2007年12月31日月曜日

幸運の白い鼠

新しい一年を迎えた。今年の干支は子。周りを見れば、年賀、ポスター、テレビの画面にはさまざまな鼠が登場する。その中で、とりわけ目立つのは、白い鼠である。現代われわれ平均的な感覚から言えば、白い鼠とは、可愛い、清潔、といったところだろうか。鼠の中では特別な存在というような意識は、かなり薄い。

一方では、絵巻に描かれた古代、中世の世界では、どのような様子だろうか。

まず、鼠の姿は、絵巻の中で意外なほどたくさん登場していた。古くは『鳥獣戯画』、例の可愛い動物たちの群にまじって、二匹の鼠は猫からの視線を避けるように懸命だった。『春日権現験記絵』では、普通の家に出没して、明らかに人間を困らせている。奈良絵本には『十二類合戦物語』という作品がある。十二支の一員として勝者の軍勢に加わり、狸などの敵を倒し、出家させてしまう。さらに『鼠草子』という名の作品群では、鼠たちは言葉通りのストーリーの主人公となった。鼠たちは大群を成して登場し、人間の服装を纏い、人間の仕草を取り、人間の仕来りを守って行動し、いわば鼠の身をもって人間的な活劇を演じて、それを痛快に見せてくれたのだった。

上記の鼠を主人公とする作品は、いくつかの異なる内容をもつ。そのほとんどは、およそ結婚、嫁入り行列、披露宴、そして出産というもろもろの場面を中心に展開する。中では、一つの特別な物語を伝えたのは、『弥兵衛鼠(やひょうえねずみ)』である。ここでは、主人公はまさに白い鼠だった。しかも、それが人間に幸運をもたらすということがそのハイライトだ。物語の中で、白い鼠のカップルは結婚し、やがて妻の出産を迎える。妊娠した妻は、雁の肉を食べたいと言い出し、夫の弥兵衛はまさに献身的にそれに応えようとする。雁を取ろうとして適わなかったどころか、獲物のはずの雁によって知らぬ地に連れられてしまう。そこからは白い鼠の試練が始まる。物語の結末は、約束通りのハッピーエンドだが、そこまでの道のりはユニーク。すなわち、弥兵衛が白い鼠だったがために、暖かく受け入れてくれた人間の一家に富と幸せをもたらし、さらにその人間の力を借りて、弥兵衛は妻との再会を実現できたのだった。同じ時代に多くみられる、人間と別の世界で活躍する動物たちの物語と異なって、『弥兵衛鼠』の面白さは、まさに人間の世界に入り、人間と動物と交流が持たれたことにあったと言えよう。

ちなみに、『弥兵衛鼠』の伝本は、慶応義塾大学、大阪青山女子大学、海外ではニューヨークのスペンサーコレクション、ハーバード大学のフォッグコレクションに所蔵されている。中では、慶応義塾大学は「世界のデジタル奈良絵本」サイトにおいて全点公開しており、『新潮日本古典集成・御伽草子集』はこれを活字にして注釈を施している。これを読書リストに加えて読んでみよう。これまた一つのお正月の粋な過ごし方かもしれない。

世界のデジタル奈良絵本・弥兵衛鼠

2007年12月29日土曜日

門松

「もういくつ寝ると、…」。時はまさにこう唄われるように、年の瀬に迫っていく。暖かい日差しの中で街を歩いてみると、クリスマスの鮮やかな飾りはいつの間にか姿を隠し、それに代わって、半数以上の家は、門松を入り口に飾り付けた。

門松の習慣は、確実に中世に遡る。今日に残された数多くの文字文献にその姿を確認することができるし、絵巻の画面にも登場していた。それについて、一番有名なのは、『西行物語絵巻』(万野家本)に描かれた一こまである。

これは、慌しい年の暮れに繰りひげられた街中の様子だ。ストーリーの内容は、出家した西行が年の瀬に思わず在俗時代のことを思い出し、それを和歌に詠み残す、ということを語る。これを表現して、絵は街を過ぎ行く人々の姿にスポットライトを当てる。まるで行列をなしたかのように画面を横断したかれらは、魚や鳥を天秤棒の両端に掛け、手紙を大事に手に握って届け先へ走り、上等な薪、同じくお正月の飾り物を重そうに担ぐ。そして、この行列の一番後ろに来たのは、二本の大きな松の枝を要領よく担いだ男である。松はきれいに括られ、きっと門松に使うための飾り物に違いない。画面をしみじみと眺めていて、どのような人の家ならこれを使えるのかとおもわず想像してしまう。これまで豪華な飾りは、普通の人はとても手を出せないだろう。どのような出来栄えになるのだろうか。

門松に竹を添えるという習慣は、中世以後のものだと言われる。それを思い起こしつつ、今の街中の、とりわけ住宅街の普通の民家のそれを改めて見る。小さな松の枝を一本だけ壁に貼り付けるだけの質素な飾りがけっこう目につく。むしろ中世からの伝統が息づいているんだと、なぜか勝手に合点してしまう。因みに、北米のスーパーであふれるように並べられたクリスマスツリーのプラスティックの松の枝は、いまだ一本も発見していない。

ミニ門松のつくり方

2007年12月25日火曜日

西洋の風景

絵巻の中では、西洋との出会いがあったのだろうか。近代に入るまで、そのような実例は、知っている範囲では現われなかった。近世に作成された絵巻の作品でも、蘭学やキリストの伝教などとはきわめて離れた文化圏において制作され、楽しまれていた、ということだったのだろうか。

一方では、日本画的な作画と西洋の風景とは、ぜったいに溶け合えないものかと言えば、そう簡単には結論を下せない。下の作品は、その中の一例だと言えよう。小さな写真からはすぐには分からないが、これは実は六曲一隻の屏風の一部だ。描かれたのは、十六世紀後半に起きたスペイン国王フェリペ二世がトルコ艦隊を破ったレパント沖の海戦である。躍動に満ちた人間や馬などは、写真や油絵にみる陰影をもつ構図を見せながら、海に浮かべる戦艦は、例えて言えば、「石山寺縁起」に登場した海の中の白い馬を思わせる。それに加えて、全体の色はなんとも美しい。これを描いた絵師は、どれぐらい西洋の絵画を見、その色彩に心を惹かれたのだろうか、つい想像を逞しくさせてしまう。ちなみに屏風のタイトルは、「レパント戦闘図・世界地図屏風」。十七世紀初めの桃山時代の作品で、香雪美術館の所蔵であり、つい今月半ばまで大阪市立美術館の展示に出品された。

時はまさに2007年のクリスマス。いまやサンタの飾りもキャロルの音楽もすっかり日本の暮らしに溶け込み、一年の中でも、西洋的なものへの憧れが一番端的に形に現われる時期である。テレビを点けたら、ある流行歌手のステージでの絶叫が不意に流れ、その内容とは、なんと「ハッピークリスマス、万歳」。絶句させられた。同じ東洋と西洋との融合といっても、昔には、いたって端正で優雅なものがあった。


香雪美術館

2007年12月22日土曜日

検索の愉しみ

いまや漠然としたテーマを思いついたら、インターネットでとにかくサーチを掛けてみるというのが、だんだん形をもつ愉しみとなった。さほど期待していなくても、そこにはほぼ確実に意外な発見が用意されており、ここまで情報が纏められているものかと、つねに驚きと喜びを伴う感慨を覚える。

サーチするには、あれこれとやり方やコツがある。手始めにその入り口として大半の人はグーグルを使うのではなかろうか。例えば、「酒呑童子」という言葉を入れてみる。現在のところ、10万以上のヒットが戻ってくる。これでは使いものにならない。つぎはあれこれと試行錯誤の連続だ。「酒呑童子 -酒造」といったように、まずは関係のない酒工場を除いたら9万点となる。あるいは「酒呑童子 公開」、「酒呑童子 画像」といったように制限を加えてみれば、ヒットは1万台となる。いうまでもなくこのようなサーチでは常に大事な情報を見落とす危険がある。どこかの酒メーカーが文化事業として貴重な画像を公開している可能性もあれば、古典画像を思いもよらない斬新なタイトルで披露する機関も想像できる。いわば、検索とはあくまでも情報を拾うための試みであり、これで関係するものをモーラできるとは思わないことが基本だろう。

このような作業では、関係する情報を丁寧に集めてくれた人の成果を敏感に捉え、それを反芻することが大事だ。これだけ情報発信が発達してしまえば、情報に溺れやすいという危惧が共有され、その分、上手に泳ぎ渡り、その経験を提供してくれる人がどの分野においてもいる。それらの成果をまず十分に吸収しなければならない。御伽草子画像公開の情報については、とりわけつぎの二つのサイトを紹介したい。一方では、いくら丁寧に集められたものでも、すべてをモーラすることを目標としない、あるいはいろいろや制約で出来ないでいる。例えば、同じ性格の豊富な画像資料を早くから公開している東京国立博物館のデータベースは上記の両方とも触れていない。

電子メディアのことをめぐり四回連続して書いてみた。これを考えさせてくれた木曜日の一回だけの講義も無事終了した。そのクラスは、終了してから聴講した学生が全員その場で一枚のレポートを提出することになっている。寄せられた丁寧なレポートを読むのは、講義した人の愉しみだった。学生諸君に感謝すると同時に、とりわけ古典を志向する人とインターネットとの距離、さらに言えば、電子情報への期待感、信頼感の低さが分かって、わたしにはむしろいささか意外だったことを記しておこう。

リンク集デジタル奈良絵本(藤原重雄氏)
和書画像の公開者と画像の所在(内田氏)
東京国立博物館・カラーフィルム検索
ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版
(岡本真氏が文科系研究者のためのリソースを
リアルタイムにレポートする。)

2007年12月18日火曜日

全文検索が可能か

前回の話題に続き、御伽草子の「全文検索」を考えみたい。結論から言えば、この謳い文句を顔面通りに実現できるまでには、かなりの道のりがあるものだと思う。

検索とは、意中の言葉から出発して、特定の資料群から用例を見出すことを言う。これは、たとえば現在の新聞記事や小説などを対象に、地名、人名や語彙を探すとなれば、とても分かりやすい。しかしながら、対象が御伽草子となれば、事がいっぺんに難しくなる。まずここには文字の違いということが横たわる。いうまでもなくオリジナル御伽草子は、いわゆる変体仮名によって記されている。

