックパワーとは」という素朴な問いだった。だが、本当にアニメに夢中になったら、このような漠然とした質問には答えようがないと感じるものだろうか、こちらの期待した答えは戻ってこなかった。

想像するに、ディズニーアニメが確固たるマジックを持っているように、今やはるかにそれ以上の成功を収めている日本アニメもそれなりの秘密を持っているに違いない。それはなんだろうか。

まず、これに取り掛かるには、宮崎駿の作品だけを見ていても答えは見つからないと言いたい。言ってみれば、宮崎アニメは日本アニメの「花」であって、その平均像ではない。したがって、「ナウシカ」「千と千尋」や「動く城」などを見ただけでは、日本アニメの全体像を掴むには程遠い。きれいな音楽、華やかな受賞、目が眩むような宣伝や膨大な市場など、どれも日本アニメの成功の一例であって、そのすべてではない。むしろこの「花」を支える葉っぱや根っこのほうに、日本アニメの本当の姿があるものだ。

実は、この「マジックパワー」という質問に、わたしは一つの答えをひそかに抱いている。それは「量」と「型」の二つの要素だ。

これまでアニメに接するメディアの主流は、テレビだった。代表的な番組となると、どれも週一回あるいは数回、場合によっては一日一話の形で放送され、しかも十年単位で続いている。驚くばかりの生産力と気が遠くなるような持続力は、一流のアニメを生み出す必須条件だと言っていい。それに、そのようなアニメは、どれもはっきりしたストーリーの運び方や似たような結末を持っている。ストーリーの内容が予見できるということは、けっして悪いことではなく、むしろ見るものに安心感を与える。さらに多くのものには、料理、テニス、碁といったテーマを持たせてあるということも、ここにいう型の一部だろう。量と型、この二つの要素は、いわば大衆的な消費のニーズにしっかりと応えたアニメパワーの構造だ。

ここで、日本アニメが北米など英語圏の国々にこれほどまでに広がった理由の一つを忘れてはならない。それはアニメを伝えるメディアだ。これまで主にテレビだったそれは、今ではインターネットやDVDディスクなどを媒体として、まったく違うグループのユーザーを獲得している。字幕を付け加えるソフトの発達は、さらに伝播のスピードを速めた。いまでも製作者は著作権ということを過剰なほどに主張するむきがあるのだが、それも近いうちになんらかの変化が出てくることだろう。どうにもならない現実だとあきらめるのではなく、むしろ逆にこの新しいメディアの効用とありがたさに気づいて、新たな戦術を打ち出すものだと想像する。

現在、わたしたちの日本語のクラスにやってくる学生たちの多くは、日本アニメをきっかけにして日本語、そして日本への興味を持つ。日本アニメのマジックパワーを理解し、それをいい意味で乗り越えるのを手伝うということは、日本語教師としてのこれからの課題の一つになるのかもしれない。

Newsletter No. 30・2005年6月

2004年12月1日水曜日

日本語ウォッチング

「こていでんわ」、「かにゅうけんりょう」。これらのやや聞きなれない言葉をめぐって、わたしの「日本語ウォッチング」を記してみます。断っておきますが、カルガリーで暮らしていて、日本の雑誌や新聞などを読む機会はほとんどなく、日本との繋がりは、NHKのニュースを一日に一時間見ることぐらいです。

大学で二年生のクラスを担当していて、二週間ほど前のレッスンの内容は「電話」でした。電話番号の言い方から電話口での挨拶、文型や表現など一通り触れて、自然に日本の電話になります。いまや電話といえば携帯電話、しかも日本のそれはとにかく機能が盛りだくさんで、いつの間にか電話という名前ではまったく捉えきれないものになってしまいました。テレビニュースに登場したものから覗いてみても、書籍や新聞記事を読む、手帳や辞書を置き換える、携帯デジカメに早変わりする、というのは当たり前で、予想もつかない奇抜な機能も続々と現れてきます。たとえば、買い物の支払いや駅の改札に持ち出す携帯財布や携帯パス、大都会で放送され始めるデジタルテレビ番組を受信する携帯テレビ、三次元バーコードを読み取る携帯スキャンナー、などなど、どれも目新しいものばかりです。圧巻は、街角に流されている音楽のメロディーを録音してしかるべきところにダイヤルすれば、タイトルや歌手などの情報をすべて教えてくれるというサービスまで始まったと伝えられます。電話という名のツールを持たせて、消費の網は無限に広がっていくという、いかにも日本的な暮らしの風景を垣間見る思いがします。

