英訳による中国古典文学の講義を用意して、一瞬の戸惑いを覚えた。学生たちといっしょに読む作品は、「I-wen chi」(いわゆるウェード式の綴り、ピンインだと「Yi-wen ji」)に収録されているとあった。何気なく「異聞記」だろうと思って調べたら、あの魯迅の『古小説鈎沈』にも取り上げられたそれが、関連記事とともに多く出てきた。しかし読む作品は怪異のストーリとまったく無縁のものだ。不思議に思い、あれこれと試したら、ようやく理由が分かった。綴りには間違いがないが、実際の書物は『異聞集』であって、時代も内容も異なるものだった。
不親切だなあと、まずは内心、批判の文句が浮かんできた。これは、まるで最初から十分な情報を提供することを拒んでいるのではなかろうか。せめて四声でも表記すれば、今のような苦労がなかったのに。さらに言えば、漢字そのものを入れることができないだろうかと。しかし、考え直せば、そんな簡単なものでもない。英文の翻訳に漢字を無遠慮に入れれば、中国語の出来る人には目を引くかもしれないが、それはもともと翻訳が狙う読者ではない。たとえてみれば、日本語の文章にアラビア語の文字を入れるとどうなるのだろうか。訳者自身が翻訳に自信がないとのことを暗に示すだけでなく、その言葉を知らない読者には、余計な負担以外のなにものでもなかった。
いうまでもなく、この戸惑いは、選ばれた訳語が音だけ伝えて、意味を伝えなかったことに由来する。でも、よく考えてみれば、背後にはさらに大きなことを含んでいる。
どんなに異なる言葉であろうと、交流する意思さえあれば、超えられない言葉の壁というのが存在しないものだと考える。一方では、そのような前提に立脚して取り掛かるとしても、確実に存在する言葉の距離と、それに向かっての困惑を直視すべきだ。
そもそもどのような言葉でも、それが用いられる音声と、それが持ち出そうとする意味という二つの側面をもつ。自然なことに、言葉を記録する文字は、同じく音と意味の両方を記し留めることを目標とする。このように捉えれば、英語は音を記し、読者がそれを音を再現することを通じて意味を思い出し、対して中国語の漢字は、意味を記し、読者がその意味から出発して音を思い出して、書かれた文章を理解するとおおざっぱに言えよう。ともに漢字を用いる中国語と日本語との間では、単一の文字を理解するだけなら、たしかに隔たりが少なかろうが、音声を記録するということでは、二つの言語の間のとてつもない壁が厳然にある。典型的な例だが、熟知されている日本の地名や人名が中国語に置き換えられて、語られた時に受けたぎょっとした思いは、多くの日本語話者が体験したことだろう。
人間同士の言葉を使っての交流は、音声から始まった。音だけを頼りにして、すべての交流を間に合わせられることは、もちろんだろう。そのような言葉の歴史に比べて、文字とは、はるか後に発達されたもので、はなはだ新参のものだ。文字の役目は、そのような言葉を記録することから始まり、やがて言葉を伝播する役目まで背負い、言葉を豊かにする結果をもたらす。千年を単位とする人間の歴史の進歩に新たな一歩を今日に求めるとすれば、おそらく音声そのものを記録し、伝播させることが可能になったとのことだろう。
したがって人間の言葉、それをめぐるさまざまな要素をを見直すというきっかけをわたしたちは、すでに手に入れたものだ。
2009年1月17日土曜日
言葉の壁
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