変体仮名と今日の仮名との違いはどこにあるのだろうか。すぐ浮かんでくる答えは、変体仮名のあの、書写する人の勢いや筆遣いなどによる、さまざまな文字の形かもしれない。しかしながら、両者の根本的な差は、一つの音節をいくつの文字で表わすかにある。現在の仮名は、あくまでも一つの音節には一つの文字、対して変体仮名の場合、たいてい二つ以上の、時には十近くの文字が当てられる。それもあくまでも音を表現するものであり、意味による使い分けなど認められない。分かりやすい例を挙げてみよう。右の図(白百合女子大学所蔵『伊吹山酒顛童子絵巻』より)に、「酒呑童子」のことを「しゅてんたうし」と書く。「し」は「志」「之」という二つの字体をもつ。

古典文学研究の第一歩は、したがってまずこの変体仮名によって書写された文章を現代の文字表記に置き換えることから始まる。いわゆる翻字あるいは翻刻という作業だ。簡単に想像がつくように、一対一という置き換えでは済まない。加えるに、文字遣いという問題が絡んでくる。今の例では、まず「しゅてんたうし」「しゅてんとうし」「しゅてんどうじ」といういくつかの可能性が出てくる。しかもたとえ最後の案でも、仮名のみの文章でけっして良くやすくなく、漢字を当てることが望まれるようになる。そうなれば、「酒呑童子」か「酒飲童子」なのか、違うレベルの考察や考慮によって決めなければならない。もちろん一つの方針を取るということは、同等に可能な表記を切り捨てることを意味する。

そこで、御伽草子の検索とはなにを対象としたら良かろうか。古典の画像を持ってきてもおそらく意味がない。第一、検索の出発点としてのキーワード入力が難しい。現代表記の言葉を用い、一つのキーワードに対して、上記すべての可能性のものを対象として検索するということは、不可能ではないが、どのような構造のデータベースが必要となるだろうか。しかも場合によっては、以上の文字の違いこそ大事で、それを対象とする検索にも対応すべきだとのことも忘れてはならない。

御伽草子についての研究は、いまだ一世紀も満たない。かなりの成果が積み重なっているが、それでもすべて作品が翻刻されるまでにはとても到達していない。その翻刻は、これからも自動生成ではなくて、人間の手によって一字一字と行われていくことだろう。その成果が、「全文検索」とすぐにでも直結してもらいたいというのは、研究者ならだれもが願っていることに違いない。それがはたしてどのような道のりを経るのだろうか、一人ひとりの研究者としてなにができるのか、真剣に考えたいテーマである。

なお、電子メディアについて三回ほど書いた。つぎもこの話題にしたい。このことを考えさせてくれたのは、明日に予定されているある大学授業でのゲスト講義だ。そのタイトルも「マルチメディアと絵巻」と予告した。

白百合女子大学所蔵貴重書『画像』データベース

2007年12月16日日曜日

デジタル情報の担い手

デジタル情報の担い手は、はたしてだれなのだろうか。

それは、どうやらこれまでに文化の発信と貯蓄を一身に背負った出版関係の組織ではなさそうだ。考えるに、出版の活動を大きく選定、編集、印刷、発行と捉えるならば、その中で大きな比重を占めるのは後の二つ、すなわち物理的な要素をもつ役割だったと言えよう。対して、デジタル情報の発信は、かなり違う特徴を持つ。あえて言えば、選定、編集というプロセスこそ共通するが、印刷も発行もほぼ不要になる。だが、これらの機能は出版社にとって簡単に切り離せるものではないだけに、この現状にはすぐ変化が訪れないことだろう。

いまのところ、担い手の最近距離にあるのは、大学や公立の図書館だ。すでに公開されている古典作品の画像も、ほぼすべてこれらの機関から提供されている。

しかしながら、図書館に取っても、デジタル情報の提供とは、これまでの図書情報の管理、提供からすればまったく新らしい業務である。明らかなことに、図書館には選定、編集の役目を持たない。それよりも、編集されたものを分かりやすく整理し、使いやすいように提供することを役目とする。したがってデジタル情報に取り掛かるためには、違う方針と特別な作業チームが必要となる。

このことは、これまでに公開されているデジタル情報のありかたにもはっきりと現われている。すなわち、たいへん貴重なデジタル情報を提供していながら、それをなんのために提供しているのか、図書館という役目には沿っているかどうかということに、曖昧なままに続いていることが読み取れる。端的な例を挙げるならば、つぎの二つが指摘できよう。せっかく公開した資料は、満足に読めないぐらい小さなサイズのものにする。かなりの規模のものを公開していながら、それが読者の画面には簡単に表示できないようにと、意図的に制限を掛ける。このような処置は、情報の質を落とすということに他ならず、公開そのものはあくまでも試運転の状態のものだとの意思表明に違いない。現にこれらの情報公開をいつまでも続けるとの前提を設けない。出版の場合の、一度出したら永遠に変わらないで残るという使命を自ら取らない立場にある。

なお、日本の学術の環境では、図書館以外に、さまざまな資料を収集し、フィルムなどの形でこれを保存して、読者の閲覧に提供するという公的な機関が存在する。原則としては、上記の出版と図書館の中間に位置するもので、デジタル情報の作成と提供がその仕事の範囲にはるべきなのだが、これまでには積極的な参加が見られない。

このような環境の中で、デジタル情報の提供が実現できないのだろうか。いまの情報社会の発展はどうやらそのような結果を許さないらしい。北米や中国の場合、学術雑誌やアーカイブの資料はデジタルにて図書館などを通じて読者に提供されていて、研究者や大学生はすでにその恩恵を受けている。いうまでもなく提供者と大学図書館の間では、商業活動の形を取る。その目で見れば、日本だって圏外に置かれるはずがない。それのもっとも端的な動きは、グーグルと慶応大学図書館との共同作業だろう。そして、そのキャッチフレーズは、まさに「「御伽草子」も全文検索」といった、衝撃的なものだった。

因みに、古典資料だけで言えば、資料自体の著作権の問題は存在しない。これをデジタル化するという作業への権利はもちろん生じるだろう。だがこれまでの議論では、デジタル権利の主張や対応はあまり注目されていない。むしろ、これまでのデジタル情報の公開者からは「公開されたものが悪用されはしないか」との心配はよく聞かれる。ただし、現在のところ、そのような心配にあたるような実例はさほど報告されていない。

CNET Japan ニュース:Google、ブック検索で慶応義塾大学図書館と連携--図書館はアジアで初の参加
ITmedia ニュース:「御伽草子」も全文検索――Googleブック検索に慶大が参加

2007年12月12日水曜日

ウェブに御伽草子の画像を

いまやマルチメディアとはまさに時代の寵児だ。インターネットというかつてない通信手段は、まるで生命の水のように社会生活のあらゆる分野を縦横無断に流れ、人間の記録と交流のありかたを変貌させる。一方では、絵巻という古来の美術、文学の媒体は、その本質においてはなはだマルチ的なメディアだった。物語を文字と絵という二つの形態で記し、その文字をだれかに読み上げてもらいながら絵を目で追っていくことを享受の王道とする絵巻は、まさに音声、画像、文字といったメディアをフルに生かし、それの合成やハーモニーを楽しむ表現の手段だった。

そして、絵巻とマルチメディアが出会う。

性格がまったく異なるこの二つのメディアが交流しはじめると、どれだけの可能性が生まれることだろうか。それを一つひとつ数えてあげると、無限なような感じさえする。だが、すべてのことはすこしずつ展開するものだ。無限な可能性でも、いっぺんに実現するはずがなく、むしろ単純な作業を確実に始めなければ、物事は始まらない。

例えば、御伽草子の作品を全点の内容をウェブページに公開すること。

これを説明するには、やや絵巻の「研究史」を触れなければならない。そもそも絵巻の研究がこれだけさかんになったのは、いまから三十年ほどまえに刊行された『日本絵巻大成』に負うところが大きい。それまで美術館などに行って、特別な手配をしてもわらなければまずその全容が分からない絵巻は、フルサイズ、フルカラーで出版されて、読者がさまざまな角度や視線でそれを眺めることが可能となった。さらに同じ出版社は、同じ写真を使って、廉価版、縮小版と違うスタイルのシリーズを出して、これの普及にはいっそう拍車をかけた。一巻の巻物が知られるようにするためには、まずはそれを読者の手元に届けられるようにしておかなければならないと、実に単純な事実だった。

絵巻への関心の目は、やがて16、17世紀の後になってもなお作り続けられた作品、そしてそれらの作品と平行する御伽草子に向けられる。だが、ここでやや事情が違ってくる。13、14世紀の、いわゆる一流の絵巻の作品に比べて、これらのものは、まずは比較的新しい。それに加えて、製作技術の進歩により、同じ作品が複数に作られたとのケースが多く、その分「美術的な価値」が劣る。おまけに現存する作品の点数は多く、現代の出版の事情は厳しくなる。これらのもろもろの要素を数えてあげると、あの絵巻のシリーズのように一群の御伽草子が写真版となって読者の手に届けられることは、まずは考えられない。所蔵者のところに足を運ばせて特別な配慮をしてもらわないと作品の全容が見えないとの事情は変わらない。

そこで、インターネットにて御伽草子の画像を求めることが可能となった。

結論から言えば、現在インターネットでは、すでにかなりの分量の御伽草子の画像が公開されている。最近、興味があって調べてみると、大学や公立の研究機関、美術館などを中心に、すでに約15000枚の画像が公開されている。しかもこの数はいまだ増え続けている。公開の機関が各自違う方針でやっていることで、スタイルも目的もまちまちで、縦横に検索することもけっして簡単ではない。第一、画像のサイズがそれぞれ違って、多くのところではわざと小さいものを置くという方針を選ぶ。しかしながら、それでも普通の出版物で掲載された写真には劣らない読みやすさだ。言ってみれば、インターネットのお陰でもう一つの資料群が身近な存在となった。これからは、御伽草子の研究を始めようとしたら、まずはオンラインの資料群を活用しなければならないというのが、新たな常識になったと言いたい。

この話題は、もうすこし続けてみたい。

京都大学電子図書館・絵巻物・奈良絵本コレクション
世界のデジタル奈良絵本データベース

2007年12月9日日曜日

BIOMBO

大阪に出かけて、天王寺公園の中にある大阪市立美術館にて「BIOMBO/屏風」と題する展覧会を見てきた。日常の実用性を兼ねながら、その時代の美意識を凝縮した膨大な作品群には、つねに惹かれる思いでいるが、このような規模の展示に対面して、やはりいろいろなことが教わり、教科書や美術書の写真で見るのとはまったく違うレベルの視覚衝撃を受けた。