ここに冒頭の言葉、「固定電話」に戻ります。以上のような華々しい携帯電話の活躍により、電話という言葉も大きな膨らみを持ち、家庭のなかに据え付けたそれは、いまや「固定」という言葉を添えないと、すぐには思いつかなくなる恐れまで出てきました。その固定電話が話題になったのは、いわゆる「加入権料」とセットになっています。加入権料とは、正式な用語では「施設設置負担金」と言って、電話を取り付けるときに支払う料金のことです。日本での短期滞在などでいつも難題の一つとなり、宿舎などに入居して、目の前に電話機まであるにも関わらず、常識はずれの金額を請求される経験をもつ人が多いでしょう。ニュースになったのは、この加入権料を廃止するということです。しかもその決定は、消費者に歓迎されるものではなく、不評や不満の声が上がっているとか。すでに固定電話を持っている立場から、固定電話の価値が下がるとの理由のようですが、いま一つ理解できません。これも日本で暮らしていないがために、物事の受け止め方に差が出る典型的な現われでしょうか。

言うまでもなく、初級の日本語学習者には以上のような情報は必要ではないでしょう。だが、わたしのクラスでは、このような言葉を二分以内の時間で英語で説明してあげる、というやりかたを取っていて、いまのところ好評なようです。言葉に込められた感情や位相は、実際に使ってみないと身につくものではありませんが、関連する情報の解説は、大学生には一つの学習の手がかりになり、違う社会生活を眺める楽しい視点になることを期待します。

同じクラスで、電話のレッスンに続いて乗り物を取り上げます。そこにテレビは、運転中の携帯電話使用を取り締まるニュースを伝えてくれました。三万五千人もの警察が一斉に出動して、六千人以上の違反者を検挙したとの報道に続き、その取り締まりへの対策となる携帯電話の付属商品「ハンズフリー」を取り上げました。NHKもなかなかユーモアを心得ています。このように、電話生活と車社会が思わぬ形でつながって、言葉が無限に広がっていきます。

Newsletter No. 29・2004年12月

2004年6月1日火曜日

語学のための文化学

最近、職場での共同研究の一つとして、語学教育のためにどのように文化教育を取り入れるかということを取り上げている。

文化とはなにか、というのはもちろん難問だ。ここでいう文化は、あくまでも語学のためのものに限定する。英語による日本文化教育は別に行われており、英語による、あるいは日本語による日本文化論はりっぱな学問として独立している。ここで課題にするのは、あくまでも語学のための文化学である。日本語教師になるために、母国語話者でも日本語の勉強をしているように、日本のことが一通り分かっていても、文化のことをきちんと理解する必要がある、というのが出発点である。

答えを探ろうと、手始めに語学現場で出くわすいわゆる日本文化のことを、つぎのように五つのグループに分類してみた。

A:まんが、アニメ、カラオケ、武士道、その他いわゆる日本的なものである。学生たちにとって、多くはこれらによって日本に目覚め、他民族の文化に比べても、これらは「日本的なもの」であり、他に真似され、ひいては日本のアイデンティティとまでされる。

B:着物、すし、畳、親族、その他衣食住、人間関係など、日本的な物理内容あるいはものとの接し方である。どの民族の文化にもそれぞれの独特なものが認められ、人称代名詞のような場合、もっと複雑なものもあれば、ぐんと簡単なものもある。ついでに言えば、複雑なものは覚えにくい、簡単なものは身につけやすい、といったような結論には繋がらない。

