2007年10月28日日曜日

応天門の火災現場

「伴大納言絵詞」、いうまでもなく絵巻ものの中の代表格のものだ。最近、これを解説するビデオを見た。ふつうなら一人で黙々と見るものだが、ちょっとした機会に恵まれて、大人数の若い人々と一緒に鑑賞した。部屋を暗くしてじっとスクリーンを眺め、まるで映画を見る気分だった。そのため、よけいに集中できた。その中で、とても短い一瞬だったが、ビデオの解説の文句に首を傾げた。

解説の対象は、上巻の応天門炎上の状況である。古代の象徴的な建築の火災というのは、それこそ心を揺さぶるような大事件で、日常生活にいた人々への衝撃の大きさは、今日のわれわれが想像するのを超えるものがあった。そして、絵巻のこの名場面は、まさにそのような状況を圧倒的なスケールで描きあげたことで、絵ならではの魅力を見せ付けている。ビデオは、その魅力の一端を、人物の顔姿に注目を勧める。これまたまともな読み方だろう。しかしながら、そのような精彩を富む顔の中から、ビデオが提示したものの一つは、右の一こまであり、しかもその解説には、「女性に良からぬことを企む男」といった内容だった。応天門火災の現場に、なんとチカンを見出そうとしたものだった。いくらなんでも、これはひどい。あきれて、古代の名作への冒涜とさえ思えた。

絵の構図を見れば、男の格好はたしかに目立つ。体の重心は前の女性に寄りかかり、視線の角度も心なしか周りの人々のそれとちょっと違う。歯を噛み締めて口をへの字にした顔つきは、深刻に見える。これに対して、前に立っている女性は、口を大きく開き、両手をおおげさに叩いて驚きと興奮を体いっぱいに表現する。二人の姿は対照的だ。しかしながら、ここに良からぬ男女の、あるいは男一人の快楽だとするには、あまりの飛躍だろう。たとえ二人の人物の間に体の接触や特別な関係を読み取れるとしても、二人は夫婦、友人、あるいはただ一瞬に男女の差を忘れてしまった呆然自失した極端な状態など、いくらでも解説の余地があるのではなかろうか。

一枚の絵の構図を理解するには、自然と複数の答えがありうるだろう。その読み方は、自由でなければならないし、人々の思いつかないものなら、読者をあっと思わせて、よりよい理解の手助けやヒントになることだろう。だが、解釈の自由も無限ではない。読み手の想像を拘束するものには、まずつぎの二つがあるだろう。一つは、絵の表現とは、つねに明快で分かりやすく、テーマの屈折を伴わない。いま一つは、表現したものは、時代の常識であり、人々に共有されたものでなければならない。

そもそもチカンとは、いたって現代的な犯罪だ。知らない女性の体を触ることによって快感を覚えるというのは、ある種の病気に近い。そのような病状を、なんの断りもなしに平安の絵に求めようと思ったら、あまりにも乱暴だろう。映画館を思わせる部屋に座って、映画のせりふではないだろうけど、「それでもやっていない」との叫びを聞いたのは、わたし一人だけだったのだろうか。

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