2017年1月28日土曜日

鳥盡

ここに、一枚の双六がある。遠く江戸時代において人々に親しまれた盤上ゲームであり、今日になれば、遊びの道具としてだけではなく、同じ時代の生活の息吹を伝えてくれる貴重な資料となっている。双六コレクションは、いまやかなりの数が知られているが、築地双六館所蔵のこの一点は、十数年まえから「双六ねっと」においてデジタル公開されている。

双六全体は、大小28のコマに分かれ、「振り出し」以外、すべてのコマに「とり」が語尾に付く言葉を振り当てられている。それぞれのコマにはサイコロの数字に合わせたつぎのステップが記され、遊びの体裁がはっきりと揃っている。しかしながら、双六を眺める楽しみは、なんと言ってもその言葉選びの妙にある。タイトルには「鳥」尽くしとあり、実際の鳥の姿も「振り出し」に描かれてはいるが、鳥との関連はこれぐらいに止まり、あとはとことん遊びである。選ばれた言葉の中、圧倒的に多いのやはり「取り」である。ただ、そのどれもが一縄には行かず、じっくり観察してみれば、意味合い上の差異は興味深い。簡単に並べてみれば、収穫の対象を示す「金とり」、「蜆とり」、「点とり」、手にして差し出す「酌とり」、「草履とり」、「炭とり」、除外することを目標とする「塵とり」、「鼠とり」、「煤とり」、苦労の末に享受する「嫁とり」、「婿とり」、「客とり」、そして、まったく意表を突く「ぽっとり」、「ひとり」、「さとり」。終着ゴールはなんと「御世とり」と、感動するぐらいスケールが大きい。

暦の上で今日は農暦丁酉年の元日。お正月祝賀の声が交わされる中、この目出たい作品を取り出し、あわせて新しい春に慶びを添えたい。

鳥盡初音寿語六

2017年1月23日月曜日

弾丸旅行

週末にかけて、京都で開催された研究会に参加してきた。絵巻、漫画、そして学校教育における日本の古典、どれを取り上げてみても、深く関心をもつテーマばかりだった。研究発表や質疑応答などから習ったこと、改めて気づかれたことなど、数えあげようと思えば長いリストになり、とにかく収穫が多かった。ここには、その中の一つの断片を記しておこう。

西洋の伝統における漫画、風刺画を取り上げる発表において、「カリカチュアを描くための原則」(Francis Grose、1788刊)が紹介された。関連の分野についての知識をほとんど空白な状態にいる自分にとっては、じつに新鮮で刺激的なものだった。そもそも一つの絵画のジャンルあるいは表現のスタイルについての、ここまで冷静にして、いわば斜めに構え、覚めた距離感を保ちながらの分析は、表現そのものが流行り、読者に十分に受け入れられてからはじめて現れてくるものだと、なんとなく漠然と想像していた。しかし、そのような根拠のない目論見は、こうも簡単に覆され、思辨的な西洋の伝統をあらためて認識させられた。さらに、この事実はとりもなおさず日本の絵画伝統についての捉え方への反省を促している。日本の芸術論、とりわけ絵画理論の歴史はごく簡略なものに止まったことは周知の事実であり、この分野を対象とする研究書も、どうしても周辺資料を応用する形で対応せざるをえなかった。ここに注目すべきことは、このような同時代の理論的なアプローチの淡白さは、そのまま今日の研究者の立場を規定し、暗黙の前提になっていることである。絵画表現についての、抽象的な捉え方を試みようとする努力の少ない現状は、このような日本の美術伝統の一側面とけっして無関係ではない。

研究会参加の旅行は、三泊五日という、言葉通りの弾丸旅行だった。移動や会合など以外のわずかな時間も、一分も無駄にしたくないと、努めて歩き回った。幸いしっかりと睡眠が取れたなど時差に苦しまれることもなかった。その分、普段の日課には数日の休止を加え、自宅を戻ったいまは、今回のブログの遅れた更新を含め、日常を取り戻すように集中している。

投企する古典性―視覚/大衆/現代
Rules for drawing caricaturas

2017年1月14日土曜日

逆読

絵巻への接し方、とりわけ中世のそれについて、ずっと深い興味を持っている。絵巻享受の円熟期を迎えた室町期において、絵巻のある空間とはどのようなものだったのだろうか。あの「東屋」に描かれた様子は、詞書と絵が巻物に納めた時代になってみれば、どうしても特異に映ってならない。そのような中で、中院通秀の日記「十輪院内府記」の記述を知って、目が醒める思いだった。

同記録には、つぎのような一行が記される。
「(略)又被読絵詞。絵方成御前逆読之也。」(文明十二年八月二十二日)
つぎのように読み下して良かろう。
「また絵詞を読ませらる。絵の方、御前に成り、之を逆さに読むなり。」