C:いただきます、恐縮、かしこまります、その他他言語と比較して、同じような表現意図や効用でも、表現の方法あるいはその発想はまるきり違う。いわば特定の文化的な伝統の沈殿により洗練された言語表現であり、生き残った文化的な発想のパターンあるいは結晶である。

D:あげる・くれる・もらう、敬語、その他文化的な発想は、そのまま言語の法則になってしまう。これを一つの文化として分離させることは難しいし、単に言語のルールとして説明するには、解ききれないものが目立つ。

E:内と外、建て前と本音、擬声語・擬態語、その他いわゆる日本語の文化とされるものである。だが、これは言語の内容というよりもむしろ表現や交流のためのワザであり、心構えである。これらにより表現は豊かになるが、これがないと交流が成立しないというものではない。

かなり思いつきを交えた分類になった。いうまでもなく互いの交差もあれば、状況によっては置き換えもあろう。ちなみに、あえてこのリストに沿って語学教育について発言を試みるなら、AとBを文化教育の対象から取り外し、Eを最終的に到達するための目標に止め、CとDについて丁寧に取り上げなければならない、ということを提言したい。

言語には、文法というものがある。文法は言葉の深層のルールであると同時に、語学のための大事な手がかりだ。そこで、文化、表現を理解させるための「文化法」あるいは「言語発想法」というものがあっていいのではなかろうか。語学をより効率よく習得させるためには、この「文化法」が大いに役立つかもしれない。

皆さんの意見をぜひ聞かせていただきたいと思う。

Newsletter No. 28・2004年6月

2003年12月1日月曜日

日本語教育が目指すもの

日本語教育を取り巻く環境は、時代の変化とともに確かに動いている。皆さんは、それをどのように観察し、何を体感なさったのだろうか。そして、新たな環境にどのように対応されているのだろうか。当世の学生気質をよく表していることがらの一つに、日本語を習う動機そのものが挙げられる。例えば、「アニメが好きだから」と大真面目に理由を述べて日本語のクラスに入ってくる。

その目で周りをよく見れば、アニメはいつの間にか日本のもう一つのブランド品に成長してしまった。テレビをつければ、連日のように映し出されてくるアニメ番組には、日本語が何気なく混ざっていて、仮名や漢字も平気で顔を覗かす。それはけっしてオリエンタル的な異国情調や異郷憧憬といったものではなく、ただ単に翻訳が追いつかないという単純な理由が見え隠れする。一方では、日本側もしっかりと構えて、戦略的に世界市場を狙っている。精巧にこしらえられた無国籍のキャラクターがスクリーンに溢れ、ディズニー・マジックに勝る日本アニメパワーが鮮やかなストーリーを織り出す。「ポケモン」の成功は今や古典的な範例となって数々のエピソードを残し、「千と千尋」は、アカデミーの翼に乗って一世を風靡する。

まさにこのような時代の奔流に流されて、熱心な学生が日本語入門を志す。クラスメート同士でポップカルチャーの蘊蓄を見せびらかし、情報を交換しながら、カタカナ言葉を旧知のごとく吸収する。また、幾ばくの言葉も覚えていないのに、翻訳家になるなどと、堂々と宣言したりする。逆にその熱気に押されて、教師のほうが思わず辟易し、戸惑ってしまう。だが、これも一度ならず体験されたものだと思われるが、こちらの話を大人しく聞くだけの学生よりも、そのような掴みようのない世界を持っている学生のほうが、なぜか妙に逞しくて、期待をさせてしまう。