展覧会のタイトルには「BIOMBO」とローマ字を先に持ってきた。ポルトガル語であり、スペイン語にもなった語彙である。なるほどローマ字表記の言葉を求めるものならば、「folding screen」といった説明調の英語や、「byobu」といった音を記録するような表記よりは、たいそう重厚感がある。ただし、ここではあくまでも日本の人々の目を意識したものであり、展示の重要な要素である「海外からの里帰り作品」とのことを強調しようとしたものだろうと推測する。

展覧会を見て、思いに残ったものはたくさんあった。当麻寺の「十界図屏風」は初めて実物を見た。作品のテーマと、屏風という装飾性との性格との対立は、やはり過剰なほどに色彩を施された実物の前に立って見ないと、得られない認識がある。物理的なサイズを実感して、ようやくそこに描かれたストーリを追っていく読者としての余裕に共感できる感じがした。先学の研究をあらためて思い起こす。

これまで知らなかったことは、数えてみればあまりにも多かった。屏風の実用性として出産の場があった。それも白いものが用いられるとの仕来りが絵巻の画面で教わり、出展の中にはそのような豪華な白い屏風がじっさい一点入ったのが、感動だった。海外に持ち出された屏風は、いわゆる「流失」ではないケースもあったことに気づく。外交の場における物の交流があり、それも軍艦を受けたことへの返礼が屏風であり、かつその屏風は今日まで大事に保存され、里帰りが適えられたとは、感無量だった。思うに当時もらった軍艦は、遠の昔どこかに消えたに違いない。そのような政治的な用途が含まれた屏風であれば、作成はただの美術品という枠では縛られきれず、草案と、政治や権力者に許可をもらうための関係書類が一堂に集まり、展示企画者の手腕に頷く。

屏風の名品のかずかずの間に、「石山寺縁起」「桑実寺縁起絵巻」といった、こちらも絵巻物の一流品が、ただ屏風のありかたを傍証するためにだけなにげなく会場に置かれたのには唸った。そして、数多くの里帰りの作品の中には、シーボルトコレクションのものまで含まれた。ライデン国立民族学博物館を訪ね、学芸員に親しく展示を紹介してもらったのは、たしか1998年の秋のことであり、すでに十年近い時間が流れた。

「BIOMBO/屏風」展は、今週の終わりまでだ。

大阪市立美術館・特別展のご案内

2007年12月4日火曜日

海外ということ

勤務する大学はカナダにある。カルガリーという町に住みながら、日本の絵巻を読む、一見奇妙な組み合わせだ。しかしながら、日本と海外とを結ぶわずかな繋がりのようなものがある。それも対象が絵巻だったがゆえの、ほかの、例えば物語、和歌などにはないものなのだ。

それは、美術コレクションとしての、絵巻がもつ巻物という物理的な側面に由来する。

絵巻ものの海外流失は、話題になって久しい。日本国内においても、いまなお市場で流通し、財産として所有者を変える運命をつづける絵巻にとっては、日本の外に渡されることはつねに可能性として持ち合わせる。だが、それにしても、質、量ともに上質なものが海外の公私機関に所蔵されているものだ。あえて言えば、海外のコレクターは、日本国内の平均的な価値判断に左右されない傾向がある。したがって、純粋に綺麗な作品、名前の知られていない絵師によって描かれた丁寧な模作などが喜ばれる。結果として、関心が生まれるまえに海外の地に作品が集まったという皮肉な結果になる。一方では、海外だからこそ注目されやすい要素もあり、日本国内にある同規模のコレクションより海外のものは数倍ももてはやされるというのも、事実である。

英語圏の美術館、図書館に所蔵されるようになったこれらの実物は、自然と若い学者たちの関心の的となり、日本へのアプローチの手掛かりとなる。しかしながら、実際のコレクションの数に比べて、研究はいまだあまりにも少ない。現在も手付かず状態の名品、言い換えれば研究者としての探検の宝庫は、まだまだある。まさにこの意味において、海外に身を置くことにより、宝の無尽蔵にわずかに近い、という思いが得られそうだ。

試しにニューヨークライブラリーのサイトに入って覗いた。例の「スペンサー・コレクション」を有しているところだ。図書館の「デジタルギャラリー」にて、EMAKIと検索すれば、源氏物語を内容とするものは7点、175枚の画像が公開されている。いずれも画像サイズが小さくて、解説もほぼ皆無だが、それでも所蔵の一端が見えて、感心をし、しかも研究の意欲を刺激してくれる。

なお、今日の話題を考えさせてくれたのは、桃山学院大学総合研究所の先生方である。これから大阪に向い、ささやかな発表を行う。(「外国人研究者を囲む研究会」

写真:スペンサー・コレクション所蔵
絵巻・源氏物語(Spencer Jap. MS 67 )

ニューヨーク・パブリック・ライブラリー
(デジタルギャラリー)

2007年12月1日土曜日

絵巻を披く

先週、ある若い学生と共に、大学貴重書の五巻の絵巻を見る機会があった。若い人は、これまで本物の絵巻を扱ったのは一度だけとのことで、最初は非常に恐れ入ったが、自分の手で披くようにと勧めたところ、終わりには驚くぐらいの手つきになった。見終わった絵巻は、明らかにそれまでの状態に勝り、前に見た人より丁寧できれいに巻き上げられ、箱に収まった。

そもそも、一巻の絵巻を見るということを、どのような動詞で描くべきものだろうか。普通は、「披(ひら)く、巻戻す」というセットだろう。ところで、経験を持たない読者なら、さっそくそのような状況を身に付けるはずはない。おそらく、「さわる」「手に取る」「取り扱う」といったような段階があるのではなかろうか。そして、学芸員とかその道のプロの人になると、まさに流れるような鮮やかな手つきで「あやつる」ものだ。

文字や絵を記録する媒体として紙を選び、大きな分量になったそれを連続して纏めようと思えば、自然に巻物という形態となる。縦書きの文字が右から左へと行を増やすに従い、紙の貼り継ぎを続ければ、無限な記録や表現の空間が生まれる。一方では、巻物という形態は、保存に向いていて、閲覧には向かない。披くのと同じ労力が必要とする巻戻しという作業は、いかにも経済的ではなくて、第一、ものを物理的に消耗する。読みたいところまで辿りつくためには、それまでの内容をすべて一通り目を通さなければならないという意味では、比喩的に言えば、巻物はアナログ的なもので、冊子本はデジタル的な性格を持つ。

巻物は、われわれの今日の生活の中では限りなく姿を消してゆく。知識のすべてを教室の中で伝授し、体得させることを前提にもつ現代の教育システムでは、巻物を扱うことまで配慮するような贅沢はとても持てない。そう思えば、わたしの場合、絵巻をはじめてじっくりと自分の手で触ったのは、例のスペンサー・コレクションだった。大きな扉に止められた部屋の一角に、日本の絵巻がまるで無造作に山済みになり、それを一人で広い台に繰り広げていく。ニューヨークの喧騒な街中に身を置かれながら、まるで異空間だった。いまから考えれば、じつに幸運な経験だった。

絵巻の中に、そして絵巻を見るためには、つねに現代の生活とは異なる時間が流れている。絵巻の中の時間まで再現するようなことは、不可能だろう。あるいは、われわれが意識的に避けようとしているのかもしれない。

ソウル紀行

私は現在研究休暇で東京に滞在している。先日、ある小規模の国際研究集会に参加するためにソウルを訪ねた。約五年ぶりの韓国旅行で、数々の思い出が出来た。

日本の中世文学をテーマに日本で研究生活を送ると、ふだん会話をしている周りの人間は、どなたもいわゆる国語国文学出身で、日本語とはきわめて遠い存在である。しかし韓国へ渡ってみると、新しく出会った人も、久しぶりに会う古い友人も、みんな何らかの形で仕事として日本語教育に携わっている。いわば同業者の思いを分け合い、自然と会話が弾み、そして内心、周りの看板など見た目以上に外国に来たとの実感を受けた。

韓国人の日本語レベルは高い。言語的に日本語と韓国語が近いなど、繰り返し議論される話題ではあるが、それでも実際の様子を伺うと、やはり驚くばかりだ。たとえばつぎのことを教えてもらった。日本語を専攻とする大学生の多くは二、三年生の時点で日本語能力試験一級に合格してしまう。ほとんどの大学は、一級合格をごくあたりまえのように卒業の必須条件とし、それをどうしてもクリアできない生徒には、代わりの試験を用意したりしてフォローするような政策もあるが、あくまでも例外とのことである。日本国内では、一級合格は、留学生にとって大学入学のための基準だということから考えて、当たり前といえば当たり前だ。でも、カナダで日本語を教えていて、それがどれだけ難しいことかは、身をもって知らされている。

一方では、大学での講座設置の様子などを尋ねたり、観察したりすると、日本語関係の学科はほぼ例外なく日本語を外国語として習った韓国人が中心となって運営し、しかもその中では男性教官の数が圧倒的に多い。それに対して、母国語話者の日本人は、あくまでもお雇い外国人として大学の教壇に立つ。だが、それにもかかわらず、日本からやってきた先生方は、韓国の魅力に惹かれて、つい永く居てしまう。いうまでもなくそのような先生たちは学生にこよなく愛され、電車とかで偶然に出会う先生と学生との流暢な日本語での会話を傍から見て、やはり心温まる光景である。

いまや韓国では日本ブームといわれて久しい。実際にソウルの街角を歩いていても、それを実感することができる。われわれ十数人の小グループは、電車を使って会場への移動を繰り返し、どこでも遠慮なく日本語で会話をするが、それでもさほど周囲からの特別な視線を感じない。繁華街や地下鉄の看板などは外国語を併記し、それがほぼ韓国語、英語、日本語、中国語という順番を保つ。だが、実際に市場などの人々に会話を持ちかけると、英語よりも日本語がよく通じる。夜遅くまで繁華街の道端の特設ステージで歌や踊りのパフォーマンスが続き、登場するアイドルたちの服装や仕草には、やはり日本の影響が目立つ。一方では、新聞や書籍の文章からは漢字が急速に消滅した。古典資料では韓国の文献も漢字頼りに親近感を持っていただけに、どことなく寂しく感じた。

短い滞在の最終日、すべての活動が終わったあとの真夜中近く、親しい韓国人の友人に案内していただいて、清渓川の川沿いを散歩した。ソウル市内の幹線道路を取り除いて古い川を再現して、二、三年前に完成したとのこと。韓国の底力を覗いたような思いだった。

