2010年11月27日土曜日

電子図書館使用の一日

市民図書館小説朗読コレクションとの付き合いは、数ヶ月まえからすっかりオンラインに切り替った。そのような快適な使用の中で、昨日はじめてちょっぴりした苦労を経験をした。電子ならではの典型例なので、メモしておこう。

問題は、なんの前触れもなくやってきた。気に入ったタイトルを貸し出して、パソコンに落としたまでは普段のままだが、いざこれをiPodに移そうとすれば、プログラムが運転停止してしまった。使用しているのは、図書館が提供しているダウンロードや転送のソフト(OverDrive)と、iTunesだ。ソフトやパソコンをリセットしても変わりがない。かなりの新刊なので、音声ファイルのプロテクトが更新したからではないかと想像したが、この判断の間違いが苦労の始まりだった。あれこれと試行錯誤の連続。その過程で新たな事実がつぎからつぎへと飛び込んでくる。すっかり汎用なものになったと思い込んだ音声ファイルはマックのパソコンには一切対応していない、プロテクトを外すなめの方法はさまざまと工夫され、それこそDOSのコマンドを用いたり、音声をすべて流してその過程を録音しなおす辛抱強い対応があったりと、感心するぐらいだった。しかも電子図書館貸し出し管理の仕組みにも発見が少なくなかった。

一通り苦労をして、ようやく音声ファイルではなくて、iTunesに問題があるのではないかと始めて気づき、そして数日前にこれが10.0から10.1にアップグレードされたことを思い出す。これでようやく問題の核心に辿り着いた。ただしそこから見出した答えは、まさに興味深い。

サイト検索してみたら、たしかに同じ問題が報告されている。しかもそれへの対処は、iTunesの一ページを占めている。それは、iTunes開発者と三人のユーザーとの交信記録だった。三人ともさほど予備知識を持たなく、開発者の対応ははっきりしていて、丁寧だ。簡単にまとめればつぎのような流れだ。一人目は問題を報告する。開発者の指示は、iTunes、Safari、さらにもう一つの付属ユニットを削除し、新しいパッケージを入手してインストール、その上一つの特定のファイルを入れ替えるという手の込んだものだった。二人目は同じ質問をするが、ファイルの特定などについて関連の情報を読めと突き放す。三人目はまた同じ質問をしたが、こんどは、開発者はiTunesのパッケージをすでに更新したので、新しいものを用いたらよしとのことだった。三人のユーザーとも満足した結果が得られて、感謝の声で締めくくった。しかしながら、わたしの場合、三人の経験をすべて読んでから試すのではなく、一人ずつのところでその答えを実行したのだから、余計なむだをさせられた。しかもバツの悪いことに、三番目の対応を実行しても、問題はまったく解決できていない。

しかしながらこれでとにかく問題の理由が分かった。解決に固執せず、iTunesが10.0のままのべつのパソコンを見つけ出して、それを使ったらタイトルをiPodに移すことにあっさり成功した。

苦労した。しかしながら、iTunes開発者宛に四人目のユーザーとしてコメントを送る気がなかなか起こらない。手元のパソコンの設定をプログラマーに正確に説明する気力がまず持たない。とりあえず市民図書館にはメモを送った。あとはiTunesの更なる更新を待つのみ。電子図書館が直面する多岐にわたる課題を思い返しつつ。

2010年11月20日土曜日

中・日の古典を並べて読む

二年に一度講義するクラスを担当している。いまから十年近くまえ、半分気の向くままに企画したもので、それがそのまま定着してきた。クラスの定員は30名(来年度から32名に)、中国と日本と二つのコースを修得する学生を一つの教室に集めて、英語の翻訳による中国と日本の古典を並べて読む。来年の冬学期には、このクラスの5回目の講義となる。

毎回は違う作品、あるいは「今昔物語集」のような大部の作品からは違うストーリを選び、読む内容をすべて入れ替える。したがって、学生たちと新鮮な気持ちで古典を英語で読んでみるという、自分にとっても少なからぬの悦びが伴われるものだ。作品選びには漠然としたテーマを持たせ、三年前は「武士」、去年は「男女や家族」、そして来年は「神と鬼と霊魂」。作品を決めるためには、それがすでに英訳され、出版されていることが一つの前提になる。古典の一級作品がすべて英訳されるにはほど遠いが、それでも抜粋なども含めて、学術的、あるいは趣味本位な訳が数多く、選択の余裕も十分に大きい。今年は、これまでと比べて枚数の多い作品を選んだ。約二週間の読書を経て、そのリストをようやく決め、しかも学生たちが使いやすいように一冊の教材ノートに仕立てるという作業までほぼ完成できた。