このことは、結局われわれの携わっている日本語教育が一体何を目指すべきかという問いかけに繋がると思われる。これに対して、次のような考えはいかがだろうか。

日本語教師の仕事は、言うまでもなく学生に言葉を習得させることだ。しかしながら、ごく限られた年数で一つの言語を覚えさせてしまうというようなアマイことは、よほどの無理をしなければできない。われわれにできることは、本人がいつか本気で日本語を身につけようとして勉強をする場合の手がかりを与えることではないだろうか。では、この手がかりとは、何だろうか。古風な考えなら、文法だ。言葉のルールという骨組みを持たせ、いつの間にかそこから言葉の葉が生えてきて、やがて木となることをひそかに期待する。対して、今風の考えなら、模擬的な交流だ。手応えのある実践を通じて、言葉を操る可能性と喜びを体験してもらう。はたしてどちらがいいか、にわかには答えようがない。あえて言えば、古風なやり方には苦労と修行のイメージが伴い、今風のアプローチは、楽天的で華やかさがあり、今時の若者には似合う。

教師として大事なことは、責任感を持ち、正しい知識を持って学生に向かい合うことに尽きる。教える者も時代とともに、そして学生とともに成長しなければならない。語学教育を通じて、人間を育てる役目を担い、言葉の向こうに文化や伝統という別世界があることを学生に気付かせるように心がけるべきだ。これこそ、教育の本筋に触れるものではないだろうか。
Newsletter No. 27・2003年12月
 

2002年2月1日金曜日

デジタルの誘い

世の中はデジタルに満ち溢れている。ここ数年、われわれの生活に関わるほとんどありとあらゆる分野は、この突然訪れてくるパワフルで変幻自在な新技術に よって確実に様変わりが起こっている。もともとハイカラな存在である金融、通信、放送は言うを待たず、身近な生活にある音楽、写真、ビデオも知らないうち に「デジタル化」され、文科系の研究を仕事とするわれわれでさえ、文献資料の保存、整理、検索、そして創出と、仕事の環境や形態に大きな変容が続く。世紀 末にさしかかり、人間はまるで魔法の小鎚を手に入れたかの如く、身の回りのすべてを叩いては新しい姿に変身させよと夢中になっているように見えてならな い。

このように言う私も、いつの間にかすっかりデジタルのあ る生活にのめり込んでしまった。中国で日本語を習い、京都で大学院教育を受けて中世文学を勉強し、カナダで外国人を相手に日本のことを教えるまで辿り着い たものだから、パソコンなどは普通に使って、特別に深い縁を持たなくても済むかと思った。しかしながら、やはり子供ころの、鉱石受信機を手作りして電気と 遊んだことが甘い想い出となったからだろうか、あれこれと新しい機械の話になると、ついつい特別な感情を向けるようになる。そしてのんびりしたカルガリー での生活も、この半分好奇心のようなものを育てることを十二分に可能にしてくれた。友人からポピュラーだと教えてもらった「ビジュアル・ベシック」という プログラムに狙いを絞れば、あとは市民図書館に入っているあらゆる種類のマニュアルを漁り読みし、暗中模索でプログラムを試作したりして、とにかく暇を持 て余すことはなかった。

わたしが取りかかった最初の課題は、 日本語教育であった。講壇に立つ仕事の内容から、一方的に伝えるようなものを機械にやらせて、代わりに学生と中味のある交流を楽しむ時間をすこしでも多く 持とうという考えはそもそもの出発だった。たとえば漢字の筆順や基本文型の練習などは、むしろ機械に任せたほうが学生にとっても学習の効果が高い。これは やがて自作のプログラムとしてすこしずつ実現された。時間がたつにつれ、コンピューターによって取り扱うテーマは単純な練習から一冊の教科書へ、その日そ の日のドリルからまとまりのあるパッケージへ、自分一人の作業からまわりの人々を巻き込んでのプロジェクトへと、デジタルの夢は大きく膨れ上がった。そし てついに自分の研究分野である中世文学にもプログラミングを持ち込む運びになる。気づいてみたら、いくつかの出版物に、自分の名前は「プログラマー」とい うタイトルで載せてもらうことになり、文科系の勉強をしてきた人間としては、なにかとても生産的な仕事が出来たと感じて、不思議だった。