Newsletter No. 35・2007年12月

2007年11月27日火曜日

鼠への視線

前回に続いて、もうすこし『鼠の草子』のことを書いてみよう。

鼠を主人公に据えたこの作品は、室町、江戸を通して、絵巻、絵本とさまざまな形で制作、出版され、膨大な数の読者に楽しまれた。『鼠の草子』は読者享受という意味でも、御伽草子の代表作だったに違いない。

一方では、この作品は、ユニークで、どこか取り扱いにくい。

作品においては、鼠たちはあくまでも鼠の顔と体をしていて、人間の服装を身に纏い、人間のように会話をし、活動をする。御伽草子の作品群には、いわゆる「異類物」と呼ばれるものがあり、他には、猿、猫、狐、などなど人間の周りに生息するさまざまな動物たちが主人公となり、似たような方法でストーリーや絵の中で活動した。これらの動物たちに、人間の、いたって人間的な行動をさせることによって、作者や絵師は人間社会への観察や思いを表現し、そしてその主人公が動物だったがゆえに、表現が自由であり、思い切った風刺や批判がしやすくなる。さらにところどころにその動物らしい行動や発言を入れて、ユーモラスな愛嬌とした。

このような表現を楽しみ、今日の読者に伝えるためには、たいてい「かわいい」という一言でそれを処理してしまう。いわば今日の漫画の作品に登場する宇宙人たちを眺めるときと同じ立場を取る。人間ではない姿に、人間だという仮想を成り立たせた上で、それを楽しむ。しかも動物を人間らしく行動させるという表現の方法まで、われわれはそっくり受け継いでいる。一番最近の例だと、テレビコマーシャルに乗って一躍有名になった北海道犬の白いワンチャンだ。「話すんだ」との会話をもって、しゃべる犬という事を受け入れれば、あとは「友達の輪」である。

しかしながら、『鼠の草子』である。ここで難解なのは、人間の姿をした鼠たちは、同じストーリーの中で、人間らしく立ち振る舞いをする隣の画面では、人間の服を脱ぎ捨てて、鼠の本性をあらわにする。それも大群で登場し、人間の生活の空間を食いちぎるという、どう考えてもかわいくない生態を見せる。不気味なことに、人間の服装を纏わなければ、いっぺんにしゃべらなくなる。人間のために作られた豪華で綺麗な絵巻、絵本の作品において、このようなまったく対極する鼠たちの二つの顔に直面し、それを同等に眺めるという視線は、今日のわれわれには、持たない。

これこそ遠い昔の中世的な感性の一角だろうか。人間である以上、感性が続く。一方では、理性で理解できても、いまやそのまねが出来ないものもある。人間の感性の継続と、その断絶を、鼠への視線を通じて感じ取った思いがする。

弥兵衛鼠絵巻(慶応義塾大学蔵)より

2007年11月24日土曜日

カタログ・鳥獣戯画展

水曜日、サントリー美術館の「鳥獣戯画がやってきた!」を見てきた。人ごみにもまれて、国宝絵巻をじっくり眺められる至福な時間を得た。戻ってきて、いくつかのキーワードでネットを検索したら、この展示についてのブログの書き込みの多いことに驚いた。一つの展示会がいかに古代と現代の感性を繋いだかを見た思いがした。

前回、カタログのことを取り上げたので、その続きを書こう。

期待していた通り、カタログにはいくつかの工夫が施されて、とても愛嬌がある。内容的には絵巻を全点取り入れて、充実な周辺展示を大きく記録して、申し分がない。そして、内容よりも外装でアピールすることに製作者が意気込んだと見る。横長の体裁に加えて、透明のプラスティックのカバー、それに小洒落なエコバッグまでついて、買う気を誘う。

一方では、予想しなかったのは、売店の目立つ
ところに置かれたもう一冊のカタログ、「絵本 鼠草子」だった。まるで国宝の展示に便乗したような格好にはなるが、手に取ってみて、製作者の遊び心のようなものをひしひしと感じられた。取り上げられたのは、普通ならこのような規模のイベントでも十分主役に務まるものでありながらも、展示会場の一角に押しのけられて展示された絵巻「鼠草子」である。

正直に言うと、カタログの名前には、かなり困惑した。その意図は、絵巻という作品を、印刷された一冊の本に仕立てた、サントリーのオリジナル「絵本」ということなようだ。ただし、室町時代に膨大な数に作られ、現在ますます注目を集めている、通称「奈良絵本」という名の作品群が存在しているから、このタイトルは誤解を招きかねない。念のために、展示され、このカタログの対象となったのは、一巻のりっぱな巻物だった。しかもそれは三十年前に出版された「日本古典文学全集」(小学館)の底本になったもので、広く知られている。

このカタログの一番の工夫は、「絵本」と名乗って、すでにもとの絵巻ではないということを主張しているがごとく、絵に描かれたかなりの分量の「画中詞」をすべて現代語訳して活字の仮名で置き換えたものだった。絵と仮名との構図はここに見られない。代わりに現代の漫画でも読んでいるような錯覚を感じさせるような、ユニークな絵と分かりやすい「吹き出し」だった。

いうまでもなくこのような思い切った措置により、この名作を楽しむ新たな読者の開拓ができるに違いない。一方では、わたしの目には、あらためて印刷物の限界を感じてしかたない。一枚の紙に印刷する以上、古風の仮名かあるいは現代の活字か、けっきょく一つしかできない。もともと印刷のコストを倍にできるものならば、カラーにてオリジナル画面、白黒にて現代語吹き出し、ということもできるだろう。白黒だと、現代の漫画にいっそう近づけるかもしれないと付け加えよう。

絵本 鼠草子

2007年11月20日火曜日

中国の絵巻

中国にも絵巻があった。しかもそれが多数制作され、数々の名品が伝わったのは、13世紀前後の南宋の時代だった。

もともと中国語には「絵巻」という二文字の組み合わせがなく、これをそのまま付けたタイトルあるいはジャンル名もない。「絵」とは中国語では多く「描く」という動作を指すもので、文献名称としての語は「図」を用いる。したがって「中国の絵巻」とはあくまでも日本語にした訳語であり、同じ立場から「画巻」との用語がある。

いわゆる「中国の絵巻」とは、ただ単に絵をもつ巻物、あるいはわずかな挿絵を取り入れた文字テキスト中心のものではない。それは日本の「絵巻」というジャンルの特徴をすべて持ち合わせている。すなわち複数の絵を中心として、それには文字テキストを各々併記し、全体をもって一つのストーリーを表現する。しかもそのストーリーは多く読者に熟知されたものであり、文字テキストも経典だったり、詩だったりして、前の時代に成立した名作をそのまま応用した。いうまでもなく、そのような作品は作成当時の、そしてその後の時代の人々に珍重され、愛読されていた。

一方では、そのような中国の絵巻と日本の絵巻との相違も大いにあった。両者の本質的な違いは、絵の物語表現だとわたしは考える。すなわち、中国の絵巻の絵は、流れていない。言い換えれば、日本絵巻に見られたような、生き生きとして、あの手この手を使っての物語表現に注いだ情熱に欠けている。代わりに、どこか中国山水画の余興といったような構図をして、山水画にも登場する人物を大きくした、といった印象で、ストーリーを伝えるということへの工夫が少ない。それから、さまざまな理由が重なり、結果としては、作成された分量は少なく、中国の美術あるいは文学の歴史において一つの表現形態としては主流を占めたとはとても言えない。

これまで中国の絵巻についての研究が多く行われてきた。日本語のものとしては、二年前に刊行された古原宏伸氏の『中国画巻の研究』が特筆すべきだ。だが、このような中国の絵巻の存在は、いまだ日本の絵巻に関心をもつ読者や研究者の視野にあまり入っていないというのも、これまた事実のようだ。

明日、成城大学文芸学部に招かれ、中国の絵巻をめぐる研究報告の場が与えられる。「胡笳十八拍図」にみるつぎの場面を中心にして、その物語表現を考えようとする。どのような交流が待ち受けているのか、ワクワクしている。

「胡笳十八拍図」第十三段(匈奴の人に攫われ、十二年の生活を強いられて二人の子供まで育てた蔡文姫は、やがて漢への帰途に着く。)

成城大学・NEWS & TOPICS

2007年11月17日土曜日

みちのくに紙

前回に書いた国際研究集会は予定通りに行われ、「戦場の便り」と題する短い研究発表を無事終えた。発表の内容は、絵巻『後三年合戦絵詞』の一場面をめぐるものだった。

すでに31回目と数えるこの研究集会は、毎回あるテーマを決めて行われ、今年のそれは「手紙と日記」であった。一方では、「後三年」には手紙を取り扱う一つの画面があり、これを理解するためには、手紙についてのアプローチが必須となる。というわけで、平安・鎌倉時代における手紙のありかたを調べる、ということで研究発表の準備に取り掛かった。

いうまでもなく鎌倉時代にはいまだ「手紙」という用語が使われていなかった。しかしながら、手紙という交流の手段は、いわば今日の手紙、電子メール、電話と、個人間の通信交流のすべての手段を兼ねてしまい、それこそ社会生活の中の重大な内容だった。これを表わす言葉には、絵巻の詞書にあった「文(ふみ)」がまず挙げられる。さらに、「消息」「雁の使い」など、異なる文体などにおいて多様多彩な語彙があった。

文字文献において以上のような言葉への追跡の中で、さらに平安の貴族生活での紙へのこだわりに気づいた。その代表格のものは、「みちのくに紙」、すなわち陸奥の地名によって名づけられ、檀の樹皮をもって作られた上質な紙である。たとえば『枕草子』には、「みちのくに紙」が繰り返し登場した。清少納言は、これを「心ゆくもの」「うれしきもの」など、気に入りのものとして数えただけではなく、さらにつぎのような形で細かくこの紙への思いを記した。腹立たしいことがあって、いっそうどこかへ消えてしまいたいという気分になってどうしようも出来ない時など、みちのくに紙さえあれば、気持ちが和められ、生きている気がするようになる。みちのくに紙とは、まさにハイ・カルチャーの代表である手紙に形を持たせる、王朝物質文化のハイライトを成すものだった。

ここには、あるいは「後三年」の手紙をめぐる画面成立の秘密が隠されていたのかもしれない。義家の合戦が繰り広げられたのは、まさに陸奥の地だった。土地と、それから生死に直面する武士たちの姿を想像し、それを文学的に都にいる読者に伝えるために、武士と手紙との出会いが生まれたのではなかろうか。時代の文化や社会の生活の実態、そしてそれらへの思いや理解こそ、画像表現の基底にあるものだった。そして、このような推測を認めるとすれば、画像の構図を作り出すための一つの思考の実例を見たことになる。

