2008年9月1日月曜日

『岩波古語辞典』をいただく

楊暁捷(昭六三博士)

手元に一冊の『岩波古語辞典』がある。本屋や図書館でもあまり見かけない机上版で、何回引越しをしても、いつでも本棚の手がすぐ届くところに置いてきた。佐竹先生からいただいた大事なプレゼントである。

あれは、国文研究室の門を潜って数ヶ月経ったころのことだった。中国の大学を出て、まったく未知の世界に足を踏み入れて、言葉も文化も仕来りも人の顔も何一つ分からないまま、ただただ周りの好意に縋っての無我夢中の毎日だった。そんな中、佐竹先生に廊下で名前を呼び止められ、先生の研究室に案内され、これをさっと手渡された。辞書に挟まれた贈呈の便箋には「祝京都大学大学院修士課程入学・一九八三年三月」と先生ご自筆の文字が添えられている。人に見せることも憚るような、この上ない喜びを伴う宝物である。

佐竹先生の思い出は、国文大学院の先輩や同級生の間に交わされた会話の数々から始まった。佐竹先生の浩瀚な学問や大きな存在感は、つねに研究室での学生同士の好話題だった。先生の本が出版されたら、みんなで競って通読して自分なりの読書感を披露し、一般の視聴者を対象にした先生のラジオ講座が放送されると、それを丁寧にテープに取り、大事に分け合った。いうまでもなく、なんの予備知識も判断の基準も分からなかった私には、そのような会話に参加できるはずもなく、ただ張りつめた集中力を以ってじっと聞いて、理解しようと懸命だった。「ダンディー」の一言が出ると、こっそり辞書を披いて意味を調べ、自分が目にした先生の後ろ姿、書籍などに掲載された写真などを眺めて、実際に意味するところ、それを取り巻く価値感覚を確かめた。そのような経験はすべて新鮮でいて刺激に満ち、研究書を読む以上に勉強の思い出となった。

あのころの国文研究室では、先生と学生との間につねに言いようのない緊張感があった。リラックスして先生と交わした会話は、数えられるほどであった。毎年、忘年会や新歓コンパが開かれ、それも普段は訪ねることのない珍しいところを会場にし、宴会の場で歌を歌わされたりしたこともある。しかしながら、宴会が済み、院生たちがほぼ全員つぎの飲み屋へ向っても、そのような二次会に先生方が現われるようなことは、一度もなかったように覚えている。そのような距離感が、勉強の励みになった。先生には厳しく見守られている、そのような先生を失望させないためにでも失敗を少なくしないと、との思いはみんな共有していた。修士論文試問の席で、佐竹先生から受けたご指摘、そして新しい研究方向へのご指示には、どんなに勇気を与えられ、そのあと、どれだけ反芻したものだろうか。短い大学院での学生生活の単純でいて朦朧としたひた向きな読書の毎日は、すべてその年齢ならではの貴重なものであり、一生の財産である。

佐竹先生に最後にお目にかかったのは、国文学研究資料館の館長室内だった。先生から親しく声を掛けられ、研究のことなど恥ずかしくてとても持ち出せなかったが、その代わり、カナダでの仕事、自分の家庭や子どものことまで話したと記憶している。大学院で教わったころからすでに十年以上経っていたはずだが、やや痩せられた以外、佐竹先生のまったくお変わりのない、厳しくて親しい顔が、いまでも昨日のことのように脳裏によみがえる。
(京都大学国文学会会報、平成20年9月、56号)

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