デジタルとは、突き詰めて言えば、一つの新しいタイプの記録・伝達の手段である。これはたしかに便利な道具だ。いままで願っても適えられないようなこと は、いとも簡単に実現できてしまう。同じ一冊の辞書でも、紙に印刷したものをいざデジタルに置き換えると、あとは言葉を語尾だろうと、真中にある部分だろ うと、はたまた説明文にある語彙だろうと、思うがままに取り出すことができる。デジタルの出現は、むかし紙、あるいは印刷術の誕生とよく似た性格を持ち、 人類の文明にとって大きな一歩だと繰り返し指摘されている。長い目で見ればまさにその通りだろう。この喩えには、一つとても大事な内容を示唆していること に注目したい。デジタルの出現は、ただ単に一つの道具が出来上がったから、これまで存在した情報や知識をこの新しい容器に入れ替えて、よって既存の知識へ のアクセスになんらかの追加価値をあたえる、といったような単純なことではけっしてない。紙や活字が生まれた暁の、知識人たちの興奮と勤勉を思い浮かべて みよう。それまで想像だにしなかった伝達の手段の誕生は、すなわち伝播のありかたの変容を意味し、これはそのまま情報の中味についての再認識、ひいては新 たな知識の生産に繋がる。言ってみれば、新しい道具のおかげで、研究の内容や目的への修正、見えていなかった課題への回答が要求されることになる。

右のような考えを説明する格好の例として、現在取り掛かっている絵巻の注釈があげられる。もともと巻物としての絵巻は、近年絵画などの美術品を紹介する 様式を用いて本の形でたくさん出版され、おかげで普通の読者も簡単に手にすることが可能になった。そこで巻物から書物に変わるプロセスにおいて、現代人の 必要にあわせて文字による説明が取り入れられる。しかしながら、例えば文字による文学の古典を注釈するのに比べて、われわれには、絵についての注釈のため にいまだ最適なスタイルを見つけ出していない。一番単純なことに、どうやら絵に番号でも振り付けたりしなければ、絵と説明の文字との対応関係だに満足に表 現できない。そこで絵巻をデジタルにして、これをパソコンの画面上に表現してみると、以上の問題は一遍に解決の手がかりが見えてくる。画面上の内容は、マ ウスの移動により隈なく、かつ正確にカバーし、絵の説明にも文字や絵など多様なメディアを自由に利用できる。その上読者がしかるべき操作で意図的にこれら の情報を取り出すのだから、情報の分量を余分に多く提供しても、不要な負担になることはない。さらに、音声、動画、3Dなど、注釈の対象である絵に因んだ あらたな情報を付け加えることも可能なので、これは在来の書物の形ではとうてい太刀打ちできない表現の新天地になってしまう。ここに残されている課題はた だ一つ、一点の絵巻について、われわれにははたしてどこまでの知識と理解を持っているか、ということである。われわれには絵巻をこのような形で表現する可 能性を手に入れてはじめて、表現の内容となる知識をいまだ満足に持ち合わせていないことに気付く。新しい道具によって突きつけられた課題をこれから丁寧に 答えなければならない立場に立たされている。

ソコンの使い 方を習うのは、手遅れだということはない。どうせ一つの道具だから、必要になったらこれを覚え、使いたい機能だけ分かればそれで十分なのだ。これとまった く同じ理屈で、寄せてくるデジタルの波だってのんきに構えて眺めてよし、気が向いたらそれに乗り出したらいいと思う。想像を絶する鮮やかなデザインや、気 が遠くなるような情報量を詰め込んだものもよかろう。しかしながらそれだけがデジタルの理想像ではあるまい。余計な飾りのことで苦労しなくともデジタルの 恩恵は受けられるはずだ。同じく本の喩えで言うと、豪華版の写真集もいいものだが、新書も文庫本も、読むに堪える内容さえあれば、人々はこれを手にしてく れる。身軽だから読者は返って多いかもしれない。ことデジタルになると、一番新しい機能や環境を追わないで、すこし古い技術を用いたほうが、作品はかえっ て安定していて、より多くのユーザに受け入れられやすい。贅沢な道具を手にして、価値ある仕事を地味にこなす。これこそ文科系に携わる人々がデジタルに向 かうに当たっての一つの心構えだといえよう。

