2009年1月31日土曜日

光源氏と藤壺が見た絵巻

古典を英訳でよむという授業で、先週、『源氏物語』を取り上げた。二回の講義に続き、四十分ほど学生たちを講壇に立たせた。いまごろの若者たちの感性が見どころであり、学生たちもしっかりとその期待に応えてくれて、漫画やらゲームやらを言及し、そして一月から上映中のテレビアニメ「源氏物語千年紀Genji」を紹介した。不覚にも、このフジテレビの一大イベントにはまったく気づいていない。学生たちに教わるままに、さっそくYouTubeにアクセスして、その第一話を覗いた。

そもそも漫画をベースにして作り上げたアニメは、絵巻のビジュアル世界のありかたを無視せざるをえない、たとえ苦労を試みてもそれを再現できるはずがない。時代感覚やら美的感覚やらといった抽象的なこと云々よりも、まずはメディアが違う、表現内容の量が圧倒的に異質だからだ。したがって、絵巻的な構想をちりばめるような試みは、アニメにおいて最初から諦めたのではないかと見る。しかしながら、興味深いことに、そのようなメディア的な宿命への反動からだろうか、絵巻の存在など知っているぞとでも宣言しているかのように、絵巻をまつわる逸話がさっそく用意されたのだった。それはなんと内裏にはじめて登場した藤壺が光源氏を喜ばせようと、自分の家から持ってきたのだと言って、絵巻を源氏とともに鑑賞するという、いかにも唐突なものだった。アニメは丁寧にもそれが「鳥獣戯画」だと描く。おまけに、絵巻を三つも四つもいっぱいに開いて、相互に重ならせながら乱雑に広げたのだった。絵巻をいっぱいに広げて床に置く、このような妙な鑑賞法は、たしかどこかの戦国武士のドラマに収められたと記憶する。それを再び目撃して、思わず唖然とした。

広げられて重なる絵巻、この構図は、思えばある雑誌のグラビアで用いられたのが早い例ではなかろうか。カラー写真にて贅沢にスペースを使って絵巻の物理的な特徴を目いっぱいに紹介するという奇抜な狙いは、雑誌を見たとき強く伝わったと覚えている。しかしながら、それがここまで成長したとは、予想しなかった。その裏にはなんの理由があったのだろうか。現代の人々に絵巻というものを伝えるために、ここまでメディアの性格を無視して、乱暴に扱わないと叶えないものかと、はなはだ理解に苦しむ。

ちなみに、番組の製作者は、このような視聴を予期していたかどうか、ひいてはインターネットのおかげで、北米の地で日本語もさほど分からないような若者たちの鑑賞対象となったことを、はたして喜ぶのか、はたまた著作権が侵害されたと怒るのか、すぐには見当がつかない。ただし、アニメのビジュアル的なアプローチが若者たちの抱く古典への距離を大いに縮めたことをはっきりと記しておきたい。

朝日jp・注目アニメ紹介

2009年1月24日土曜日

厭勝銭

中国の暦では、十時間ほどあとにようやく丑年に入る。いま、遠く中国では、町全体が濃厚なお正月色に染められ、人々があわただしく大晦日の半一日を走り回るころである。その中国から遠く離れた北米のこの町でも、地元の新聞が一面で丑年のことや地域の華僑たちの生活をカラフルな写真付きでとりあげ、わたしも、週末にかけて数百人規模の宴会に二つも出て、何人もの懐かしい知人と語り合った。

中国の人々が抱く干支の牛のイメージと言えば、まずは「獅子奮迅」である。大きな体をして、猛然と、しかも止められそうもない力をもって前へ進む、ということに人々が思いを寄せ、めでたい祝福をその姿に託す。現代の建物の入り口や賑やかな街角などには、そのような造形の牛たちが多く目に入る。

中国の古代、それもビジュアル的なものに関心を持っていこう。そのために、さほど知られていない「厭勝銭」のことをめぐり、二三のメモを書きとめたい。

銭とは、いうまでもなく貨幣、すなわちコインのことで、中国語で古代からいまの日常生活でずっと使用しつづけている言葉である。「厭勝銭」は、「圧勝銭」「押勝銭」とも言う。ここで「厭」は「圧」「押」と同じ発音をし、人に圧迫感を感じさせるとの意味を持つと解される。「厭勝」とは、遠く漢の時代の史書にすでに記された祈祷の儀式であり、「厭勝銭」は、したがってそのような儀式のために製作されたものであり、祈祷や装飾の役目をもっていて、銭の形を模っていても、商品流通のために用いられる貨幣ではなかった。