ちなみに『後三年合戦絵詞』(重要文化財)は、東京国立博物館に所蔵され、博物館サイトにてややサイズが小さいが、絵巻全点のデジタル画像が公開されている。「図書・写真検索(カラーフィルム検索)」を辿ればすぐ分かる。

東京国立博物館(図書・写真検索)

2007年11月13日火曜日

絵巻に手紙をみる

小松茂美氏が『手紙の歴史』(岩波新書、1976年)において、江戸後期の出版物のつぎの一枚を紹介した。作者は土佐派の画家、故実家の高島千春である。

この一枚には、「文書」とのタイトルを持つ。今日にいう手紙というものだ。全部で計九つの手紙の画像例を集める。それぞれには「伴大納言」「春日ゲンキ」といった絵巻のタイトルが添えられ、それらの作品の数々は今日にも伝わる。作品名の簡略あるいは相互の不統一(「石山」と「石山縁起」は同じものを指す)は、絵巻のタイトルの流動性よりも、広く知られたものについて、わざわざ全称を書かなくても通じるとの理由によるものだろう。いうまでもなく、これらの画像例は絵巻の画面上で簡単に確認できる。そして、九つの画像はそれぞれ異なる要素をもっていることなどから考えれば、ここには画家の目に留まったすべての例を書き記しているわけではないことを暗示しているだろう。

絵巻好きな読者には、この一枚の内容は、じつにいろいろな意味で興味が尽きない。同じ作品が辿る百年単位の流伝や読まれる歴史、画像の記憶と記録、複写の手段を持たなかったころの読者の限界と、それの対極にあるこの画家のしっかりした筆遣い、などなど。このようにリストしてみても、考えが膨らむ。だが、ここに見られる一番基本的な立場は、やはり絵巻の画面への、内容とは無関係な視線、というものだ。

ここにある画家の関心は、あくまでも古代の人々の生活の中にあった手紙というものの形姿だった。いわば絵巻は、それへの答えを示す最適の資料であり、その資料の応用とは、すなわち物語を伝えるためにあった絵を独立させ、関係ある部分のみ取り出して特定のテーマの下に並べなおすものだった。その結果として、絵巻は本来のストーリーを伝えるという役目から離れて、古代のビジュアル的な文献という性格を遺憾なく見せてくれた。

いうまでもなく、ここまで考えが辿りつくと、近世の学者はすごい、との素朴な感嘆になる。というのは、記録、伝播の手段が大いに進化した現代において、このような方法がそのまま受け継がれ、大きな発展をとげたからである。それの代表格的なものは、ほかでもなく『絵巻物による日本常民生活絵引』(1965年)を挙げなければならない。そして、特定のテーマから絵巻の画像を縦断に見るということは、やがて絵巻に向ける現代読者の重要な視線の一つとなった。当然ながら、千を単位とする絵巻の画面は、このような視線を受け止められるだけの豊饒さを持っている。その結果、今日の社会生活との緊密な関連から出発したこのような読み方は、絵巻の魅力の一端を開拓した。

一方では、絵巻への研究は、画例の蒐集に終始するわけにはいかない。これまた自明なことだ。

最後に、この話題は国文学研究資料館主催の国際研究集会での発表発表を準備する間に出会った。その研究集会の開催は、ついに明日と迫る。

第31回国際日本文学研究集会「手紙と日記-対話する私/私との対話-」

2007年11月10日土曜日

釈迦の舎利

韓国帰りで、旅の所々で撮った写真を整理し、眺めている。その中でつぎの一枚が出てきた。とても印象的な一瞬だった。

これは、ソウルの仏教中央博物館の中に展示されている数枚の壁掛けの絵の一枚からである。組絵のテーマは釈迦の一生。そしてこの最後の一枚には「双林涅槃相」とのタイトルが付けられている。絵全体は釈迦入滅の様子をいくつかの場面に分けて描き、それを時計方向に並べている。釈迦が横たわる様子は相変わらず多くの高僧に囲まれ、荼毘に付されるところは棺のみならず、それが炎に囲まれる状況まで絵画化された。そして最後の部分に辿りついたのは、つぎの写真のところである。前後の連続など判断して、釈迦の舎利を分けて信者に持たせるところだった。

しかしながら、これが釈迦の舎利か。この場を掌る大男の、なんという強烈な顔つき。はなはだ不謹慎だが、わたしの目にはなんとも言えない粗俗で、まるで市場での安売りを連想させられてしまうような安っぽい容器や仕草を連想させられた。

学生時代、日本古典への入門は平家物語だった。「祇園精舎」と始まるあの清純な響き、漢文と和文との融合に代表される中世の教養は、無限の想像を誘ってくれる。京都で暮らしをして、本能寺近辺で沙羅双樹の葉っぱを実物で教わった時の感動は、いまなお記憶に新しい。そして、数年前には絵巻「玄奘三蔵絵」を読んで、まさにその「祇園精舎」の表現に論のきっかけを得たものだった。それだけに「祇園精舎」にはつねに特別な思いを抱いている。考古学の研究や調査の写真などによれば、祇園精舎のあった地はすでに砂漠に埋もれ、今日は辺り一面の黄砂に変わり果てた。だが、それはむしろ一層想像の中での、緑あふれる浄土を保ててくれたとさえ言える。

いうまでもなく、目を見張る大男が代表する祇園精舎の絵は、韓国における一つのイメージを伝えている。今日の、一外国人としてのわたしの目にどのように映るにせよ、それは心よりの敬虔な思いを表わしているに違いない。さきの不謹慎な連想は、あくまでも自分の未熟の恥さらいに他ならない。この姿や状況は、いわば時、時代、国や民族の違いにわたって釈迦をまつわる移り変わった光景の一つとして、記憶に納めておきたい。

2007年11月6日火曜日

韓国の街角から

ソウルへ行ってきた。

立教大学と韓国外国語大学校の共同主催による国際シンポジウム「東アジアの日本文学研究」に参加させてもらった。二日にわたり計十七本の講演や研究発表が行われ、わたしも「東アジアの身体・イメージと文芸」とのパネルにて、「中国絵巻と日本絵巻との一比較」と題する発表をした。活発な議論などが交わされ、短かったが、たいへん充実した数日を過ごした。

シンポジウムを挟んだ前後の三日間は、会場に座った時間には負けないぐらい学術活動が続いた。図書館、資料館を回って資料を調査し、本屋や古本に入って書籍を捜し求め、そして美術館や寺などを見学して見識を広めた。とりわけ東国大学図書館では、予期もしなかった貴重仏書展覧会に出会い、高麗時代の書写本や木刻本が一堂に集まったのを拝観する珍しい機会に恵まれた。

わたしの関心は依然画像のあるものに惹かれる。おまけに、韓国語にはすこしも知識を持っていないため、言葉が分からない、看板が読めないという環境の中では、注意が余計にビジュアル的なものに向く。めまぐるしく変化が続き、ひしひしと伝わってくる活気あふれる街角からは、古典に根付くビジュアルの伝統が思いのほか目につく。そして昌徳宮、景福宮など観光地として親しまれながらも、古典の遺産として大事に保存されている古い建物群に足を踏み入れると、壁の飾りや室内の調度など、古典画像がいたるところに見かけられる。

一方では、古い伝統を引き受けながらも、それの再生産も行われている。たとえば、つぎの写真は仏教中央博物館に隣接する曹渓寺本堂の外壁に描かれた画像の一部である。日本では、古い寺などの外壁などは、たいてい自然な色が保たれて、時間がいくら経っても変わらない風格を感じさせる。それに対して、ここには、考えようによっては、けばけばしいぐらいに装飾され、いかにも現代の息吹を思わせる画像が描かれる。そしてこのような画像は、周りを静かに行き交う、観光者とは一線を画す信者たちの姿と渾然と溶け合う。教化の場としての寺が、いまなお厳然とその生命が続いていることを思い知らされ、妙に忘れがたい風景の一角だった。

韓国旅行の経験は、わたしにはわずかに二回目。しかしながら、立教大学の大学院生や韓国の親しい同学友人たちに案内されて、貪欲なぐらいに走り回る数日を経て、親近感がぐんと増してきたことをここに記しておきたい。

2007年10月30日火曜日

展覧会カタログ

神田で開催されている古本まつりに行ってきた。古書即売展、青空掘り出し市、オークション。学生時代は京都百万遍寺で経験していた年に一度のあのわくわくした記憶は、すべてそっくりそのまま目の前に展開されていて、なんとも懐かしい。そして、古本を捜し求める人々がたいてい目をくれないところに、展覧会カタログは、所在なさそうにまとめて置かれている。

そもそも展覧会カタログは、出版物の中での特殊なジャンルと言わなければならない。作品を写真に納め、解説を要領よく施し、時には思いも着かないようなテーマを提示してくれる。それに加えて、想像に思い描いていた幻の名作が一度は公の場に出されたとのことで、なんとなく親近感を持たせられる。ただし、あくまでも展示会に付随するもので、ある種の特典との色合いがあって、ふつう特定の場所でしか販売されていない。どうしても出られない展覧会など、友人に頼んだカタログだけを手に入れたとの経験は、おそらく多くの人々に共有されているだろう。

展覧会の数だけカタログがある。したがってそれを個人の力ではとてもカバーできるものではない。それどころか、図書館の蒐集でさえ限界があって、必要なものを捜し求めるには、いつも戸惑いが伴う。その分、かつて十年、数十年おきにカタログそのものの目録が作成されていた。幸いここにも電子の恩恵が及び、オンラインで検索できるデータベースはいくつも構築されて、一昔とは環境が大きく変わった。

さらに一つ付け加えるとなれば、最近の展覧会カタログは、プレゼンを工夫するという傾向が顕著になった。そのおかげで、カタログにはつき物の「おとなしい」というイメージは、段々当てはまらなくなり、カタログのページをめくる楽しみがますます増えた。

つぎに行く展覧会は、サントリー美術館の「鳥獣戯画がやってきた!」だ。絵巻好きの人にはまるで夢のようなものである。はたしてどのようなカタログに出会えるのだろうか。

展覧会カタログ検索
東京文化財研究所:今現在、2006年8月31日までの近現代および古美術関係の展覧会カタログ22,762件が対象
調べ方案内
国立国会図書館:展覧会・展示会カタログ

