2007年10月6日土曜日

絵巻の文法

絵巻には絵巻の文法がある。あるはずである。

これはじつに魅力的なテーマだ。ただし、これは先に予測ありきの命題であり、絵画をもってストーリーを伝えるというれっきとした表現形態においては、それなりの規則、ルールがあるに違いないとの思いがそもそも出発点だった。研究者たちは、したがってその文法とはなにか、いかに働いていたのかと、手がかりを求めて議論を試みる。非常に周到な意見もあれば、絵巻解読するために回答すべき難問へのアプローチとする実例も見る。

だが、それでもこの絵巻の文法というものの全容はなかなか現われてこない。

ここに、まずわたしの理解するところの「文法」の一例を掲げてみよう。

絵巻の中では、貴人の邸宅を描くにあたり、多くの場合、門前あるいは地下に伺候する従者の姿を描く。それはふつう男二人であり、しかもほとんどの場合その中の一人はすっかり居眠りの中いる。二人の男のささやかな対照や心地よいぐらいの格好は、愛嬌があって憎めない。さらにストーリーがまさになんらかの進展を見せようとし、このような居眠りの姿は、奥あるいは殿上でくりひろげられてくる劇的な一瞬ともう一つの比較を成す。ここにおいて、門前の従者、とりわけその居眠りの姿は、計算された時間流れを演出する。男が居眠りをするほどゆっくりした時間と、クライマックスの一瞬という、時間の異なる姿をすべて巧みにこの一つのパターンと化した構図によって描きだされたと言えよう。

ここに、状況、内容、意味あい、すべてがセットとなって絵巻の定番の構成要素となる。まさに「文法」に操られるような感じだ。あらためて断るが、これはあくまでもわたしの読みである。文法というものははたしてこのレベルで切り出してよいものかどうか、いまだ共通した見識があるわけではない。

だが、文法というのは、言語の領分だ。したがって文法と名乗った以上は、言語におけるそれとの比較がどうしても問われる。両者の本質的な違いと言えば、ルールへの依存、ということにあるのではなかろうか。言語における文法は、まさに言語そのものが成立するための基礎であり、これがないと表現が成り立たない。でも、そのレベルのルールは、絵の表現においては簡単に探し出せない。これまで議論されてきた絵の文法、あるいはそれにかかわるルール、規則といったものはどうしても二次的なものである。さらにいえば、そのようなルールがはっきりとした形を持ち始めると、表現者としての絵師は自然にそれに反する方向へ走り、そのようなルールを破り、それからはみ出した構図をもって読者をあっと驚かせ、楽しませる。現にそのような工夫はいくらでも指摘できる。言語において、文法と対峙するような表現の努力などありえない。そもそも文法という枠組みを一歩でもはみ出したら、表現自体が成り立たなくなるものだ。

そもそも絵巻に「文法」というものがあるものか。あるいは、今日の研究者、鑑賞者としては、それをあくまでも一つの比喩的な道具として、その時その場の関心のために定義を施して用いて済むようなものだろうか。絵という表現形態を理解するための強力な可能性が含まれているからこそ、つい立ち戻ってくる課題である。(絵:『蒙古襲来絵詞』中巻より)

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