この講義では、毎回は一点の新しい中国の画巻を取り上げることを心がけてきた。今度は、あの屈原の詩「九歌」を描いたものだ。詩とあわせてじっくりと読む、若い学生たちの初々しい感性を注意深く観察し、吸収する。楽しみだ。

2010年11月13日土曜日

「TED」を観る

最近、興味深いサイトに出会った。そのタイトルは「TED」。「Technology Entertainment Design」という三つの言葉の頭文字を取り、「Ideas Worth Spreading」との副題が添えられている。「広めるだけの価値がある英知」とでも訳すべきだろうか。知る人ぞ知っているサイトで、熱狂的なファンが世界中に大勢いるとすぐ気づいた。一言で言えば、英語によるスピーチを録画で見るものである。一流のスピーチのオンパレード。音声を聞き入り、丁寧に作り上げたプレゼンに目を凝らし、表現の妙に唸りをあげる。これぞ印刷された本では味わえない、ネットならではの醍醐味だ。

サイトの作りは、いたって単純だ。大人数の観客をまえにして、一人で大きな舞台に立って、三十分か一時間しゃべりまくる。それをいくつかの形で分類し、クリックしたらそのスピーチの動画が再生される。だが、それはけっして手抜きを感じさせない。その理由は、講演者のだれもが一家の言をなしている有名人だということから始まる。場合によっては、非常に訛りのある英語が操られて、聞き取りにくいものもあるが、それでもスピーチ内容で勝負していて、言葉の限界が易々と超えられてしまう。講演の内容は、放送時間からして再編集が加えられたと想像するが、しかしながら、一部有料とかのような小細工がいっさい施されていなくて、安心して観ていられる。まさにこのようなオープンな方針が広く賛同されたと見受けられ、多くのスピーチには有志による外国語訳の字幕が付けられている。

思わず聞き入ったスピーチの一つには、電子図書館を作るというものがあった。講演者は、ブルースター・ケール(Brewster Kahle)氏。人類がこれまで書き残したすべての書物を対象にするという雄大な構想には、覇気を感じて、なんとも気持ち良い。そのインパクトはなかなか忘れられない。

TED日本語TED

2010年11月6日土曜日

ブルガリア語の始まり

先週、一週間の仕事の最後の一時間は、月一度の職場の同僚が研究を語り合う時間だった。ロシア語担当の教授が、東ヨーロッパの言語を対象にしたフィールドワークを非常に興味深く話してくれた。その内容は、今年の五月、ブルガリアの小さな地方図書館で恵まれた中世古写本の発見であった。これまでカタログにも正しく記録されず、いっさい研究の対象とならなかったその一冊は、キリスト教の教えを記した教典だった。発表者によれば、それは十七世紀に遡り、それがもつ学術な価値とは、ブルガリア語の書写言語の起源をこれまでの通説より百年も早められたことになったとのことだった。

一つの言語の、それの書写されたものに限られたものだとはいえ、その起源を中世に求めることなど、東アジアの文明を視野にする人々の常識には、かなりのインパクトをもつものだと言わざるをえない。話を聞きながら思わずウィキペディアにアクセスしてみたが、たしかにブルガリア語の現代語の起源を十八世紀の後半だと記されている。それまでには、ギリシア語の使用が強いられていたとのことで、宗教的な要素も含めて、発達された文明に押されて、後進の文明がそれに付随するという実例がここにあったかもしれない。これを知りつつ、研究者が用いる言葉の完成を計るプロセスが興味深い。それは常用の語彙を決めておいて、そのゆれを一つのマーカーとし、言葉の変化、交流、分類の指標にしたものだった。なぜかあの平家物語諸本論の方法を思い出させてしまった。一つの文学作品ではなく、一つの言語が、わずか数百年の間にゆるやかに、かつ確実にうねりを立てて進化したことを思い描いて、なぜか少なからぬの感動ものだった。

ほぼ聴講者全員が基礎知識さえ共有できないような発表の場だったので、発表者は話の後半を教典の内容に持っていって、いわば説話集さながらの宗教教えの内容の紹介を試みた。しかもそれを分かりやすくするために、同時代の教会などに見られる地獄絵の様子を見せてくれた。こちらのほうは絵巻などにみる地獄とかなり発想を同じくしたものばかりで、東も西も地獄となれば通じ合っていたのだと、妙に気持ちがほっとした。

Afterlife