2007年10月28日日曜日

応天門の火災現場

「伴大納言絵詞」、いうまでもなく絵巻ものの中の代表格のものだ。最近、これを解説するビデオを見た。ふつうなら一人で黙々と見るものだが、ちょっとした機会に恵まれて、大人数の若い人々と一緒に鑑賞した。部屋を暗くしてじっとスクリーンを眺め、まるで映画を見る気分だった。そのため、よけいに集中できた。その中で、とても短い一瞬だったが、ビデオの解説の文句に首を傾げた。

解説の対象は、上巻の応天門炎上の状況である。古代の象徴的な建築の火災というのは、それこそ心を揺さぶるような大事件で、日常生活にいた人々への衝撃の大きさは、今日のわれわれが想像するのを超えるものがあった。そして、絵巻のこの名場面は、まさにそのような状況を圧倒的なスケールで描きあげたことで、絵ならではの魅力を見せ付けている。ビデオは、その魅力の一端を、人物の顔姿に注目を勧める。これまたまともな読み方だろう。しかしながら、そのような精彩を富む顔の中から、ビデオが提示したものの一つは、右の一こまであり、しかもその解説には、「女性に良からぬことを企む男」といった内容だった。応天門火災の現場に、なんとチカンを見出そうとしたものだった。いくらなんでも、これはひどい。あきれて、古代の名作への冒涜とさえ思えた。

絵の構図を見れば、男の格好はたしかに目立つ。体の重心は前の女性に寄りかかり、視線の角度も心なしか周りの人々のそれとちょっと違う。歯を噛み締めて口をへの字にした顔つきは、深刻に見える。これに対して、前に立っている女性は、口を大きく開き、両手をおおげさに叩いて驚きと興奮を体いっぱいに表現する。二人の姿は対照的だ。しかしながら、ここに良からぬ男女の、あるいは男一人の快楽だとするには、あまりの飛躍だろう。たとえ二人の人物の間に体の接触や特別な関係を読み取れるとしても、二人は夫婦、友人、あるいはただ一瞬に男女の差を忘れてしまった呆然自失した極端な状態など、いくらでも解説の余地があるのではなかろうか。

一枚の絵の構図を理解するには、自然と複数の答えがありうるだろう。その読み方は、自由でなければならないし、人々の思いつかないものなら、読者をあっと思わせて、よりよい理解の手助けやヒントになることだろう。だが、解釈の自由も無限ではない。読み手の想像を拘束するものには、まずつぎの二つがあるだろう。一つは、絵の表現とは、つねに明快で分かりやすく、テーマの屈折を伴わない。いま一つは、表現したものは、時代の常識であり、人々に共有されたものでなければならない。

そもそもチカンとは、いたって現代的な犯罪だ。知らない女性の体を触ることによって快感を覚えるというのは、ある種の病気に近い。そのような病状を、なんの断りもなしに平安の絵に求めようと思ったら、あまりにも乱暴だろう。映画館を思わせる部屋に座って、映画のせりふではないだろうけど、「それでもやっていない」との叫びを聞いたのは、わたし一人だけだったのだろうか。

2007年10月23日火曜日

絵巻と御伽草子

絵巻と御伽草子、この二つの作品群の区別はどこにあるのだろうか。両者の間に一線を画そうとすれば、それははたしてなんだろうか。一見単純なようだが、かならずしも簡単に答えられるものではない。

「御伽草子」という名前は、もともと「渋川版」と呼ばれる出版物の名前だった。したがって最初に浮かんでくるのは、巻物か冊子本かという作品のスタイルだろう。しかしこの作品形態のことは、室町や江戸の人々にはさほど意味を持たなかった。現に「文正草子」や「浦島太郎」といった御伽草子の代表格の作品の綺麗な巻物は、かなりの数が作られ、いまでも日本や海外に多く所蔵されている。

つぎに考えられることは、絵のスタイルである。いわゆる「奈良絵本」がその典型だったように、絵は作品全体の分量に対して数が少なく、その構図も簡略になって、幼稚でほほえましい。多くの場合、絵のしろうと、あるいは意識的にしろうとの真似を取り入れた描き方だった。だがこれだってはっきりした区別の標準があるわけではない。絵巻作品群にも構図の幼稚なものがあり、御伽草子の絵巻には豪華な作りをもつのはこれまた数え切れない。

もう一つ考えられるのは、作品の題材だ。御伽草子の作品には、いくつかの代表的なテーマがあり、たとえば本地もの、異類ものといったようなものは、かなり似通った思考や趣向を見せる。いうまでもなく題材という捉え方自体が曖昧で、あるいは題材とはそもそも分類の基準になるような可能性を持たない。

これ以外にもいろいろと考えられるだろう。きっとその研究史まで誰かがすでに纏めたに違いない。

一方では、このような問いを出すこと自体には、それなりの理由がある。つきつめて言えば、絵巻という作品群の下限をどこに置くか、ということだ。言い換えれば、平安の院政期に現われ、鎌倉時代を通して数々の傑作を生み出したこの魅力な形態は、はたしてどこにその歴史的な終焉と認めるのだろうか。これの発生と隆盛に目を見張ると同時に、その衰退と消失にはあまりにも注目が足らなくて、大事なことを見落とした思いがしてならない。さらに付け加えるとすれば、「御伽草子」と呼ばれる、いわゆる「室町物語」という一群の作品は、形態的でも内容的でも、あまりにも強烈で異彩を放ったがために、平安、鎌倉と続いた絵巻の伝統までその背後に隠れてしまった、という要素も見落としできない。

最後に記しておこう。このことを考えさせてくれたきっかけは、慶應義塾大学が公開した「HUMIプロジェクト」だ。これの出現は、これまでの活字翻刻や断片的な写真紹介などとは異なる形で御伽草子の全容を覗かせてくれて、鮮烈なまでに御伽草子についての認識を深めてくれるものだ。

世界のデジタル奈良絵本データベース

2007年10月21日日曜日

百鬼夜行絵巻を享受する

タイトルに「享受」と書いたが、やや特殊なケースに目を向ける。すなわち普通の読者がどこで、どうやって絵巻を見るか、ということではなくて、近世の絵師がいかにしてこの絵巻を自分のものにしたのかということを、ここで一つの実例を通して考えてみたい。

「百鬼夜行絵巻」は時代の異なるいくつかの伝本をもつ。その中では、大徳寺真珠庵の所蔵本は作成の時期が早く、複数の模写本を擁していて、この絵巻の基準作とされている。

ここに、日文研は真珠庵本の上質な模写本と、これとはべつの「化物婚礼絵巻」と題するいわゆる百鬼夜行ものを二点所蔵している。両方ともインターネットでデジタル公開をしていて、後者の短い序文には翻刻まで添えて、感じの良い形で両方の作品を読者に提供している。

この二点の絵巻のうち、後者は明らかに真珠庵本かその系統の伝本を手本に用いた。全作を三巻に仕立てて、絵の分量ははるかに多い。さらに、ほぼストーリー性を認められない真珠庵本に対して、「化物婚礼絵巻」は、結婚と子供の出産という二つの状況を描きこんでいる。そのため、女性の化粧などの画面はそれなりに意味を持つようになった。一方では、器物の化物ということを表現する気力を持たないからだろうか、それにこだわることはなく、むしろ器物の表現については、真珠庵本系統のものにすでにあったものをそのまま受け継いだのみに留まった、という感じだ。その代わり、結婚式における新婦の所作、新しい赤ちゃんの入浴など、民俗的な生活を映し出す場面などは印象深い。

「化物婚礼絵巻」は、あきらかに「百鬼夜行絵巻」の内容を用いた。たとえばつぎのストーリーの結末の場面は、典型的な一例となる。右から二番目の鬼は、もとの絵巻にみる鬼の造形をそのまま使い、わずかに両手の位置を変えただけだった。それに左から一番目のキャラクターは、もとの絵巻の始めに登場したもので、それをそっくりそのままここに移してきたとの工夫で、むしろ絵師の遊び的な妙を覗かせてくれたぐらいのものだった。いうまでもなく、このように安易とさえ見られる絵の構図の流用は、当時の絵師にとっては、たいして名作をパクったといったような不名誉なものではなった。それどころか、ここまで生き生きと描くことができて、かつ思い切っての展開を見せたことで、大いに当時の読者たちを楽しませて、非常に歓迎られていたとさえ言えよう。

一方では、このような絵師たちの享受は、今日の絵巻読解に大切なヒントを与えてくれている。絵師のこのような作業は、一つの画面についての、当時の平均した理解を示してくれて、一種の絵による絵の注釈とさえ考えられる。下の画面について言えば、真珠庵本の終わりの火の玉は、表現として単純ではない。炎が燃えて、しかも火達磨の下半分という構図は、いくつもの解釈を可能にする。それに対して、「化物婚礼絵巻」は、同じ状況でも、赤い球形の頂点の一部を描く。これなら昇りはじめた太陽だとすぐに分かる。単純にして誤解が少ない。

いずれにしても、日文研本「化物婚礼絵巻」は魅力的な作品で、じっくりと読む必要が大いにあるものだ。

国際日本文化研究センター絵巻物データベース
立教大学人文科学系図書館蔵「百鬼夜行絵巻」展示解説

2007年10月18日木曜日

現代生活の「絵巻」

今日は、「絵巻」という言葉そのものを眺めてみる。

そもそもこの言葉も、字面の意味だけでは内容を十分に伝えきれないというソシリを持つ。絵巻とは、いうまでもなくただ単に絵が描かれた巻物ではない。それには詞書という文字によって記されたテキストがあり、かつ文字と絵との組み合わせを交互に用いてストーリーを伝える。さらに言えばその文字テキストは、すでによく知られたものの一節だったりして、いわば既知の物語を言葉と絵で再現するという表現形態である。もちろん『鳥獣人物戯画』や『百鬼夜行』といった詞書のない名作もあるが、膨大な絵巻ものの作品群ではそれはあくまでも例外なものである。

ここに興味深いことに、「絵巻」という言葉は、そのような古典作品を指示すると同時に、現代の生活においてすこしずつ変容したという事実である。

今日では、日常生活のなかで「絵巻」という言葉と出会い機会はじつに多い。しかもその多くは古典作品としての絵巻と関係がありそうでない。無造作にインターネットで検索したら、つぎのような用例にはすぐたどり着いて、微笑ましい。町の図書館では、子どもたちに絵本に親しんでもらおうと、みんなで長さ30メートルの巨大な絵巻を作ってしまう。これならたとえ巻けなくてもまだ「巻きもの」の形あるいは可能性をもつが、博物館の「○○立体絵巻」、地方の年中行事の行列を繰り出す「時代絵巻」となりますと、巻物とそもそも関係がない。「絵」といわれる、それも古代のものから受け継ぐビジュアルなもの、という理解でこのような用例が生まれたのだろうと推測できる。一方では、「音楽絵巻」「和菓子絵巻」となると、もう理屈が分からない。耳で聞いたり、口や鼻で賞味したりする対象と「絵巻」との共通項は、いったいどこにあるのだろうか。