デジタルの誘いに魅せられて、「絵巻とマルチメディア」という思い切ったテーマを自分に課して、日文研で快適な研究生活を過ごしている。いまの読書や思考を意味ある仕事のスタートにしたい。あわせて同じ考えに興味をもつ諸先生の方々からのご助言、ご助力をお願いする。


『日文研』Vol.23
国際日本文化研究センター
2000年2月、30-34頁

長谷雄の冒険

二〇〇〇年の春、永青文庫から特別の許可を得て、『長谷雄草紙』を閲覧させてもらった。古風の家具を飾り、カーテンがしっかりと閉まった一室に案内され、中世の秘宝をこの手で披いて、少なからぬ感動を覚えた。あれから早くも二年近く経とうとするいま、ようやく『鬼のいる光景』と題する小さな一冊をまとめることができた。

『長谷雄草紙』は、由緒正しい伝来を誇り、江戸時代に多数の模作を残して幕府の終焉と共に姿を消し、昭和に入って再び世に現われた絵巻の名作である。一巻の絵巻としては短い作品の部類に入り、これまで十分に研究されたとは言えず、いまなお神秘なベールに包まれている。物語の出自は、近年ようやくそのおぼろげな輪郭を見せはじめたが、いまだ不明なままだ。だが、絵巻の内容は理屈抜きに楽しい。長谷雄がかれの知遇の師だったはずの道真のことを「北野天神」と呼んで加護を願うといったとんちんかんな時代錯誤を平気でしでかす一方、貴人と鬼とが双六を打って美女を賭けるという、スリリングで奇想天外、いささかエロチックな展開は、見る者を魅了する。この絵巻は、いったいどのように読まれていたのだろうか。ややもすれば「双六賭博」「子どもの遊び」など現代人の興味をそそる断片的な画面だけに関心が寄せられるが、長谷雄の冒険を伝える絵巻としての完成ははたしてどのようなものだったのだろうか。

これらの質問にすこしでも答えられるようにと、長谷雄をめぐるわたしのささやかな冒険が始まった。

そもそも、わたしたちは文字によって記されたものより、絵に描かれたものに安心感を持ち、これをすなおに信用し、絵は嘘をつかないと無意識に決めつけてしまいがちだ。古代の様子を伝えるビジュアル資料が非常に限られているため、絵の説得力に心を奪われることはたしかに致しかたなかろう。だが、絵は写真ではなく(写真だって嘘をつくが、それは別として)、あくまでもフィクションだ。絵に描かれるもの、それの描き方などは丁寧に選択され、構想されたことはいうまでもない。したがって絵を理解するということは、すなわち絵師が試みた工夫と技巧を知ることであり、絵師と読者との間にあった約束を模索することである。

例えば、絵の中における時間の表現である。絵巻の絵は、けっしてものごとの展開を止め、その一瞬を切り取って描いて見せるのではなく、長谷雄と鬼との双六対局、都大路における鬼退治、などの場面にみられるように、限られた画面において、あきらかにいくつもの異なる時間が流れており、見る者はこれを想像のなかで還元させることが要求される。一方では、長谷雄と男が通る都の街角に、われわれは賑やかで和やかな夕暮れのひと時を目撃したかのように錯覚するが、そこに隠されたテーマを見つけ出すことに成功すれば、これは関連する人物・事項を寄せ集めることにより巧妙に作り出された虚構の世界だと自ずから気づくことになる。ここで、一番のチャレンジは、絵に描かれたもの、絵が語ろうとしたものを、時代の背景や知識を頼りにして見つめ、昔の読者の視線を思い起しつつ、絵に仕掛けられたさまざまな仕組みを読み解いていく作業である。

