2008年9月6日土曜日

言葉を味わう

『白鼠弥兵衛物語』は、不思議な物語である。白鼠の浮沈をめぐる奇特な状況、都と地方、夫婦と家庭といった魅力的な昔の常識、もてなしの饗宴や黄金を運び込んだ報恩という奇想天外な展開、挙げればきりがない。中でも、とりわけ妙に心をくすぶり、繰り返し味わいたくなるような言葉の表現があった。

そのいくつかを取り出してみよう。

胸に食い付かれた雁は、「肝を消し」て飛び去り、弥兵衛を常盤の国に運んでしまった。弥兵衛を失った妻は「如何なる花心移したるか」と心配し、苦難のすえ無事戻った弥兵衛はさっそく美女に会っても自分が「心の散らざりし」ことを語り聞かせる。突然戻ってきた弥兵衛のことを、みんなが「天より天下りたる」と驚き、謝恩のために息子を差し出すことに抵抗する妻を、弥兵衛が「よく御馳走候へ」と説教する。

どれもこれも、なかなか興味が尽きない言葉ではなかろうか。現代の言葉遣いの感覚をもっていても、だいたいなんの難もなく理解できるが、かといって実際に用例を見ないと、とても思いも寄らない。「天下り」とは、まさに天から降って湧いたという、字面その通りの意味だが、いまはまったく別の使い道になった。「御馳走」もその意味あいが大きく変わり、狭く限定したものとなった。「馳せたり、走ったり」することは、立ち振る舞いすることを指すほうが、より適当だが、いまやなぜか台所の中での活動に限定するようになった。「花心」に至れば、なおさら微笑ましい。この言葉、日本語では確立された表現とは言いがたいが、じつは現代の中国語ではいまでもこのままの言葉が使われ、それも弥兵衛の妻とまったく気持ちやニュアンスを担う言い回しである。

表現はつねに変わる。だが、百年単位で時間が流れて行っても、昔の読み物はそのままわれわれの感性に訴えつづけている。まさに古典の魅力、言葉の魔力と言わなければならないだろう。言葉の変容を距離をもって眺め、まるで手で準えるようにじっくり弄び、読み返して味わうこと、これこそ古典を読む大きな楽しみの一つだろう。

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