特定の概念の延長や広がりは、いうまでもなく固有のものへの認知を伴うもので、喜ばしい現象ではある。しかも狭い概念が抽象的に捉えられて、物理的な対象にこだわらないぐらい思考に加えられたことも、歓迎されるべきだと言えよう。ただし、あまりにもの広がりにより肝心の実物が忘れられはしないか、とりわけ言葉表現の立場から言えば、はたして同じ意味合いを共有しているかどうかと、いささかの戸惑いを感じることも否めない。その意味では、つねに原点に立ち戻ることをひそかに願う。

(紹介した用例は、この夏JSAC学会での小さな発表の一部である。)

2007年10月16日火曜日

異時同図・その反対

日本絵巻の特徴を語るとなると、「異時同図」という言葉はすぐに出てくる。言葉自体の人為的な作りは、妙に専門的なニュアンスを持たせて、一種の権威を感じさせる。

考えてみれば、この言葉にはどこか落ち着かない。違う時間の中に行われた出来事が同じ場面のなかに繰り広げられる、というのがこれの指す構図である。たとえば『信貴山縁起』のなかの大仏前の礼拝、『伴大納言絵巻』のなかの喧嘩、である。ここでは、異なる出来事もその図の一部であり、「同図」が意味しようとしたのは、これらの出来事が展開される同じ背景、状況である。したがって、あえていえば「異時同景の図」「異時同場の図」といったところだろうか。いうまでもなく指す内容さえはっきりしていれば、このレベルの用語の不備はさほど問題にならないといえばそれまでのことだ。

ここで、この言葉に惹かれて考えみたいのは、これと反対する構図が成り立つかどうか、ということだ。すなわち、「同時異景」である。

同じ時間に行われた行動をまったく異なる背景のもとにおいてそれを表現する。このような構図は、今日の漫画などにはいたって基本的なパターンであり、見慣れたものかと思う。たとえば友達同士の電話会話となると、いつも一つの画面を二つにして受話器を握る二人を描く。二つの場面の差が大きいほど、会話の内容がクローズアップされ、ストーリーの深みが増す。

そこで絵巻の画面には、このような構図が用いられていたのだろうか。あってもおかしくない、あるはずだ、と睨む。あまり指摘されていないというのは、ただこれまではこのような目で画面を眺めていなかっただけのことだろう。

たとえば無数に描かれた臨終と来迎の図は、その一例と考えられないのだろうか。高名の僧侶あるいは篤誠の信者は極楽浄土への往生が約束され、その死と同時に菩薩が祥雲に乗ってやってくる。典型的な構図は、横たわる主人公と、菩薩を囲み雲の上を舞う天女である。しかも多くの場合、雲の上の様子はまわりの人々の視線には入らない。主人公の死という一つの瞬間においての、体と魂の分離と、魂を迎えるための天上界の準備という、まったく対照的な二つの場の様子が広げられていると読み取っていいだろう。このような目で読むと、ストーリーの描写においての多くの構図からは、絵師たちの隠された工夫が伝わってくるに違いない。

ちなみに、「異時同図」という捉え方はあまりにも盛んに行われたからだろうか、東洋美術研究の学者、たとえば小川裕充、古原宏伸らの大家は、いずれも中国絵画からの実例を報告して、それが日本独特のものとは言い切れないことを強調する。そのような視点も必要だろう。しかしながら、同じ構図の実例が中国の絵画に認められたにせよ、古代の中国の画家たちはこれをさほど夢中しなかった、多用しなかったことも確かだ。「異時同景の図」とは、やはりいたって日本的なものだと考えたい。(絵:『融通念仏縁起』下巻第二段より)

2007年10月13日土曜日

「西遊記」に夢中した日々

書画目録図録を捲りながら中国絵巻の実例を探し求めているうちに、「唐僧取経図冊」が目に入った。数年前に『玄奘三蔵絵』を読んだころにすでに出会った絵だ。孫悟空と唐の三蔵法師、この組み合わせからはすぐ子供ころの中国古典小説を親の目を盗んで読んだ記憶が蘇る。

中国古典の伝統の全体においてどうであれ、個々の経験においては、画像の分量が圧倒的に少ない。しかも山水画などが中心で、いわゆるハイカルチャーのイメージが強く、襟を正して取り掛かるようなものがほとんどだった。それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、わずかな経験はつねに強烈な思い出として残る。わたしにとってのそれは、『西遊記』を通じてのものだった。

あれは紙もすっかり黄色くなった年代物の読み物のセットだった。親、いやお祖父さんにとっての大事なものに違いはなく、子供ころのわたしには簡単に触らせてもらえるようなものではなかった。それでもずいぶんとこっそりと取り出して、一人で半分ぐらい分かったような気がする文字を追いながら、ストーリーを楽しみ、そして挿絵をじっくりと見入っていたものだった。絵は、一章について一枚のみに留まり、それもすべて一冊の最初に綴じられたものだった。いまから思えば、分量も少なく、絵が描き出す内容も非常に限られたものだった。でも、子供だったわたしには、それはもう最上の喜びだった。いくら眺めてみても飽きることはなく、どきどき、わくわくした気持ちと、本を閉じたころの満足感は、言ってみればいまごろの一部の映画を見終わったときの爽快感をはるかに超えてしまうものだった。そのような読書の経験は、西遊記を「自分のもの」との思いにさせてくれた。そして玄奘三蔵の話が時空を超えて今日にどのような奇天烈な展開を見せても、たとえ女性の俳優によってそれをテレビやスクリーンに再現しようとも、漫画や電子ゲームにゴクウのキャラクターが一世風靡しようと、それらをすべて相対的に眺めることが可能になった。

いまは、日本の絵巻を学問の対象として読み続けている。絵の分量もストーリーの密度も、「西遊記」の一枚の挿絵をはるかに超えてしまうものが多い。新たな作品を紐解くときには、高い好奇心もつねに持ち合わせている。一方では、作品との距離を意識的に取り、覚めた視線を自分に課しているのもたしかだ。そのため、子ども時代のあの熱い視線と高揚した好奇心がときどき無性に恋しくなるものだ。(絵:「唐僧取経図冊」、中國繪畫總合圖録 より)

遊子館図書目録

2007年10月9日火曜日

カラー印刷

カラー印刷出版技術の進歩はすさまじい。絵巻などの古美術を写真に納めて印刷出版したものは、たいてい一目で見ればおよその出版年代が分かる。それぐらい歴然としたものだ。

一方では、出版の数に比例して、なぜかその魅力が小さくなると感じるのはわたしだけだろうか。絵巻でいえば、一流作品の全点出版が終わり、それも手ごろな値段で個人の手に入るようになってから、作品の部分々々をクローズアップで見せることしかできない、出版のランク付けには用紙の質に頼ってしまうような安易な出版物には、つい敬遠してしまう。

その中で、最近印象に残った一点をここに記しておきたい。出光美術館が2006年に発行した『国宝伴大納言絵巻』である。この一冊の魅力は、一言で言えばプレゼンテーションに工夫を凝らしたことにある。同じくクローズアップの写真を組み入れることで絵巻を紹介するという枠組みの出版でありながら、その写真の撮影と選択は秀逸だ。ふつうならオリジナル作品のイメージを壊すのではないかと危惧する蛍光撮影、料紙の質感を出すような接写、陰影を強調して演出した立体的な出来栄えなど、出版物としての遊びが至るところに見られて、読む人にも絵を見直すきっかけをなにげなく与えている。ページを捲りながら、写真の魅力をあらためて認識させられた。

写真印刷を通じて古典の作品を正確で綺麗に再現し、出版物の形で読者の手に送り届けるという意味では、現代の出版産業はすでに大きな一ページを作り上げたと言える。でも、印刷出版の役割が終わったとは意味しない。カラー出版はこれからもこれまでにまして続けられることだろうし、そうしなければならない。

これまでの出版では、満足できないことはいまだたくさんある。絵巻の作品に因んで一例挙げれば、オリジナル作品に近い閲覧環境の提供がいまだ十分に成されていない。絵巻は、もともと披いては巻戻して見るものだ。ただし巻物という物理的なスタイルは、今日になればさすがに時間的にも空間的にも経済的ではない。だが、それにもかかわらず、書籍の形になった出版物で、一ページの裏表にある絵を記憶の中でしか繋げることができないことはもどかしい。一段の絵を中断しないで通覧する経験はぜひ持ちたい。おまけにページを綴じた谷間はやはり見苦しい。一段ごとに分かれた、折込式の印刷物があれば、どれだけ助かるものか。

新たな姿になって現われてくるカラー印刷の出現を一読者としてせつに願いたい。

印刷用語辞典

2007年10月6日土曜日

絵巻の文法

絵巻には絵巻の文法がある。あるはずである。

これはじつに魅力的なテーマだ。ただし、これは先に予測ありきの命題であり、絵画をもってストーリーを伝えるというれっきとした表現形態においては、それなりの規則、ルールがあるに違いないとの思いがそもそも出発点だった。研究者たちは、したがってその文法とはなにか、いかに働いていたのかと、手がかりを求めて議論を試みる。非常に周到な意見もあれば、絵巻解読するために回答すべき難問へのアプローチとする実例も見る。

だが、それでもこの絵巻の文法というものの全容はなかなか現われてこない。

ここに、まずわたしの理解するところの「文法」の一例を掲げてみよう。

絵巻の中では、貴人の邸宅を描くにあたり、多くの場合、門前あるいは地下に伺候する従者の姿を描く。それはふつう男二人であり、しかもほとんどの場合その中の一人はすっかり居眠りの中いる。二人の男のささやかな対照や心地よいぐらいの格好は、愛嬌があって憎めない。さらにストーリーがまさになんらかの進展を見せようとし、このような居眠りの姿は、奥あるいは殿上でくりひろげられてくる劇的な一瞬ともう一つの比較を成す。ここにおいて、門前の従者、とりわけその居眠りの姿は、計算された時間流れを演出する。男が居眠りをするほどゆっくりした時間と、クライマックスの一瞬という、時間の異なる姿をすべて巧みにこの一つのパターンと化した構図によって描きだされたと言えよう。

