2007年10月13日土曜日

「西遊記」に夢中した日々

書画目録図録を捲りながら中国絵巻の実例を探し求めているうちに、「唐僧取経図冊」が目に入った。数年前に『玄奘三蔵絵』を読んだころにすでに出会った絵だ。孫悟空と唐の三蔵法師、この組み合わせからはすぐ子供ころの中国古典小説を親の目を盗んで読んだ記憶が蘇る。

中国古典の伝統の全体においてどうであれ、個々の経験においては、画像の分量が圧倒的に少ない。しかも山水画などが中心で、いわゆるハイカルチャーのイメージが強く、襟を正して取り掛かるようなものがほとんどだった。それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、わずかな経験はつねに強烈な思い出として残る。わたしにとってのそれは、『西遊記』を通じてのものだった。

あれは紙もすっかり黄色くなった年代物の読み物のセットだった。親、いやお祖父さんにとっての大事なものに違いはなく、子供ころのわたしには簡単に触らせてもらえるようなものではなかった。それでもずいぶんとこっそりと取り出して、一人で半分ぐらい分かったような気がする文字を追いながら、ストーリーを楽しみ、そして挿絵をじっくりと見入っていたものだった。絵は、一章について一枚のみに留まり、それもすべて一冊の最初に綴じられたものだった。いまから思えば、分量も少なく、絵が描き出す内容も非常に限られたものだった。でも、子供だったわたしには、それはもう最上の喜びだった。いくら眺めてみても飽きることはなく、どきどき、わくわくした気持ちと、本を閉じたころの満足感は、言ってみればいまごろの一部の映画を見終わったときの爽快感をはるかに超えてしまうものだった。そのような読書の経験は、西遊記を「自分のもの」との思いにさせてくれた。そして玄奘三蔵の話が時空を超えて今日にどのような奇天烈な展開を見せても、たとえ女性の俳優によってそれをテレビやスクリーンに再現しようとも、漫画や電子ゲームにゴクウのキャラクターが一世風靡しようと、それらをすべて相対的に眺めることが可能になった。

いまは、日本の絵巻を学問の対象として読み続けている。絵の分量もストーリーの密度も、「西遊記」の一枚の挿絵をはるかに超えてしまうものが多い。新たな作品を紐解くときには、高い好奇心もつねに持ち合わせている。一方では、作品との距離を意識的に取り、覚めた視線を自分に課しているのもたしかだ。そのため、子ども時代のあの熱い視線と高揚した好奇心がときどき無性に恋しくなるものだ。(絵:「唐僧取経図冊」、中國繪畫總合圖録 より)

遊子館図書目録

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