そのような装飾のコインの中には、「生肖銭」あるいは「十二支銭」「命銭」という一群がある。古いものは、宋の時代に遡れる。その構図は、十二の干支をそれぞれ文字と画像をもって対応させることを基本とする。一枚コインに一つだけの干支を文字と絵、場合によってはそれぞれ表と裏に配置させるものもあるが、十二の干支をすべて記すのが普通である。十二の文字と絵が一面を円形に配列し、あるいは小さな円形に囲まれた絵とその外側に添えられた文字が規則的に散りばめる。その中にもちろん牛が描かれる。写真の例では、横からの視線の牛ではなく、真正面に向いた生き生きとしたポーズまで取らせている。

文字があって、絵がある。二つの媒体が規則正しく呼応する。ストーリを伝えるのではなく、装飾、あるいは祈祷という古来の伝統を伝えて、厭勝銭の絵柄は、もう一つのハーモニーを見せてくれている。

2009年1月17日土曜日

言葉の壁

英訳による中国古典文学の講義を用意して、一瞬の戸惑いを覚えた。学生たちといっしょに読む作品は、「I-wen chi」(いわゆるウェード式の綴り、ピンインだと「Yi-wen ji」)に収録されているとあった。何気なく「異聞記」だろうと思って調べたら、あの魯迅の『古小説鈎沈』にも取り上げられたそれが、関連記事とともに多く出てきた。しかし読む作品は怪異のストーリとまったく無縁のものだ。不思議に思い、あれこれと試したら、ようやく理由が分かった。綴りには間違いがないが、実際の書物は『異聞集』であって、時代も内容も異なるものだった。

不親切だなあと、まずは内心、批判の文句が浮かんできた。これは、まるで最初から十分な情報を提供することを拒んでいるのではなかろうか。せめて四声でも表記すれば、今のような苦労がなかったのに。さらに言えば、漢字そのものを入れることができないだろうかと。しかし、考え直せば、そんな簡単なものでもない。英文の翻訳に漢字を無遠慮に入れれば、中国語の出来る人には目を引くかもしれないが、それはもともと翻訳が狙う読者ではない。たとえてみれば、日本語の文章にアラビア語の文字を入れるとどうなるのだろうか。訳者自身が翻訳に自信がないとのことを暗に示すだけでなく、その言葉を知らない読者には、余計な負担以外のなにものでもなかった。

いうまでもなく、この戸惑いは、選ばれた訳語が音だけ伝えて、意味を伝えなかったことに由来する。でも、よく考えてみれば、背後にはさらに大きなことを含んでいる。

どんなに異なる言葉であろうと、交流する意思さえあれば、超えられない言葉の壁というのが存在しないものだと考える。一方では、そのような前提に立脚して取り掛かるとしても、確実に存在する言葉の距離と、それに向かっての困惑を直視すべきだ。

そもそもどのような言葉でも、それが用いられる音声と、それが持ち出そうとする意味という二つの側面をもつ。自然なことに、言葉を記録する文字は、同じく音と意味の両方を記し留めることを目標とする。このように捉えれば、英語は音を記し、読者がそれを音を再現することを通じて意味を思い出し、対して中国語の漢字は、意味を記し、読者がその意味から出発して音を思い出して、書かれた文章を理解するとおおざっぱに言えよう。ともに漢字を用いる中国語と日本語との間では、単一の文字を理解するだけなら、たしかに隔たりが少なかろうが、音声を記録するということでは、二つの言語の間のとてつもない壁が厳然にある。典型的な例だが、熟知されている日本の地名や人名が中国語に置き換えられて、語られた時に受けたぎょっとした思いは、多くの日本語話者が体験したことだろう。

人間同士の言葉を使っての交流は、音声から始まった。音だけを頼りにして、すべての交流を間に合わせられることは、もちろんだろう。そのような言葉の歴史に比べて、文字とは、はるか後に発達されたもので、はなはだ新参のものだ。文字の役目は、そのような言葉を記録することから始まり、やがて言葉を伝播する役目まで背負い、言葉を豊かにする結果をもたらす。千年を単位とする人間の歴史の進歩に新たな一歩を今日に求めるとすれば、おそらく音声そのものを記録し、伝播させることが可能になったとのことだろう。