貴重な絵巻鑑賞は、それ自体はささやかな出来事であり、一人でこっそり読み耽るわけにはいかない。自然と少人数の集合となる。そこで、行事の中心となる貴人(この場合後土御門天皇)の正面に絵巻を据えることは言うまでもない。そこで、学識ある人が指名され、詞書の文字を朗々と読み上げ、あるいは同時期の日記に使われた用語によれば、「読み申す」ものである。ただ、中心の人間が天皇だったら、はたして読み上げる人の立ち位置はどうなるのだろうか、意外と素直な答えが出てこない。それはなんと、逆さまに読むとは。これなら、閉ざされた場の様子が目に見えるように浮かび上がってくるものだ。そして、自ずと新しい質問が上がってくる。このような「逆読」とは、はたして広く取られた方法だろうか、それともかなり特殊だったからこそわざわざ記されたのだろうか。常識に考えれば、逆さまに読むためには特殊な能力が必要で、読み上げる人は、まえもって一通り目を通しておいたか、それとも学識の一部として内容をすでに熟知していたのだろう。さらに言えば、読ませる天皇自身だって十分文字が読めたはずだが、絵の鑑賞に集中したいがためにこのような場を作り出させたに違いない。

ちなみに、オンラインでアクセスできる「大日本史料」(8編12冊)はこの記述を収録していない。これに辿り着いたのも、上の引用も、ともに「「室町戦国期の文芸とその展開」(伊藤慎吾)によるものである。

2017年1月7日土曜日

動画・あきみち

古典の作品、とりわけ絵の付いたそれを声で届けてみようという試みは、これまで少しずつ続けてきた。その間、音声入力、動画制作、そして保存や伝播関連の技術が進化し、いろいろなことが手軽に出来るようになった。新年にあわせて、ここに一篇の新しいタイトルを加える。御伽草子の代表作「あきみち」である。

物語は、まずなによりも、面白い。並の秩序が守られていなかった世の中における武勇談だが、そこに色仕掛けの知恵比べ、悪人退治、血を血で洗う復讐、そしてか弱い女性の勇気と性、目まぐるしいほどの多彩多様な要素がいっぱい詰まっている。物語の内容や影響力にふさわしく、これまでには繰り返し研究の対象となり、注釈付きの本文まで作成されている(「日本古典文学大系」38所収)。それらの成果を参照しつつ、朗読に選んだ底本は、国会図書館に所蔵され、デジタル公開されたものである。あわせて五十二帖(そのうち、挿絵十六枚を含む)、約一万二千文字の分量である。格調高く書写された本文、可愛らしい挿絵、ともに古典の魅力を伝えている。すべての画像をAdobe Premiereに読み込み、時間軸に引き出して赤い罫線を被せ、朗読にあわせて罫線を動かしながら読まれている文字を指し示す動画を仕立てた。

「あきみち」の全文朗読動画は、上下あわせて五十分強の長さにわたる。YouTubeにアップロードした。現在の日常生活において、これだけの動画を終わりまで見続けることは、ささやかなチャレンジだろう。そのような余裕がありそうだったら、ぜひ動画にアクセスし、音声に耳を傾け、変体かなの文字に目を凝らしてみてください。きっとよい経験になるはずだ。

「動画・あきみち」()(

2017年1月1日日曜日

山鶉

明けましておめでとうございます。住んでいる町は、すっかり大雪に包まれる年越しになった。元日に起きて最初に体を動かしたのは、雪かきだった。

新しい一年は、酉年。友人知人に送った電子の年賀には、鳥の写真を一枚選んで添えた。とても愛嬌のある、ついつい見入ってしまうような鳥たちだった。ここにもやや違う角度のを用意した。まずは、雪が積もった庭に飛び降りる。どれもかなり毛色が鮮やかで、まるまると太っている。群れをなしてやってくるものだが、その群れの全員は、とにかく頭を雪の中に突っ込んでなにやら熱心に啄いている。写真のように全員頭を持ち上げるのは、むしろ短い瞬間で、なにかを合図に休憩を取っているところだ。鳥の群れは同じ方向に向かってゆっくりと移動し、その体付きを見て、思う通りには飛べないのではないかと疑うぐらいだ。しかしながら近づこうと思えば、さっと飛び出して消えてしまう。友人に写真を見せたら、鳥の名前は、Gray Partridge(ヨーロッパ山鶉)だと教えてもらった。興味深いことに、対応するはずの英語と日本語をグーグルに入れて写真を検索してみたら、英語のほうからは似たようなのが無数にヒットしてほっとしたのだが、日本語のほうを見たら、なんと料理されたそればかりだった。ぜひ試してみてください。

酉年のことを、英語に訳せば「cock」あるいは「rooster」(いずれも雄鶏)、中国語なら「鶏」。日本語だけぐんと広げて鳥まで対象となってくる。中国語で交わされた年賀には鳥はけっして登場してこない。これもあわせて覚えておこう。