絵巻は、あくまでもストーリーを伝えることを目的とするジャンルであり、絵からものごとの展開、それを包む雰囲気と情調を読み取ることが絵巻読解の基本だ。そのため、長谷雄と鬼との葛藤を追いながら、つねに心がけていたことは、絵巻の表現様式、表現原理への模索である。誤解を恐れずに比喩的に言えば、絵巻における絵の文法、絵の語彙なのだ。そのようなものははたして存在していたかどうか、それらを取り出すことがいったい可能かどうかは、いまのところ未知だと言わざるをえない。ただし、『長谷雄草紙』に見られる豊かな絵の表現は、この魅力的な課題にとりかかるために手掛かりとなるような例証をすでに提供してくれていると考えたい。今後、他の絵巻を読むうえで検証し、絵についての理解を深めるための一助とすることができればと願っている。

(『本の旅人』2月号、20-21頁)

1983年10月1日土曜日

祇園女御塚断想

楊暁捷(大学院修士)

ある土曜日の午後、私は一人で祇園女御塚の前に立った。ガイドブックを頼りにしてやっとこの場所に辿りついたのだった。まわりは緑に囲まれてひっそりとしていた。五輪石塔の前には澄んだ水を湛えたコップがきちんと置いてあり、その手前に一束の黄色い花は枯れかけていた。

日本に来てから早くも八ヶ月になった。その間、いろいろ由緒ある所を歩いた。日本人が歴史旧跡を大切にすることに一度ならず感服の念を抱かされた。もっとも、宮島の大小数倍の差もある祈願の杓子には「開運」「交通安全」と書かれて妙に滑稽だったし、石山寺では紫式部が写したお経、ひいては『源氏物語』を書いた時に使われた硯まで展示されて変な気分になるという経験もあった。それらの所に比べてここは素朴で静かなので、ずっと気にいったのである。

目の前の塚は数百年も前から人々に敬畏の念を抱かせたのだろう。『都名所図会』に「この地を耕せんとすれば、祟りありとぞ」とあった。話によると、明治三八年に塚の前の御堂を立てた奥村某はじめ数人さえも、その後まもなく病気やら戦争やらで命を失ったという。かよわい一人の女性の怨念を歴史の陰に感じたような気がした。

この祇園女御は一体どういう人だったろう。『今鏡』に「その白河殿(祇園女御)あさましき御宿世おはしける人なるべし」「かの院(白河)の内の御局はたりにおはしけるをはつかに御覧しつけさせ給ひて、三千の寵愛一人のみなりけり」とあり、『長恨歌』の文句まで描写に使われた。『中右記』『長秋記』等の日記類に照して歴史上の実在人物だと分るが、ただ白河院の寵姫の一人に過ぎなかった。そこで彼女は『平家物語』に登場した。物語のその話を作った人は祇園女御を以って清盛の血筋を高めようと考えたのだろう。しかし清盛がいたからこそ祇園女御が今日まで人々の記憶に残されたのだった。昔から無数の女御、更衣、皇后が名前さえ歴史の彼方に消えうせてしまったいまも、一人祇園女御だけはこの立派な塚をかまえている。

祇園女御はその後もっと歴史の真実から離れた自由な姿で活躍してきた。吉川英治の『新平家物語』に至ると、彼女は白河上皇の恩寵を蒙りながら悪僧と通じて下賜され、忠盛を悩ます種とまでなった。目前、女御塚の傍には「幸運の産」の御神籤が立てられている。祇園女御が清盛の生母だと信じるにせよ、彼女を子安神と何らかの関係をつけようとしたのはもっと突飛な発想だと言えよう。

ところでこの塚の中で眠っているのは果してあの祇園女御だったろうか。『栄華物語』をめくれば、皇太后妍子崩御の段に「祇園の東大谷と申て広き野に葬り奉る」とあり、『大日本地名辞書』に「蓋三条天皇中宮妍子の御陵とぞ」とある。どれが信じるべきものだろうか。しかしそれよりも、歴史の実在と別の次元に文学の魅力が潜んでいることを改めて感じるような気がした。
(京都大学国文学会会報、昭和58年10月、31号)