ここに、状況、内容、意味あい、すべてがセットとなって絵巻の定番の構成要素となる。まさに「文法」に操られるような感じだ。あらためて断るが、これはあくまでもわたしの読みである。文法というものははたしてこのレベルで切り出してよいものかどうか、いまだ共通した見識があるわけではない。

だが、文法というのは、言語の領分だ。したがって文法と名乗った以上は、言語におけるそれとの比較がどうしても問われる。両者の本質的な違いと言えば、ルールへの依存、ということにあるのではなかろうか。言語における文法は、まさに言語そのものが成立するための基礎であり、これがないと表現が成り立たない。でも、そのレベルのルールは、絵の表現においては簡単に探し出せない。これまで議論されてきた絵の文法、あるいはそれにかかわるルール、規則といったものはどうしても二次的なものである。さらにいえば、そのようなルールがはっきりとした形を持ち始めると、表現者としての絵師は自然にそれに反する方向へ走り、そのようなルールを破り、それからはみ出した構図をもって読者をあっと驚かせ、楽しませる。現にそのような工夫はいくらでも指摘できる。言語において、文法と対峙するような表現の努力などありえない。そもそも文法という枠組みを一歩でもはみ出したら、表現自体が成り立たなくなるものだ。

そもそも絵巻に「文法」というものがあるものか。あるいは、今日の研究者、鑑賞者としては、それをあくまでも一つの比喩的な道具として、その時その場の関心のために定義を施して用いて済むようなものだろうか。絵という表現形態を理解するための強力な可能性が含まれているからこそ、つい立ち戻ってくる課題である。(絵:『蒙古襲来絵詞』中巻より)

2007年10月3日水曜日

清少納言の感性

絵巻は、平安文化の花形の一つである。「絵」と呼ばれる作品群は膨大な数で文献資料に残り、さまざまな形で貴族たちの日常生活に入り、そのほとんどの場合において華やかなハイライトとなった。

平安時代の人々の感性を伝えてくれた代表的な人物を挙げるとすれば、まず清少納言の名があがるだろう。清少納言の絵巻観を求めて『枕草子』を紐解けば、つぎのようなまるっきり対照する意見が目に止まる。いずれもごく短い文章で、内容は分かりやすい。

まずは『枕草紙』三十一段。この段の始まりはこうである。

「こころゆくもの よくかいたる女絵の、ことばをかしうつけておほかる。」

これに続き、「こころゆくもの」、すなわち気持ちのいいもの、わくわくさせてくれるものとして、たくさんの女房が牛車に乗った様子、上等な便箋に細く書かれた手紙など、風景や品物がリストアップされる。どうやら清少納言にとって、素晴らしいものといえば、まず思い浮かんだのは絵巻、それも興味深い詞書が付いていて、しかもそれが長いほど望ましい、ということだったらしい。

今日に伝わる絵巻のなかで、平安時代のものは、総じて詞書の内容が短い。絵巻のストーリーが熟知された物語や説話に取材され、それが十分に知られているがために、詞書の役割は相対的に小さい、読者が文字よりも絵のほうを期待していたのでは、というのは今日のおよその推測である。それに対して、中世に入ってから詞書の分量はすこしずつ増え、文字と絵との比例で言っても文字がはるかに上回るいう作品も多数作成されていた。

それにしても、文字の記述が多いほどいい、ストーリーの展開を絵を追って確認すると同時に、もっともっと文字が読みたい、という素朴な印象を、平安の、それも清少納言レベルの知的な女性に述べられたとは。

一方では、『枕草紙』百十六段は、一転して絵巻の絵についての不満を記す。つぎはこの段の全文である。

「絵にかきおとりするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女のかたち。」

三種類の草と花、そして綺麗に描かれた物語の中の男女の主人公たちの顔姿は、絵に描かれてしまうとかならず見えが思わしくなくなる、という意見だ。

ここに挙げられているものは、よく考えてみれば、二つのまったく性格の異なるものだ。花や草のようなものは紙に描かれると、現実の世界に見せた生き生きとした生命力が薄れて、目の前の実物とは比べものにならない。対して、物語の中の人物は、だれも見たことのないものであり、いわば読者の想像の世界にだけ存在するものだ。そのような想像によって育まれた豊かなイメージは、紙に描かれたものによって、想像に反したりして、破壊されてしまう、ということが問題の核心だろう。言い換えれば、ここは絵師の腕前など問題にしていない。絵の宿命的なことをめぐっての、真摯な読者の苦悩なのである。

清少納言の魅力は、まずなによりも彼女の繊細で感性豊か感受性、そして好き嫌いをはっきりと述べてしまうという歯に衣せずの書きぶりにあるのだろう。そういう意味では、彼女の意見をもって平安の人々の意見を代表させるとなれば、どこか語弊が生じる。はっきり言えば、平安の人々の平均的な感性が清少納言に言い表されているとはとても思えない。清少納言の意見は一番鋭くて、先端を走るものだ。ただ、その分、今日のわれわれにはよけいにずしんと心に来て、考えさせてしまう。(絵:『枕草紙絵巻』に描かれた清少納言)

2007年10月2日火曜日

「絵巻三昧」

絵巻のことは、その存在を知ってからずっと惹きつけられる思いを抱いている。最初の出会いは、確か留学生として京都大学の文学部に在学していたころのことだろうか。時計台の下にある、いつでも人ごみの中にいながらも不思議に静かな時間が持てる生協の本屋で、出版されたばかりの『日本の絵巻』を手にした。何も描かれていない空白の部分まで豪華な写真印刷に納めたことへの感動と、その意義について思い返したことは、いまでも鮮明に記憶している。

絵巻は、ストーリーを伝えるものであり、間違いなく文学の作品だ。だが、それは美術品としても一流であり、かつ写真印刷が十分に普及するまで、一点の作品の全容を見ること自体ままならない時代においては、文学的なアプローチがごく限られていたことも否定できない。そのような意味において、絵巻についての本格的な研究は前世紀の八十年代以後のことであり、しかも現在でも、ようやく大学の基礎教育に取り入れられはじめたのではなかろうか。その中において、私自分も新出底本の紹介や翻刻、表現内容の読解など、いわば伝統的な文学研究の手法を応用した絵巻研究を試みた。

一方では、過去二十年において、電子メディアの発達は、写真技術の普及よりはるかに早いスピードで進み、現代における絵巻の再生と伝達のために、比べ物にならないぐらいの影響をもたらした。電子メディアの可能性にあやかって、絵巻の注釈、文字認識の伝達など、一人であれこれと模索してきた。プログラムまで自前で作成したりして、まさに試行錯誤の連続だった。想像と技術の可能性による創造は、つねに研究生活においての活力の翼だと繰り返し教わったとありがたく思う。

二〇〇七年の夏から、勤務大学から一年の研究休暇が与えられ、国際交流基金の助成を受けて東京で八ヶ月にわたる研究生活を送る。この間、かねてから思い描いていた「絵巻三昧」を体験しようと思う。そして、このささやかなブログを開設して、その時その場に思いついたこと、読書や活動の内容などをメモ風に書き溜めていく。

ブログ・絵巻三昧が、刺激な知的な出会いと新たな交流の場となれるように祈りつつ。

2007年6月1日金曜日

ブログ・日本語の風景

大学の春のコースを担当して、20名の学生を語学研修に東京へ連れて行くことになった。元気はつらつな学生たちには、調査や研究のプロジェクトを課す。若者たちはそれにはきちんと応えてくれる。そこで、勉強をさせるだけでは能がないと思い、半分学生たちの情熱にほだされながら、自分もなにかをやってみようという気になった。思いついたのは、インターネットで流行のブログだった。名付けて「日本語の風景」。

ブログとは何か、いわゆるホームページとはどう違う、とすぐ聞かれる。手短く言えば、本質的な違いはないと考えてよい。あえて言えば、ホームページは人間あるいは特定のテーマを取りあげ、それについての体系的な情報なり知識なりをまとめて載せる。対してブログとは、ほぼ定期的な情報の追加を特徴とする。言い換えれば、前者は考え抜いたものを丁寧に構築して、それをいっぺんに公開するのに対して、後者は特定のテーマをめぐり、現在進行形に内容を付け加えていく。それから、読者の発言がそのまま公表できるのも、ブログの基本機能になっている。現実の中では、ブログを発信の場とする人が多く、Google、Yahooなどの大手のプロバイダーが提供するスペースやパターンをベースにして、驚くべき広範囲の、深みのある議論が交わされている。

その中で、わたしが選んだテーマは、仕事の対象である日本語である。言葉そのものだけを議論の対象にするのではなく、日本語の使用者、学習者、さらに日本語を第二外国語として習った経験者といった、複数の立場を交互に取ることにした。いわば日本語への観察や思考を通じて、日本語の豊かな表現、楽しい仕組み、場合によってはいささか理不尽な言い回しなどをメモ風に記していく。以上の考えを気軽に読んでもらえるように、一つひとつの条目には、テーマに沿った写真を添え、広がりを持つように関連のサイトを一つないし二つ選んだ。さらに自分のクラスの学生たちにもある程度意味が伝わるように、毎回二、三行の英語によるハイライトも付け加えた。

ブログとは、定期的に書き出すものである以上、それを実践しようと思った。やや過酷だと承知しながら、一日一題を自分に課した。正直に言って、このような経験はこれまでまったく持ったことがない。はたしてそれが可能かどうか、それをこなすためには、どのようなリズムをものにしなければならないのか、まったく未知の世界だ。でも、その分、スリリングな挑戦にも思えた。ただし、自分にはそのような決心が実行できるように、「六十日限定」という逃げ道を用意した。このブログを学生たちと一緒の旅行の土産にし、旅行が終わるころには終止を打つ、ということだ。たとえて言えば百メートル競走の覚悟で取り掛かる。競走には気力を搾り出すぐらいの苦労がつきものだ。そこまでしても得るものは、もちろんあるはずだ。自分に観察や思考を促すきっかけ、そのような考えをおぼろげにも形に残しておく仕組み、そしてそれを他人と交流できる形で発表する場をもつこと、挙げてみればまずこれぐらいのことは言えるだろう。 

ブログの大きな魅力の一つは、同じテーマに関心をもつ人々と交流できることだ。それは、毎日なにかと書き出しているわたしのささやかな夢でもある。皆様もどうぞお暇なおりにでも覗いてください。そして、「友情出演」ならぬ友情投稿を期待したい。

(日本語の風景:http://nihongo2007.blogspot.com

Newsletter No. 34・2007年6月