したがって人間の言葉、それをめぐるさまざまな要素をを見直すというきっかけをわたしたちは、すでに手に入れたものだ。

2009年1月10日土曜日

比喩と説教の「十牛図」

大学の新学期は来る月曜日から始まり、冬休みの最後の週末である。いまだ丑年のお正月気分に浸りながら、今日も牛の話を続けよう。中国の「十牛図」を取り上げたい。

これも中国の絵などに興味を持つ人なら、何回も聞いたことのある作品である。もともと禅の教えを説くものとして作成され、古いものは、宋の時代の禅僧に遡り、廓庵僧(師)遠、普明など複数の僧侶の名前が絵師あるいは作者として伝えられる。しかも一つの古典作品の存在形態としてはむしろ特殊で、文章も絵柄も、その宋の時代においてすでに多彩なバリエーションを持っていた。

まずは、タイトルの「十牛図」が誤解を招く。ここに登場しているのは、なにも十の牛ではない。話の最初から最後まで通りぬいたのは、あくまでも一匹の牛であり、あえて言えばその牛をめぐる十の状況である。すなわち「尋牛」「見跡」という題目で言い表されたように、牛を探し求める、牛の跡を確認する、牛を発見する、牛を捉える、牛を飼い馴らす、牛に乗って家へ戻る、といった、いたって明晰にして細かいプロセスである。一方では、十のプロセスが丁寧に絵画化される。ただし、たとえば「尋牛」では当然牛が見えないので、十の状況において、牛の姿が登場したのは、わずかに四つにすぎない。そのような牛のことについて、たとえば、「見牛」の状況は、牛の体の後半を描くといった漠然とした絵柄の共通性も認められるが、しかしながら、話の進行にともなって、牛の体が黒から白へと変身していくとの構図もあった。絵の表現そのものが必ずしも定まった方向へ展開したのではなく、むしろ積極的な変化を理想としたものだった。

いうまでもなくここに語られているのは、牛であって、牛ではない。巨大な牛とは、探し求める真理、あるいは禅への悟りに対する比喩に他ならない。しかもその道のりは、非常にはっきりした方向性と、分かりやすい段階を持つ。牛を探すために出発した旅は、牛を得ることをもって入門し、牛を忘れ、牛を求めること、ひいてはそれを求めようとする主体まで無に付することを最終目標とする。いかにも発想の逆転であり、愉快なほどの言葉あるいは概念の遊びである。

「十牛図」の思索な魅力に惹かれて、これを敷衍する議論は、まさに「汗牛充棟」、書物にすれば部屋をいっぱいさせ、牛に汗を掻かせるほどの分量だった。活気漲る牛の姿を見つめながら、宗教的、哲学的な悟りに憧れるのか、それとも、超然的な思考とあまりにも整然とした精密なプロセスとの奇妙なほどの矛盾を覚えざるをえないのか、読む人の価値判断そのものが映し出されるものだとも言えよう。

承天閣美術館蔵「十牛図」(伝周文絵・絶海中津筆)

2009年1月3日土曜日

カウボーイの町より

丑年を迎えた。今年は、約百年ぶりの、カナダ全土にわたる「白いクリスマス」だと言われ、わたしのホームタウンも、すでに三週間以上、深い雪に包まれ、マイナス20度以下の厳しい冬が続いている。暖かい室内に留まりがちの、のんびりしたお正月となった。

思えば、牛と人間との付き合いが長い。絵巻画面に描かれたそれを思い出してみても、農耕生活のパートナーとしての牛、重い荷物をひっしに引っ張る原動力の牛、そして王朝貴人の象徴である牛車とともに、時には過剰に飾り付けられた牛、じつに枚挙に暇ない。一方では、おとなしい牛でも、いつでもどこでも人畜無害な存在というわけでもなかった。はるばる天竺の国より渡ってきて、地獄の中を繰り返し顔を見せてくれたのは、あの牛頭(ごづ)だ。人間に順応していながらも、その圧倒的に大きな体ゆえに、いやでも脅威を感じさせていたからだろう。

そのような牛だが、意外なほどに主人公にはあまりならなかった。わずかな例外をあげてみれば、日本の「駿牛図(すんぎゅうず)」、「国牛十図」、そして禅の教えを説いて、中国でも日本でも語り継がれた「十牛図」ぐらいだろうか。

わたしの住んでいる町は、カウボーイの伝統を自慢にしている。市内のあっちこっちの道路などの地名が牛ゆかりのものが用いられている。そればかりではなく、生きた牛が日増しに目の届く日常生活から姿を消えていくことに由来するだろうが、ダウンタウンや空港のあっちこっちに牛の彫像を設置して、一つの風物となった。それらの彫像は、さまざまな色や姿にデザインされている。写真のような場合、体を開いた絵巻に見立てたのではないかと目を疑う。素朴な絵の連続から、ついなにかのストーリが隠されているのではないかと、読み始める。

丑、牛、うし、カウ。今年も素晴らしい一年であるように。